自分の携帯番号を教えるときは相手の番号も聞いてすぐに名前を登録するようにしていた。
だから着信があればディスプレイには必ず相手の名前が出てくるはずだった。
しかし今、御堂の携帯にかけてきている相手は発信者の携帯番号しか表示されていない。
その見知らぬ番号に鼓動が早まる。
ただ一人、一方的にこのプライベートの番号を教えた人間がいた。
「私はシャワーを浴びる。抱かれたいのならそこにいろ。帰りたいのなら、……勝手に帰れ」
グラスを手に立ち尽くす克哉を一時見つめてから、御堂は後ろ髪をひかれる思いでドアを閉めた。
そのままドアに背を預け天井を仰ぐ。
―― 最後……か。
目を閉じてたった今見た克哉の姿を脳裏に浮かべた。
次にこのドアを開けたとき、もう彼はそこにいないかもしれない。
そうなったら二度と会うことはないのだろう。
―― だが、それも当然か。
自分自身への嘲笑の笑みを浮かべて御堂はシャワーのコックを思いきりひねった。
適温に設定された湯がバスタブを叩く。
その激しい音は克哉が部屋を出て行く気配を消し去ってくれるのにはちょうどよかった。
手早く服を脱ぎその湯を浴びる。
どれだけ浴び続ければ心にこびり付いた想いを流せるだろう。
いつの間にか変化していた自分の気持ちを真正面から見つめ、御堂はじっと激しいシャワーを受け止めていた。
10年在籍していた会社でも、辞めることにそれほど未練は感じなかった。
むしろ今回のことではっきりと決別する意思が固まったといっていい。
自分の判断が大隈の怒りを買うことは当然覚悟していた。
だが他の役員に対してはまだ望みを持っていたのだ。
プロトファイバーはMGNにとっても失敗できない商品だった。
そのプロダクトマネージャーである御堂を外すなど、いくら専務とはいえ大隈一人の意見でできることではない。
つまりは他の上層部の人間もそれを了承したということだ。
ミスを隠し続ける組織はいずれ内部から腐っていく。
そう信じる御堂にとってこの仕打ちはある意味、三行半をつきつけるいい機会だったのかもしれない。
ただ残念だったのは、自分を信頼して一緒に仕事をしてきてくれた部下たちと離れることだった。
部下だけではなく、中には御堂をプロジェクトに戻すよう働きかけてくれた上司もいたのだ。
そんな彼らを置き去りにして、結局は中途半端な状態でリタイヤするしかない自分がどうしようもなく無責任に思えてしかたなかった。
そして、佐伯克哉。
ここを離れてしまえば接点はなくなる。
そのことが思いのほか御堂の心を揺さぶった。
MGN社員として最後の日。
椅子に深く沈みこみ慣れ親しんだオフィスを見回した。
私物は机の中の名刺ホルダーとクローゼットに入っていた着替えのスーツくらいのものだったから、それらを片付けても一見何の変化もない。
後任に関しては御堂もその実力を認める者で、これからの開発室を任せるにあたっては何の不安もなかったし引継ぎも完璧にしたつもりだ。
次の就職先もほぼ確定している。
あとはこのオフィスから出て行くだけだ。
それなのに今、どうにも御堂をここに引き止めているのは佐伯克哉の存在だった。
思い返せば初めて彼がこのオフィスに来た日。
あのときから御堂は佐伯に対しての深い興味を抑えることができなくなっていた。
もちろん、最初は彼のことなど全く気にかけてはいなかった。
オフィスにやってきた二人のうち主導権を握っているのは本多に間違いなかったし、彼をやり込めてしまえばこの面倒な面会はすぐに終わると思っていた。
それなのに自分は何をどう見誤ったのか、営業委託権を手にしたのはもう一人の佐伯の方だったのだ。
あのときの変わりようは今でもはっきりと覚えている。
それまで不安を表情に滲ませて黙っていた、というよりは御堂と本多とのやりとりに口さえ挟めずにいた佐伯が突然強気に出てきたのだ。
最初から本多はフェイクで御堂を混乱させようとする作戦だったのかとも思ったが、少なからず当の本多も驚きの表情を見せていたことを考えればそうでもないらしい。
確かにその後も佐伯はちらりと強気な面を見せることはあったが、ほとんどの場合、どこかおどおどして口調にも冴えのない自信なさげな態度を取っていることの方が多かった。
―― なんなんだ、こいつは。
能ある鷹は爪を隠す、とでもいいたいのか。
それが最初の苛立ちの原因だった。
そして御堂の要求する接待を受け入れたことがその苛立ちをさらに助長させた。
行為の最中、ときおり反抗を見せつつも結局は御堂の言いなりになっていた佐伯。
いくら設定数値のことがあるにせよ御堂には理解しがたかった。
その気になれば優秀な結果を残せるはずの男が甘んじてこんなことを受け入れているなど認めたくなかった。
佐伯に対して自分が心の奥で求めているものと、自分の行為に対する結果とが喰い違う。
それはさらに御堂の行動をエスカレートさせていった。
そんな中、佐伯の変化が顕著になり始めたのはプロトファイバーの販売が波に乗り始めた頃だっただろうか。
最初のときの、あの強気で強引な態度はほとんど見られなくなっていた。
代わりに目につき始めたのは丁寧で几帳面な仕事振りだった。
ポイントをうまく拾いつなぎ合わせ、相手に理解しやすいようにまとめあげる。
提出された資料を見れば彼の持っている能力の高さが窺えた。
やがて個人店舗やチェーンストアのバイヤーたちの話からもちらほらと佐伯の名前が聞こえ始め、気がつけば自分も部下との会話の中に佐伯のことを引っ張り出すようになっていた。
しかし、その事実が御堂は悔しかった。
自分から提案したこととはいえ、プライベートの関係がなければ気持ちになんの曇りもなく佐伯の仕事振りへの高い評価を表せただろう。
なのに、相変わらず彼の身体は御堂を受け入れているのだ。
商品に対する市場の現状は、もしかしたらあの無茶と言われた数値を遠からず射程内に入れてしまうかもしれないところまで来ている。
今なら自分を拒絶することも可能なはずだ。
なのにそれをしないのであれば……、いっそのことささやかな反抗心など捨てて御堂の手中に堕ちてくればいいのだ。
中途半端な態度は苛立つだけだ。
拒絶されるか手に入れるか、そのどちらかしか思い浮かばなかった。
それは結局のところ「恋」なのだと気づくのにそれほどの時間はかからず、はっきりと気づいたのは大隈との関係が悪化し始めた頃だった。
身体だけでなく心も欲しくなっていた。
オフィスでときおり見せる笑顔をこの腕の中でも見せてほしかった。
行為の最中でもイかせて欲しいためだけでなく、心を伴った感情で名前を呼んで縋りついてほしかった。
一方的で強引で自己中心的なこんな気持ちは、恋以外ありえなかった。
そしてあの雨の日。
それは佐伯の姿を見た最後だった。
珍しく仕事が途切れた御堂は早めに部屋に戻りソファに横になっていた。
状況は芳しくないが、それでもまだ希望はあると明日の掛け合いの算段をしていたところで雨の音に気づいた。
いつもの癖で窓辺に歩み寄り雨にぼんやりと浮かび上がる街並みを見下ろそうとしたところで御堂は息を呑んだ。
エントランス前の植え込みの側に一人佇んでいる者がいる。
傘もささず、中に入る気配もない。
この高さで、ましてや上からなどはっきりと顔を見ることはできないが、それでもその人物が佐伯なのだと分かった。
―― 何をしている?
なんの目的もなく偶然彼が御堂のマンションの前にいるわけがない。
仕事のことならメールで済むし、緊急のものは携帯に転送されるようになっていることは佐伯も知っているはずだ。
わざわざここにまで来る必要はない。
生産ラインのことを問いただしたいのだろうか。
それでもここまで来るのは解せない。
除けるものを除いていけば、もしかして、と僅かな希望を抱いてしまう。
少しでも想いは共有されているのだろうか、と。
ありえないと否定しても自分に都合のいい「恋」は心の奥で膨らみ続ける。
雨の中に佇む彼は弱く小さく見えた。
このまま走り出していって抱きしめたら、佐伯は自分のものになるだろうか。
思わず一歩を踏み出しそうになったが、それはほんの僅かに足を動かしただけに留まった。
今出て行っても同じ事の繰り返しになるとしか思えない。
それともこの想いを全て口にしたら状況は変わるのだろうか。
―― 馬鹿な……。
思わず苦笑する。
こんな経緯を踏まえた上で自分の気持ちを晒け出すには、御堂のプライドは少し高すぎた。
どれほどそうしていたのか、やがて佐伯は歩き出した。
その姿をじっと見つめながら彼の胸中を推し量る。
「佐伯…克哉……」
ぽつりとその名を唇に乗せてみた。
―― いったい何をしにきた。
同じ問いを繰り返しながら、御堂は無人になったエントランス前の通りをいつまでも眺め続けていた。
いつの間にか、オフィスに射し込む光はオレンジから薄い藍へと変わっていた。
これ以上ここにいるわけにもいかず、一つ吐息をついて座り慣れた椅子から立ち上がる。
そうしてデスクを後にした御堂は一度も振り返ることなくオフィスを出て行った。
廊下ですれ違う者たちが軽く一礼したり「お世話になりました」と立ち止まってお辞儀をしてくるのに応えながら、御堂はどうしたら潔く人生における次の一歩を踏み出せるのかを懸命に考えていた。
その結果が、葉書に書いた携帯番号だった。
これを見た佐伯は何を思うだろう。
あの雨の中、ずぶ濡れになるのも構わずにいた理由を告げてくるだろうか。
もしかしたら告げられるのは恨みの言葉かもしれない。
それでも何かしらの答えを得られればそれでいい。
自分の気持ちは決まっていた。
佐伯が欲しい。
しかしそれができないのなら、あとは時間に任せるしかなかった。
どんな想いも離れていればいずれ色褪せる。
幸い、これからの御堂には再び忙しい毎日が待っているはずだ。
この携帯もいずれ解約して新しいものに変えるつもりでいる。
こんな土壇場になっても、やはり真実を自分から伝えることはできなかった。
こんなものはつまらないプライドだなと思う。
しかしそれが自分という人間なのだと、目の前のテーブルに置いた携帯を見つめながら御堂は自嘲の笑みを浮かべた。
2007/08/12
→ 3
|