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出逢い
スパーダの望みにより、双子に真実を話すのは彼らが家督を継げる年齢である18歳になってからのはずだった。
けれど弟の予想外の行動によりそれは予定されていたよりもずっと早く実現してしまうことになる。
11歳になっていたダンテは午後の勉強から解放された途端、もうすぐお茶の時間だという乳母の言葉を無視して厩に向かっていた。
息を切らせて走り込めば藁や動物独特の湿った臭いに包まれる。
正直なところその匂いは苦手だったが、誕生日のプレゼントとして贈られた仔馬に会うためならなんてことはなかった。
乗馬の練習もきっちりこなし全力で駆けさせることはまだできなかったものの、軽い並足程度でなら乗ることができる。
馬を出す時は必ず馬丁を呼ぶように言われてはいたが、どうしても一人で遠出をしてみたかったダンテは周りに誰もいないのを確認してそっと仔馬を連れ出した。
鞍をつけ鞭だけを手に、仔馬といっても自分より高い背中に乗るには少し苦労したが、それでもなんとかよじ登るようにして馬に跨ったダンテは軽くその腹を蹴ってゆっくりと愛馬を進ませていった。
何度か後見人であるダンテと一緒に走ったことはあるものの、それは屋敷がすぐそこに見えるくらいの場所をうろうろしたに過ぎない。
せっかく馬に乗れるようになったのだから、ダンテはもっと遠くまで行ってみたいとずっと思っていたのだ。
頬や髪を撫でる風に気持ちを高揚させながら、いくつかの起伏を超えて振り返ってみれば既に屋敷は見えなくなっている。
この辺りの敷地はダンテにとって全く未知の場所だ。
見渡せばひたすら雑草に覆われたなだらかな丘と森だけの景色にも関わらず、行った事がないというだけでわくわくする気持ちが湧き上がってくる。
「行くぞ」
一旦馬を止めその景色を眺めてから、ダンテは馬の首に頬を近づけてそう言った。
その頃。
ベッドの上に座り込み本を読んでいたバージルはいつしかうとうとと眠りこんでいた。
午後の暖かい空気と木々の静かなざわめきが子守唄のように室内に満ちている。
ふと誰かに呼ばれたような気がしてバージルは薄らと瞼を上げた。
見慣れた銀色の髪が視界に入ってきて、途端に心に広がる安心感がバージルのまだ寝ぼけている顔に笑みを誘う。
「ダンテ?」
目を擦りながら身体を起こしてダンテを見上げるつもりだったが、次第にはっきりとしてくる視界に映った光景がバージルの動きを止めてしまった。
確かに銀色の髪はしているが、目の前にいるのは子どもだった。
不思議そうな顔をしてじっと自分を見つめてくる瞳は、やはりダンテと同じ透き通るような薄い青だ。
「お前、誰?」
視線を逸らすことなく小さな唇がそう問いかけてきた。
しかしバージルはあまりに突然のことに動くことさえできず半ばパニックに陥っていた。
脳裏に過るのはダンテとの約束だ。
―― 顔を見せてはいけない
けれどこれほど間近にいてはもう遅い。
全身を痺れるような寒気が駆け抜け、次の瞬間バージルは毛布を被ってベッドに伏せってしまった。
恐怖しかなかった。
目の前の子どもに対するものではなく、もうこれでダンテと一緒にいられなくなるという恐怖。
どうしていいか分からず身体が震えてしまい、ダンテ、ダンテと心の中で何度もその名前を繰り返した。
「どうしたんだよ?」
背後から聞こえてくる声さえ本来ならここでは聞くはずのないものだ。
このあってはならない状況で必死にダンテを求めるバージルはいつしかそれを声に出していた。
「ダンテ……ダンテ……」
「なに? 大丈夫か、お前?」
「ダンテ……」
「なあ、どこか痛いのか? 先生、呼んでこようか?」
ダンテの言葉など耳に入らないバージルはただじっと蹲りながら彼にとってのダンテを呼んでいた。
もう会えなくなる、そのことが嵐のように頭の中を巡っている。
と、背中に何かが触れゆっくりと動きだした。
それは躊躇いがちながらも何度も何度も背中を摩ることを繰り返していく。
それでもバージルはどうしていいか分からずただひたすら毛布の下で小さく丸まっていることしかできなかった。
そうしてしばらくの時間が過ぎて、時折大丈夫かと言葉を交えながら背中を摩っている子どもの手にどこかダンテに似た優しさが籠っていることにバージルは気づき始めた。
ぐちゃぐちゃになっていた気持ちも少し落ち着き、いつまでもこうしていたところでどうにもならないと判断したバージルはそっと毛布をよけて小さな手の主に目を向けた。
心配げに眉根を寄せていた顔が、視線が合ったことでほっとしたのか一気に緩み笑顔を向けてくる。
「もう平気か?」
首を傾げながらぐいと近づき顔を覗き込んでくる相手に少し気おされて背後の壁に擦りよったが、なんとか「平気」と小さく呟いてバージルは一つ深呼吸をした。
ダンテ以外の人間と話していることが信じ難く、心臓はどきどきと鳴り顔が熱くなってくる。
「お前の名前は?」
「……バージル」
「バージル」
その名前を幾度か口の中で繰り返して、
「俺はダンテ、よろしく」
と右手を差し出してきた。
「あ……よろしく」
逃げ腰で差し出した手をぎゅっと握られ数回振られる。
ダンテからマナーとして挨拶の仕方は教わっていたものの、実際にこうしてみると奇妙な感じがした。
「さっきダンテって呼んでたけど、あれって俺のこと? お前、俺のこと知ってるの? 使用人の誰かの子?」
手を離した途端、立て続けに質問が出てきた。
大きく丸い瞳がくるくると動いては楽しそうな色を浮かべてじっとバージルを見つめてくる。
「ダンテは……違う」
「ああ、あっちのダンテか」
少しがっかりしたのか肩の力を抜いて、なーんだと呟いた。
「俺の後見人なんだって。けっこううるさいこと言うけどいい人だよ、親代わりみたいなもんだし。あの人、ここではご主人様って呼ばれてるからダンテっていうと俺のことなんだ」
そう言いながらバージルの隣に並び背後の壁に背を預けてにこりとする。
けれどバージルはどうしてダンテがそんなに嬉しそうな顔をしているのか全く理解できなかった。
「なあ、ここで暮らしてるの?」
ああ、と返事をしながらバージルは早くこの子どもがどこかに行ってくれないかと思っていた。
狭い窓から外を見上げれば既に陽が傾き始めている。
そろそろダンテが来る頃だ。
が、薄らと茜色に染まり始めた雲を見ているうちにもうダンテは来ないのではないかという不安に捉われ始める。
再びその恐怖が足先から登ってくるような気がしてぞくりと身体を震わせ、思わず立てた膝の間に顔を埋めた。
「おい?」
そんな様子のバージルにダンテがまた顔を寄せてくる。
「ダ……テ……」
「え?」
初めて経験する酷い胸の痛みだった。
痛すぎて上手く息ができない。
身体の奥の震えを止めることもできない。
そのままバージルは膝を抱え、溢れかえる痛いものにじっと耐えているしかなかった。
辺りが薄暗くなり始めた頃、いつもより少し遅れてダンテは塔にやってきた。
屋敷では午後の勉強が終わって以降ダンテの姿が見えないとちょっとした騒ぎになっていた。
しかし慌てる乳母や女中頭をなだめながらも詳しい話を聞いているところに、ひょっこりと行方不明の本人が現れるという結末でなんとか騒ぎは治まった。
とりあえず見つかったのだから心配はないだろうと説教は後にして先にバージルの様子を見にきたダンテだったが、塔の下、いつも馬を繋いでいるあたりに見慣れない馬蹄の跡を見つけて唖然としてしまった。
小さな蹄は仔馬のものだ。
この屋敷で仔馬に乗る者などダンテしかいない。
まさか一人でここまで来たのだろうかと過る考えを否定しかけたが、今の好奇心旺盛なダンテならやりかねないことだと思いなおす。
もしかしてと不安を抱えて階段に足をかければ、そこには湿気を帯びた黒い土が点々と落ちていた。
よりにもよってダンテがここに来てしまったのかと、大きな溜息をつくと同時にバージルのことが心配になって階段を登る足を急がせた。
「バージル?」
暗い室内でベッドの上の丸みを帯びた毛布にそっと声をかける。
返事はないが眠っているわけではなさそうだ。
ベッドに腰かけてもう一度名前を呼び毛布の下で丸まっているであろうバージルに手を乗せてみる。
途端に毛布をはねのけたバージルがダンテにぎゅっとしがみついてきた。
「ダ……テ」
ひくひくとしゃくり上げながらしっかりと両腕を巻きつけてくる様子にダンテは抱きしめ返すよりも先に驚いていた。
バージルが泣いている。
それはダンテも初めて見る姿だった。
腕の中で苦しそうに泣くバージルの背をあやすように軽く叩きながら、きっと混乱しているであろうその心中を察しつつもダンテはそこに僅かな光明を見出す。
一人きりで過ごしてきたせいか感情表現のできない子どもだった。
そもそも感情というものをどの程度持っていたのかも分からない。
けれど長い時間の中でほんの僅かな笑みを見せるようになり、そうして今度は感情を伴う涙を流している。
引き金となったのがダンテなのは間違いない。
初めて会った二人はいったいどんな会話をしたのだろう。
ひどく気になることではあったが今はそれを聞くべきではないと思った。
「大丈夫か?」
背中をぽんぽんと叩きながら聞いてみるがバージルは震えているばかりで何も答えない。
仕方なくそのまましばらく泣かせておくと陽も完全に落ちて室内は差し込む僅かな月明かりで窓際が照らされるだけになっていた。
やがて気持ちが収まってきたのか、バージルはゆっくりとダンテの胸から顔を上げる。
瞳や眼尻に残る涙が月明かりを受けて僅かに光っていた。
「大丈夫か?」
それを指先で拭ってやりながらもう一度聞くと今度は小さく頷いてダンテの胸から離れていく。
そうしていつも本を読むときのように窓際の壁に背を預けて俯いてしまった。 その頭を軽く撫で、試しに「どうかしたのか」と聞いてみる。
「なんでもない」
やっと聞き取れるほどの小さな声だったが、それはバージルが生まれて初めてついた嘘だった。
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2009/05/25
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