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堕天使。
天使でありながら神に背いて天界を追放された者。
持って生まれた輝かしい光と白い羽を捨てた者。
聖月の夜。
その瞬間だけは、暗闇に住まう彼らも幻のように輝く天国の門を見上げて涙を流す。
美しすぎる故郷と、かつては己の背にあった白い羽を心に描いて……。
「ん……」
首の下にあった腕が動いたことで、手塚のうとうとしていた意識が僅かに浮き上がった。
ゆっくりと首を巡らすとじっと自分を見つめてくる乾の視線にぶつかる。
淡いオレンジ色の灯りがその瞳に小さく映っていて、それをぼんやり見つめていると乾は小さく苦笑して手塚の額に口付けをした。
「そんな無防備な顔で見られたら堪らないんだけど」
手塚は数回瞬きをして吐息をつく。
そうして乾の首筋に顔を埋めて唇を寄せた。
「堪らないなら我慢しなければいいだろう」
そう言いながらぎゅっと腕を回すと、それに応えるように乾も手塚の身体を抱き返してくる。
汗の引いた肌は僅かに冷たい。
それでも乾の手によって手塚の身体の熱が次第に呼び覚まされてくる。
夜明けまであとどれくらいあるのだろうと、そんなことを考えながら手塚は目を閉じて快楽を追い求め始めた。
情事のあと、荒い息を残したまま、手塚は乾の胸に凭れている。
それまで手塚の髪をゆっくりと梳いていた乾は、何を思ったのかふいにベッドから降りて窓辺に近寄った。
手を伸ばして思いきりカーテンを引き開ける。
蒼い月が痛いほどに澄んだ光を放っていて、それがベッドの方にまで差し込んできた。
「何をしている?」
僅かに目を細めた手塚は、背中に月光を受けてシルエットだけにしか見えない乾に不満そうな声を漏らした。
「手塚、こっちにきてよ」
「何故?」
「羽、出して」
手塚が言われるままに窓辺に近寄ると、それと入れ違いに乾はベッドに戻ってその端に腰を下ろした。
そんな彼の様子をちらりと見て、手塚は目を閉じて小さく息を吐く。
軽く擦れるような音がしたかと思うと、蒼い光の中、手塚の背中に6枚の羽がふわりと舞い上がった。
全てが蒼い中で手塚の羽だけが白い輝きを放っている。
月の蒼に侵されないそれに乾の視線が釘付けになり、やがて
「壮絶だな」
と呟くとゆっくり腰を上げて手塚に近づいていった。
手を伸ばして羽の付け根にそって数回指を滑らせる。
「……っ」
手塚の身体が小さく震えて掠れ声が零れた。
「月の下だと輝きが増すな」
「お前は毎回同じことを言ってるな」
「だって自分でもそう思わない? ほら……」
乾は自分の2枚の羽を出して手塚のそれに触れ合わせた。
それらを比べると同じ天使の羽とは思えないほどに異質な白さをしている。
「俺の身体自体が他の天使とは違うからだろう」
純粋に白い乾の羽と、自ら光を放っている自分の羽を見比べて手塚は不機嫌そうに呟く。
と、ふいに乾が腕を引き寄せたせいで手塚は身体のバランスを崩してしまった。
そのまま乾の胸に抱きとめられる。
「もう一回、しない?」
耳元で囁く声にぞくりとして手塚は肩をすくめた。
しかしすぐに乾の身体を離すと羽を収めてベッドに向かい、あっという間にそこに潜り込んでしまった。
苦笑しながら乾も後を追うように潜り込む。
「明日は早いからもう寝る」
「何があるの?」
「聖月儀の最終打ち合わせ」
「ああ……。ねえ、聖月儀って相当緊張するものなの?」
「いや、そんなことはない」
「そう? でもお前、直前になってくると性格変わるからさ」
それを聞いた手塚は寝返りを打って乾に背中を向けた。
まさか気づかれているはずはないだろうが、それでも手塚の胸に不安が広がる。
手塚は天界における最大の禁忌を犯していた。
彼の心は今、一人の悪魔を求めてやまなかったのだ。

「聖月儀」は百年に一度訪れる聖月の夜から始まる。
この夜から数日間に渡って、いつもはお互いに堅く閉ざされている門が開かれて天界と地獄が通じるようになる。
この期間に天界の熾天使長と地獄の魔王が今後百年を通しての天地の条約を結ぶのだ。
それは遥か昔に起きた大戦を二度と繰り返さないための戒めであった。
手塚が初めて参列したのは二百年前の聖月儀だった。
その年、手塚は熾天使長副官の任に就き、長や他の副官たちと共に地獄へと降りて行った。
地獄の最下層にある魔王の館と、そこで初めて目にした魔王を筆頭とした上級悪魔たち。
意外にも静かで穏やかな姿に拍子抜けしたものの、彼らの纏っている気はひどく冷たいものを感じさせた。
熾天使長が第一副官を伴って魔王との談義に入ってからの数日間、それぞれの長に従っている天使や悪魔たちはただひたすら談義の終わるのを待つことになる。
既に何度もこの館での聖月儀を経験している天使たちはそれなりに時間の使い方を知っているようだったが、初めての手塚は何をすればよいものかと考えているうちに与えられた部屋で第一日目が終わってしまった。
次の日、部屋にいても仕方ないと思った手塚はとりあえず館の中を歩いてみた。
館内からさえ出なければ異界から来た天使の身の安全は保障されている。
そもそも外に出ようにも最下層に光は一切届かない。
そんな暗闇に覆われている所に出ようなどとは手塚も思わなかった。
しばらく廊下を歩いてみたが同行してきた天使たちとすれ違うことは一度もなかった。
途中、何人かの悪魔と出合ったが、彼らは手塚の姿を認めると一旦立ち止まって目礼し再び歩き出す。
そんな彼らの態度は、地獄に住む者に邪悪なイメージしか持っていなかった手塚に不思議な感覚をもたらした。
あちこち歩いた手塚が最後に覗いたのはまるで展示室のような部屋だった。
いくつもあるガラスケースの中に剣や武具が収められている。
それらの中でも一際美しい装飾の施された剣が手塚の目を引いた。
由来のあるものなのだろうかとその下にある説明書きらしき文字を読もうとしたが、それは手塚の知っているものとは少し違っていた。
天使文字と似ている部分もあるものの、その半分も解読することはできない。
それでもなんとか読みこなそうと必死に文字と格闘していると、ふいに穏やかな声が頭上から降ってきた。
「先の大戦でこの館の主が使っていたものですよ」
その声に振り返ると、手塚よりも遥かに上背のある男がいつの間にか自分の横に立ってガラスケースを覗き込んでいた。
漆黒の髪に同じ色の瞳、同じ色のシャツとスーツを身に纏った彼は、手塚が少し驚いていることに気づくとにこりと笑いかけてきた。
「主……というと、魔王様ですか?」
「ええ。あの方が天界の長になられたときに神から賜ったものです」
手塚は再びガラスに遮られた剣に視線を戻した。
真っ直ぐな刀身の両刃の剣。
この刃の前で数えきれないほどの天使がその命を奪われ倒れていったのだと思うと凍るような冷たい痛みが胸に広がる。
しかしそんな禍々しい気配を微塵も感じさせないほど、その刃は澄んだ輝きを放って手塚の目を離さなかった。
「地獄の物に興味があるんですか?」
「え?」
すっかり剣に心を奪われていた手塚はその声が思いのほか近い所から聞こえてきたことにハっとして振り返った。
いつの間にか腰を屈めていた男の顔がすぐ側にあったことに驚いて息を呑む。
「地獄での聖月儀の度に天使たちがこの館に来ますが、この部屋に入ってきたのは君が初めてですよ」
にこりと笑んではいるものの、その中には呆れたような色が窺えた。
「そう……なのですか?」
「今の天界で地獄や悪魔の歴史に興味を示す天使はいないと思いますが」
「そうでしょうか?」
「君は違うんですか?」
「天界と地獄は対を成しているようなもので、片方に異変が起こればもう片方も影響を受けると聞いています。だとしたらもう一つの世界を知っていなければならないのは当然のことだと思うのですが……」
手塚の返事を聞いた男は腰を伸ばして一つ息をついた。
「変わっていますね、君は」
その言い方に手塚は僅かに眉根を寄せて不快感を表した。
それに気づいた男は悪びれるふうもなく小さく笑う。
「ああ、失礼しました。別に侮辱するつもりはないんですよ」
「……はい」
手塚は呟いて再び剣に視線を落とした。
そうして二人はしばらく無言のままに剣を見つめていた。
そのうち手塚に動く気配がないことに男はそっとその場を離れようとしたのだが、それに気づいた手塚は視線を伏せたまま彼を呼び止めた。
「一つ、お聞きしたいことがあるのですが」
男は意外そうな顔で振り返ると僅かに首を傾げて黙ったまま手塚の質問を促してきた。
「この館にも……、天界を捨てた者がいるのですか?」
「それは堕天使のことですか?」
「……ええ」
「何故、そんなことを?」
「…………」
それには答えず手塚はじっと剣を見ている。
「ここにいる悪魔はほとんどが堕天使ですよ」
「え、そうなんですか?」
驚いたように見上げる手塚に男はくすりと笑った。
「いわゆる上級悪魔と言われている者はみんな堕天使です。相変わらず天界では地獄のことを教えていないようですね」
「じゃ……、あなたも……?」
「熾天使様」
男は一歩下がって胸に手を当てると軽く頭を下げて敬うようにお辞儀をした。
手塚はそんな様子を唖然と見つめる。
「年若い熾天使様、天使は天界と人間のことだけを考えていればよろしいのですよ。地獄に興味を持つことは……、身の破滅につながりかねませんからね」
そうしてもう一度頭を下げると部屋の奥にあるドアの方に歩き始めた。
手塚はその背中を見つめながら、かつてそこにあったであろう白い羽を思い浮かべた。
全ての天使が天使であることに誇りを持っているはずなのに。
全ての天使が神を敬い愛するように定められているはずなのに。
「何故……、何故、天界を捨てたのですかっ!?」
切羽詰ったような声に男はぴたりと足を止めた。
そのまましばらく立ち止まり、僅かに顔だけを振り向かせて微笑もうとしたのか口元だけが微妙に動いた。
「聞こえませんでしたか、身の破滅ですよ?」
「教えてください、何故……っ」
しかし男は手塚の問いを無視してドアの向こうに消えてしまった。
その後を追ってノブに手をかけたものの、既に鍵が閉められてしまったらしくガチャガチャという音だけが部屋の中に響く。
さすがに諦めるしかなかった手塚は、小さく溜息をつくと再びガラスケースの前に立って剣を見つめた。
光のない地獄の最下層は昼夜を問わず常に暗闇に覆われているため時間を計る術は自分の腕時計しかない
もっとも光がないのだから昼間という概念もここではないに等しいのだが。
例外として館の中だけは灯りが灯されているものの、それにしても必要最低限だといわんばかりに薄暗いものだった。
あの男と別れてから再び廊下に出たがそれ以降は誰ともすれ違うことはなく、仕方なく与えられた自室に戻って手塚はベッドに身を任せる。
そうして天井を見つめながら、かつては天使だったという男の顔を思い浮かべているうちに次第に眠りに引き込まれていった。
次に手塚が目を覚ましたとき、強い風が吹き付けて部屋の窓を震わせていた。
外を覗いてみるが真っ暗で何も見ることはできない。
もしかして自分が寝入っている間に談義の終わりを告げる印があったかもしれないと不安になり、手塚は最初に通された広間に足を運んでみた。
しかしそこには誰もいない。
談義が行われているはずの広間の奥の部屋も扉は固く閉ざされたままだった。
少しホっとして部屋に戻ろうとした手塚の視界にちらりと動くものが映った。
そちらの方に歩いて廊下の角を曲がると、その先にいたのはあの男だ。
館の悪魔たちは皆同じように黒いスーツを着ているものの、そこにいるのはさっきの男に違いないと思った。
急いで後を追いかけていくと、男は階段を降りてエントランス・ホールにある大きな扉に手をかけた。
それは外に出るための扉だ。
男がそれを開けた途端強い風が吹き込んできたが、彼は何の躊躇いもなくそのまま外へと出て行ってしまった。
手塚は一瞬どうしようかと迷ったものの、少し覗く程度なら大丈夫だろうかとドアの外に少しだけ身体を出して男の姿を探してみる。
しかし、吹き付けてくる強い風に顔を背けた途端、背後のドアが閉まり周囲は暗闇に覆われてしまった。
慌てて周りを見回すものの既に方向感覚も何もなくなっている。
顔を上げれば見えるかと思った館内の灯りさえ全く見えない。
「あ……」
あまりに突然のことに手塚の全身が恐怖に捉われた。
そうして、そのまま手探り状態で数歩足を進めたときだった。
背後の方から低い唸り声のようなものが風の音に混じって聞こえてくる。
やがてそれは四方から聞こえるようになり、しかも次第に手塚に近づいてきた。
恐怖と緊張に身体を強張らせていると、突然右腕を何かに掴まれた。
それはぞっとするような冷たさを手塚の心臓に送り込む。
本能的に飛び立とうと羽を出したもののそれには全く力が入らず羽ばたくことさえできない。
右腕に続いて左腕、腰、左右の足までもが冷たいものに掴まれて、同時に手塚は猛烈な眠気に襲われた。
助けを呼ぼうにも喉がひくついて声が出ない。
そのまま手塚は意識を失い、自分に絡みついてくる冷たい何かに身を任せた。
ぼんやりとする視界を定めようと無理矢理に重い瞼を開けるより先に、怒ったような呆れたような声が飛んできた。
「全く、無茶しすぎです。あなたはこんな所で死にたいんですかっ!?」
淡い光の中に彼を認めて、その黒い瞳が自分を見つめていることに安堵感が湧き上がる。
今の状況を認めるよりも先に、手塚は小さく微笑んで彼に手を伸ばそうとした。
しかし腕は自分の身体とは思えないほどに重く僅かに指先を動かすことしかできない。
そこで初めて手塚は自分の身に起きたことを思い出した。
「あなたが……、助けて…くださったのですか?」
「何故外に出ようなどとしたんです。ここがどこだか忘れましたか?」
「お聞きしたいことが、あったから……。どうしても……」
手塚はゆっくりと身体を起こしながら周囲を見回した。
どうやら自室に運ばれてきたらしい。
「ありがとうございました。あの……」
「もうすぐ談義も終わるようです。それまで部屋の外に出ないことですね」
そう言うと男は腰をかけていたベッドから立ち上がりドアに向かった。
「お願いです、教えてください。何故、天界を捨てたのですか?」
男は立ち止まり小さく溜息をつくと振り返る。
「では逆に聞きましょうか。何故、あなたはそんなことを知りたがるんです?」
「それは……。それに答えたらあなたも答えてくださるのですか?」
「そうですねぇ……」
男は顎に手を当てて、まるで焦らしているかのようにちらりと手塚を見る。
と、甲高い鐘の音が館に響き渡り談義の終了を知らせた。
「終わったようですね、今年は早い」
男はにこりとしてドアに手をかける。
「待ってくださいっ」
手塚はベッドを抜けて後を追おうとしたが、立ち上がった途端にふらついて結局ベッドの縁に腰を下ろしてしまった。
「次の聖月儀には参列しますか?」
尚も立ち上がろうとする手塚に男は静かに声をかけた。
「え? ええ、多分……」
「では、そのときまで今の気持ちが変わらなかったら答えてあげます。ただし、あなたの理由も聞かせてもらいますけどね」
そう言って男はドアを開けて出ていこうとしたが、身体が半分ほど出たところで「あ、そうだ」と呟いて振り返った。
「知らないようですから教えてあげますけど、地獄では天使の力は一切使えませんからね。羽を出しても飛ぶことはできませんよ」
分かりましたか?とでも言いたげに眉を僅かに上げて首を傾げる。
何故か面白そうに笑んでいる瞳に、手塚は無言で頷いた。
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