この五年間、僕は毎日のように手塚君のことを思い出していた。
あんなふうに逃げ出したくせに、会いたくて、会いたくて、会いたくてたまらなかった。
会えばまた同じ棘に身を晒すことになるのは分かりきっているのに。
会社が部屋を借り受けているアパートへ行くには手塚君の部屋の前を通るのが一番近い。
電車に乗っている間、僕は素直にその道を通っていくか回り道をして彼の部屋を避けていくか考えていた。
それは手塚君との関係を自分の中に残すのか、完全に断ち切ってしまうかというほどの重大な選択に思えるのだった。
結局、改札を出るまで迷った挙句、僕は手塚君の部屋の前を通る道を選んだ。
今くらいの時間なら彼は仕事に出ているはずだから偶然にも部屋の前で会うことはないだろうし、何より、やはり少しでも手塚君の側に行きたいという気持ちを抑えることはできなかった。
かつて通いなれた道を辿ることに落ち着かない気持ちを感じる。
それはもちろん手塚君の存在があるからで、こうして再び戻ってきてみると、自分の気持ちは相変わらずどころか以前にも増して手塚君のことを求めているのだと思い知らされた。
ざわつく胸を抱えたまま手塚君の部屋の前を通り、何事もなくこれから自分の部屋になる場所に着く。
もの足りない寂しさを感じるのは、もしかしたら途中で手塚君に会えるかもしれないという期待を持っていたからだ。
まだ家具も入っていない部屋を簡単に掃除して、壁に寄りかかりながら途中のコンビニで買ってきた弁当をつつく。
手塚君がまだ家族と暮らしていた頃、僕がこんなふうにコンビニ弁当を買っているのを見ると口にはしないものの僅かに眉を顰めて咎めるような表情を見せていた。
それが実際に一人暮らしを始めてみると「コンビニやスーパーの惣菜もけっこう便利ですね」と笑っていた。
それでも二人の時間が合うと一緒に食材を買って並んで台所に立つこともしょっちゅうで……。
気がつけば手塚君と過ごした日々のことを考えていた。
ペットボトルのお茶を喉に流し込んで溜息をつく。
窓から見える空は茜色に染まりつつあった。 ―― 手塚君は今頃、なにをしているんだろう……。 弁当をつつく手を止めて、やはり僕は手塚君のことを考えていた。 毎朝同じ時間に部屋を出て、少し遠回りになるけれど手塚君の部屋の前を避けて駅まで行く。そして毎日同じ時間の同じホームの場所から電車に乗って会社に向かって……。
変える時間はまちまちだったけれど辿る道は同じで、たまに二四時間営業のスーパーに寄ったりして部屋に戻る。
近所で同じ駅を使っている以上、いつか手塚君と会うこともあるかもしれない。
駅だけじゃない。スーパーだってコンビニだって、きっと同じ店を利用しているはずだ。
そんな場所へ行くと、僕の目は自然とその姿を探していた。
僕が手塚君と再会したのは、ここに引っ越してきてから一ヶ月を過ぎた頃だった。 「大和、さん?」
改札を抜けたと同時に背後から聞こえた声に、文字通り心臓が跳ねたような気がした。
「やっぱり……」
振り向いたときに見た手塚君の表情はどこか困惑しているようで、でもきっと僕も同じような顔をしていたに違いない。
五年ぶりに会った彼はそれほど顔立ちが変わっているということもなかったのだろうけど、ただ僕にとっては手塚君を思い出す上で切り離せないものがそこからなくなっていた。
彼は眼鏡をかけていなかった。
「……お久しぶりです」
手塚君が軽く頭を下げたのにつられて僕も同じようにして「やあ」などと言ってみたのだが、その次になんと言えばいいのか分からずに口ごもってしまった。
「あの……、ここへは、仕事で?」
「いや、転勤でね」
「転勤? じゃあ、またこっちに?」
驚いたように少し目を見開いてから、手塚君の顔に笑みが広がった。それは僕がこの五年間、見たくて見たくて仕方のないものだった。
それから僕たちは一緒に歩き始めた。
「いつ、こっちに?」
「えっと、一ヶ月くらい前……ですか」
「一ヶ月?」
途端に眉を顰めて責めるような視線を向けられた。
「いろいろとバタバタしていて、あはは……」
自分でも情けないほどの誤魔化し方に、手塚君はくすりと小さく笑った。
それはまるで「仕方ないなあ」と僕の内心を見通して許してくれているかのように甘く優しげな笑みだった。
そういえば、一緒にいたときでもこんなふうに二人で並んで帰ることは少なかったように思う。
それでも僕の心は既にあの頃に戻っていたらしく、手塚君の部屋の前まで来たときにはそのまま彼の後について建物の中に入ろうとしていた。
無意識にそうしたことに気づいて立ち止まると、その気配を感じたのか手塚君が振り向いて言った。
「お茶くらい、飲んでいきますよね? どうせなら一緒に夕食、どうですか?」
「…………」
手塚君と会えたことはとっても嬉しくて、こうして部屋に誘ってくれるのも本当に嬉しい。
けれど僕の中には五年前に味わった苦い気持ちがまだ残っていた。
このまま部屋に入ったら、あの頃と同じことの繰り返しになってしまうのは間違いない。
なんでもなさそうに僕を部屋に入れてくれようとする手塚君はそんなことを少しも考えていないのだろうか。
それとも……。
彼の中で、僕の存在はそれほどの価値を持ってはいなくなったのだろうか。
「あの、忙しいようでしたら無理は言いませんけど?」
「あ、いえ」
僕は慌てて手塚君の言葉を否定した。
「それじゃ、お邪魔します」
結局、僕が手塚君の誘いを断れるはずもなかった。

手塚君が食事の用意をしている間、僕はソファに座ってぼんやりと部屋の中を眺めていた。
この場にいることに緊張する反面、心と身体のどこかがこの部屋の居心地の良さを覚えているらしい。
懐かしいというには昔すぎず、この前をいうほど最近でもない。
五年間というのは妙に中途半端な月日のような気がした。
「大和さん、これ持っていってもらえますか?」
台所から声をかけられ腰を上げる。
ふいにあの頃に戻ったように感じて少しだけ胸が締め付けられた。
これがあの頃の日常だったせいかもしれない。
食事の間、僕達はお互いに今までのことを話した。
僕は仕事のことを、手塚君はテニスのことを。
穏やかに、時に嬉しそうに話をする手塚君を見る僕の表情はどんなものだったのだろう。
―― テニスの話をするの、そんなに嫌ですか?
また彼をそんな気持ちにさせているのかと不自然に思われない程度に目の前の表情を見ていたけれど、手塚君は終始穏やかな笑みを浮かべているだけで、その心を覗くことはできなかった。
食事が終わると僕は食器を手に立ち上がった。それを流しに置いた瞬間、思わず苦笑が出る。
これも、あの頃の僕達の日常だった。

手塚君の部屋から僕の部屋までは凡そ十分ほどの距離だ。 今夜歩いた十分は、今までにないほど長いものに思えた。
一歩進むごとに振り返って手塚君の部屋に走って行きたくなる。
一緒にいるときはそれほど感じなかった激しい感情が胸の中で渦巻いているように感じた。
何度も溜息をつきながら、まるで以前と同じように振舞っていた手塚君の表情を思い出す。
四年ほど前からコンタクトにしていると言っていたが、そんな手塚君は僕の中のある記憶を刺激してしまう。
僕の前で彼が眼鏡を外しているとき、大抵僕たちは肌を重ね合っていたのだから。
今までそれを数えきれないくらい思い出しては身体の奥に生まれてくる疼きに身を任せてきた。そんな彼を目の前にして、よく自分自身を抑えられたものだと思う。
しかし不思議なのは、実際に会っていたさっきよりも今、心の奥で思い出す彼の方が生々しく感じるということだ。
会いたいのに会えなかった時間が長すぎて実感が持てなかった、といったところだろうか。
僕はとうとう立ち止まって振り返り、もときた道を引き返し始めた。
最初は迷いながら歩いていたのだが、いつしか僕は走り出していた。
手塚君に会いたくて会いたくて仕方がなかったから。

もう一度手塚君の部屋の前に戻ってきて、息を整える間もなくチャイムを押した。
しかし何度押してもドアが開く気配はない。部屋の明かりはついたままだから、もしかしてシャワーを使っているのかもしれないと思った。
そういえば、彼はいつも帰ってくるとシャワーを浴びていた。
僕はしばらく待ってからチャイムを押したがそれでも返事はない。
今度はもう少し長く待ってチャイムを押す。
ドアの向こうの音が僅かに聞こえてきて、「はい」という声がした。
「手塚く……」
僕の言葉の途中でドアが開けられて、驚いた顔をした手塚君が姿を見せた。
きっとタオルでごしごしと髪を拭いたばかりなのだろう。無造作に跳ねている髪がひどく愛しく思えて、僕は彼を抱きしめた。
湯上りの暖かい身体をぎゅっと抱いていると仄かな石鹸やシャンプーの香りが漂ってきて、覚えのある香りは心といわず身体といわず、僕の全てのものを直撃してきた。
あわせた唇も温かくしっとりと濡れていて僕は夢中でキスを繰り返す。
とても優しくなんてできなかった。
手塚君が欲しくて欲しくてたまらない。
キスをしながら僕たちはその場に倒れ込み、言葉もなくただ荒い息遣いだけの中で抱き合ってしまった。

 

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(2005.11.21)

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