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新月の夜、魔王を始めとする悪魔たちが天界の熾天使長の公邸を訪れる。
同時に館は闇の結界に覆われた。
手塚は仄かな灯りに照らされた公邸の廊下を最奥の部屋に向かっていた。
彼に会いたいと思う気持ちが自然と足の運びを早めている。
そうして足を止めたドアの前、深呼吸をして彼がいるはずの部屋のドアをゆっくりとノックした。
僅かにドアが開き、中から黒い人影が覗く。
「お時間、よろしいですか?」
手塚がそう言うと同時に、相手がふっと軽く笑ったのが気配で感じられた。
「お久しぶりですね」
漆黒の瞳の悪魔はドアを開けると、どうぞと手塚を部屋に招き入れるように身体をよける。
小さく会釈をして部屋に一歩踏み込んだ手塚だったが、しかしすぐに戸惑うように足を止めてしまった。
「ああ、何も見えませんか?」
「ええ……」
手塚がいくら目をこらしても、見えるのはほの暗い廊下の灯りが届く足元だけだった。
その先は完全な闇に覆われている。
ふいに右手に温かいものが触れて、ぎゅっと握り締められた。
そのまま背中を軽く押される。
「まっすぐですよ」
大和に手を取られて導かれるまま闇に踏み込んだ手塚は、まるでこのまま地獄に連れて行かれてしまうような不安な想いに囚われた。
「さあ、ここです。腰を下ろして」
言われるままに腰を落としたのは心地よくクッションの効いたソファだろうか。
手塚がほっと一息つくと、大和が手を離して部屋を横切っていくのが気配で分かった。
やがて窓際にある机の上に僅かな灯りが点る。
「これなら見えますか?」
机の前で振り向き、大和が問いかけてきた。
「はい。ありがとうございます」
「どういたしまして」
「あの……、あんな暗い中で見えるのですか?」
男は視線を手塚に向けたまま、ゆっくりとした動作で向かいのソファに腰を下ろした。
「ええ、もちろん。私たちが生きてるのは地獄の最下層です。あそこは光など一筋も射しませんからね」
「でも館には灯りが……」
「あれは天使様のためですよ。何も見えないのでは身動き取れないでしょう?」
「そう、だったんですか」
唖然としているような表情の手塚を見て、男は小さく笑うと面白そうに身を乗り出してきた。
「ところで熾天使様? いくらここが天界だといっても、こんなふうに簡単に悪魔に近づくのはどうかと思いますよ?」
途端に手塚の視線がきつく男に向けられる。
「あなたは、自分の仰ったことを覚えていないのですか?」
射るような視線に見つめられた後で、男はククッと声を抑えて笑い始めた。
「何がおかしいんですか?」
そんな様子に手塚は眉を顰める。
「すいません、……くくっ」
男は無理矢理に笑いを押し込めるように深呼吸をして手塚を見つめ返した。
「あなたのような熾天使がいるとは。……疲れるでしょう?」
「え……?」
―― つかれる?
手塚は心の中でその言葉を繰り返した。
何度も繰り返して、繰り返して……。
「は……、はは……」
どこからそんな笑いが出てくるのか分からないまま、手塚は俯き両手で顔を覆うようにして小さく笑い続けた。
さっきまで笑っていた男は、逆に不思議そうな顔をして小首を傾げて手塚を見つめる。
手塚は口元に笑いを残したまま顔を上げると、「そうですね」と頷いた。
「その通りかもしれません。……疲れます」
「それが君を不安定にしている原因ですか?」
「不安定?」
「だって、そうでしょう? そうでもなければ、天使が地獄に興味を持ったりはしないのでは?」
「……いえ。それは、違います」
「ん?」
「違う……」
手塚はゆっくりと首を振りながら自分の足元を見つめた。
そうして深い溜息をつくと目を閉じる。
「俺は、天使でいる資格がないんです」
それは小さく掠れた声で、男の耳にもやっと届く程度のものだった。
それきり手塚は黙ってしまい、耳鳴りがするほどの静寂が部屋を覆いつくす。
「何故、資格がないと?」
しばらくして男の静かな声が問いかけた。
しかし手塚は躊躇っているように唇を噛んで、膝の上でぎゅっと手を握りしめている。
「君は何のためにここに来たんですか?」
その言葉にちらりと男を見た瞳は動揺に揺れていた。
「君に話すことがないのなら時間の無駄です。帰った方がいい」
男はさっと腰を上げて扉の方へと歩み寄る。
その行動がまるで突き放されているように思えた手塚は慌てて男に向かって口を開いた。
「愛せないんです。……敬うことさえできない」
切羽詰まったような声だった。
その気配に、さすがに少し驚いたのか男がぴたりと足を止めて振り返る。
「天使なのに、俺は……。どうしても主を愛していると感じられないんです」
男はその場に佇んでじっと手塚に視線を向けていた。
その気配をありありと感じて、手塚は男が今どんな表情で自分を見ているのかと思うと顔を上げることができない。
彼もかつては天使だったのだから、先の言葉がどんな意味を持っているのかは充分理解しているはずだろう。
そんな重苦しい空気の中、男はごく小さな溜息をつくとゆっくりとソファに戻ってきて腰を下ろした。
「で?」
男はソファに身を沈めると手塚の顔を覗き込んできた。
その短い問いかけに手塚が顔を上げると、何故か男の口元は僅かに笑みを浮かべていた。
「君は地獄に堕ちたいと望んでいるんですか?」
「そんなっ……」
「違う?」
「望んでなどいません。この命が尽きるまで自分は天使でありたいと思っています。でも……」
「疲れる、と?」
手塚は小さく頷いた。
「ずっと考えてきました。主を愛するとはどういうことなのかと。そもそも愛するということがどういうことなのか、それさえも俺は分かっていない」
男の眉が僅かに動いたが、それきり彼は動く気配もなくじっと手塚の言葉に耳を傾けていた。
「完璧な天使になればそれも分かるのかもしれないと、そんなことを考えていました。だから熾天使になることを目標にここまできたんです。なのに……」
手塚は一つ深呼吸をした。
「主に対する何の感情も湧いてこない」
そうして俯けていた顔を上げると、手塚は真っ直ぐに男の瞳を見つめた。
それに気づいたのか、相手も少し下げていた視線を合わせる。
「堕天する前のあなたはどうだったのですか?」
「どう、とは?」
「愛していましたか、主を?」
手塚の真剣な眼差しに男は小さく、ふっと笑みを見せた。
「いいえ」
「やはり、悩みましたか?」
「悩む必要などありませんでしたね」
あまりにあっさりとした答え方に手塚の眉がしかめられる。
そんな表情に笑みを向けたまま、男は一度背筋を伸ばして力を抜くようにソファに身を預けた。
「君の名前は?」
「は?」
「名前です。これから自分の過去を話そうとする相手です、名前くらい知りたいでしょう?」
「あ、はい。手塚国光といいます」
「手塚君、ですか。僕は大和です。大和祐大」
手塚は男の名前を聞いて、改めて小さく頭を下げた。
大和、と名乗った悪魔は手塚の小さな会釈に笑みを返すとソファから立ち上がり窓辺に近寄った。
手塚の視線はその後姿を追い、大和と同じように暗闇だけが広がる窓の外を見つめてみる。
そこにある闇は結界によって作り出されたものだから、いくら悪魔といえども外の景色が見えるわけでもないだろう。
それでも大和はじっとその闇に目を凝らしていた。
「僕はどこまで話していいんでしょうね?」
大和はぽつりと呟いた。
「『自由意志』というのは知っていますか?」
少しの間をおいて、振り返ることなく大和が訊ねてきた。
「あ、……はい。聞いたことは、ありますが……」
「どういうものだと?」
「大戦の遥か以前に創造された天使たちのことを指すと。主の御使いである我々とは違いその存在は主と対等であり、彼らの行動も一切の制約を受けなかったと」
「さすが、優等生ですね」
大和はちらりと振り返り口元に笑みを浮かべたが、すぐに窓の外に視線を戻してしまった。
そのまま沈黙が広がる。
突然の質問の意味が分からない手塚は先を促したい気持ちを抑えてじっと大和の背中を見つめていた。
「どう、思いますか?」
「え?」
「一切の制約を受けない自由の身、どんな思考も行動も咎められることはない。もし君がそんな立場にいるとしたら?」
「それは……」
手塚は言葉に詰まってしまった。
自由な身と言われてもぴんとこないのだ。
自分ではどうしようもない想いをかかえてはいるものの、今の状況が不自由だと感じたことはないのだから。
「分かりません。自由な身ということが、俺には分からない」
「言葉の通りですよ」
大和は振り返ると窓辺に身体を預けるように寄りかかって小首を傾げた。
「天界に留まるも人間界に降りるも、天使であることを捨てて地獄を選ぶこともね。もちろん主を愛するも憎むも本人次第です」
「憎む?」
途端に寄せられる眉根に大和はくすりと笑う。
「怖い顔をしないで。そういうことを許されていたのが自由意志を持つ天使たちなんですから」
「あ……申し訳、ありません」
自分でその自覚がなかった手塚は慌てたように二・三度瞬きをして少し顔を逸らした。
そんな様子を大和がじっと見つめている。
その視線がいつまでも外れないことに手塚は少しの居心地悪さを感じ始めた。
「あの……」
じっと自分を見つめる視線に耐えきれず、手塚はおずおずと顔を上げて大和の方を見た。
そんな戸惑いに気づいているのか、大和は悪戯そうにくすりと笑って「困りましたね」と呟いた。
「ねえ、手塚君?」
「はい」
「僕は君のことが気に入ってしまったようです」
「は?」
面白がっているような響きを持った言葉に手塚が呆気に取られているうちに、大和は窓から離れて手塚の隣に腰を下ろした。
そうしてじっと動けずにいる手塚の顔に触れようと手を伸ばしてくる。
その指先が目に近づいてきたところで手塚は反射的に瞳を閉じてしまった。
眼鏡のフレームが僅かに動かされたかと思うとそれはあっという間に取り去られ、カタリという軽い音がテーブルの上で響く。
目を開けてテーブルの上を見ると、無造作に置かれた眼鏡が淡い光を反射していた。
「……っ」
ふいに顎に指を添えられ、半ば強制的に大和の方を向かされて思わず息を呑む。
「知りたいと思っていることを知ってしまったら、君の将来は大きく変わってしまうかもしれませんよ? 知らなくていいことまで知って後悔するかもしれない」
「…………」
「いいんですか、それでも?」
手塚は大和の指を振り払おうと顔を背けてみたが、意外に強い力ですぐにそれは戻されてしまった。
僅かに眉根を寄せて非難するように大和を見つめる。
「このまま不安な想いを抱え続けていくくらいなら、例え将来がどうなっても納得できる答えが欲しいと思います。……あなたはその答えを持っているのですか?」
小さな吐息とともに大和の指が外された。
気がつけば二人の距離はかなり縮まっていて、手塚は解放されたと同時に大和から僅かに身体を離した。
「本気で天使を誘惑したいと思ったのは初めてですよ」
あはは、と軽く笑った大和は一つ大きな深呼吸をしてソファにその身を凭せかけて目を閉じた。
「まずは何から話しましょうか?」
その口元は何故か楽しそうに歪んでいる。
「あなたが堕天した理由を」
即座に返ってきた答えに大和は薄く目を開いて手塚を見つめ、またすぐに閉じてしまった。
「僕が天界に生まれたのは主が人間を創造する少し前です。全てにおいて自由を約束された天使として、僕はこの命を与えられました」

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