誓約 (1)
 

ダンテが学校に入学しバージルが屋敷の使用人として働き始めてから幾つもの季節が過ぎ、二人は少年とも青年とも言い難い17歳という年齢を迎えていた。
ダンテにしてみればあと数カ月で18歳となり、家督を継いで侯爵の地位を受けることになっている。
学校ではスポーツ万能、しかし学業の席次は下から数えた方がはるかに早い。
素行は教師から見れば最悪、クラスメイトから見れば良くも悪くもつい目が行ってしまう中心的存在で仲間としては割と頼られることも多かった。
そんな自分の成績を逆手にとって「自分が家に戻っている間はバージルに家庭教師をしてもらいたい」とダンテに頼んだことがあったが、それはあっさりと却下されてしまった。
理由は簡単で既に学校に通っている者に家庭教師は必要ないということと、やはりバージルの言う通り使用人の中にも歴然とした階級が存在する以上、雑役の者に家庭教師という特殊な上級職などあてがうことはできないということだった。
けれどそれは結局のところ他の使用人に対する見せかけだけの話で、実際にダンテが長期休暇で屋敷に戻っているときは大抵バージルと二人で過ごしていることが多かった。
バージルが雑役だけの使用人からボートハウスの管理を受けるようになるとダンテは毎日ボートに乗りたいと言ってはバージルを引っ張り出し、けれど実際にはボートになど乗ることはなく馬で遠出をしたりダンテは嫌がったが塔にこもって勉強を教えてもらったりしていたのだ。
しかしそのお陰でダンテの学校での成績もほどほどの所に留まっていることができたためあまり煩いことも言われずに済んでいたのかもしれない。
バージルもダンテに呆れ顔を見せつつも、彼と一緒にいることは忙しい日々の中でも気の休まる時間となっていた。

そんなバージルも雑役という最下層の仕事に留まっていたのはほんの一年ばかりのことだった。
すぐに持ち前の頭の良さや慎重さ、それゆえに人の気持ちを機微に汲み取ることのできる能力が認められ各施設の管理人やまとめ役を経て今は主であるダンテの従者となっていた。
一緒に外出する機会も増えて人目につくことも多くなっていたが、小さい頃からダンテに教えられていた貴族としての振舞い方をすっかり身につけていたバージルは一部の隙もないほどにその役目を果たし、その行動ぶりはうるさ方の年配者たちにさえ理想の従者だと言わしめるほどだった。
それでもやはり顔の半分を覆う眼帯はそのままで、最初の頃こそ屋敷の使用人たちがそうであったようにそれを奇異の目でみたり気持ち悪がったりする者もいたが、いずれもバージルの有能ぶりに接していくうちにむしろそれが彼のステータスの一つででもあるかのように受け入れられていくこととなった。
貴族は元来が目立ちたがりで個性を主張する性格の者が多いのだろう、見目の良い従者を自分の飾り物として連れまわす婦人の中には用もないのに黒い怪しげな眼帯を彼らにつけさせる者まで出てくる始末だ。
難点があるとすれば常にダンテの外出先についているため遊び好きの婦人方にちょっかいを出されることがしばしばだったということくらいだろう。
けれどそんな婦人達に対しては、相手の機嫌を損ねず時には歯の浮くようなお世辞の一つも言ってあっさりと遠ざけてしまう術もいつしかきっちりと身につけていた。
が、それはバージルにとっては一番疲れることらしく、仕方なさそうに離れていく婦人を見送っては小さな溜息をついているのをダンテに見られ小さく笑われることが多々あった。
そんなときは決まって困ったようにばつの悪そうな表情を見せるのだが、それは職務に従順で優秀な使用人が年相応の少年の顔に戻ることのできる数少ない瞬間だった。

 

 

 

「暑い……」
ダンテは今日半日で既に数えきれないほど繰り返してきた言葉を呟きながら塔の小部屋の机に突っ伏して盛大な溜息をついた。
「なぁ、バージル?」
そのまま視線だけを動かして、ベッドの端に腰かけダンテも唸る暑さの中で平然と本を読んでいるバージルに声をかける。
「駄目だ、それを終わらせてからにしろ」
「まだ何も言ってないじゃん」
「どうせ遠乗りでもしようと言うつもりだったんだろう?」
「…………」
「全部終わってからだ」
あっさりと言われて何も言い返せないダンテにバージルが追い打ちをかけた。
「石頭め」
「ふん」
暑いと言ってもすぐ側に湖があり背後に森が広がるここは屋敷の方と比べればはるかに涼しい風が吹いてくる。
ここでの夏に馴れていたバージルは、正直、空気の籠りやすい屋敷の中にいる方が酷く不快で堪らなかった。
だからダンテがここで暑い暑いと言っているのも、それは単に勉強をさぼりたいがための言い訳にしかすぎないと分かっている。

夏季休暇のため戻ってきたダンテは、帰る早々バージルを呼び出しては屋敷から連れ出しここへ来ていた。
バージルもすでに主であるダンテの従者となってはいたが、さすがに仕事先にまで一緒に付き添って行くことはないから、平日の朝、駅まで行く馬車に同乗して見送ってしまえばあとは帰りの迎えまで屋敷内にいることになる。
もちろん衣類や小物類の整理、手入れなど仕事はたくさんあるものの、それでもダンテが学校から戻ってきているときはそっちを優先させてやれと意外に双子に甘いバージルの主人はそう言ってくれていたのだ。
ダンテもそれを知っているから見送りから戻ってきたバージルを遠慮なく連れ出していたりする。
けれどバージルにもやるべきことはあるため常にダンテに付き合えるわけではないし、それにどう考えても遊んでいるとしか思えない二人での状況に他の使用人に対する後ろめたさも加わって時にはダンテに無理難題を仕掛けることもあった。
今ダンテが呻きながらやっていることもその一つで、バージルの仕事を中断させてしまうことに対して「古語の翻訳を20ページ分やるなら」という条件つきでここへ来たのだ。
もちろんそれがダンテの一番苦手なことだと分かった上でだ。
ぶうぶうと文句を言いながら、それでも懸命にテキストと辞書とノートを睨みつけているダンテを横目にバージルはふっと静かな笑みを口元に浮かべた。
身体はすっかり大人びて、身長も今ではバージルよりも少し高いくらいになっている。
きゃっきゃとはしゃいでいた子どもの声も、先に落ち着いた男の声になったのはダンテの方が先だった。
学校でのスポーツなどで鍛えている分、おそらく腕力などもバージルより勝っているに違いない。
けれどこうして長期休暇の度に帰ってくるダンテと一緒にいると、中身に関しては昔とちっとも変わっていないことにバージルの胸にはほっと安堵の思いが広がるのだった。

そんなダンテの課題も夕方が近づき風が一層涼しく感じられる頃になってようやく終わりを迎えた。
出来のほどをバージルが確認している間、ダンテはその隣にぐたりと寝ころんでやはり暑い暑いと騒いでいる。
「だったらそこの湖で泳いでくればいいだろう?」
ノートから目を離すことなくそう言うバージルにダンテは即座に「やだね」と答えていた。
「ん?」
そんな予想外の返答にバージルの視線がちらりと動く。
確かにここ数年は湖で泳ぐことなどなくなってしまったが、学校に上がる前の夏など毎日のようにここに来ては泳いでいたダンテだ。
しかももともと身体を動かすことが大好きであるはずの彼がそんなことを言うのは少し意外だった。
けれど気まぐれなところもあるのは十分承知しているから今はそんな気分なのだろうと放っておくことにして、バージルは再び乱暴な文字の並んだノートに目を落とした。
「なあ、バージル?」
「なんだ」
「キスしていい?」
「…………」
僅かに視線を動かしたバージルは、それでも表情を崩すことなく課題のチェックを進めていく。
「バージルってば」
無視を決め込んでいると今度はぐいぐいとバージルのジャケットの裾を引っ張ってきた。
さすがのバージルも、だらりとベッドに寝転んだ挙句ただでさえ暑いのにさらに暑苦しいことをしかけてくるダンテに次第に苛つきが募っていく。
とにかくダンテは何かと理由をつけてはくっついてきたがる癖があった。
その理由も「だってこうしてると気持ちいいし」とかそんなものばかりで、バージルが黙って大人しくしていれば額や頬や鼻先にキスを落としてきてはにこにことしているのだ。
もちろんバージルとて最初から黙ってそれを受け入れていたわけではない。
一度あまりにしつこくくっついてくるものだから、いい歳していい加減にしろとキツく言ったことがあった。
するとダンテは一瞬眉根を寄せたかと思うとしばらく黙りこみ、そしてぽつりと呟いたのだ。
『昔さ、母さんがこうしてくれてたの、覚えてるんだ』
それはバージルも初めて聞く母親の話だった。
両親が亡くなったのはまだダンテが小さい頃だったせいか正直なところ彼らとの記憶はあまりに曖昧すぎて、それが年を重ねるにつけどんどん幻のようになっていくのだと言っていた。
もちろんそれはバージルにとっての両親でもあるのだが、ずっと離れていた上にその事実を知った時には既にこの世にいない存在だったのだ。
しかも自分の生まれに理不尽ではあれど多少なりとも負い目のあったバージルは自ら両親の話を聞くことにどこか後ろめたさのようなものを感じていた。
それにダンテの話を聞いて家族というものを想像したとき、真っ先に頭に浮かんできたのは今従者として仕えている主のダンテだった。
そういえば自分もかつては無性に何かに縋りつきたくなって、助けを求めるようにダンテに抱きついていったことを思い出した。
そんなことがあって以来、バージルはどうにもくっついてくるダンテを突き放すことができなくなってしまったのだ。

「バージルー」
飽きることなく傍らで名前を連呼されるとノートに集中すべき神経もすっかりめちゃくちゃにされてしまう。
ついにバージルは隣で仰向けになってごろごろしている弟を睨んでぱたりとノートを閉じ、それを脇へ置きながら大きな溜息をついてみせた。
それを了解と取ったのか、ダンテはにこりとして起き上がるとぎゅっとバージルを抱え込んで再びベッドにごろりとなる。
「キス、してもいい?」
「…………」
「ねえ、いい?」
むっとした顔で視線を逸らすバージルに何度もダンテは問いかけてくる。
「いつも好き勝手にしているだろう?」
「でも今日はバージルがいいって言わないとしない」
「なんなんだ、一体?」
たまにダンテはこうやって面倒なことを言い出すのだ。
「いい?」
「別に、構わない」
そんな返事でも妥協したのか、ダンテの口元が嬉しそうな笑みを浮かべゆっくりと近づいてくる。
そうなれば自然とバージルも目を閉じるのだが、その直前、閉じられる視界の端に苦しそうに眉根を寄せるダンテの表情が映ったような気がした。
それはほんの一瞬のことだったが大きな違和感を感じさせるには十分で、バージルがもう一度目を開けようとした瞬間。
「……っ」
思いもよらなかった場所にダンテの唇を感じてバージルは身体を硬くした。
同時にダンテが思いきり体重をかけながら、両肩をベッドに押しつけるように掴んできたため身動きが取れなくなってしまう。
「んっ、ダン……」
軽く触れるだけの口付けが幾度か繰り返された後、うごめくものが唇の裏に入りこんできてゆっくりと舐め上げていった。
それがダンテの舌だと分かた途端、痺れに似た感覚が腰のあたりから背筋を這い上りバージルの肌をぞわりと駆け巡る。
ほとんど馬乗りになって肩を抑えつけているのは抵抗されるのを抑えるつもりでのことなのだろう。
けれど予想外のダンテの行動に半ば唖然としているバージルはそもそも抗うという手段も考えられないまま、ただぎゅっと身体を委縮させて忍んでくる舌を受け入れていた。
それはやがて奥へと逃げるように縮こまっていたバージルの舌を捉え舐めまわし絡まってくる。
「ふ……ぁ、ん……」
深く唇を塞がれて呼吸もままならず、あまりの息苦しさにダンテのシャツを掴みそれを引っ張った。
抵抗というよりは空気を求めるためにじたばたと始めたバージルに、ダンテは一度唇を離しその瞳をじっと見つめてくる。
まるで走ってきたかのように胸を上下させぜいぜいと息をついているバージルの目には、よほど苦しかったのか薄らと涙が滲んでいた。
「ダンテ!」
もちろん罵倒の言葉を続けるつもりでいたのだが、咎める口調とともに半ばぼやける視界で捉えたダンテは唇を合わせる直前、バージルがちらりと見たあの眉根を寄せる苦しげな表情をしていた。
「だから聞いたんだ」
「なに、を……」
バージルの息はまだ整わない。
「キスしてもいいかって」
「だからって、こんな……」
ようやく本来の調子を取り戻し始めたバージルだったが、その視線がふいにダンテの胸元あたりで止まり言葉を詰まらせた。
さっきの息苦しさに任せて思いきり掴んでいたせいかボタンが外れて肌蹴ていたシャツの下、ダンテの白い肌にはくっきりとどす黒い大きな痣のようなものが浮かんでいたのだ。
それは鎖骨の下から胸にかけて所々青黒くなったり赤く鬱血していたりする。
「ダンテ、それはどうした?」
バージルの視線に気づいたダンテは慌ててシャツの襟元を掻き合わせてみるが既にそんなことに意味はなかった。
「その痣はなんだ? 一体いつ?」
ベッドに肘をついて半身を起こしたバージルの視線から逃れるように、ダンテは跨っていたその身体から離れてベッドの端に腰をかけた。
「ダンテ」
同じように隣に腰を下ろしたバージルはそっと手を伸ばして襟元を掴んでいたダンテの手をどけさせた。
一度見られているせいか素直に手を離したそのシャツのボタンを外し左右に広げてみれば、胸のあたりだけかと思っていた痣は脇腹のあちこちにも痛々しい色を伴って視界に飛び込んでくる。
「どうしてこんな?」
「ちょっとした喧嘩だよ」
咎めるような口調にダンテはこともなげに軽い様子で答えた。
「喧嘩だと?」
「ああ。狭苦しい所に大勢の男が閉じ込められてるんだぜ? 喧嘩の一つでもして発散しないとやってられないだろう?」
ダンテは外されてしまったボタンを一つ一つ止めながらふざけるように肩を竦めて見せる。
「まったく何をやっているんだ、お前は?」
信じられないとばかりに呆れた溜息をつきながらボタンを止める様子を見ていたバージルは、既に息苦しいキスのことなど忘れてしまったかのように説教を始めていた。
「子どもじゃあるまいし、何のために学校に行っていると思ってる」
「分かってるって。でもこっちだっていろいろと事情があるんだよ」
少し膨れたダンテが言い返してくる。
けれどそれはバージルにしてみればいつもの子どもじみた言い訳にしか聞こえなかった。
「そんなあちこちに痣を作るような喧嘩にどんな事情があるっていうんだ?」
当然あれこれと躍起になってその事情とやらを説明してくるだろうと思っていたのだが、意外にもダンテは俯いて黙ったまま小さな舌打ちをして立ち上がった。
「泳いでくる。暑くてたまんねえ」
そう言って足音も荒く階段の方へと向かうダンテの背中をバージルは再度の溜息で見送る。
そうしてノートのチェックを始めてしばらく経った頃、窓の外から微かな水の音が聞こえてきた。
 ―― ああ、そうか
そこでバージルはさっきダンテが泳ぎたくないと言った理由を悟った。
きっと身体の痣を見られるのが嫌だったのだろう。
それにしても、あれほどの痣をつけられる喧嘩となれば相当激しいものに違いない。
それを考えると一体学校でのダンテはどうなっているのかと、自分の目で確かめることのできない不安ともどかしさが次第に募っていく。
その苛々を払拭するようにノートに集中しようとしたバージルだったがどうにも窓の外が気になってそれもなかなかできそうになかった。
やがて日も暮れてきて、そろそろ戻ろうと塔を出てみればそこに繋がれていたはずのダンテの馬は消えていた。
いつの間にか先に屋敷へと戻ったのだろう。
別にダンテが何をしようと自分に断りを入れる必要がないのは分かっているが、今はそんなことが非常に腹立たしく、そしてどうしようもないほどに虚しかった。

 

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2009/07/15


 

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