新生活
 

秋になってダンテが入学のため屋敷を出た数日後、風変わりな少年が主人に伴なわれ執事の前にやってきた。
少し古びてはいるが、着ているシャツやズボンの仕立てがいいことは一目で分かる。
しかし執事に判断できたのは衣服の良し悪しまでだった。
顔を見ようにもそれは左側を中心に大きめの眼帯で覆われており、目はもちろん左頬のあたりまでがすっぽりと隠されてしまっているのだ。
けれど陽射しを反射する銀色の髪と右側の青い瞳を見れば、長年この屋敷に仕えてきた執事には少年が一族の者と遠からぬ身の上だということは容易に想像できた。
それを裏付けるようにダンテは『多少なりとも縁のある子』という言い方をして、少年の名をバージルと告げた。
一族の者ならなぜ働かせるようなことをするのか理解できなかったが、それは使用人が考えるようなことではない。
もしも知っている必要があればダンテが話しているはずだった。
それを察して当の本人に対しても何の詮索もせず、執事は実際に下級男性使用人のまとめ役である御者を呼びダンテと同じことを説明してその少年を託すことにした。

最初こそ奇異の目で見られていたバージルだったが、周囲に溶け込むのはそれほど難しいことではなかった。
というより、周囲がバージルに気を使っていたと言った方が正しかった。
主人であるダンテの『多少なりとも縁のある子』という言葉が下層の使用人にまで行き渡り、下手にいじめたり怒鳴りつけたりしたら自分の方が解雇されてしまうという噂が広まっていたのだ。
そんな中、次第にバージルに興味を示していったのは働く場所が重なっている台所付きの女中たちだった。
階下で働いているにしては礼儀正しいし博学で、ちょっとした動作のあちこちに使用人とは思えないほどのゆったりとした特別な雰囲気を感じさせる。
これはきっと事情があって世間から身を隠している高貴な少年かもしれないと、おしゃべり好きの彼女たちにとっては格好の噂の材料になっていた。
けれどこういう場で大多数を占める下級女中を味方につけるのは、バージルにとっては多少迷惑だったとしても働いていく上では重要なことだった。
そんな様子は御者から執事、執事からダンテへと伝わっていた。
主人と下級使用人ともなればまともに顔を合わせることなどまずはない。
辛くはないだろうか、怪我などしていないだろうかと、本当は今すぐにでもバージルのところへ行って抱きしめてやりたいのを懸命に堪えながら、ダンテは執事の報告に毎晩耳を傾けていた。

 

 

あと数日で新年を迎えるという冬の午後。
裏庭から台所の別室へと野菜の入った袋を運び込んだバージルは屋敷内に慌ただしい雰囲気が漂っていることに気がついた。
所定の位置に袋を置いて部屋から顔を出してみると数人の女中が目の前を急ぎ足で通り過ぎる。
きっとエントランスの前にはすでに執事や女中頭、従者といった上級使用人たちが3か月ぶりの「ダンテ様」の帰りを直立不動で待っているに違いない。
しかしそんな喧騒とはほとんど無縁の立場にいるバージルは久しぶりに帰ってくるダンテのことが気になるものの、後に残った仕事を片付けるために再び裏庭へと出て行った。

それからほどなくして御者がバージルのもとにやってきて「西の湖にあるボートハウスは知っているか?」と聞いてきた。
知っているも何も、その湖の近くにはバージルがずっと過ごしてきた物見の塔がある。
朝陽を受けて光る湖面や夕陽色に染まる細波、ボートハウスに毎月管理人がやってきて30分ほどで帰っていくことも知っていた。
「知っています」
「だったら今すぐ行ってハウスの様子を見てきてくれ」
「俺が、ですか?」
ボートハウスのことなら専任の管理人がいるのにと不思議に思いながらも言われたことには従うしかなかった。
ほらほらと急きたてられながらも「様子を見るといっても一体何を?」と腑に落ちない。
「ダンテ様がボートにお乗りになりたいそうだ。定期的に手入れはしているがまずはしっかりとハウスの掃除をしてこい。塵ひとつ残すなよ、最優先の仕事だ」
「……はい」
ボートの整備ならまだしもハウス内の掃除は雑役の仕事ということなのだろう。
最優先と言われてしまえば仕方がないと作業の手を途中で止めたバージルは馬を出すため厩舎へと向かった。

しばらく馬を走らせると左手に塔が、その少し離れた右手に湖が見えてくる。
塔の下で一旦馬を止めたバージルはそこから真上に見える窓をじっと眺めた。
既に懐かしささえ覚えているそこにもう一度足を向けたいと思ったが、自分はもう新しい生活に踏み出しているのだと言い聞かせそのまま馬をハウスに向けた。
しかし湖に来れば来てみたで夏の暑い日、ダンテと一緒になって泳いだことが脳裏を掠める。
そうして「ああ、そうか」と、バージルは初めて思い出というものを理解したような気がした。
御者から借りた鍵でハウスの扉を開けてみれば思いのほか中は綺麗に整えられていたものの、淀んでいた空気の黴臭さが多少こもっている。
いくつかある窓を全て開け、さてどこからどうしたものかと考え始めたときだった。
馬の駆ける音が近づいてくる。
管理人がやってきたのだろうかと窓から外を覗いたバージルは一瞬息を呑んだ。
「ダンテ……」
三か月ぶりに見る弟を見つめているうちにもダンテはハウスの側までやってきてひらりと馬から飛び降りる。
「バージル!」
勢いよくハウスに走り込んできたダンテは一瞬バージルの眼帯姿を見て躊躇うように足を止めたものの、すぐに満面の笑みを浮かべて抱きついてきた。
「会いたかった!」
「ダンテ、ちょっと……」
二、三歩後ろによろけながらダンテを受け止めたバージルも自然とその背中に腕を回して抱きしめ返す。
ひとしきりぎゅうぎゅうと頬を押しつけてから、やっと腕を離したダンテは半分ほど眼帯に隠されてしまっている顔をじっと覗きこんで眉を顰めた。
そうしてバージルの頭に手を伸ばすとその後ろの結び目をそっと引いて眼帯を外そうとする。
「あ、こら」
「駄目だよ、今はこんなのいらない」
抗おうとした手を逆に抑え込まれているうちに眼帯は取り除かれダンテと同じ、しかし少し困惑気味の表情が現われた。
「ただいま、バージル」
外した眼帯を腕絡ませたまま、真正面から両頬を押さえてそう言ったダンテはもう一度にこりとして抱きついてくる。
「ああ、お帰り。ダンテ」
考えてみればたった三か月のことなのに、なぜかそれが長かったように思えるのがバージルには不思議だった。
生活が一変した中で、当然主人であるダンテの庇護があることも感じてはいたがそれでも自分は案外上手くやっていると思っていた。
けれどこうして本当の自分を知っている者を目の前にしたときの安堵感に身を浸してみると、これまでの日々がどれほど緊張していたものだったかが分かってしまう。
「バージル!?」
なぜか一気に足の力が抜けてしまったバージルはダンテに縋りつくようになりがらふらりとその場に膝をついていた。
「大丈夫? どうしたの!?」
「ああ、……大丈夫だ」
不安そうな声音を遠くに聞きながら、大丈夫と言いつつも立つことのできないバージルはぎゅっとダンテの腕を掴みながらその胸に顔を埋めて荒い息を繰り返していた。

 

ずきりとする頭痛を感じて薄らと目を開けると見慣れた石造りの天井がぼんやりとしていた。
視界の端にはこれも毎日見上げてきた窓がある。
半ば混乱状態にある思考の中でも、ここが長年過ごしてきた塔の部屋だということはすぐに分かった。
「バージル?」
声の方に視線を向けるとダンテが眉根を寄せてじっと見つめてくる。
「ダ……テ?」
普通に喋ったつもりだったのに喉がからからに乾いているせいでまともに声を出せなかった。
「大丈夫? 水飲む?」
「ああ」
水と聞いてバージルは身体を起こそうとする。
と、間を置かずに背中に手が当てられ起き上がるのを助けてくれた。
その手は離れることなく背中に添えられていて、なのに目の前のダンテは小さな両手に水差しとグラスを持っている。
慌てて背後に目を向ければ、ほんの枕元、バージルの視界の外にいたのはこれも心配そうにじっと見つめてくるダンテだった。
執事に引き渡されて以来、同じ屋敷内にいるというのに全く顔を合わせることのできなかったダンテ。
なかなか会えなくなるとは聞いていたが、まさか本当にここまで会えなくなるとは思っていなかった。
そのダンテが目の前にいる。
ふいに胸が痛み目の奥が熱くなった。
放っておけば涙が流れそうな気がして、バージルは慌てて差し出されたグラスを手に取って一気にそれを煽った。
「大丈夫か?」
背中に添えられた手は優しく宥めるように上下している。
その温かさを感じながら小さく頷いたバージルは、やっと自分の置かれた状況を理解したのだがなぜこんなことになっているのか思いだすことができずにいた。
「俺、なんで?」
「ボートハウスでいきなり倒れたんだよ」
空になったグラスを受け取りながらダンテが答えた。
「呼んでも返事しないしすごい汗かいてたから、とりあえずここに運んでダンテを連れてきたんだ」
「お前が一人でここまで?」
「うん、でもバージルもけっこう自分で歩いてたよ。覚えてないの?」
「ああ……すまなかった」
「いいよ、そんなこと。それよりダンテ?」
もう一度グラスに水を注ぎながらダンテを見やる。
「先生に診てもらわなくて平気なの?」
「ああ」
背後から伸びた手がバージルの額にぴたりと当てられた。
「熱はないし汗も引いている、大丈夫だろう。少し休んでから戻るといい」
「あ……」
ダンテの言葉にバージルは弾かれたように顔を上げて振り返る。
「でも戻らないと……、あっちの仕事も途中だし」
「気にするな、適当に言っておくから。今日はもう休め」
「そうだよ、バージル。水、もっと飲む?」
「いや」
グラスを軽く断ったバージルは俯いてじっと自分の手を見つめた。
こんなことになった理由は分かっていた。
ダンテの顔を見た途端にずっと続いていた緊張が解けてしまったのだ。
お帰りと言った瞬間、全身から力が抜けていくのを感じていたし屋敷の生活から逃れて一人になりたいとどれほど願っていたかを思い知った。
これまでどれほどダンテに守られてきたのかを身を以て知り、さらにそんなことにさえ全く気付かずに十数年を安穏と暮らしていた自分が恥ずかしくさえ思えてくる。
情けない。
心の中でそう呟いて、バージルはきゅっと唇を噛みしめた。
「ダンテ、今夜はここで一緒にいてやれ」
そう言ってバージルの額から手を離したダンテはベッドから腰を上げて二人を見下ろした。
「いいの?」
ぱっと嬉しそうな顔をするダンテに「ああ」と頷いてやる。
「後で食事を持ってくる。ただし、あまりバージルを疲れさせるなよ」
「分かってる!」
「バージル」
そうしてふいにダンテは身を屈めたかと思うとバージルの額にかかる髪をかき上げそこに唇を落とした。
「……っ」
一瞬、バージルはびくりと肩を震わせ首を竦める。
「ゆっくりと休め」
唇を僅かに離してそれだけ言うとダンテは下へと降りる階段に向かって行ってしまった。
額にかかった暖かい吐息が薄れていくのを感じながらバージルは少し驚いたようにその後ろ姿を見送り、側に座っていたダンテも少なからずその行為に目を丸くして階段の方を見つめていた。

 

「仕事、辛くない?」
12歳の少年二人が一緒に寝るには狭いベッドで、それでも嬉しそうに身体をくっつけてくるダンテはバージルの手を取ってそう言った。
月が半分にも満たない夜は明りがなければほとんど何も見えない。
それでも手にしたバージルの手からは所々に小さな傷があるのを感じ取ることができた。
「平気だ、みんな親切にしてくれるし」
もちろんそれは主であるダンテの庇護があることを周囲が知っているからだ。
情けないとは思いつつ、今の自分にはそれが現実なのだと言い聞かせる。
「お前こそ、学校はどうなんだ?」
「んー、ラグビーとかは楽しいけど、授業は退屈」
平然と言ってのけるダンテに「やっぱり」と溜息をつく。
「だって本当に退屈なんだもん。……あ、そうだ!」
いきなり何を思ったか、ダンテはがばりと起き上がると「いいこと思いついたよ」と言いだした。
暗いせいでその表情は見えないが、こういうことを言うときのダンテの顔は容易に想像することができる。
「俺が帰ってきてる間はバージルが俺の家庭教師になればいいんだ!」
「はあ?」
うん、いい考え! と一人で納得しているダンテに呆れた声を返す。
確かに学校に行くようになったダンテにはこれまでのような専属の家庭教師はついていない。
だからといって雑役の使用人に家庭教師をさせる家などどこにあるのか。
鉄壁ともいえる身分制度がどういうものか、三か月の短い期間といえども十分に分かっていたバージルにはそれはただの戯言としか思えなかった。
「何を馬鹿なことを言ってるんだ」
「え、なんで?」
「使用人を家庭教師にする貴族がどこにいる」
「なんでだよ、だってこの家の中じゃきっとバージルが一番頭いいよ?」
「そういう問題じゃないんだ」
「じゃ、どういう問題だよ?」
あまりにお約束の子どもっぽい切り返しに思わず溜息が出てしまう。
「俺は使用人として働いているんだぞ? 本当ならダンテとだってこんなふうに話なんかできないはずなんだ」
「バージルは使用人じゃないよ、俺の兄さんだろ!?」
「そうだけど、でも……」
「双子の話は分かってるよ。でも変だと思わないの?」
半身を起してじっと見つめてくるダンテの目が薄らと弱い月の光を反射していた。
暗い中に浮かぶその光に、バージルは思わず手を伸ばしそうになって指先が僅かに震える。
仰向けに寝転がったままその光を受け止め、素直で明るいダンテを心の底から羨ましいと思い、またほんの少しだけ妬んでいることに気がついた。
双子のことに関しては確かにおかしいのは分かっている。
けれど長い間、因習として続いてきたものをどうやって無視しろというのか。
泣く泣く子どもを手放した親だっているだろうに、それを知りながら領主という地位の者があえて禁忌に触れたらどうなるかなどこれまでいくらでも本の中で読んできた。
「お前には自覚がなさすぎる」
思わず出た言葉だった。
それをどう受け取ったかは分からないが、ダンテはじっと無言のまま動かなかった。
ただ薄く光る瞳だけがバージルを見下ろしてくる。
「俺が領主になったら変えてやるよ」
やがてダンテがぽつりと呟いた。
「絶対にこんなのおかしいんだ」
さっきまでとはうって変わった低い声に少なからずバージルは驚いた。
ダンテが学校に上がる前、一緒に過ごした時間は短かったものの、その笑う声もはしゃぐ声もすぐに思いだせるほどに耳の奥に焼き付いている。
けれどこんな低くて感情を抑えたような声は記憶の中にはない。
「ダンテ……」
何かを問いたい衝動が名前を呼ばせたが、何を言えばいいのか分からないまま言葉は途切れた。
思っていたよりもこの弟は子どもではないのかもしれない。
と、ふいに薄い瞳の光が近づいてきて額に柔らかい感触が押し当てられた。
突然のことに驚いているともう一度それが繰り返される。
「なんだよ」
戸惑い気味の声は少しだけ上ずってしまった。
「何って、キス」
「だからなんでそんなこと……」
「だって、ダンテもさっきしてたじゃないか」
「ダンテは大人だろ」
「そういうもの?」
聞かれてもどう答えていいか分からず黙り込んでしまう。
「ダンテはいつもバージルにあんなふうにキスするの?」
「しないよ」
抱きしめてはくれるがキスなどされたのは初めてだった。
そもそもあのキスの意味がよく分からない。
お休みのキスのつもりだったのだろうか。
「バージルはキスされるの嫌い?」
「好きとか嫌いとかそういうことじゃ……」
「嫌い?」
間近にじっと覗きこんでくる瞳があまりに真剣で、バージルは思わず本音を言ってしまう。
「嫌い、じゃない」
途端ににこりとしたダンテはもう一度顔を近づけて額に唇を落としてきた。
「俺は大好き!」
喜怒哀楽にくるくると変わる表情はどうしたって憎めるものではないと思った。
それは自分たちが双子だからなのか、それともそんなことは全く関係ないことなのか。
自分と同じ顔があまりに嬉しそうに笑っているのを見ると、なぜかつられて同じように笑いたくなってしまう。
「バージルは俺の兄さんだからね」
そう言ってもう一度額にキスを落としてきた弟は、今度は思いきりふざけたようにバージルの身体に覆いかぶさりぎゅっと抱きしめてくる。
ダンテが屋敷を出る前の夜、同じようなことをした弟に重いと文句を言ったことを思い出す。
けれど今夜はそんな言葉が口から出ることはなく、バージルはただそっとその背中に自分の手を乗せた。

このダンテは一体どんな領主になるのだろう。
少なくともダンテより先に多少なりとも現実の世界を知ってしまったバージルの胸に不安が過る。
使用人たちの噂話を聞く限り、一見優雅に見える貴族の世界は実は生き馬の目を抜くような熾烈な権力争いに溢れていたりするらしい。
自分の地位を高めるため、意地の悪い足の引っ張り合いをするような話もよく耳にする。
そんな世界で生きていくダンテに、いつまでこの無邪気な笑顔や言葉が宿っていることだろう。
守ってやりたいと、ふいにそんな思いが頭に浮かんでバージルは少し驚いた。
今の自分に何ができるかといえば何もできないわけで、けれど胸の奥から溢れてくる想いにはその言葉がやけにしっくりとくるのだ。
しかもいずれは屋敷を出てダンテと離れなければならないのだと思うと不安で不安で仕方がなくなってくる。
ダンテが今のダンテのままでいられるように、できることなら側にいてやりたい。
もちろん自分にそこまでの価値を見出してくれるかどうかはダンテ次第なのだが。
また心臓の音でも聞いているのか、自分の胸にぺたりと耳をつけているダンテの頬を両手で挟んで顔を上げさせる。
そうしてバージルは少しだけ首を持ち上げその額に唇を押しあてた。
驚いたように二、三度瞬きをしたダンテだったが、すぐに満面の笑みがその表情を彩る。

 ―― キスは嫌いじゃない。

初めての自分からのキスにそう思いながら、バージルもその唇に僅かな笑みを乗せていた。

 

→ 7

2009/06/21


 

無理やりな展開ですが、書いてる本人は楽しいので……

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