栗菊劇場1
... 3
 

 

次の日の朝、雅行はいつも通りに朝食を用意して康平を送り出した。
一人になってからコーヒーを飲んで、ちらりと部屋の隅にあるゴミ箱に目を向ける。
いつも行くスーパーの出入り口に貼ってあったポスター。
内容を把握した途端、雅行はそれを剥がしていた。

家に戻って記載されていた番号を何度も押した。
しかし、どうしても最後の一桁が押せずに受話器を置いてしまう。
自分がここまであの小さな生き物に執着していたとは思わなかった。
初めてダンボールの中にその姿を見たとき、どういうわけか雅行はずっと忘れていた子どもの頃の記憶を思い出した。
家で飼っていた鳥が卵を産み、その雛が孵った頃だった。
むくむくとしている様子が愛らしくて、鳥かごから出して自分の掌に乗せてじっと見つめていた。
と、ふいに何かが目の前を横切ったかと思うと掌の雛はいなくなっていた。
驚いて周囲を見回すと少し前から飼いはじめた猫がじっと雅行を見つめている。
その口には雛が咥えられていた。
慌てて猫を捕まえて雛を離させたものの、すでに小さな雛は動かなくなっていたのだ。
自分のせいで死なせてしまったと、雅行はしばらくの間鳥だけでなくどんな生き物を見るのも苦痛だった。
あの夜、窓際から雨の降っている様を見ながら今頃あのトカゲは死んでしまったのではないかと心配でならなかった。
足にリングがついていたことにも気づいていたから、捨てられたのではなく偶然逃げ出してきたかしたのだろうことは分かっていた。
やはり保護すべきだったのかもしれない。
しかし自分の手元に置いたとしてもトカゲなど飼えるものなのか、また死なせてしまうのではないかと思うと怖かった。

それでもこうして面倒を見ていると、やはり小さな命には気持ちを癒されるらしい。
そして、リングに刻まれていた名前が雅行の心に細波を立てていた。
忘れられるはずなどない。
今は康平が一番大事な存在になっているとしても、それでも忘れることはできない名前だった。
ただ名前が偶然に同じだというだけなのに、どうしても何か違う意図があるのだと信じたい自分がいた。
そんな全ての思いがないまぜになって、電話の番号を押す雅行の指を止めさせていた。

昨日の夜から康平が時おり自分を盗み見ていることには気づいていた。
今朝もそうだったし、夕食の片づけをしている今も、何かの用事でキッチンから振り向いたりするとふっと視線が合ったりする。
きっと康平もあのポスターのことは知っているのだろうと思う。
昼間、駅の方まで出かけたらあのポスターが駅前の掲示板にも貼ってあったのだから。

康平が「ヨウスケ」という名前にひどく動揺しているのは承知している。
だから敢えて雅行はそんな名前などなんでもないことのように振舞っていた。
自分がうろたえてしまっては康平に余計な気を遣わせてしまうだけだと思ってのことだ。
失意の底から引き上げてくれたのは康平だ。
もしも彼がいてくれなければ、雅行は今でも過去に引きずられていただろう。
確かに洋介のことは忘れられない。
「ヨウスケ」と口にする度に心がざわめく。

 ―― それでも今の俺には……。

康平に目を向けると、やはり向こうもこちらを見ていた。
一瞬、気持ちが溢れて雅行の顔に笑みが浮かぶ。
それに驚いたのか、康平はきょとんとした目をして動きを止めてしまった。
それが可笑しくて、雅行は思わず声を出して笑っていた。

 

「康平」
小さく名前を呼ぶと康平は顔だけを横に向けて「ん?」と雅行を見つめてくる。
暗い寝室の中でカーテンの隙間から漏れてくる明かりが小さく康平の目に映っていた。
「明日、草加さんって人に電話してみる」
「え……、誰、草加って?」
「気づいてるんだろ?」
「…………ああ、まあ」
「連絡するよ」
「いいのか?」
「うん」
雅行は少し身体を起こして康平の首筋あたりに顔を埋めてきた。
寄り添ってきた雅行をぎゅっと抱きしめて、口元のあたりにきている髪に軽くキスをする。
「雅行」
「ん?」
「すっげぇ、好き」
「うん、…………好き」
囁くように答えて、雅行はその首筋に唇を押し当てた。

 

 

「どんな感じ?」
受話器を置いた雅行に康平が訊ねた。
「ああ、すごく喜んでた。すぐにも引取りに来るそうだ」
「ふぅん。……お前、いいの?」
「ん?」
「寂しくない?」
「まあ、確かに情は移ってたな」
「やっぱり、何かペットいた方が、いい?」
「…………いや」
「でも昼間一人じゃん? つまんなくない?」
「子どもじゃないんだぞ。それに、俺もそのうち新しい仕事見つけたいし」
「そっか」
雅行は康平の向かいに腰を下ろすと小さく吐息をついてソファに身を沈めた。

「なあ、康平」
「ん?」
ソファに寝転がっていた康平は少し顔を上げた。
雅行はじっと手元を見つめるように視線を伏せている。
「すまなかったな。いろいろと……」
その声がひどく真剣なものだったから、康平は思わず起き上がって姿勢を正してしまった。
「嫌な思い、させて」
「あ、いや、その……」
「…………」
「まぁさ、ほら、また二人に戻るわけだし。な?」
雅行が顔を上げると、にっと笑う康平の視線にぶつかった。
な? という悪戯っぽい笑顔に雅行の表情も僅かに緩む。
「ありがとう、本当に」
「だぁかぁら〜、なんか改まられちゃうと照れるじゃん」
「いや、謝るべきときはきちんと謝っておかないと……」
「んー、分かった。じゃあさ、もっといちゃいちゃして?」
「え?」
「余計なこと考えなくていいくらい、いちゃいちゃしたい。いいだろ?」
「なんだ、それ」
康平の子どもっぽい言葉に苦笑してしまう。
「いいだろ?」
「時と場合によるかもな」
「んじゃ」
ひょいと康平は目の前のテーブルを飛び越えて雅行の隣にぽんと座ったかと思うと、勢いをつけて雅行をソファの上に押し倒した。
「こらっ」
「いいじゃーん。……んっ」

 

そうしていつもの攻防を繰り返しているうちに、マンションのエントランスホールからのチャイムが聞こえてきた。
雅行がドアの側のパネルから二言三言話してロックを解除する。

しばらく待っていると今度は部屋のチャイムが鳴り、雅行は少し緊張してドアを開けた。
そこには穏やかそうな表情を浮かべた青年が立っている。
「初めまして、草加と申します」
「あ、こちらこそ初めまして。あの、どうぞ……」
「失礼します」
草加を部屋に案内して康平とも挨拶を交わさせると、あとの接客は康平に任せて雅行はキッチンで三人分のコーヒーを用意し始めた。
その間に康平はカウンター上の水槽を草加に見せて、何やらあれこれと話をしている。
やがてトカゲの元気な様子に安心したのか、草加は康平に促されてソファに落ち着いた。

「この度は本当にありがとうございました。連絡をいただけて本当によかった」
「あれって、逃げられちゃったんですか?」
康平が草加の表情を覗き込みながら聞く。
「ええ、よく逃げ出してしまって。注意はしてるんですが、気がつくといつの間にかいなくなってて。放浪癖でもあるんでしょうかね」
はは、と軽く笑って草加はコーヒーを一口含んだ。
「でもいつもは庭ですぐに見つかるんですよ。それが今回はいくら探しても姿が見えなくて、駄目でもともとのつもりで掲示板を使ったんです。……正解でした」
そうして度重なる脱走事件の話を幾つか話して、カップのコーヒーがなくなった頃を見計らうかのように草加は「では、そろそろ……」と切り出した。
その言葉に促されて雅行はカウンターに向かい、水槽の蓋を外してトカゲを掌に乗せてやった。
小首をかしげるようにしてじっと雅行を見つめてくる。
「じゃあな」
軽くトカゲの頭を撫でると、雅行は草加の持参してきた小振りのゲージにそっといれてやる。
「元気でなぁ」
こんこんと指先でゲージの壁面を叩きながら康平も中のトカゲを覗き込んだ。
「草加さんがよければ、ですけど……。暇なときにでも遊びにきてください、こいつも一緒に」
な? とトカゲに向かって同意を求める康平に草加はにこりと笑って、
「ありがとうございます、ぜひ」
と答えて頭を下げた。

 

「あーあ、いっちゃったなぁ」
「そうだな」
ごろりとソファに転がって康平が大きく伸びをする。
それを横目に雅行は残されたカップを片付け始めた。
「雅行、こっちきて」
康平が起き上がって自分の隣をぽんぽんと叩く。
「ん?」
「いいから」
訝しげな顔をして隣に腰を下ろした途端、康平は雅行の肩にぐいと手をかけてその頭を自分の太ももの上に横たえた。
「寂しい?」
「ん……、少しな」
「でもきっと遊びにきてくれるよ」
「お前は……、いいのか?」
「ん? 全然かまわないよ?」
そう言ってじっと見下ろしてくる口元には嘘のない笑みが浮かんでいる。

 ―― いつもそうだ。

雅行はじっと黒い瞳を見上げる。
そんな雅行に康平は二、三度瞬きをした。
「どうした?」
いつも目が合うと先に視線を外す雅行がじっと見つめてくることに違和感を覚える。
「雅行?」
「お前、少しは自分のこと考えろよ」
「は? え?」
見上げてくる雅行の眉が僅かに顰められ小さく唇を噛んでいる。
「な、に……?」
「あんまり甘やかされると、かえって辛くなる」
「甘やかしてる、か? どっちかってぇと俺の方が甘えてるような気がするけど……」
しかし雅行は小さく首を振ってそれを否定する。
「さっきだってそうだ。また遊びに来いなんて、お前にとってはあんまりいいことじゃないだろう?」
「ああ、あれ? だって、その方が雅行が嬉しいかと思って」
「だから、それが自分のこと考えろって言ってるんだ」
「俺がヨウスケって名前で嫌な思いをするんじゃないかってこと?」
あまりにストレートな物言いに一瞬雅行の目が細められる。
そうして小さく溜息をつくと、身体を起こして少し乱れてしまった髪をかき上げた。
途端に強い力で抱き寄せられて「わっ」と驚いた声があがる。

「俺、けっこういつも自分のこと優先で考えちゃってるよ?」
「そうは思えない」
「俺さ、ずーっと雅行のこと好きだったの」
「…………」
「学生の頃から、ずっと。でもお前には洋介がいたじゃん。その頃のことを考えると、今こうしてるのってすっごい奇跡にも思えるわけ」
雅行は半ば背後から抱きつかれたままの格好で耳元に康平の声を聞きじっとしていた。
「だから絶対に雅行のこと離したくないの。お前が俺の側にいて楽しいとか嬉しいとか感じてくれるんだったら、俺……、そのためだったら何だってしちゃうよ?」
「それでお前が自分を犠牲にしてたりしたら意味ないだろう」
「犠牲なんて思わないけどな」
「けど、この2週間、明らかに嫌な思いしてただろ? さっき草加さんに言ったことはまたそれを繰り返すってことじゃないないのか?」
「まあ、確かにあの名前にはやられたって感じだったし……、大人気ないこともしちゃったけどさぁ……。雅行が自分から連絡取ってくれたから、吹っ切れた感じ?」
「もし連絡を取らなかったら?」
「んー、どうかな。俺は俺でけっこう愛着湧いてきてたし……、たらればの話って考えたってしょうがなじゃん?」
抱きしめてくる腕に少し力がこもる。
「やっぱり……、甘いよ。お前」
「そう? でもそれは俺のためだよ?」
「…………なんか、きりのない話だな」
雅行の苦笑に康平もつられる。
「雅行が側にいてくれるだけで、俺ってばオールオッケーなわけ。昔のお前も、今のお前も、ぜーんぶひっくるめてお前が好きなの。分かる?」
「…………」
「例えさ、今でも洋介のことが残ってるとしたって、それは当たり前のことだと思うよ。俺だって、今まで付き合ってきたやつのこと綺麗さっぱり忘れてるわけじゃないもん」
「それは……っ」
「いいから聞いて。でもさ、俺はそういう恋をしてきた雅行が好きなの。お前、俺に言った言葉、覚えてる?」
「……なに?」
「『洋介と一緒にいたこと、後悔したくない』って」
「ああ……、言ったな。その直後に告白された」
「だって、あの時のお前、すっげぇかっこよかったもん」
「ぼろぼろだったのに?」
「そ、ぼろぼろだった雅行に惚れたの」
「甘い上に、ヘンだな、お前」
「いいの、それが俺だから」
そうして康平は一度雅行を腕から解放すると自分の方に振り向かせて唇を重ねた。
一瞬だけ触れさせて、そのまま唇のつくかつかないかの距離のまま囁く。
「もう、この話きりないからおしまい」
そう言ってそっと雅行の眼鏡に手をかけてそれを外すと、今度は深く重ねて舌を絡ませてくる。
「ん……、んっ」
少し冷たい手がシャツの中に差し入れられて雅行は僅かに身体を振るわせた。
唇を重ねたまま、指は心得たように少しの間背中と脇腹を彷徨いやがて胸の先端に触れてくる。
雅行の吐息がだんだんと甘くなり、少し息苦しいのか康平の肩にかけた手に力がこもる。
ようやく唇を離した康平はそのまま頬、首筋、耳とキスをしていき、肌の上を滑っていた指はいつの間にか雅行のシャツのボタンを外しにかかっていた。
「ちょっと、……おい」
「ん?」
「待てって」
「やだ」
「まだやること残ってるし……」
「こっちが先」
「こうへ……、やっ」
「ね?」
「だから……っ、ちょっ……」
「雅行ぃ、それ本気で抵抗してる?」
「…………っ」
「ん?」

 

 

「…………ない」

 

「聞こえなーい」

 

「してないってばっ」

 

「だよな?」

 

 

「………………」

 

 

 

「だぁい好きだよ、雅行」

 

 

 

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(連載期間:2005/6/11〜2005/6/14)



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