窓の外を流れる風景は何も変わっていなくて、それが僕の胸にいたたまれない想いを連れてくる。
電車を降りて午後二時を少し過ぎた今の時間、改札を通る人は少なかった。
あの頃は平日のこんな時間に駅を使うことはほとんどなかったから、こんなふうに人の少ないこの駅に不思議な違和感を覚える。
当たり前のようにこの改札を通り抜けていた日々。
こうしてゆっくりと周囲を見ることはあまりなかったかもしれない。
それでも毎朝毎夕、繰り返し通ったこの景色は無意識のうちに細部まで記憶に刻まれていたようで、それは今目の前に広がる景観との小さな違いまではっきりと認識させるほどだった。
今も君はこの駅を使っているのだろうか。
そんなことを考えただけで胸の奥がつきりと痛んだ。
『過去は過去でしょう?』
僕の背中に向かってそう言った君はどんな顔をしていたんだろう。
声が少し震えていたから、僕は振り返る勇気を持てなかった。
そうしてそのまま転勤という逃げ道を選んでこの町から離れてしまったのだ。
あのとき僕は振り返らなかった。
それは、結果としてよかったのか、まずかったのか。
その答えはもう出ているのだろう。
けれど、それを知ることはとても怖かった。
五年という時間の流れは君をどう変えた?
僕はきっと、何も変わってはいないけれど。
「テニスの話をするの、そんなに嫌ですか?」
食事の片づけを終えた手塚君が、そう言いながらベッドによりかかってテレビを見ていた僕の隣に腰を下ろした。
途端に僕の気持ちは落ち着かなくなる。
こんなときは、物事を適当に流すことのできない彼の生真面目さを疎ましく思ってしまう。
どうして触れてくるのだろう。
君からどんな言葉をもらっても、僕の胸に刺さっている小さな棘は消えやしないのに。
肩を痛めた手塚君は、結局、世界の舞台を狙うことはできなかった。
それは本人も早い段階で気づいていたらしく、高校二年になる頃にはそれを踏まえた自分の進路を考えていたらしい。
『この手で世界に出られる選手を育てたいんです』
少し照れくさそうに笑いながらそんなことを言った彼に、僕は頷くことしかできなかった。
全ての原因があのときのトラブルにあることは明確で、すぐに出て行って騒ぎを止めなかったという負い目が今でも僕の胸の奥で疼いている。
それは大きな後悔だった。
もめていることは知っていたのに、僕は手塚君がどんなふうに対処をするのか見たかったのだ。
どうやってトラブルを回避するのだろうか、と。
いずれ部長になるであろう彼のお手並み拝見といったつもりだった。
実のところ、僕はクールすぎる彼の態度を少し不安に感じていた。
それがああいった結果になって初めて僕は気がついた。
僕の手塚君に対する認識はひどく甘いものだったのだ。
クールで大人びた彼の中には三年の先輩に正面から喰ってかかる激情が秘められている。
それを知って僕は嬉しかった。
確かに肘を打たれたことはひどくショックだったけれど、彼になら青学を託せると思うと嬉しかったのだ。
だって、その結果がまさか彼のプレイヤーとしての将来を潰してしまうことになるとは思ってもいなかったのだから。
手塚君は大学の体育学部に通いながら駅前のスポーツクラブでバイトをしていた。
やっていることは事務や雑用のようなことだけど、プロのインストラクターに囲まれていろいろな話が聞けるからすごく勉強になると、一人暮らしをしていた僕の部屋で夕食を一緒に食べながら話をしてくれた。
けれど、僕にとってそれは少し胸の痛い時間だった。
本当なら今頃、彼は世界に出ていたかもしれないのに。
中学の時の手塚君があまりに輝きすぎていたから、目の前で普通に暮らしている彼を見ることは堪えられなかった。
もちろんテニスを続けてはいたし、休みの日にはよくクラブに出かけて打ち合ったりはしていたけれど。
それから大学を卒業した手塚君は実家を離れて一人暮らしを始めた。
大学院に行って更に専門的なことを学ぶことも考えたらしいが、彼が選んだのはテニススクールを傘下に置く企業に就職して、そのスクールのコーチになることだった。
一人暮らしを始めるとき、家族には会社やスクールが実家から通うには少し離れているし、やはり大学を出たら自立したいと思っているからと言ったらしいが、それは動機の半分くらいだったらしい。
本音を言うと……と、彼は僕の腕の中でポツリと呟いたことがあった。
『一人暮らしの方が、あなたと会いやすいから』
あれこれと回り道をした挙句、やっとお互いの気持ちを確かめられて一番幸せだった頃かもしれない。
手塚君の口からテニスの話が出るとき、僕はしばらくそれを聞いてからどうやって話を他に逸らそうかと考え始める。
それがお互いの部屋だったらそっと引き寄せて抱いてしまった。
そうすればさすがにテニスの話も止まるから。
僕が彼の眼鏡を外そうと手を伸ばすと、手塚君は必ずじっと目を閉じてそれを待っていた。
眼鏡のない手塚君はいつもより弱そうに見えて、真っ黒な瞳で見上げられるとどうしようもなく切ない感じが込み上げてくる。
ぎゅっと抱きしめて、ずっと守ってあげないといけない気持ちにさせられた。
でもそんなのは錯覚で、彼はそんなに弱い存在じゃない。
それは分かっていたけれど、そんなふうに思ってしまうほど僕は彼を好きだったしずっと側にいたいと願っていた。
もちろんその中には、彼の腕に対する後ろめたさも混じってはいたのだが。
「テニスの話をするの、そんなに嫌ですか?」
「ん?」
テレビから視線を移すと、隣には眉をしかめた手塚君の顔があった。
突然、昔の記憶が蘇る。
それはあのトラブルの直後、僕に退部しますと言ったときの表情にそっくりだった。
逃げられない。
そう思った。
僕が持っている負い目にいつから気づいていたかは分からないけれど、手塚君は聡い子だからもうかなり前から分かってはいたのだろう。
もちろん僕はそんなことを口にするつもりはないけれど、それを顕にさせるまできっと彼は話を詰めてくるに違いない。
僕は少し腰をずらして手塚君に近づくと彼の眼鏡に手を伸ばした。
いつものようにそれを外そうとすると手塚君の瞼が閉じられる。
そうして再び開かれた瞳は、いつもと違ってじっと僕を睨みつけていた。
「あながにこうやって眼鏡を外されるの、好きです。だけど……」
手塚君は小さく唇を噛む。
「その後のあなたの顔は嫌いです」
思いもよらない言葉に息が詰まった。
けれど僕は自然と少しふざけたような口調を返してしまう。
「そうですか? 僕は眼鏡を外した君の顔、大好きですよ?」
「あなたは自分がどんな顔をしているか分からないからでしょう」
どんな顔?
「辛そうな顔するのはやめてください。まるで泣き笑いです」
言葉が出なかった。
「過去は過去でしょう?」
黙っている僕に手塚君が追い討ちをかけてくる。
過去は、過去。
だけど、その過去が現在に繋がっている。
手塚君が僕に求めているものは分かっている。
でも頭と感情は別だから、どうしても僕の心は君の言いたいことを納得してくれない。
「分かっていますよ。分かっている、つもりです」
手塚君の瞳を見つめては言えなかったから、少しだけ視線をずらしてそう答えた。
「大和さん、俺は……、あなたが……好きです。だから辛そうな顔を見るのは嫌なんです。あなたは責任感の強い人だから、あのときのことを気に病んでしまうのは分かります。だけど俺にも非はあった。第一、あなたはあの場にいなかったのだからどうしようもなかったでしょう」
手塚君がそう思っているからこそ、僕は辛かった。
止める機会があったのだと知ったら、それでも君は同じことを言うだろうか?
「……そうですね」
僕には本当のことを告げる勇気はなかった。
ただ手塚君に嫌われることが怖くて、罵られることが怖くて。
でも心の中の別のところでは全てを吐き出して楽になりたいと思っている自分もいた。
「大和さん?」
俯く僕の表情を覗き込むように手塚君が顔を寄せてくる。
少し目を上げれば、さっきとは全く違う表情を浮かべた彼の瞳があった。
僕のことを心配してくれているかのように眉が僅かに顰められている。
その表情に惹かれたように、僕は思わず口付けをした。そのまま胸に抱き込むと手塚君は僕を押しのけようとして身体をつっぱねた。
きっと話の続きをしたいのだろう。
けれど僕はそれを無視して彼を抱いた。
ほとんど無理矢理に。
僕に転勤の話が出たのは、ちょうどその頃だった。
それを聞いて、心のどこかでホっとしている自分がいた。
手塚君と離れてしまうのは辛いけれど、あまりに近くにいるのもまた辛いことだったから。
腕の中でうとうとしている彼にそのことを告げると、分かっているんだかいないんだか、ただ「ん……」という曖昧な返事だけが返ってきた。
そうしてこの部屋に置いてあった僕の荷物を取りにきた日。
手塚君は仕事でいないだろうと思っていたのに彼は休みを取っていたらしく、僕はいつものように「いらっしゃい」という笑顔に迎えられた。
ほとんどないだろうと思っていた僕の私物が意外にあちこちから出てきて、それが僕をいたたまれない気持ちにさせた。
無言でコップや歯ブラシを片付けている僕を、手塚君はどんな気持ちで見ていたんだろう。
荷物を全て片付けてドアに向かったとき、なんと言ってこの部屋を出ればいいのか考えてしまった。
すぐ後ろには手塚君が立っている。
「ごめん」
それしか言えなかった。
過去のことも、付き合い始めてからのことも、今のことも。
少しして背後に小さな吐息の漏れる気配と、震えるような手塚君の声が聞こえてきた。
「過去は過去でしょう?」
その言葉に、僕は振り返ることができなかった。
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(2005.11.21)
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