2回目の夏期休暇
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『お前、康平となんかあった?』

ふいに昼間言われた角松の言葉が頭を掠めた。
やっぱりな……、と菊池は溜息をつく。
自分でも変だと思うくらい尾栗への態度がぎこちなくなる時があるのだ。
尾栗とキスをしてからおよそ一週間。
今思えば、あれは夢だったのではないかと思えるほどに現実味は薄れてきている。

とにかく何が不思議だといって、男とキスをしておいてそれを不快に感じなかった自分が心底不思議だった。
しかも考えてみれば、下宿で尾栗が布団に潜り込んできたときも熱を出して例の額で検温をされたときも、全くといっていいほど嫌な感じは受けなかった。
むしろ人の温もりを心地よいと感じていたし、尾栗の顔が近づいてきたときなどは虚ろな意識の中にあっても「キスされるんだろうか」という気持ちにドキドキしていたのだ。

これまで好意を寄せたのは当然女の子ばかりだし、高校のときは短い間ではあったものの彼女がいたこともある。
自分が同性愛者だなんて自覚はこれっぽっちもない。

 ―― そういえば……。

思春期の頃は同性の先輩や同級生に強い憧れのようなものを感じて、一時的に恋愛感情を持ってしまうこともあると何かの本だか新聞だかで読んだ記憶があった。
思春期、という言葉が今の自分に当てはまるのかは置いといて、まあそれが妥当なところなのかもしれないと思う。
時に眉を顰めたくなる言動をすることもあるが、それでも菊池が尾栗の持っているものに惹かれているのは事実なのだから。
それは尊敬すべき点でもあり、自分にとっての憧れでもある。

しかも女の子と接することなどほとんど無縁ということも考慮すれば、今の状況もそれほど不思議ではないのかもしれない。
そんなふうに考えると、心の奥に悶々としていた靄も晴れる気がした。

 

それから尾栗が菊池に触れてきたのは1回だけ。
日曜の昼間、ちょっとした用事で尾栗の部屋を訪ねたときだ。
他の学生が外出している中、一人で課題が分からないと格闘しているのを見かねて問題の解き方を教えてやった。
隣に椅子を並べて一緒に机に向かって、ふと目が合ったときに尾栗が「キス、してもいい?」と聞いてきた。
きゅっと胸が痛んで返事を躊躇っていると「駄目?」と落胆したような表情をするので、「いいよ」と言った途端嬉しそうに笑って軽く触れるだけのキスをした。
もっともふざけて背中によりかかってきたり、まとわりついてじゃれてくるのは日常茶飯事だったのだが。

そうして相変わらずの毎日を過ごすうちに、あっという間に夏季休暇の時期がやってきた。

厳しい日々から解放されて、角松は最近付き合い始めた彼女と2日ほど一緒に過ごしてから、尾栗はすぐにでも実家に帰るという予定だった。
一度下宿に行ってから帰省するという二人と別れて、菊池は書店に寄って時間を潰すことにした。
特に買うあてはなかったものの、それでも新刊のコーナーなどを見ていると読んでみたい本が必ず見つかる。
その中から2冊を手にして時計を見る。
書店に入ってからおよそ20分。
会計を済ませてから今度はファーストフード店でコーヒー片手に雑誌を捲りながら1時間ほど。
これくらいの時間が経てば下宿に行っても二人に会うことはないだろうと思い店を出た。

長期休暇は菊池にとってかなり憂鬱な行事だった。
この進路を選んだことを誰も責めはしなかったし、むしろ家を出るときは両親も姉も頑張れと言ってくれた。
それでもその表情の下には明らかな失望の色が窺えたし、菊池自身、今でもそれは心の中にわだかまっていることだ。
これまでの休暇ではそれなりに家に帰っていたものの、家族と顔を合わせるとどことなく落ち着けず自分の部屋と図書館との往復を繰り返していた。
そうして下宿のある今年は「いろいろとやりたいことがあるから、家には時間ができたら帰る」と連絡を入れておいた。

 

コンビニに寄り弁当や飲み物を買って、下宿についてからすぐ風呂に入った。
やはり一人でのんびりと湯に浸かれるのは気持ちが安らぐ。
このときだけは、菊池でも足を充分に伸ばせる実家の風呂が恋しくなった。
少しのぼせて重く感じる身体は、それでもふわふわとする感じがして心地いい。
しばらく居間の壁に寄りかかるようにして座り込み、身体の熱が収まってきたところでコンビニの弁当に手を伸ばした。

弁当を食べてしまうと特に何もすることがなく、菊池は買ってきた本を取り出してどちらから読もうかと中味をぱらぱらと捲って拾い読みをしたりしていた。
と、ふいにドアが荒く開けられる音がしてばたんと閉まる。
ぎょっとしてキッチンの方に目を向けていると、きょとんとした顔の尾栗が居間に入ってきた。
「雅行? 何してんの?」
「お前こそ、帰ったんじゃないのか?」
尾栗の手に持たれたままになっている大き目のバッグを見ながら菊池も問い返す。
その視線に気づいたのか、尾栗はバッグを下ろして「それがさあ……」と言いながら菊池の隣に座り込んだ。
「ちょっと遊んでたら帰るの面倒くさくなっちゃった」
と言ってあはは……と笑った。
「とりあえず今夜はここに泊まりー」
「まったく」
「で、雅行はいつ帰るの? お前んち近いもんな。明日?」
「うん……、まあ、そのうち」
あまり聞かれたくないことだったから曖昧に返事をして、それ以上追及されないようにと飲みたいわけでもないコーヒーを淹れるためキッチンに立った。
「康平も飲むか?」
「いや、俺自分で買ってきたから」
そう言うとバッグと一緒に置いてあったコンビニの袋からペットボトルを取り出した。
ガサゴソ音がしたかと思うと今度はテレビの音が聞こえてくる。
熱いカップを手に居間に戻ると康平は既にごろりと横になってテレビを見るでもなく目を閉じていた。
「おい、見ないんだったら消せよ」
「んん……、じゃ、消して」
「だったら最初からつけるな」
呆れたように呟いてリモコンを手にするとテレビを消して、ついでに尾栗の足を軽く蹴飛ばしてやった。
「寝るんだったら自分の分は布団敷けよ」
「んー……」
少し唸ってから、尾栗は言われたとおりに押入れを開けて布団を敷き始める。
「雅行の分も敷いとく?」
「ああ、サンキュ」
菊池は尾栗の邪魔にならないようにとテレビの方に移動する。
そうして空いたスペースに尾栗はさっきまでのだらだらとした態度とは別人のように手早く布団を敷き始めた。
もうこれは身についた習性なのかもしれない。
こういった準備はできるだけ早く正確にと身体が覚えてしまったのだろう。
菊池は綺麗に敷かれた布団の片方に寝転がって再び本を読み始める。
尾栗は「風呂入ってくる」と言って居間を出て行った。

 

部屋の中で人の動き回る気配に気がついた菊池は薄っすらと目を開けた。
首を巡らせるとトランクス姿の尾栗がタンスから着替えを取り出そうとしている。
本を読んでいたつもりがいつの間にかウトウトしていたらしい。
眼鏡を外して少しばかり目を擦っていると、尾栗がTシャツ片手に隣の布団に腰を下ろし菊池の顔を覗き込んできた。
「雅行」
「んー?」
「……キス、していい?」
擦っていた指を止めて尾栗を見上げる。
そこには少しだけ心配そうな顔があった。
視線を合わせていることができなくて菊池は目を伏せる。
「だめ?」
OKを出さなければ何もしないつもりだろうか。
駄目なら駄目でとっくに拒否しているのにと思い、同時にそれを期待している自分に気がついた。
そもそも予定外に尾栗が部屋に来たときから、心の奥ではこうなるかもしれないと考えてはいたのだ。

「別に、いいけど」
視線を逸らせたまま小さく呟いた言葉に尾栗の目が僅かに見開かれて、そしてゆっくりと顔を寄せてくる。
唇の触れる直前に菊池は目を閉じた。
柔らかいキスとは正反対に、菊池の神経はピリピリとして身体が緊張する。
幾度か唇を重ねてから離れた尾栗が嬉しそうに笑って、その頭を菊池の胸の上に乗せてきた。
「心臓の音がするー」
そのまま尾栗は動かずに菊池の鼓動に聞き入っている。
「重い」
「でもこういうのってすごくいい感じ。落ち着く」
「赤ん坊か、お前」
「いいじゃん。ホント気持ちいいよ。雅行もやってみ?」
そう言うと今度は尾栗が寝転がって「ほら」と自分の胸を叩いてみせる。
こんなふうに触れ合っているのが既にまんざらでもなく感じていた菊池は、言われるままに肘をついて半身起き上がりそっと尾栗の胸に耳を当ててみた。
さっきまで風呂に入っていた肌はまだ熱く湿っている。
考えてみれば、こんなふうに他人の素肌に触れたのは初めてだった。

息を詰めて音を探すまでもなく、自然とそれは耳に流れ込んでくる。
規則正しく響いてくる鼓動に、つい目を閉じて聞き入ってしまった。
「落ち着くだろ?」
その声は普通に聞くときと違って身体に直接響きを伴って聞こえてくる。
「おもしろいな」
尾栗の手が菊池の頭に置かれて、ゆっくりと髪を梳き始めた。
男二人でこんなことしてて、これを傍から見たらどうなんだろうと菊池は思う。
しかも何の抵抗もないどころか、落ち着いて気持ちいいとさえ思っているとは。

一時的に同性に憧れるとしても、それに身体が伴ったらどうなるんだ?
そういうのも、アリか?

いま一つ納得しきれないところがあるものの、やはりこの心地よさと性的興味に抗うことはできない。
周囲から優等生と見られていることは自覚しているが、意外に自分は何でもありの人間なのかもしれないと思うとなんとなく可笑しかった。

「雅行?」
「……ん?」
「寝ちゃったかと思った」
「うん……、半分寝てたかも」
尾栗の鼓動を聞いているうちに先ほどまでうとうとしていたのが戻ってきたようだった。
「雅行、……キスして?」
そんな言葉のしばらく後、菊池は顔を起こしてにこりとしている尾栗の目を覗き込んだ。
実際、自分からキスをすることは初めてで少し戸惑う。
それでも尾栗がしてくれたように軽く触れ合わせて、少し離してまた触れさせて。
数回啄ばんでから菊池は尾栗の鎖骨あたりに頬を乗せて吐息をついた。
「もう一回」
強請る尾栗の片手が菊池の背中に回されてゆっくりと小さくさすってくる。
言われるままに唇を合わせていると、ふいに尾栗が起き上がって菊池の肩に手をかけた。
「なっ……!?」
あまりに急なことで、何が起きたのか理解したときには既に菊池は仰向けになって天井を見上げていた。
いや、天井というよりは見下ろしてくる尾栗の顔だ。
「こうへ……んっ」

それは今までのキスとは全く違うものだった。
強く吸われて濡れた舌が唇の上を滑っていく。
突然のことにどう対応していいか分からず戸惑っていると、薄く開かれた唇から尾栗の舌が入り込んできた。
もちろんこういうキスもあるのだと知ってはいるものの、初めて経験する菊池はすぐにはそれに応えることができない。
唇をされるままに任せて、ただ尾栗の肩に置いた手にぎゅっと力を込めるのが精一杯だった。

 

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(6.17.2005)
 

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