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地獄から戻った手塚はすぐに熾天使長の呼び出しを受けた。
聖月儀の待機中に館の外に出て何物かに襲われたことが耳に入ったらしい。
手塚はどんな説明をすればよいだろうかと考えを巡らせたが、結局は外に出てしまったことへの理由づけは思い浮かばなかった。
やや重い気持ちで熾天使長の執務室に入る。
「怪我の具合は?」
開口一番の問いに手塚は「問題ありません」と答えて大きな木製の机の前に立った。
「そう?」
熾天使長の視線がちらりと手塚の手首に走る。
制服の袖から僅かに赤黒い痣が見えていた。
それはあの冷たい何かに掴まれた跡で、手塚の身体中に生々しく残っている。
「どうしてそんな目に会ったんです?」
「それは……」
思わず口ごもり視線を伏せる手塚の顔を熾天使長が覗きこんでくる。
そのまましばらく沈黙が続き、その重さに耐えきれなくなった手塚がほんの少しだけ視線を上げた。
秀麗な眉を顰めて自分を見上げているその瞳は温かい木漏れ日を受けたような緑色をしている。
しかしそこには小さな不安の色も浮かんでいた。
「申し訳ありませんでした。私が軽率だったのです」
「軽率、ね。君には凡そ似つかわしくない言葉ですね」
くすりと笑う熾天使長の瞳に全てを見抜かれているような気がして、それから逃れるかのように手塚は目を閉じた。
「初めての地獄で緊張していたのでしょう。今日から一週間、休暇を取りなさい」
「しかし……」
予想外の言葉に手塚は驚いて熾天使長を見つめた。
「上級三隊熾天使長付副官、手塚国光」
「はい」
その改まった声に条件反射のように手塚の背筋がぴんと伸びて踵が合わされる。
「本日より一週間の自宅待機を命じます。その間、一切の外出は禁止。いいですね?」
自分の過失に対して、罰というよりはむしろ褒美のようなその裁定だったが、手塚はあえて細かいことまで聞いてこない熾天使長に感謝をしつつ「はい」と頷いて執務室を後にした。
「うわっ、手塚……。何、これ?」
手塚の受けた裁定を聞いた乾が、お見舞いと称して待機初日から手塚の自宅にやってきた。
そこで熾天使長と同じように目敏く手首の痣を見つけた乾は半ば強引に手塚の着ていたシャツを脱がせたのだ。
「ちょっと後ろ向いて……、あぁ、背中まで……」
落胆したような声を出しながら乾は痣に沿ってゆっくりと指を這わせる。
「お前が落ち込むことじゃないだろう」
「落ち込むよ、綺麗な身体にこんな痣つけられて。……そうだ、不二に言って何か薬もらってきてやるよ」
「いや、大丈夫だ。これでもかなり薄くなってるから、一週間のうちに消えるだろう」
「羽は? やられてない?」
「ああ、少し」
静かな羽音と共に現れた羽はあちこちに擦過傷のようなものがあり、更に部分的に抜け落ちている跡も見受けられた。
「こんな悲惨な6枚羽の天使なんて、初めて見たよ」
そう言いながら乾はそっと手塚の羽に触れて何度も指を滑らせる。
その感触が心地よくて、手塚はしばらく目を閉じてそれを受け入れていた。
「襲われたとき、飛んで逃げようとしたのに飛べなかったんだ」
「ああ、そうだろうね」
当然だとでも言いたそうな口調に手塚は乾を見つめた。
「お前、知ってるのか? 地獄では力が使えないって……」
「ん? まあ、少しはね」
「どうして?」
「うーん……、大戦前からの古い調書とか証言書の中には地獄のことが書かれてるものもあるんだよ。戦前の資料ってことで特別に認められてるんだ、もちろん外部には内緒だけどね」
「もしかして堕天した者の調書も残ってるのか?」
「戦前のものならね。だけどそれは二等司法官以上しか見られないよ。あとは熾天使長様かな」
「そうか……」
もしかしたら自分くらいの階級になれば見られるかもしれないと思った僅かな期待を乾が先に抑えてしまった。
落胆の色を隠さない手塚を乾がそっと抱きしめる。
「時々ものすごく不安になるんだけどさ」
「ん?」
「お前、堕天使とか地獄のこと気にするのやめた方がいいよ」
手塚は自分より背の高い乾の肩口に頬を当ててその言葉を聞いていた。
「気持ち、分かるとは言いきれないけどさ。知ってる? 暗闇を覗き込んでる者は同じように暗闇に覗き込まれてるんだよ」
「上手いこと言うな……」
小さく笑ったらしい手塚を更にぎゅっと抱きしめて、乾は「冗談じゃなくてさ」とその耳元に呟いた。
自宅待機と言えば聞こえはいいが、実際は謹慎に等しい罰を受けているのだからと言っても乾を止めることはできなかった。
それよりも、すっかりその指先に馴染んでしまった身体を手塚自身が止められなかったと言った方が正しいかもしれない。
開けっ放しになっているカーテンの向こうに見える月をぼんやりと瞳に映しながら、手塚は真っ暗だった地獄の様を思い出していた。
『ここがどこだか忘れましたか?』
そうなのかもしれない。
館で会った悪魔たちがあまりに静かで穏やかだったから……。
手塚はそっと手首を目の高さに上げてそこに残る痣を見つめた。
同時に身体中を掴まれたときの凍るような冷たさを思い出して思わず身震いが出る。
ぞっと鳥肌が立って寒気を覚えた手塚は毛布を引っ張り上げて頭の半分ほどまでもぐり込んだ。
「て…づか……?」
その動きに目を覚ましたらしい乾が寝ぼけた声を出した。
「ああ、すまない。まだ夜中だ」
手塚の言葉にふと乾が窓の外を見てゆっくりとベッドから下りて、「眩しすぎる」と呟きながらカーテンを閉めてしまった。
「起こしてしまったな」
「いや……、構わないよ。どうせ明日は俺も休みだし」
ベッドの端に腰を下ろした乾はサイドテーブルの煙草に手を伸ばした。
小さな炎が一瞬灯って消える。
しばらくすると僅かに甘さを含んだ香りが手塚の鼻をついてきた。
「乾」
「…………ん?」
名前を呼んだきり黙っている手塚に乾が振り向くと、手塚は背中を向けて頭まですっぽりと毛布を被っていた。
「何?」
「お前は……どうして、俺と寝るんだ?」
「へ?」
煙草を咥えたままだった乾はまともに返事をできず、間抜けな声だけが半開きの唇から漏れた。
「唐突だね」
手塚は身動き一つしないで毛布にくるまったままで、そこからくぐもった声だけが聞こえてくる。
「ここの天使たちは、口では主を愛し敬っていると言いながら天使同士で男女見境なく身体の関係を持ってる。これは明らかに主に対する裏切り行為なのに……」
「そうだな。禁忌とされてるけどみんな見て見ぬ振りだ。現場を押さえられれば公にもなるけど、夜中に他人の家に踏み込むなんて余程の理由がないとできないし」
「お前は平気なのか、裏切るということに?」
手塚は毛布から顔を出してじっと自分を見下ろす乾を見つめた。
カーテンを閉めたはずなのに布を通して蒼い月の光が差してくる。
「俺は裏切ってるつもりはないから」
乾は手にしていた煙草を揉み消すとベッドに入ってきた。
そうして毛布を跳ね除けて露になった手塚の身体を抱き寄せる。
「もしもまた戦いが始まったらこの天界を守るために自分を犠牲にしても構わない」
耳元で囁かれる言葉に手塚は恐怖を覚えて眉を顰めた。
「ほら、こうしてると気持ちいいだろ? 身体を繋げればもっと気持ちいい。だから俺はお前を抱く。やっぱりさ、奇麗ごと言っても身体が満たされないと寂しいから」
「他のみんなもそうなのか?」
「さあね。他のヤツの気持ちなんて分からないよ」
囁きながら耳朶を舌でなぞられて手塚は肩を竦める。
「満たされたいだけなら俺が相手じゃなくても……つっ」
耳のすぐ下に軽い痛みを感じて手塚は言葉を止めた。
「誰でもいいわけじゃない、俺が抱きたいのは手塚だけだよ」
「どうして」
「最高に綺麗で頭脳明晰、完全な身体を持った天界のトップ・エリート。同じ所で生まれて小さい頃からずっと一緒で、お前のことなら何でも知ってる」
また小さな痛みを今度は首筋に感じた。
「だから俺は手塚しか抱きたくない」
乾の唇が鎖骨を彷徨って次第に下にさがっていく。
「手塚は違うの?」
「ああ……。ああ、そうだな。俺もお前としかこんなことはしたくない……」
そう言いながら胸のあたりにある乾の頭に手を乗せてその髪を梳いた。
「羨ましいよ、乾。お前はそうやって主を愛していると断言できる。でも俺は……」
突然、乾は顔を上げて手塚の唇を自分のそれで塞いだ。
急な口付けに驚いて手塚が小さく呻く。
「言うな、それ以上」
「乾……」
唇を離した乾の顔は苦しそうに歪んでいたが、それは一瞬ですぐにいつもの飄々としたものに戻った。
「俺はお前を裁きたくはないからな」
「……すまない」
ふっと笑った乾の瞳を見つめ返して、手塚は自分でも知らぬ間にその黒い瞳にあの男のものを重ねていた。
そうして、男の瞳はもっと深い地獄の黒だったことを思い起こす。
彼もこうして主を愛していると言いながら他の天使と身体を合わせていたのだろうか。
今も地獄の暗闇の中で誰かを抱いているのだろうか。
次第に深くなってくる乾の愛撫を受けながら、手塚はその腕の中で初めて乾以外の者のことを考えた。
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