尾栗康平・35歳。
某大手企業の営業部第一営業課課長。
兄貴肌でとくに年下の社員からは男女を問わず慕われているものの、ときにハメを外しすぎて上から説教を喰らうこともある、ちょっと変り種の課長。
菊池雅行・35歳。
某大手企業傘下の流通技術研究所セキュリティー部門の元主任。
康平とは大学が同期の親友兼恋人。
仕事内容に関しては守秘義務があったため、康平もその内容をよく知らない。
半年前に退社。
雅行が退社した理由に関しては、康平もはっきりとその理由を聞いていない。
何故と問いただしてみるものの、仕事の魅力を見出せなくなったと言うだけであとはだんまり。
そして退社から1ヵ月後、二人はそれぞれの部屋を引き払い少し広めのマンションに移り住むことにした。
これが康平と雅行の同棲生活のはじまり。
雅行が退社した理由に首をひねりつつも、やっぱり帰ったときに部屋に灯りがついていたりするのは嬉しいし、ましてや雅行が出迎えてくれるのは尚嬉しい。
そんな生活に慣れてきた康平は、いつしか雅行が退社した理由に拘らなくなっていた。
「おっと……」
腕時計の小さなアラームに雅行は読みふけっていた本から顔を上げた。
毎日同じ時刻に数十秒鳴るように設定してあるアラームが午後2時であることを告げている。
もう少し先まで読みたいと思うものの、とりあえず買い物だけは済ませようと雅行はソファから立ち上がり本を片付けた。
近くのスーパーまで歩いて約20分。
少し遠いかもしれないが、一日の大半を家の中で本を読むかパソコンをいじるかしている雅行には、これが身体を動かすいい機会だった。
混雑を始める前のスーパーを出て家に向かう途中、ふと雅行はシュークリームを買っていこうと思い立った。
甘いものが好きな康平のお気に入りだ。
このところ残業続きで疲れているようだからちょうどいいだろう。
いつも曲がる角の一つ手前を曲がって、雅行はいきつけのケーキ屋へと足を運んだ。
と、数メートル先の電柱の陰にダンボールらしき茶色い箱が置いてあるのが目に入ってくる。
ゴミ収集場でもない所にそんなものが置いてあることに眉根を寄せながら雅行はその横を通り過ぎようとした。
……が、ダンボールの横にある張り紙に気がつく。
『この子を拾ってください』
しかしダンボールにはそれらしき『この子』はいない。
きっと既に誰かが気がついて、ここに入れられていた仔猫か仔犬を引き取ったあとなのだろう。
もし見つけたのが自分だったらと思うと怖かった。
マンションはペット禁止だったし、かといって捨てられている小さな命を無視することなどできない。
雅行は小さくホっと安堵の息をついてその場を離れようとした。
しかしその視界に何かがちらりと動く気配が映る。
「ん?」
視線を戻したその先には、ダンボールの端にへばりついている小さな茶色っぽいものがうごめいていた。
なんだろうと顔を近づけてみる。
それは小さな1匹のトカゲだった。
ぴょこんと顔を出してじっと雅行の方をみつめてくる。
爬虫類の目は無表情だと思っていたのだが、このトカゲは妙に表情を持っているように感じる。
そういう種類なのだろうか。
きょろりとした目が興味深そうに雅行を見上げていた。
「捨てトカゲ……?」
仔犬でも仔猫でもなく、予想外の生き物が入っていたことに驚いたものの、なぜか雅行はそのトカゲから目を離すことができなかった。
「捨てトカゲ?」
なんだ、それ? といった表情で康平は口元に運ぼうとしていたシュークリームの手を止めた。
「ああ、ダンボールの中に入ってた」
「それってさ、犬とかが拾われた後の箱に偶然トカゲが入り込んだってだけじゃねぇの?」
「ああ、そうだろうな」
「そうだよ。捨てトカゲなんて聞いたことないぞ?」
ぱくりとシュークリームを頬張って康平は苦笑する。
しかし雅行は浮かない顔でコーヒーをすすっていた。
しばらく二人で食後のデザートを楽しんでいると、雅行が何かに気づいたようにふと窓の外に目を向けた。
そうして窓に近づきカーテンを開ける。
「なに?」
「雨だ」
外を見つめながら雅行がぽつりと呟いた。
確かに窓にはぽつぽつと水滴がつき始めているし、耳をすませば雨音も聞こえてきた。
雅行は暗い窓の外を見つめたまま動かない。
「雅行?」
「ん?」
「もしかして、トカゲ気になってる?」
「いや、……別に」
雅行は勢いよくカーテンを閉めるとテーブルに戻ってきてコーヒーカップを手に取った。
無言でコーヒーを口にする雅行をじっと見てから、康平はかたりと椅子から立ち上がる。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
「え?」
「タバコ、切れそうだから」
「あ、じゃあ俺が行く。俺も買いたいものあるから」
慌てて立ち上がった雅行の焦ったような表情に康平はくすりと笑い、
「一緒に行く?」
と提案した。
例の場所まで来ると、ダンボールはまだそこにちゃんとあって電灯の淡い光に照らされていた。
「これ?」
「ああ」
二人で中を覗き込んだがそこはもぬけのからだった。
「いないな。まあ、トカゲだからな。今頃どっかの葉っぱの陰で雨宿りでもしてるって」
「そうだな」
雅行は小さな溜息をついてもう一度ダンボールに視線を落としてから、康平を促すようにその場を離れた。
そしてその帰り道。
同じようにダンボールの横を通り過ぎようとしたとき、雅行の視界でちらりと何かが動いた。
「あ……」
思わず呟いて立ち止まる。
「え?」
ふいに隣から雅行の姿が消えたことに気づいて康平が振り返る。
雅行はダンボールの側に座り込んでじっと箱の中をみつめていた。
「なに? まさか、いた?」
康平が近寄ると、雅行がゆっくりと掌を差し出してきた。
そこにいたのは紛れもなくトカゲで、掌の上できょろりとした目をくるくるとさせていた。
「さて……と、とりあえず何か入れ物か?」
「ああ」
「んー、適当な箱あるかなあ」
康平がうろうろとしている間に、雅行がキッチンからタッパーを持ってきた。
それから新聞紙を細かくちぎって中に敷いてやる。
「こんな感じでいいと思うか?」
横から覗き込んでいた康平に視線を送る。
「いいんじゃねぇの?」
と返事をしながら康平はテーブルの上に置かれていたトカゲを掬い上げて中に入れてやった。
「ほれ、どうだ?」
しばらく様子を見ていると、トカゲは落ち着かなげにウロウロした後でちょうどいい位置を見つけたのか隅の方でじっと動かなくなった。
「ホントに飼うの、これ?」
「ペットは禁止になっているが爬虫類なら問題ないだろう。魚や亀を飼ってる部屋も多いしな」
魚なら鑑賞に耐えうるだろうし亀なら愛嬌もあるかもしれないが。
――トカゲ、ねぇ……。
それでもこの部屋で一日を過ごしている雅行には、こういったペットも必要なのだろうと思うと反対する気は全くなかった。
「ヨウスケ」
「え!?」
雅行のふいの呟きに康平はぎょっとした。
「え、な、……なに?」
「ヨウスケ、トカゲの名前。ほら、足に識別用のリングがついてる」
「え……」
確かに右の前足に小さなリングがついていたのには気づいていたが……。
康平はそっとトカゲを取り上げてじっと足を凝視した。
「YOUSUKE」
確かにそう彫りこまれていた。
「トカゲに名前。こいつ、飼われたやつだな」
そう言いながら康平はじっと目をこらしてリングを見つめる。
―― それにしても、よりにもよってヨウスケかよ。
康平は雅行に気づかれないほどの小さな溜息をついた。
暗い部屋の中、既に寝息を立てている雅行の隣で康平は寝付くことができずにいた。
雅行に気づかれたくないから寝返りもせず、じっとカーテンの隙間から射し込む僅かな光を見ている。
―― いくらなんでも、ヨウスケはねぇだろうが。
成り行きで飼うことになってしまったトカゲの名前に康平はうつうつとした気持ちになっていた。
その名前はいまだに康平の心にさざなみを立てる。
角松洋介。
彼も大学の同期で、卒業後も勤務先こそ違え康平の入った会社と同グループの企業に就職していた。
そして学生時代からの数年間、雅行の恋人でもあった人物だ。
もちろん二人の関係を知っていた康平だったが、あまり深いことを聞くことはなく彼らが恋人として過ごしている間は「親友」として接していた。
二人が別れた理由は全く知らない。
ある日突然、雅行から「別れた」と聞いただけだった。
そのときの雅行の悲痛な表情は今でも胸の奥に焼きついている。
それまでずっと自分の気持ちを押し殺してきた康平は、報われなくてもいいからこれからはずっと雅行の側にいると決心したのだ。
「ただいま〜」
トカゲが来て一日が過ぎて、康平が会社から戻ってみるとキッチンのカウンターに立派な水槽が置かれていた。
「ん?」
近寄ってみると中には細かいウッドチップが敷きつめられ、適度な大きさの観葉植物や枝がレイアウトされている。
他にも水の入った入れ物や隅にあるのはトカゲの入る小屋だろうか。
60cmほどの水槽の中は「ジャングルの中の小さな家」といった雰囲気だ。
ご丁寧にクリップライトまで付いている。
「なに、買ったの?」
「ああ、けっこういい感じだろう?」
キッチンの奥から雅行が得意げな顔をして出てきた。
「それにしても、水槽でかいんじゃねぇ?」
「どうせなら広い方がいいだろう。一般には体長の3倍ほどがいいそうだが」
「3倍どころじゃないって……。で、住人はどこ?」
康平が水槽をあちこちから覗き込むようにして探すが、肝心のトカゲの姿が見えない。
「ヨウスケ?」
なかなか見つけられない康平に代わって雅行が一声かけると、小さな身体が観葉植物の茂みから覗いた。
「呼んで出てくるわけ?」
「ああ、コイツけっこう頭いいんだ」
にこにこしている雅行からトカゲに視線を移す。
「……単に人慣れしてるだけだろ」
面白くなさそうに康平が呟くと、それが聞こえなかったのか「え?」と雅行が聞き返してきた。
「なんでもなーい。それより雅行ぃ、腹減ったー」
康平はトカゲに見せ付けてやるとばかりに雅行を引き寄せてぎゅっと抱きしめた。
一週間もすると雅行もトカゲの飼育に慣れてきたらしい。
最初のころはエサをやってもちゃんと食べるのか心配で、じーっと1時間近くも見守っていたりしていたのだが。
トカゲもトカゲで雅行の手から直接エサを取るようになっている。
そんな姿を見ながら康平はいつだったか聞いた雅行の言葉を思い出した。
『ペットを飼うといずれ別れる時が来るから、それが嫌なんだ』
―― 要は優しすぎんだろうなあ。
職場は離れていても雅行の切れ者ぶりを幾度か耳にしてきた康平は、水槽を覗きながら穏やかな顔つきをしている恋人を見つめて思わず頬を緩めてしまう。
一緒に仕事をしていた者たちは雅行のこんな顔は知らないだろう。
それを今、独り占めしていることに心底幸せを感じてしまう康平だったが、やっぱりトカゲの名前に対する気持ちだけはいかんともしがたい。
しかも、既に過保護気味になっている雅行の態度を見ていると……。
分かってはいるのだが、康平はどうにもできない不安と不満が胸の奥底に広がっていくのを抑えられなかった。
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(連載期間:2005/5/29〜2005/6/2)
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