誓約 (2)
 

「機嫌が悪そうだな」
夜も更けて寝室に戻ったダンテの着替えを手伝っていたバージルは、ふいに言われたその言葉に思わず手を止めて主の顔を見上げた。
「ダンテと喧嘩でもしたか?」
「……どうしてそうだと?」
喧嘩といえるかどうかは別として、仕事中は普段と同じようにと努めていただけにそんなことを言われてしまったのは少し情けない。
「あいつを見ていればすぐに分かる」
それを聞いたバージルは確かにそうだなと苦笑した。
結局、屋敷に戻ってきてから二人は食事の時間になるまで顔を合わせることはなかったのだが、食堂に入ってきたダンテの様子は明らかにいつもと違っていた。
いつもだったらなんだかんだとバージルに話しかけてくるのにそんなことも一切なく黙ってつまらなそうに皿をつついてみたり、かと思えばバージルに視線を向けたものの目が合った途端に逸らしてみたり。
よほど鈍感な使用人でもその夜のダンテには違和感を感じていたに違いない。
「珍しいな。初めてじゃないか、喧嘩なんて」
「喧嘩というわけじゃなくて……」
「ん?」
ダンテのタイを外していた指先を止めてバージルはそのまま黙りこんだ。
生まれたときから一緒にいたダンテに対してはさすがに気持ちが緩んでしまうのか、聞かれれば何でも答えそうになってしまう。
しかしあの痣のことを話してしまっていいものかどうか、本人は知られたくないだろうし、かとって後見人であるダンテには知る権利があるだろう。
さらに人の秘密を明かしてしまうことへの躊躇いがバージルを戸惑わせる。
それでも話すことでダンテの助けになるかもしれないし、今の二人のぎこちない状態もなんとかできるかもしれない。
タイを外してそれを背後のチェストに置いたバージルは一つ小さく息をついて昼間のことを話し始めた。
ただ、ダンテのシャツが乱れた原因についてだけは言うことはできなかったのだが。

 

「そうか……」
一通りの話を聞いたダンテはしばらく黙り込んで何か考えている様子だったが、やがて「おいで」とベッドの端に腰を下ろしてバージルをその隣に腰掛けさせた。
「他に何か学校のことを聞いているか?」
「問題になるようなことは何も」
「で、ダンテは喧嘩したと言ったわけか」
「はい」
「まあ、仕方ないだろうな」
きっとダンテも呆れるに違いないと思っていただけに、その肯定的な言葉はバージルの眉を顰ませた。
そんなバージルを見てダンテがふっとした笑みを漏らす。
けれど少し背中を丸め両膝の上に肘をついて、そこから覗きこむように視線を向けてくるダンテは少し戸惑うような表情をしていた。
「悪しき習慣というのはどこにでもあるものだ」
その視線を床に移してダンテはぽつりと呟いた。
「ここの双子に対する考え方もそうだし、学校にも同じようなことがあるんだよ」
「それはどういう?」
「ダンテの痣は喧嘩じゃなく、恐らく上級生に一方的にやられたものだろうな」
「どうして!?」
思わず荒げた声を向けるがダンテはじっと下を見つめたまま動くことはなかった。
もう一度、バージルは声を低めてダンテを問詰める。
「一方的にって、どうして?」
「上級生の言葉は絶対なんだ、学校の中では」
そうして背筋を伸ばしたダンテは大きな溜息をついてバージルを見やった。
「逆らえば報復もあるし、単に上の者の機嫌が悪いだけでもとばっちりを喰らうこともある」
「そんな……」
「俺も同じ経験をしたからな」
「あ……」
ダンテが行っているのは貴族の男子子弟のみを集めた王立の学校だった。
将来はこの国の中枢において様々な面で国政を支えていくことになるであろう彼らに対する、いわばエリート教育の場のはずだ。
それがどういった理由からにしろ一方的に暴力を働いていいはずなどないだろうに。
そんな行為をする者達をどうして紳士などと呼べるだろうか。
あまりの理不尽さにバージルはぎゅっと拳を握りしめ唇を引き結んでいた。
「どうしてそんなことが許される、教師たちは何も言わないのか?」
「教師は基本的に学舎外でのことには関与しないし、寮内ともなれば完全に生徒の自治下だからな」
「…………」
「やられた方も決して口外はしない」
「なぜ?」
「弱みを見せるわけにはいかないんだ、どんなことがあっても」

学内にあっては学齢が、世間に出れば爵位がこの国における徹底した階級制度なのだとダンテは言った。
例え納得できないことでも従わざるを得ないし、もしも反抗するのであればそれ相応の覚悟をもって臨まなければならない。
位の高いものはそれに誇りを持ちなんとしても守ろうとするし、低い者は上の者の足を引っ張って引きずり降ろそうとする。
優越感と妬みの社会はそのまま学内で縮尺され独自の小さな貴族社会を作り上げてしまう。
そこで上の者に反論を唱えれば待っているのは不当な根回しと暴力だった。
そして対象者の背景が高位であればあるほど、そこに妬みが加わって激しさを増す。
もちろん退学して他の学校へ移るという逃げ道もあるが、それをしてしまったらこの国で貴族として生きていくのは難しくなってしまう。
誰もが通ってきた道から逃げ出したとなれば、それだけで落後者の烙印が押されてしまうのだ。
そんな者はどんな下位の貴族よりも下にみなされる。
弱みを見せたら最後なのだ。
たかだか12歳で入学する彼らは全て皆、程度の差こそあれその洗礼を受けることになる。
だから父親たちは入学前に言うのだ。
『とにかく耐えろ。逃げ出すことは許されない』と。

「ダンテも同じことを言ったの?」
「ああ……」
それからしばらく重い沈黙が続いたが、やがてダンテの少し呆れたような声がそれを破った。
「まあ、あいつならなんとかなるだろう。本気で馬鹿をやるときもあるが、ここを出たときよりは世間のことも分かってきているようだし」
その言葉にバージルは顔を上げてダンテを見つめる。
どこを見るでもなく漂う視線は、既に過去となった自分の学生時代のことを思い出しているに違いない。
「ダンテくらいの年になればもう街にも出ているだろうし、学内と街の現実を知れば嫌でも大人になる」
それは楽観しているというよりはダンテなら大丈夫だという確信なのだろう。
同じ経験をしたからこそ説得力のあるその言葉に、バージルは自分の考えの甘さを心の底からなじっていた。
所詮、自分の知識は書物によるものでしかなかったのだと。
とくにダンテについて街に出るようになってからは、そこに住む人々の貧富の差を目の当たりにしてショックを受けたものだ。
大通りから一歩横道に逸れればそこにいるのはボロをまとったその日のパンにさえ飢え苦しむ人々の姿だ。
自分はそんな光景を遠巻きに見て、そして使用人達の噂話を聞いて世間を知っているつもりになっていただけだと思い知った。
ダンテの直面している現実を知る由もなく、それどころかダンテよりも世間を知っているつもりでいたのだ。
握りしめた拳にぽたりと水滴が落ちてきた。
無言のまま俯いて、震えて悲鳴を上げそうな喉を肩を震わせることで必死に抑えることしかできなかった。
「バージル?」
ぽんと頭に軽く手を乗せられ、自分の表情を覗きこんでくるダンテの気配が伝わってくる。
優しげな声音に思わずその胸に縋りつきたい衝動に駆られたが、それをバージルはなんとか堪えて唇を噛んだ。
今は優しくされることが一番辛い。
「バージル」
けれどそんな想いをよそに、ダンテは震える肩を抱いて引き寄せ軽々とその胸に閉じ込めてしまう。
もちろんバージルはその優しさから逃れようと首を振って腕を突っぱねてみるのだが、それはまるで赤子がむずかるような弱々しいものでしかなかった。

 

 

それからしばらくして、バージルはダンテの寝室の前に立っていた。
その手には一冊の本がある。
ひとしきり無言の涙を流した後で『これをあいつに渡してやってくれ』と頼まれたものだった。
けれどそれは単なる口実でしかない。
バージルとしてはなんとかダンテと話をしたいと思ったものの、あくまでも使用人でしかないバージルがいきなり屋敷の人間の私室を訪れるなど非常識も極まることだ。
それを察したダンテが差し出してきたのがこの本だった。
これで主の従者が屋敷の跡取り息子の私室に赴く理由はできたことになる。
が、肝心のところにきてバージルはその扉をノックすることができないでいた。
一体何をどう言えばいいのかが分からないのだ。
外においては多少の社交術も身につけてそれなりに行動できる自信はあるものの、それがここにあっては何の役にも立ちそうにない。
いっそ今夜はやめにして気持ちが落ち着いてから日を改めた方がいいのだろうかと思ったその時、突然扉が開いて中からダンテの従者を務める者が出てきた。
「バージルさん?」
よほど意外だったのか少し驚いたふうに見つめてくる。
「どうしたんですか? ダンテ様に何か御用でも?」
「ええ」
それまでの躊躇いを一瞬も見せることなく、バージルは優秀な従者の顔に戻ってそれに応じた。
「御主人様よりダンテ様へこの本を渡すように命じられました」
と手にした本を軽く示して見せる。
「でしたら私から渡しておきましょうか?」
「いいえ、これは私が命じられたことですので。どうぞお気遣いなく」
「そうですか。ダンテ様は今ベッドに入られたばかりですから、まだ起きていらっしゃると思いますよ」
そう言って従者は軽く頭を下げると今日一日の仕事を終えた安堵感からかにこりとした笑みを見せてその場を後にした。
その姿が廊下の角を曲がり足音が完全に聞こえなくなるまで待って、バージルは一度目を閉じ深呼吸をして目の前の扉をノックした。

入室の返事を得てドアを開けてみれば、てっきりベッドに入っているだろうと思っていたダンテは大きな窓を全開にして外を眺めていた。
その窓枠に手をついたまま振り返る表情は灯りを落とした室内では暗すぎて見ることができない。
「バージル、来てみろよ。すごい月」
けれどその声は嬉しそうに弾んでいた。
後ろ手に静かにドアを閉めたバージルは言われるままに窓辺に寄り夜空に浮かぶ大きな満月を見上げた。
片目を覆っている眼帯を外し二、三度瞬きをして目を細める。
いつも仕事が終わった後に見上げる月はどんな形をしていてもその青白い光でもって気持ちを落ち着かせてくれるはずなのに、今夜に限っては胸の奥につかえるものが邪魔をして落ち着くどころではなくなっていた。
それでもダンテがいつもと変わらない声音で話しかけてくれたのが大分救いにはなっている。
「ダンテ」
しばらく二人並んで月を眺めてから、バージルは手にしていた本をぎゅっと掴んだまま小さく呟いた。
「ん?」
「聞いたよ、学校でのこと。……ダンテから」
無言で振り向いた瞳は驚いたように少し見開かれていた。
「何も知らないとはいえ、酷いことを言ったな」
じっと見つめて「すまなかった」と言った途端、ダンテの眉根が顰められまるで困ったような僅かな笑みが浮かんだ。
なんでもないことには子どもじみた言い訳をするくせに、肝心なことになると黙ってしまうダンテに「なぜ話してくれない」と詰め寄りたかった。
けれど同じ問いをバージルはついさっきしてきたばかりなのだ。
『ちゃんと言ってくれればよかったのに』
『バージル、お前だったらダンテに話すか、本当のことを?』
そうだ、もし自分が逆の立場だったら決してそんなことを話はしないだろう。
ダンテにはいつでも無邪気に笑っていてほしいから。
「傷はもう平気なのか?」
視線を脇腹あたりに移しそこに浮かんでいるであろう痣を思い出す。
ダンテが大人しく従っているばかりでないことは容易に想像できた。
それが余計に相手を苛つか せ行為がエスカレートすることもあるに違いない。
それでも、ただいまと屈託のない笑顔で帰ってくるダンテを思い出すと胸が詰まって言葉も出なくなってしまう。
手にしていた本がばさりと音を立てて落ちた。
それにダンテが気を取られた瞬間、バージルは両腕を回してその身体を抱きしめていた。
「バージル?」
耳元で明らかな困惑の声がする。
いつもは自分からぎゅうぎゅうとくっついてくるくせに、こうして逆のことをされてみると戸惑っているらしいダンテが少し可笑しかった。
「話せばいい」
ダンテが視線を巡らせたらしく、僅かに頭が動いたせいで少し跳ねた髪がバージルの頬をくすぐった。
そこに頬を押し付け呟く。
「何もしてやれないけどな」
やがてダンテの腕もバージルの背中に回り抱きしめ返してきた。
しかしその力が強すぎて息が詰まりそうになる。
ああ、やっぱりダンテの方が腕力は上だな、と何故かそんなことが頭を過った。
身長も僅かに高いし、胸板もかなり厚くなっている。
双子で同じはずなのに、こうしているとまるでダンテに包まれているようで少し癪ではあったがそれはそれで心地いいものだった。
「バージル」
バージルの首筋に唇を埋めるようにして囁いたダンテの声がややくぐもっていた
「大丈夫だよ、バージル」
そうして腕の中から解放されたバージルにダンテは真っ直ぐな瞳を向けてきた。
その口元にはいつもの嬉しそうな笑みが広がっている。
「バージルがいてくれるって思うだけで何でも平気。ここに帰ってくればバージルが待ってるって、そう考えれば学校でのことなんてなんでもない」
まるで悪戯っ子のように笑ってダンテはもう一度バージルを抱きしめる。
「だからバージルはここにいて。ずっとここで俺が帰るのを待ってて」
「それだけで……いいのか?」
こくりと頷いてダンテはぎゅっとしがみついてくる。
「バージルがいてくれればそれでいい」
ずっと一緒にいようと、昔ダンテがそう言ったことを思い出した。
あのときはそんなことなど絶対に無理だと思ったし、バージル自身、自分がこの屋敷にいつまでも留まっているのはよくないだろうと感じていた。
いつかはここを出ていくのだと覚悟もしていた。
けれど今はどんな事情があれここにいたいと思う。
今までダンテの庇護の元に当然のように生きてきて、守られていることに気付くことさえなかった。
自分の人生のくせにいつも他人任せにしてきた。
確かに今のバージルには何ができるとも言えないのに、それでもダンテはここにいてほしいと言う。
力まかせに抱きしめて、ずっとここにいろとそう言うのだ。

「分かったよ」
「ほんと!?」
ぱっと身体を離したダンテはバージルの両肩を掴んでぐいと顔を寄せてくる。
確かめるように何度も「本当に? 本当に?」と繰り返してくるから、バージルも同じ数だけ「ああ」と頷いてやるしかなかった。
「そのかわり」
そう言ってバージルは人差し指を突き立てて、それをダンテが寄り目になりそうなほど眉間に近づけて睨み返す。
「学校であったことはちゃんと俺に話すこと」
一瞬どんな交換条件を持ち出されるのかときょとんとしていたダンテの顔が一気に緩んだ。
「分かった、約束する」
そうしてにこりと笑ったダンテは目を閉じてゆっくりと顔を近づけてくる。
しかしあと少しで唇が触れそうなところで「ん?」とダンテは違和感を感じて目を開けた。
バージルの掌がぴたりとダンテの唇に張り付いている。
「あんで?」
心外そうに眉根を寄せたダンテは仕返しだとばかりにぺろりとキスの邪魔をした掌を舐め上げてきた。
「だからどうしてそうなる」
慌てて掌を離したバージルは一歩下がって警戒の態勢を取る。
「だっていいじゃん、好きなんだから」
「そうは言っても男同士だろうが」
「別にいいだろう?」
「何がいいんだ」
「貴族の中じゃ珍しくないし」
「それ以前に兄弟だろうが!」
「じゃあ」
と、今度はダンテが人差し指を突き立ててきた。
「キスしてくれたら勉強頑張る」
「子どもか、お前は……」
ダンテを見直したことを後悔しそうになってバージルは思わず溜息をつく。
けれどそんなダンテの子どもっぽい部分ももちろん嫌いではなかった。
「それとこれとは別の話だ」
そうしてくるりと背中を向けたバージルにダンテは「えー」と文句を言いつつも、その背後から抱きついてきて首に鼻先を埋めてきた。
「ねえ、バージル。俺、ほんとに嬉しいんだ」
かかる吐息がくすぐったくて、同時に背筋をぞわりとしたものが這い上がってくる。
「ずっと一人だと思ってたから、バージルがいてくれて嬉しいんだよ」
「一人?」
意外な言葉だった。
「だって父さんも母さんもいなくなって何をするにも一人で。夜になったらどんなに寂しくて怖いとと思っても誰も来てくれなかったし」
「…………」
「そうしたらバージルに会って、双子の兄さんだって言われて」
「これでもう一人じゃないって、昼も夜も一緒にいられるって思って。まあ、それは無理だったけどさ」
「そうだな」
「だからバージルは俺にとって一番大事なんだ」
ぎゅっと腕に力が籠る。
「ほんとは一日だって離れたくないし、ずっとこうしてバージルに触っていたいし」
まったく……と小さく呟いてバージルは溜息をついた。
「本当にきっちりと勉強するか?」
「え? ……うん、する!」
「学校で無茶なことはしないか?」
「しない」
「ここでの俺の仕事も邪魔しないか?」
「あー、うん、努力する。スポーツも課題も真面目にやるし、領地の勉強もちゃんとやる。絶対にいい領主になるから」
「約束だぞ」
「うん! ……ってことは、キス、してもいい?」
「勝手にしろ」
背後には聞こえないほどにぼそりと呟いたつもりだったのに、言った瞬間、ダンテはバージルの前に回り込んできてその両頬を捉えた。
「約束する。だからバージルも絶対ここにいて」
「ああ」
そうして触れた唇はほんの一瞬で離れた。
けれどすぐにまた確かめるようにゆっくりと合わせられる。
この前とは違う優しい触れ合いにバージルの唇から薄く吐息が漏れた。
幾度も幾度も啄むように軽いキスを重ねていく。
「これは誓約だよ、バージル」
「誓約?」
「そう、俺はいい領主になる。バージルはずっとここにいる。そのための誓いのキス」
既に図体の大きな男が言うにはあまりに少女趣味的な言葉に思わず苦笑してしまう。
きっとダンテも同じなのだろう、少し照れたように笑っている。
けれどこんなに月の綺麗な晩には、そんなお伽噺的なキスが似合っているのかもしれない。
「ずっと一緒だ」
そう言って再び顔を近づけてくるダンテにバージルもゆっくりと目を閉じてそれに応えていった。

 

 

 

長期休暇でもなんでもないその日。
本来なら学校にいるべきはずのダンテは屋敷の正面玄関にいた。
玄関の建物沿いには使用人達が立ち並び、皆一様にぴしりと背筋を伸ばして控えている。
そんな彼らの視線の中、燕尾服を着たダンテは手にしたシルクハットを弄ぶようにくるくるとさせていた。
あと数刻で正午を迎える空は青く澄みきって雲一つ見当たらず、ときおり涼しい風が吹いては女中達のスカートを僅かに揺らしていった。
しばらくして奥からバージルを従えたこの屋敷の主がやってくる。
ダンテと同じように燕尾服を来て髪を撫でつけ、胸には幾つかの勲章が輝いていた。
それを認めたダンテは遊んでいたハットを脇に抱えて背筋を伸ばす。
二人が御者の控える馬車の前まで行くとバージルは手にしていたシルクハットと杖を主であるダンテに渡した。
「ありがとう」
いつものようにそう言ってダンテは馬車に乗り込んだ。
続けてダンテもバージルと視線を合わせて軽くウィンクを残し踏み台に足をかける。
御者が静かにドアを閉めたところでバージルは「いってらっしゃいませ」と頭を下げた。
そうして一呼吸置いて視線を上げてみれば、ガラスの向こう、ダンテが小さく唇を動かしている。

 や・く・そ・く

それにバージルが周囲には決して分からない程度に頷いたとき、ぴしりと鞭の音が響いて馬車が動き出した。
バージルを始めとした使用人たちはその音が聞こえなくなるまで微動だにすることなく見送っている。
やがて第一ポジションにいた執事が解散の令を出すと同時に、ほっとした溜息があちこちから漏れて場の緊張が一気に解けた。
それぞれが自分の仕事に戻っていく中、バージルだけはじっとその場に立ち尽くし既に見えなくなってしまった馬車の姿に視線を送っていた。

双子の18歳の誕生日である今日は、ダンテにとっては家督を継ぐこととなる人生でも重要な節目となる日だった。
彼らは正午から中央の教会で取り行われる継承式に出向いたところだ。
本来なら主の行き先には同行するはずのバージルもこの儀式には参加することができない。
古来より継承式は神父と爵位を受け継ぐべき者、そしてその爵位と同等かそれ以上の爵位を持つ者の立会人一人のみで行われる決まりとなっていたのだ。
数時間後、ダンテが戻ってくるときには正式に侯爵の地位を受け貴族の一員となっているはずだ。
この屋敷の正当な新しい主となり、広いこの地方を治める領主という責任をも負うことになる。
その重責がどれほどのものかバージルには想像もできないのだが、それでも初めて見たダンテの礼装姿に根拠はないもののそれほどの不安を感じることもないように思えた。
やはり高位な貴族の血が自然と現われているのかもしれない。
その姿は若さの中にも優美さを伴い、そのまま国王の晩餐に出向いても堂々と他の貴族と渡り合えるほどの強さを感じさせていた。

すっかり人のいなくなった玄関の前で、バージルはそんなダンテの姿に昔の子どもの頃の姿を重ねていた。
無邪気に笑う顔は大人になった今でも大して変わってはいないものの、なぜか無性に寂しい思いに捉われてしまう。
それを感傷的と言ってしまえばそれまでなのだが。
やがてバージルを呼ぶ声が奥から響いてきた。
新しい主の継承式の今日は屋敷でもやるべき行事が幾つかあり、二人が戻ってくるまでの短い間にも済ませなければならないことが山のようにある。
真っ青な空を見上げて深呼吸をしたバージルは、急きたてるような声に返事を返して屋敷の中へと戻っていった。

 

→ 9

2009/07/15


 

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