■■ それでも何時かは あなたの腕に (3) ■■

 

 

『今の気持ちが変わらなかったら答えてあげます』
その言葉が手塚の頭から離れなかった。
いつの頃からか湧き上がってきた疑問、その答が得られるかもしれないことは待ち遠しくもあり恐ろしくもある。

『カミヲアイシ、コレニフクセヨ
 ニンゲンヲアイシ、コレニフクセヨ』

それが天使に与えられた使命であり、かつ天使であることの証であるのなら……。

 ―― 何故、俺は主を愛せないのか。

かつてはそんな自分を認められずに目を背けていた。
少しでも主に近づけば自分は変われるかもしれない。
そう思った手塚は最も厳しいと言われている士官への道を選んだ。
少しでも高い地位について少しでも主に近づいて、そうすれば自分も愛することができるに違いないと信じたかった。
しかし天界第一階級である熾天使になってさえ、手塚の何事も変わることはなかった。
熾天使の証である6枚の羽を与えられ周囲から羨望の眼差しを受けて、誰の目にも手塚は完璧な天使に映っているだろう。
それが更に不安を掻き立て手塚を追い詰める。
時には全てを捨てたくなってしまうような投げやりな気持ちになることもあった。
しかしそんな手塚を受け止めていたのが同じ寮で生まれて成人するまでずっとルームメイトとして一緒にいた乾だった。
『大丈夫だよ、手塚。主はお前を悪いようにはなさらないよ』
『どうして、そう思う?』
『その身体と羽がみんなと違うのは、きっと御印だよ。どこにいてもお前を見つけられるように。手塚は主から愛されてるんだよ』
初等クラスの頃、そう言った乾の言葉に手塚は純粋に喜んだ。
しかし今はその言葉さえ手塚を苦しめるものの一つになってしまった。
周囲の者たちと違う自分は、いずれ天使でいられなくなるのではないだろうか。
声高に主への愛を否定すれば裁判にかけられ間違いなく堕天使の烙印を押される。
そうして天界を追放されて、行き着く先は……。
だが、そこまで考えた手塚はふとあることに気づいた。

 ―― この先、俺が変われないのだとしたら……。

気の遠くなるようなこれから先の時間を天使として生きていくことに押しつぶされてしまうかもしれない。
それなら、そうなってしまう前に天使であることを放棄してしまえば?
一切の情報をシャットアウトされている地獄という場所。
そこへの恐れはあるものの、しかし手塚にとっては自分自身を騙しながら生きて行く方がよほど苦痛に思えるのだった。
そんな思いに捉われていたときに初めて自分の目で見た地獄、そして堕天していった天使たち。
もしかしたら自分の居場所はそこなのかもしれないと、そんなことをあの穏やかな漆黒の瞳の悪魔を思い出しながら考えていた。

 

手塚にとっての二度目の聖月儀は、もう間近に迫っていた。

 

 

日々、山積みになっている公務の合間にも手塚の思考はあの悪魔の姿に捉われるようになっていた。
地獄で意識を取り戻したとき最初に目に入ったのは苛立たしさを含んだ声とは裏腹の、ひどく心配気に自分を見つめる黒い瞳だった。
あの時の手塚にはその瞳だけが全てで、ただじっと見つめてくるそれに触れたくて無意識のうちに手を伸ばした。
悪魔とは何なのだろうと、彼を思い出すたびにそんなことを考えてみる。
自分の居るべき場所はやはり暗闇の中なのだろうか。
だからこんなにも地獄や悪魔のことばかり考えてしまうのだろうか。
認めてしまえば楽になれるかもしれないと思う反面、やはり命ある限り天使でいたいと願う自分もいた。
何がどうあろうと彼の故郷はやはり天界であり、彼は誇り高い天使なのだ。

聖月儀が近づくにつれ、手塚は乾の元を訪れることが多くなった。
気持ちと身体がざわついて仕方がない。
一人でいると眠れない夜が何日も続くことさえある。
その心の葛藤を承知している乾は何も訊ねることなく、ただ手塚の心と身体を受け止めていた。
手塚がおずおずと手を伸ばせば、乾はその身体を抱き寄せて静かに髪を梳いてくれる。
そうされながら少し骨ばった肩口に頬を乗せてじっとしていることが手塚は好きだった。
髪を梳いていた指先が喉元にゆっくりと降りてくるのも、そこから身体の輪郭をなぞり始めるのも、自分たちが何者であるのかさえ忘れてしまうほどに激しく身体を揺らし合うのも、手塚は好きだった。
乾にしてもそれは同じで、崇高なほどに美しい熾天使が自分の腕の中で静かに目を閉じているのも、淫らに嬌声を上げているのも好きだった。
しかしそんな乾もただ一つだけ知らないことがある。
乾に抱かれている間、手塚は自分を見つめる黒い瞳を通して遥か遠くの悪魔の姿を見るようになっていたということだ。

「副官殿、熾天使長様がお呼びです」
士官見習いがそう言って手塚に声をかけたのは、聖月儀の数日前だった。

 

 

「手塚国光です」
複雑な彫物が施されている扉をノックしていつもの決まり文句を口に一呼吸待つ。
そうして扉を開けて熾天使長の執務室に入ったものの、そこには誰の気配も感じられなかった。
指定された時間通りなのにとしばらく室内を眺めてみる。
しかしいつまでも扉を開けっ放しではマズいだろうと、手塚は部屋の前で長が姿を現すのを待とうと一旦扉を閉めようとした。
そのとき、僅かに室内から何かが軋む音が聞こえてきた。
それに気づいてもう一度中を見回すと、執務室から続く小さな部屋への扉が開いたところだった。
「ああ、手塚国光。来ていたんですね。さあ、入って」
長がふわりとした笑顔で小部屋から出てきた。
その両手には先端を白い布に包まれた大きな剣が抱えられている。
「長……、それは……」
その光景に手塚は唖然としてしまった。
熾天使長の腕にあるのは『天界の剣』と呼ばれるものだ。
よほど大きな儀式のときにしか使われない熾天使長の剣。
こんな平素に持ち出されることなどあってはならない代物だった。
しかし熾天使長は何でもないようにそれを机の上に置くと静かにそれを覆っている布を取り去った。
澄んだ切先が窓からの陽射しを受けて光を反射し、柄の部分に施されている装飾も美しい輝きを放っている。
しかしそれを初めて間近に見た手塚は妙な違和感に捉われた。
そもそも『天界の剣』は主が熾天使長に授ける寵愛の証だった。
これまでにそれを手にしたのは二人だけ。
神への反乱を起こして堕天した地獄の魔王と現在の熾天使長だ。
手塚は地獄で見たガラスケースに収められた魔王の剣を思い出して、今、目の前にあるそれと無意識のうちに比べていた。
記憶があやふやだということはありえなかった。
明らかに魔王の剣の方が繊細で美しく、格段に誇り高い輝きを持っていた。
「どうしました? こちらへ」
入り口近くで剣に見入っていた手塚は熾天使長に促されて机の前まで足を運ぶ。
「聖月の準備は?」
「はい、準備は全て終わっております」
それに関しての報告なら第一副官がしているはずだがと、手塚は訝しく思いながら答えた。
「今回は天界での談義ですからね。この前のように驚くようなことはないでしょうね?」
「はい。あの時は申し訳ございませんでした」
どうやら今回は問題を起こすなと釘を刺すために呼ばれたらしい。
しかし、だとしたら何故わざわざ剣を持ち出してきたのだろうと手塚はちらりと視線を剣に落とした。
それに気づいた熾天使長がそっと指を伸ばして輝く刃に触れる。
「一つ、気になることがあってね」
じっと自分の指先を見つめながら熾天使長が呟いた。
「なんでしょうか?」
「君のこと」
「私……ですか?」
手塚は僅かに眉を顰めた。
「そう。このところ随分と気が乱れているようですが、どうしました?」
感情のコントロールは完璧にできていたはずだが、やはり熾天使長を誤魔化すことはできなかったようだ。
しかし、だからといって何が自分の気を乱しているかなど説明できるはずはない。
「聖月儀はまだ二度目ですから、今度は天界で魔王と対面するのかと思うと緊張してしまうようです」
「それが理由ですか?」
「はい」
じっと見つめてくる暖かい淡緑色の瞳を見据えて返事をする。
本当はすぐにでも目を伏せたいのに、そうすると自分の言葉が偽りであると断言しているも同然だと思った。
だが、実際のところ熾天使長に嘘をつくことなど出来るはずはない。
彼にとっては相手の気の変化を感じ取ることはいとも簡単なことなのだから。
「そういうことに、しておきましょうか」
ふっと熾天使長の口元に笑みが浮かんで、同時にその視線も手塚から外された。
そうして、もう一度軽く刃の上に指を滑らせると、
「ただし、一つだけ心に留めておいてほしいことがあるんですよ」
と言った。
「なんでしょうか?」
一瞬、ほっとしたものの、今度は刃の上を滑る熾天使長の指先が切れてしまうのではないかとひやひやしてしまう。
「君には軽はずみなことをしてほしくないんです、決して」
「……はい」
「手塚副官、この剣を持つということの意味が、君には分かりますか?」
手塚は無言のまま、しかし僅かに眉根を寄せて熾天使長の顔を覗きこんだ。
訝しんでいるらしい手塚の表情を見て熾天使長が再び小さな笑みを漏らす。
「この剣を賜るということは、その後の長い時間を天界の長として生きていかなければならないということです。半端な覚悟では務まりません」
「はい」
「しかし同時に、これは最も主に近い存在でいられることの証でもあります。天使にとっては最高の栄誉でしょうね」
「はい」
手塚の抑揚のない返事に熾天使長は穏やかな表情を向けたものの、なぜかその眉が僅かに顰められる。
そうしてじっと手塚の顔を見つめたままぽつりと呟いた。
「例えば君に……、その覚悟はありますか?」
「は……、覚悟、ですか?」
「そう」
手塚を見つめる熾天使長の瞳から、いつもの柔らかい光が消えた。
何の表情もないそれに「覚悟」という言葉の意味を考えて手塚の唇が僅かに震える。
「なにを……」
手塚は眉を顰めて緩く首を振った。
混乱し始める手塚の心を無視するように熾天使長の言葉が重なる。
「手塚国光。あなたにはいずれ、この座に就いてもらうということです」
「あ……」
言うべき言葉のないまま手塚は熾天使長を見つめた。
「それは……」
「どうしました?」
柔らかさの消えた瞳に見据えられて、手塚は知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。
「無理です」
意識の届かないところで言葉が勝手に口をついて出た。
言ってしまってから、手塚は何の考えもなしに拒否の態度を示したことに慌てる。
「あ、いえ……。その、私などそのような……」
ふっと僅かに空気が緩んだかと思うと、熾天使長の瞳に柔らかさが戻っていた。
手塚は言葉に詰まって黙り込んでしまう。
「もちろんまだ先のことですけどね。しかし、君にはそのつもりでいてほしいんですよ」
「何故、私……なのですか? 他にも優秀な者は大勢……」
「手塚国光」
その声は穏やかなものの手塚の言葉を制するには充分なほどで、手塚は一瞬息を詰めてから落ち着こうとでもするように一つ深呼吸をした。
「熾天使長というのはそれまでの階級や功績で決まるものではありません」
「では、何をもって?」
「主が選ばれるのですよ」
「…………」
「うすうす気づいているのではありませんか、自分のことに?」
手塚は無意識のうちに肩を竦めて自分の身体を抱きしめるかのように腕を回した。
さっきから与えられる言葉の一つ一つが重く響いていたたまれない気持ちになってくる。
違う、違うと何度も心の中で繰り返した。
「まあ、ゆっくりと考えなさい」
熾天使長はそう言って剣の刃に白い布を掛けた。
「ただし、軽はずみな行動はしないでくださいね」
「……はい」
「よろしい」
手塚の言葉に笑みを見せると、熾天使長は剣を持って立ち上がった。
「では、次の儀はよろしくお願いしますね」
「はい」
手塚は一礼して執務室を出るとその扉に背を預けて天井を仰いだ。
本当にあれは自分のことを言っていたのだろうかと、熾天使長の言葉を心の内で繰り返してみる。

「どうして俺が……」

しかし胸の奥の痛みは、やはりさっきの会話は事実だったのだと裏付けていた。

 

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