それぞれの夏期休暇
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:: 雅行の夏期休暇 ::
 

菊池が家に帰ったときに変わっていたのは、この春に結婚した姉が新居に移ったためいなくなっていたことだった。
廊下を挟んだ向かい側が姉の部屋だったが、そのドアには彼女がいたときと同じように平仮名で名前の入った木のプレートが掛けられている。
ふと部屋の中もそのままなのだろうかと思ったが、いくら家族でも主のいない部屋を勝手に開けることはできなかった。

とりあえず一ヶ月の夏期休暇といっても、校友会などの関係で戻らなければならない日もある。
家には帰れるかどうか分からないとは言っておいたものの、やはり全く帰らないというのもどうかと思い2、3日のつもりで戻ってきた。

帰ってすぐに数枚の葉書を渡された。
暑中見舞いだ。
そこには高校での友人からのものに混じって角松からの葉書もあった。
おそらく家に帰ってからすぐに送ったのだろう、消印が向こうの地名になっていた。
本当に律儀だなと思う。
返事を出そうかどうか迷ったが、角松がいつ戻ってくるのか聞いていなかったのですれ違いになる可能性もある。
菊池はその日のうちに聞いていた角松の家の番号に電話をして、葉書が届いていたことと少しだけいつも通りの雑談をした。

それからの数日、昼間は図書館へ行き興味の赴くままに本を手にして、家ではほとんどを自室で過ごした。
しかし、どうしても心の奥に落ち着かないものを感じていた菊池は開いた本の内容に集中することができず、気がつけばただ文字だけを目で追っているような状態になっていたりする。
その度に前のページに戻って読み直しをしていたりするものだから、一向に読書は進まなかった。
そうして溜息をついて本を閉じ、今まで背中を預けていたベッドに上がってごろりとする。
目を閉じると思い出してしまうのは、やはり尾栗のことだった。

 

 

あの朝、目が覚めてみると尾栗と二人同じ布団の上で寝ていた。
申し訳程度に腰の辺りにタオルケットがかかっている以外はすっかり裸のままだ。
すぐに昨夜のことを思い出して胸の奥がどきりと鳴る。
動かないように視線だけをずらして隣の尾栗の様子を探ってみると、まだしっかりと眠っているらしく胸が規則正しく上下していた。

尾栗がふざけて身体をくっつけてくることなど日常茶飯事だった。
キスだって幾度かした。
しかし、昨日したことは……。

思い出しただけで身体の奥が熱くなり胸がきゅっと締まるような痛みを覚えた。
同時に身体が僅かに反応を見せ始める。
冗談じゃないと焦って落ち着こうとすればするほど尾栗にされたことを思い出してしまう。
初めて他人にされた手淫は想像以上に気持ちよくて、あっという間に達してしまったのだが、ふとそこで自分の記憶が途切れていることに気がついた。
 ―― もしかして、最悪か……?

自分だけ達しておいて、そのままだったような気がする。
尾栗に「大丈夫か?」と声をかけられたことは虚ろに覚えているのだが、そこから先は記憶がない。
菊池は尾栗を起こさないようにそっと起き上がって、とりあえず熱くなりかけてる身体をなんとかしようと風呂場に行こうとした。
と、側に置いてあったゴミ箱が目に入ってくる。
そこには丸められたティッシュが幾つか捨てられていた。
途端に湧き上がってきた羞恥に、思わずゴミ箱から目を逸らす。
そのまま菊池はやりきれない思いに頭をかかえて居間を後にした。

勢いよくシャワーを出して水が湯に変わるまで少し待つ。
溜息をついて視線を伏せた拍子に自分の腹部が目に入ってはっとした。
そこには僅かながら昨夜の快感の名残があった。
同時に脳裏に浮かんでくるゴミ箱の中のティッシュ。

 ―― やっぱり最悪だーっ。

眠ってしまった挙句、そんなことの後始末まで尾栗にさせたのかと思うと情けないも度を越して自分自身を怨みたくなってくる。

その場にへたりと座り込んでしまった菊池の頭に、既に熱い湯に変わったシャワーが降りそそいでいた。

 

 

思い出すたびに頭を抱えたくなってくる。
尾栗にイかされたことよりも、その後のことの方が頭痛の種だった。

あのとき、シャワーを浴びて居間に戻り尾栗が寝ている間に部屋を出た。
朝食を調達しようというのが名目上の理由だが、本音は起きてくる尾栗と顔を合わせることを考えると気恥ずかしくて仕方がなかったからだ。
わざと遠回りをして時間をかけてコンビニに行き、部屋に戻った頃には尾栗も起きてちゃんと服を着ていた。
それから昨夜のことには一切触れず、二人でサンドイッチやおにぎりを食べて普段の休日のように過ごし、昼少し前に尾栗は「そろそろ行くな」と言って荷物をまとめ出した。
「じゃな」
そう言って尾栗がドアを開けて出て行くのを、菊池はほっとする反面、どことなく寂しい思いで見送っていた。

ふいに階下から小さく電話の音が聞こえてきた。
少し面倒だなと思いつつも、家には誰もいないので仕方なく身体を起こす。
ベッドサイドの電話に手を伸ばして「内線」を押し受話器を取り上げた。
「菊池です」
『あ、じ、自分は大学校で、えー、雅行さんと同期の……』
多少上ずっているものの、間違いなく尾栗の声だった。
たどたどしい言い方に菊池は思わず小さく笑ってしまう。

「康平?」
『あー、雅行? なんだ、早く言えよ。緊張するじゃん』
「なんで緊張なんかするんだよ」
『家の人が電話に出るかと思うと緊張すんだよっ』
声の調子から尾栗の拗ねた顔が浮かんでくる。
そんないつも通りの尾栗の様子が、今の菊池にはなんだか嬉しかった。

「なに、どうかしたのか?」
『いや、別に。雅行はいつまで家にいるのかなあと思って』
「ああ……。そうだなあ、こっちにいてもすることないし。そろそろ戻ろうかなと思ってた」
『俺さ、明後日には帰る……からさ』
「そっか。じゃ、俺は明日にでも帰るかな」
『ほんと? だったら遊びに行こうぜ。門限気にしないで夜遊びっ』
「……そうだな。羽目を外さない程度にな」
『雅行が明日帰るんだったら俺も早く帰ろうかな』
「なんだ、それ。俺と違ってこんなときしか帰れないんだから、ゆっくりすればいいだろう」
『んー、とりあえずやりたいことはやっちゃったしさ』
「そうなのか? まあ、気をつけて帰ってこいよ」
『おうっ。じゃ、またあっちでな』
「ああ」

菊池は受話器を置くとしばらくベッドの上でぼーっとしてから、一つ大きく伸びをして勢いつけて起き上がった。
それから本棚を物色して数冊の本を取り出し鞄の中におさめる。
家に帰ってくるのにとくに荷物は必要なかった。
ただ新しく買って下宿に置いてあった本を数冊持ってきていた。
それと入れ替えに家に置いてる本の中から改めて読み返したくなったものをまた下宿に持っていく。
それだけで下宿に戻る準備は終わってしまった。
小さめの鞄を机の横に置いて再びベッドに横になり、読みかけで伏せていた本を手に取る。
しばらくページを捲ってから、ふと菊池は目を上げた。
電話を受けたことで不思議と気分が落ち着いていることに気づく。

 ―― なんだかなぁ……。

尾栗が電話をくれたことが嬉しかったし、本当は今すぐにでも下宿に戻りたいと思っている。

 ―― 情が、移った?

あまり深く考えるときりがなくなりそうで、菊池は無理矢理本に意識を戻してその内容に没頭しようと努めた。

 

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(7.5.2005)
 

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