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執事 (2)
その夜のうちにバージルはこれまで使っていた私室から執事私室へと部屋を移した。
さほど広くはないが大きな窓と机、ゆったりとしたベッド、それまでの使用者の性格を表すかのように磨きこまれた燭台やチェストなど華美な装飾のない小ざっぱりとした部屋はバージルの好みにぴったりだった。
何より嬉しかったのは壁の一面が本棚になっていることだ。
今までも図書室の使用許可は得ていたが、やはり手元にこうして本を置いておけるのはバージルにとっては有難い。
ゆっくりと本棚を眺めながら部屋の奥にあるもう一つのドアを開けるとその向こうは銀などの高価な食器が保管されている部屋になっていて、さらに地下に降りた先にはワインが並べられている。
私物などほとんど持っていないバージルは、とりあえず身の回りの小物を整えてからクローゼットを開け明日から着ることになる服を確認し始めた。
しばらくすると廊下に通じているドアがノックされダンテ付きの従者が顔を覗かせる。
「御主人様がお呼びになっていらっしゃいます」
こんな時間にと不思議に思いながらもすぐに向かう旨を伝えてチェストの上に置いた懐中時計に目を落とす。
すでに夜更けもいい時間だ。
けれど何時であろうと呼ばれたからにはすぐに行かなければならない。
明日からのことで何か重要な打ち合わせでもあるのだろうかと思いながら、バージルは整えたばかりの服に袖を通した。
初めて執事として主の扉の前に立ったバージルは服装の乱れがないかを再度確認してから一つ深呼吸をする。
静かに扉を開けてみれば、それに気付いたダンテが二人、ほぼ同時にこちらを振り返った。
もうとっくに着替えていてもいいはずなのにどちらもまだ燕尾服を着たままだ。
「バージル」
部屋に入るなり嬉しそうな顔を向けて寄ってきた若い主の手にはまた別の燕尾服が一着揃えられている。
「お呼びだと伺いました」
「あ、なにそれ。今まで通り普通に喋ってよ」
「しかし……」
「俺たちだけの時はいいじゃん、ね?」
「……分かった」
「うん」
そうしてダンテは手にしていた燕尾服を差し出してきた。
意味の分からないバージルはそれをじっと見下ろしている。
「すぐにこれ着て」
目の前に出された衣装は上下とも見るからに新しく、仕立ても上等なもので執事が着るには過ぎたものだった。
「これは新調したものだろう。俺が袖を通すようなものではない」
「いいから着て」
「だからどうして」
ほら、と突きだされる衣装を拒否するように一歩後ろに下がれば、負けじとダンテは一歩迫ってくる。
仕方なく助けを求めるように奥にいたダンテに視線を向けると、それに気付いたのか二人の方に歩いてきたダンテはぽんとバージルの頭に手を乗せるて、「執事として着るんじゃない」と言った。
さらに意味が分からずダンテを見上げる。
「これからお前の継承式をやるんだ」
「継承式?」
思ってもいなかった言葉に呆気に取られているうちに、ダンテは持っていた燕尾服をバージルの胸に押し当てて半ば無理やりに渡してしまった。
「どういうことだ?」
「だから、バージルに侯爵になってもらうの」
「何を馬鹿なことを。侯爵はお前だろう」
「そうだけど、本当ならバージルだろう?」
「だからって……」
「バージル」
放っておけばいつまでも続きそうな双子の言い合いにダンテが静かに割って入る。
途端にバージルは口を噤んでダンテに視線を移した。
しばらくダンテの従者を務めてきたバージルは、昨日までの主が喋るとつい黙って次の言葉を待つ癖がついてしまったらしい。
「俺たちの願いなんだ、バージル。継承式を受けてくれないか」
「でも、あり得ない。この家の正式な爵位を継いだのはダンテだ。仮に俺が名乗るにしてもそれは伯爵だ」
「わかっている。それでも受けてほしいんだ」
「バージル、お願いだから。ね?」
二人に見つめられたバージルは眉を顰ませながらつい押し付けられてしまった礼服に目を落とした。
上質な素材が柔らかい蝋燭の灯りを受けて見事な布目を見せている。
だいたいこんなことは茶番だ。
今さら継承式の真似ごとなどしても何の意味もない。
けれど二人の目を見ればその想いは真剣なものだと分かるし、心の底ではそこまでしてくれることが本当は嬉しかった。
例え茶番だとしても、彼らは自分の居場所を作ってくれようとしているのだから。
「わかった」
小さく頷いたバージルに二人が安堵の吐息を漏らした。
「じゃ、早く始めよう。ほら、着替えて着替えて」
嬉しそうなダンテに背中を押され、バージルはあっという間に衣裳部屋に押し込まれてしまう。
まったく、と呆れた溜息をつきながらもバージルは手もとの衣装に再度目を落とした。
今着ている執事としての服も相当なものではあるが、それと比べても遥かに上等な品に少し気後れがする。
それでもジャケットを脱いだバージルはその燕尾服に袖を通してみた。
全て身につけてみれば、それがバージルのために縫製されたものであることがすぐに分かった。
そういえば最近、今後の大事な催しのために服を新調するからと採寸されたことを思い出す。
今思えばそれもこのためだったのだろう。
「まったく」
再度溜息をついたバージルは、それでもほんの僅かな笑みを唇に乗せて寝室への扉を開いた。
「ほう」
「すごい似合ってる」
着替えて戻ってきたバージルを迎えたのは感嘆の溜息を交えた二人の視線だった。
しかしそれがどうにもこそばゆくてバージルは思わず視線を逸らしてしまう。
生まれたときから貴族として生きてきた二人ならともかく、そうではない自分にここまでの格好はやはり過ぎたものとしか思えなかったのだ。
「バージル、ここに立って」
分厚い本を手にしたダンテが自分の前の位置を指し示す。
言われるままにそこに立てば、嬉しそうな顔をしたダンテがその左側についた。
「バージル、記録には残らないがこれは正式な継承式だ。そのつもりで」
「本当は昼間一緒に教会に連れていきたかったけどね」
「お前も真面目にやれ、立会人だぞ」
おどけた口調をバージルに向けたダンテだが、すぐにそれをたしなめられて肩を竦める。
「確かに教会で神父に取り行ってもらうのが一番いいんだが、俺でも式を行う資格はあるからな」
手にした誓約のための本を軽く掲げてダンテはバージルを見つめ、その本の表紙を上に向けて差し出してきた。
頷いたバージルはゆっくりとその表紙に左手を乗せる。
実際に見たことはなくても知識としての継承式の行為は最初から最後まで知っていた。
ふいに黙った二人につられてダンテも背筋を伸ばしその様子を見守る。
この地方特有の長い伝承がダンテの口から語られ始めると、バージルは本に手を乗せたままゆっくりと目を閉じた。
ダンテの深く静かな声が部屋に満ちていく。
この世で一番聞きなれた声に耳を傾けながら、バージルは昔のことを思い出していた。
おそらく一番古いであろう記憶はただじっとドアを見つめて誰かが入ってくるのを待っていることだった。
いつも側にいた女性がふいにいなくなり、バージルは一人でいることが常になった。
『さびしくなっても泣いたりしないでね』
そう言って去っていった彼女とはその後一度も会ってはいない。
病気で体調を崩したのだと随分前に聞いてはいたが今どうしているのかなどは全く知らない。
あのときからバージルの世界に現れるのはダンテだけになっていた。
無性に何かに縋りたくなったときにそれを受け入れてくれたのもダンテだけだった。
そしてふいに目の前に現れたもう一人のダンテ。
明朗快活な弟は時に無茶苦茶なことを言いながらもバージルのそれまで知らなかった外の刺激を与え続けていた。
このダンテと会っていなければ、バージルは今ここにこうして立っていることもなかったに違いない。
ダンテがいたからこそ生きてこられたしダンテに会えたからこそ外に出ることができたのだと、言葉にこそ表わさないが心の底では深い感謝の念を持っていた。
やがてダンテの言葉が終わるとそれに続けて今度はバージルが長い宣誓の言葉を述べ始める。
それはいずれ爵位を受け継ぐべきときのために、貴族の子弟なら誰もが子どもの頃から教えられていたものだ。
それをダンテもバージルに教えていた。
果たしてその頃からこんな日がくると思っていたかどうか定かではないが、あるいはダンテのことだから多少なりとも考えに入っていたのかもしれない。
二人の視線を感じて緊張しながらもバージルは淀みなくその言葉を紡いでいく。
やがて宣誓が終わるとダンテがバージルの前に右手を差し出してくる。
その手を取ったバージルは親指に嵌められた教会の紋を象った指輪に唇を落とした。
「おめでとう」
唇を離して一つ息をついたバージルにダンテが静かにそう言った。
見上げてみればそれほど表情に変化はないものの優しさに満ちた瞳がじっと見つめてくる。
「おめでとう! それから誕生日もおめでとう!」
静かなダンテの言葉に礼を言おうとしたバージルだったが、ずっと隣で黙っていたダンテに飛びつかれて言葉が飛んでしまった。
「おい!」
ぎゅうぎゅうと抱きついてくるダンテを引きはがそうともがくがなかなか離れそうにもない。
そんな二人を残してダンテは部屋の隅にある暖炉の上から何やら細長いものを手にして戻ってきた。
それをいまだダンテに抱きつかれているバージルの目の前に差し出す。
光沢のある柔らかそうな生地に包まれたそれをバージルは見つめて「なに?」と視線で問いかけた。
「自分の目で見てみるといい」
その厳かな雰囲気につられて纏わりついていたダンテが離れる。
ゆっくりと手を伸ばしてそれを受け取ったバージルは予想外の重さに驚き慌ててもう片方の手を添えた。
ずしりとした重みが両手に伝わってくる。
包まれている端の紐を外して布を引き抜いてみると中から現われたのは見たこともない細身の剣だった。
「剣?」
それを見つめているうちに以前本で見たことのある外国の武器の記憶がぼんやりと浮かんでくる。
「違う、刀……」
柄を握りしめゆっくりと鞘から抜いてみれば、オレンジ色の淡い灯りを受けながらも冷たく光る刀身がバージルの目を捉えた。
すらりと抜いて目の前にかざしてみると鍛え抜かれた身がバージルの顔を鮮やかに映し出してくる。
「由来は明かされていないが号は閻魔刀」
「やまと?」
視線を外すことなく口の中で何度か繰り返す。
「この屋敷の三代目が極東に向かった王に随行したときにとある国で賜ったものだそうだ」
ダンテの言葉を聞きながらもバージルは輝く刀身から目を離すことができなくなっていた。
「その国随一の遣い手と手合わせをしたときに授かったものらしいが、既に国交は絶っているからこの国にある極東の刀はこれきりだと言われている」
「どうしてそんなものを?」
「お前のものだ」
はっとして目を上げたバージルにダンテが頷く。
「この屋敷の主が代々受け継いできたものだ。言いかえればここの主である証だな」
「だったらこれはダンテが持つべきものだろう」
すぐ側で刀を覗きこんでいたダンテを慌てて見やる。
しかし、ん? と顔を上げたダンテは呑気そうに「俺は別の貰ってるから」と言ったのだ。
「別のって……」
「受け継がれるべき刀剣はふたつある。この閻魔刀と同じ頃に国王から賜ったリベリオン」
「そ、俺がリベリオン貰ったから、これはバージルのってこと」
「しかし……両方が揃ってこそ意味があるんじゃないのか?」
そんな言葉を口にしながらもバージルの目は抜き身の刀に吸い寄せられていく。
どうしても目を離すことができなくなっていた。
「先代の意思なんだよ、バージル」
「え?」
「時がきたら二人にそれぞれを渡してほしいとね」
「父さんがそう言ったんだ。素直に貰っておこうぜ、バージル」
一体自分はどこまでのものを受け取ればいいのだろうと迷い始めるバージルだったが、冷たく光る刀身は既にその心を捉えて離さなくなっていた。
今手にしたばかりだというのになんの違和感もなく掌に馴染んでくる。
欲しいと、心の底からそう思う。
「ありがとう」
ダンテたちと手の中の閻魔刀に、もしくはそれを通して会ったことのない父親にバージルは呟いた。
ふいに胸が熱くなり目頭に込み上げてきたものに慌てたバージルは幾度か大きく瞬きをしてそれを堪える。
けれどそんな様子は二人にすっかり見抜かれていたようで、再びダンテにぎゅっと抱きしめられもう一人のダンテの大きな手に背中をさすられた。
二人の温もりの間で涙を堪えられなくなったバージルはそれでもなんとか声を抑えようと懸命に唇を噛み締める。
それでもどうしようもなく流れてしまう涙をダンテの肩に零しながら、バージルは今までにないほどに強く弟の身体を抱きしめていた。
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2009/08/29
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