栗菊劇場1
... 2
 

 

少しの残業を終えて康平が机の上を片付けているところに携帯メールの着信音が響いた。
雅行専用の着信音だ。

『今夜の予定変更。ごめん』

「えー? なんでよ?」
お気に入りのイタリアンの店で一週間限定のコースメニューが出されるからと、一緒に食べに行こうと言い出したのは雅行だった。
せっかく予約まで入れて楽しみにしていたのに。

「雅行? なに、どうしたの?」
『ヨウスケの具合がおかしい……』
「はぁ?」
『昼前からぐったりして動かなくて』
「へ?」
『ちゃんと聞いてるのか!?』
「き、聞いてるよ。それで、今夜中止なの?」
『ああ、さっきまであちこちの病院を回ってたんだ』
「病院って、動物病院とか?」
『ああ』
「治った?」
『いや、なんとなくっていう原因しか……』
「そう」
『とにかくそんなんだから、じゃあ』

「じゃあ、ってさぁ……」
康平は切れてしまった携帯を見つめながら溜息をつく。
せっかく店の予約までして、食事の後に行くバーのマスターにもそれとなく席を空けておいてくれるように頼んでおいたのに。
「ヨウスケのヤロ……」
そう思った瞬間、トカゲ相手に本気で腹を立てそうになった自分に康平は再度大きな溜息をついた。

それから煙草を一本吸って、動物に癇癪を起こしても仕方がない、そう自分に言い聞かせて康平は会社を後にした。
途中で予約していた店に寄りキャンセルついでにワインを1本買う。
まあワイン1本あればそれっぽい雰囲気も出せるだろうと。

「お帰り」
「おう、ただいま」
案の定、雅行の顔つきが微妙に暗い。
「で、どうよ?」
「相変わらず動かない」
「医者、行ったんだろ?」
「ああ。一応レントゲン撮ったけど何もなくて……。環境が変わってのストレスかもしれないから少し様子を見てくれだそうだ」
「ふーん。ま、大丈夫だろ? それより、ほらワイン」
康平は手にしていた袋からワインを取り出して雅行に差し出した。
「予約はキャンセルしちゃったから、せめて気分だけでもさ」
「あ……」
ワインを受け取りながら雅行が気まずそうに、少しだけ上目遣いに見上げてきた。

 ―― あぁ、これこれ。すんげぇ可愛いんだよ、この上目遣い……。

仕事の疲れと最近雅行が構ってくれないストレスから、康平は思わず雅行を抱きしめる。
「な、なんだよっ!?」
「んー、なんでもなーい」
「ちょっと、離せよ。まだ食事作ってないんだってば!」
「え……」
少し離れてまじまじと雅行の顔を見る。
一緒に暮らし始めて半年と少し。
外食の予定が入ってる日を除けばこんなことは初めてだった。
「すまない、ずっと病院回ってて、時間がなかった」
康平は視線を伏せてしまった雅行の顔を覗きこむと、もう一度ぎゅっと抱きしめて、
「飯、いらない」
と呟いた。
「え? なんで……」
「その代わり雅行もらうから」
そう言いながら康平は雅行の顔を上向かせると少し強引に唇を重ねた。
「ん……っ」
しばらく康平の口付けに合わせていた雅行だったが、その唇が次第に深くなってくるごとに少なからず普段と違う雰囲気を感じ取って康平から離れようとした。
しかしきつく抱きしめられていることと後ろ頭に回された手のせいで唇を離すことができない。
まるで噛み付くような口付けにますます異常を感じてもがいてみるものの、力の差では康平の方が上だった。
後ろに逃れようとした雅行の身体がキッチンのカウンターに当たって、その拍子に落ちたグラスが派手な音を立てて割れる。
さすがにそれには康平も驚いたのか、一瞬の気を取られた隙に雅行は力任せに相手を突き飛ばして数歩離れた。

「どうしたんだ」
驚いたように数度瞬きをして菊池が呟いた。
「別にどうもしてないよ。雅行が欲しいってだけじゃん」
「だけど、こんなときに……」
「こんなときって?」
「だから、ヨウスケが具合悪いのに」
「いっつもそれな。ちょっと構いすぎだよ。たかがトカゲじゃん」
「お前……っ、飼ってる以上は責任ってものがあるだろうがっ」
「……責任だけかよ」
じっと見つめてくる康平は小さく唇を噛んだ。
その言葉の意味を雅行も理解したのだろう。
僅かに唇を震わせて何かを言おうとしたらしいが、すぐに視線を伏せてその言葉を飲み込んでしまった。
そんな雅行の様子を見て康平は小さく溜息をつく。
「……ごめん。ちょっと出てくる」
そう言って康平は部屋を出るとドアに背を預けて、今度は派手に大きな溜息をついた。

 

 

「あれ、尾栗さん一人?」

週末の店はいつもより多少込んでいたが、康平は特に空いている席を探すこともなくカウンターの一番隅に行って腰を下ろした。
店に入ってきたときから気づいていたらしいバーテンがタイミングよくお絞りを差し出してくる。
「あー、ありがとー」
熱いお絞りを広げて熱を逃がしながら、康平は「なんでもいいや」とバーテンに告げた。
「喧嘩でもしたんですか? 今日は二人の予定でしょ?」
「そう見える?」
「思いきりふてくされてますから」
からかうような彼の口調に康平は頬杖をついて溜息を漏らした。

ちびちびとジントニックを舐めながら、康平はぼんやりとカウンターの向こう側で器用にカクテルを作ったりフルーツをカットしていくバーテンの手元を見つめている。

まるでガキみたいじゃねぇかよ。
雅行と喧嘩して居たたまれなくなって出てきちゃって。
冷静に考えればあいつの言う通りじゃん。
調子の悪いペットの面倒を見てたんだから「お疲れさん」くらい言ってやれよ。
夕飯作ってなかったのだって全然OKだし。
あー、なんであんなこと言っちゃったかなあ。
だいたい名前が悪いんだよ。
なんだよ、トカゲのくせにヨウスケってさあ。
まったく飼い主のヤロウ、紛らわしい名前つけやがって。

頭の中であれこれと反省しきりの康平の前にバーテンが立って3杯目を置いた。
と、テーブルの上を指先でとんとんと叩く。
「ん?」
頬杖から顔を上げた康平に、
「来てますよ、さっきから」
と、カウンターの反対側を視線で示す。
「あ……」
そこには同じように頬杖をついてじっとこちらを見ている雅行がいた。

店内は薄暗かったものの、康平が首を巡らせた途端雅行が気まずそうな表情をして手元のグラスに目を落としたのが分かった。
「いつからいたの?」
にやりと訳知り顔のバーテンを康平は見上げる。
「10分ほど前からですよ」
「…………」
ちらりと雅行を見ると相変わらずグラスを見つめている。
「なんか言ってた?」
「いえ、別に」
そうしてへらっと笑うとバーテンはその場を離れてしまった。

新しいグラスには手をつけず、康平はちらちらと雅行を盗み見ては溜息をついていた。
物憂そうな横顔に目が吸い寄せられる。
このところはほとんど見ることもなかったが、そういえば数年前はよくこんな表情を見せられていたなと思い出す。
洋介と別れてしばらく経った頃だ。
 ―― ああ、んなこと思い出してる場合じゃないって。
康平はグラスを持って立ち上がると内心は躊躇いながらも雅行から一つ席を空けた隣に腰を下ろした。
と、雅行が視線を落としたまま呟く。
「……それ、飲んだら帰るぞ」
「せっかく来たんだから、少しはゆっくりしてもいいじゃん」
「路駐してるから落ち着かない」
「え、車で来たの?」
「どうせ酔ってると思ったからな」
「心配してくれたの?」
「世間にお前の酔っ払い姿を見せたくないだけだ。恥ずかしい」
「それって心配してるって言わない?」
「言わない」
憂い顔だったはずが、今はそれこそふてくされたように口角を思いきり下げている。
そんな表情をしていても、やっぱり充分鑑賞に耐えうる姿を康平は見つめていた。
 ―― やっぱり俺、たまんなく好きなんだなあ。
雅行が気づいたように視線を寄こして眉を顰める。

「早くしろ」
「はいはい」

 

 

ハンドルを握る雅行はかなり不機嫌そうな顔をしていた。
しかし康平はそれが単に混雑している市内を運転するのが嫌いな雅行の癖なのだと知っている。
本来は運転することが好きで、たまにドライブに行くと大抵は雅行がハンドルを取っていた。
ただし、込み入った市内や渋滞にハマると途端に助手席に移動したがるのだが。
そんなだから、雅行が自分から週末の混雑している場所に迎えに来てくれたことがひどく嬉しかったし、ましてやあんな気まずいことがあった後だけに康平は済まなかったなと思うもののそれ以上に温かいものを心の奥に感じていた。
「雅行ぃ」
「ん?」
「…………ごめんな」
「いいから酔っ払いは寝てろ」
「うん」
言われるまでもなく、きついアルコールで酔いの回っていた康平はすぐにうとうととし始めた。

 

「んー、うまいー」
渡されたグラスの水を一気に飲み干して康平はごろりとソファに横になった。
ふわふわする身体に冷たい水が染み入っていく。
「おい、そこで寝るなよ」
「はーい、だいじょお〜ぶ〜」
ひらひらと手を振って答えながらひょいと頭を上げると、雅行が水槽を覗き込んでいる姿が目に入る。
雅行が心配している隣で酔っ払ってることに少し後ろめたさを感じながら、康平は重い身体を起こしてカウンターの方へ歩いていった。
雅行の背中に寄りかかるようにして水槽の中に視線を落とすと、
「あれ?」
トカゲがのんびりとエサ入れの側を動き回っていた。
「治ったの?」
「…………かな? 家を出るときはじっとしてたんだが」
「ふーん」
康平は手を伸ばしトカゲを指先に乗せて鼻先まで持ってきた。
トカゲは大きな目をきょろきょろとさせて時おり首を傾げては康平をじっと見つめてくる。
 ―― まあ、確かに愛嬌はあるんだけどなぁ。
ふっと息をかけてやると、トカゲはびっくりしたように幾度か瞬きをした。
それをまた元の場所に戻して康平は背中からぎゅっと雅行を抱きしめる。
「酒臭い」
「だって酔っ払いだもおん」
「だったらさっさと寝ろ」
「一緒に寝よ? さっきの続き、したい」
「ば……んっ」
いきなり耳に舌を入れられて雅行はびくりと身体を振るわせた。
「しよ?」
「……の、よっぱらい……」
しかし最後まで文句を言う前に、雅行の唇は甘く塞がれてしまった。

 

 

2日もするとトカゲの様子は元通りになり、また雅行の手からエサをもらって食べるようになっていた。
試しに康平がエサを与えてみると、意外に懐いてぱくりと食べてくれる。
やはり自分の手からエサを取っていくのは可愛いもので、康平はついエサをあげすぎて雅行に注意されたりしていた。
 ―― ほーら、カゲマル。飯だぞー。
それでもやっぱり名前に妥協できない康平は、自分で勝手に名前をつけて心の中でそれを呼びながら餌付けをしていたのだった。

それなりに二人でトカゲの面倒を見るようになって一週間ほど経った頃。
仕事帰りの康平は、ふと目に入ってきた駅前に設置されている市民向け掲示板の前で足を止めた。
そこにはよく見知った生き物の拡大写真が貼られている。
「んー?」
ポスターらしきその掲示物に近寄ってみると、見慣れたトカゲの写真の下に簡単な文章と電話番号が記されていた。

『ペットのトカゲを探しています。名前はヨウスケ。右前足に識別表をつけています。
お心当たりの方はこの番号まで連絡ください。
  電話 ○○ - ×××× 草加拓海』

「うっそ……」
どう考えても間違いなくあのトカゲだ。
しばらく唖然と写真を見つめていた康平だったが、とりあえずそこに記載されていた電話番号を自分の携帯に保存しておいた。

部屋に戻ってすぐポスターのことを言おうと思ったものの、ちょうど雅行は風呂に入っている所だった。
テーブルの上に並んでいるおかずを一口つまんで康平はソファに寛いで煙草を取り出す。
それが最後の一本だったため、空になった箱をくしゃりとつぶしてゴミ箱に放り投げた。
しかし箱はゴミ箱の縁に当たって外に落ちてしまった。
「んだよ……」
仕方なく腰を上げてゴミ箱に入れなおそうとすると、その中に中途半端にまるめられた写真のようなものが入っていた。
なんだか見覚えのあるそれを拾ってみる。
「雅行……」

捨てられていたのは、康平が駅前で見たあのポスターだった。

「帰ってたのか。お帰り」
ソファでぼんやりと煙草を吸っていると雅行が風呂から上がってきた。
ゴミ箱にちらりと視線を移してから、康平は煙草を灰皿に潰して食事の用意されているテーブルに移動する。
その間にいつものようにグラスや箸を出している雅行の様子を盗み見た。
康平にしてもかなりトカゲに対する愛着が湧いてきてしまったのだから、一日中一緒にいる雅行にとっては既に3人目の家族のようなものになっているのかもしれない。

 ―― なんで仕事辞めちゃったんだろうなぁ……。
最新のシステムや技術に囲まれて、職場環境には心底満足していると言っていた。
それなのに『魅力が見出せなくなった』なんて本当は今でも信じられない。
しかし理由を詳しく聞こうにも『守秘義務』の一言で終わってしまう。
退職の時に誓約書にもサインしちゃったしな、とふざけた調子で言うが、そんなものにサインなどしなくても雅行は口を閉ざし続けるだろう。
 ―― 部屋で一日トカゲと一緒に過ごしてていい人間じゃないよな。

「なんだ、さっきから」
「ん?」
「じっと見られてると落ち着かないだろう」
「視姦されてるみたい?」
途端に布巾が飛んでくる。
それをキャッチしながら冗談、冗談と笑ってみせると雅行もつられて頬を緩めた。
それから食事をして片付けをしてのんびりごろごろして、しかしその間、雅行はポスターのことについては一言も触れなかった。
 ―― 寂しい思いさせちゃってんのかなぁ……。
百円を拾っても律儀に交番に届けそうな雅行の性格を考えると、ここで本来の飼い主に連絡を取らないということは余程のことに思えてならない。
飼い主のことを考えると後ろめたくも感じるのだが、ここはしばらく雅行の様子を見ようと自分からポスターの話を出すことはやめた康平だった。

 

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(連載期間:2005/6/3〜2005/6/10)



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