■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...23
 

汗を拭いながら上を見上げると幾重にも折り重なった木々の枝から眩しいほどの陽射しが零れてくる。
もう少し遅い時間に出てくればよかったと、こんな午後の暑い時間にホームズの催促に負けて屋敷を出てきてしまったことを乾はひどく後悔した。
当のホームズは少し先にある赤茶けた幹の木の根元に鼻を寄せて何やらしきりに臭いをかいでいる。
乾は苦笑しながらその木に近寄り、堅いコブシに指を伸ばしてみた。

ちょうど2年前のこの時期。
乾はこの木の根元で途方に暮れて眠り込んでいた。
ホームズと初めて会った場所でもある。

「お前に会ってなかったらどうしてたかな?」

乾は何が気になるのか木の根元に鼻を押し込もうとしているホームズの側にしゃがんでその頭を撫でた。
ひとしきり木の根に挑戦してやっと諦めたのか、ホームズが乾を見上げて数回吠える。
「また今度にしよう。今日はもう帰りたいよ」
そう言って乾は膝を伸ばしてのんびりとその場を後にした。
ホームズもそれに続いてしばらくは横を歩いていたのだが、気がつけばいつの間にか乾を先導するように数歩先を歩いている。
彼はまだあの時のことを覚えているのだろうかと、今はもう迷うこともなくなった森の中を歩きながら乾は緩く振られているホームズの尻尾を見つめていた。

 

「ああ、汗だくだね」
1階のテラスから続いている部屋に入ると、ソファに寛いで本を読んでいた不二が顔を上げて微笑んだ。
「もう少し涼しくなってから行くべきでした」
「そうだね、ご苦労さま。何か冷たいもの飲む?」
「とりあえずシャワー浴びてきます。それから」
喉を潤したいのもやまやまだが、今は背中や首筋に流れてきそうな汗をなんとかしたかった。

早足で自室に戻り手っ取り早くシャワーを浴びる。
冷たい水が僅かに陽に焼けた肌に心地よかった。

バスルームを出て腰にタオルを巻いたままの姿でベッドにごろりと横になる。
目を閉じると気だるい疲れが身体を包み込んでそのまま寝入ってしまいそうだ。
しばらくはそうしてどこか心地よい疲労感に身を任せていたが、本当に寝入ってしまう前にと乾は身体を起こして服を着始めた。

 

廊下に出て一番奥の部屋に近づくと開け放たれているドアの向こうから話し声が聞こえてくる。
乾は部屋の前まで来てドアをノックしようとしたが話の邪魔をしてはいけないかと思い、それが一段落するまでドアによりかかって流れてくる声に耳を傾けていた。
「……方銀行の株価は相変わらずだね、9つの地銀が最高値を更新してる。まだしばらくは続きそうだよ。祐大だったらどうする? でも調査を見ると一般の人の都銀へのイメージも回復してきてるみたいだし……、やっぱりパスかな。…………あ、これ、すごいよ。旭出版から新たにドイルの著作が文庫……」
「うわっ」
ドアに寄りかかって手塚の話を聞いていた乾がいきなり後ろからホームズに飛び掛られて思わず驚きの声を上げてしまった。
咄嗟に部屋の中に視線を移すと手塚が振り返り目を丸くしているのが見える。
「驚いた。どうしたんですか?」
少し呆れているようなその口調に乾は自分の腰のあたりに前足を掛けて尻尾を振っているホームズを睨んで「いや、別に……」と答えて部屋に入っていった。
乾よりも先にベッドサイドの椅子に座っていた手塚の所へ辿りついたホームズはそこに前足をそろえてきちんとお座りの体勢を取る。
「こいつ、絶対に俺のこと一番の下っ端だと思ってるよな」
ちょこっと足でホームズをこずく乾を手塚がくすりと笑いながら見上げてきた。

 ―― 綺麗な顔してるな……。

初めて会ったときから端正な顔をしているとは思っていたが、あれから2年が過ぎて当時僅かに残っていた子どものようなあどけなさはなくなり、今は更にその表情に大人の色が浮かんできていた。
不安に彩られがちだった瞳は笑みをたたえることの方が多くなったし、眉根を寄せる表情も乾が見ている限りはこのところなかったように思う。
彼の中で答が出たのかどうかはいまだに乾にも分からないことなのだが、それでも何かが彼の中で変わってきているのは確かなのだろう。
ときどき甘えるように乾の側にくることはあるものの、その行為の中に切なさや悲しさなどは感じられなくなっていた。
手塚の涙を最後に見たのも、もう随分と前のことだ。

「なんのニュース?」
手塚が向かっていた小さめのテーブルの上に置かれたパソコン画面を覗きながら乾が聞いた。
「とりあえずこの時間のトップニュースです」
「そう」
少し視線をずらすとテーブルの端に細くて黒いフレームの丸い眼鏡が置かれているのが目に入る。
そういえば、彼はこの眼鏡以外のものをかけているのも持っているのも見たことはなかったなと、一つ二つ小さな白い埃がついているレンズを見ながら乾は思った。
他の眼鏡は持っていないのだろうか?
そんなことを考えながら、乾はベッドに横たわるその眼鏡の持ち主を見つめた。

静かに閉じられている彼の瞳は時々瞼が動いたりするものの、一向に開く気配はないらしい。
指先に固定されている小さな器具がベッドの向こう側にあるモニターに彼の規則正しい鼓動を映し出していた。

朝食の後と午後、そして夜寝る前にここで彼に最新のニュースや彼の好きな本を読んで聞かせるのが手塚の日課だった。
それは彼が都内の病院にいたころからのもので、あの頃もここに戻ってきてからも毎日同じ時間に手塚はこの椅子に座ってこうして語りかけていた。

もしもあのとき、自分が不二に連絡を入れていなかったら今のここでの生活はなかったのだろうかと、乾は今更ながらに自分のした行為の重大さに溜息をついた。

 

 

 

 

あの日、大和が部屋を出て行ってしばらくしてから乾は思い出したように不二の携帯を呼び出した。
もちろん大和が来たことを知らせるためだ。
それを聞いた不二は一瞬息を呑んだような声を上げたのだが、すぐに『そう』と呟いてそのまま黙り込んでしまった。
やはり不二には何も連絡していなかったらしい。
『それで、先輩どこに行くとか言ってた?』
それは乾も何度か聞いてみたのだが、大和は曖昧に答えただけではっきりとどこへ行くとは言ってくれなかった。
『そっか……。連絡、ありがとう』
その言葉を聞いて電話を切った一ヵ月後、乾は不二たちの住むマンションの近くにある病院で大和と対面することになった。

正確に言えばそこは病院ではなく大和や不二たちが勤めていた研究施設だった。

大和があの屋敷に続く道の途中から地元の病院に運び込まれたのは、乾が不二に連絡を入れた翌日だった。
細いガードレールを突き破った大和の車は10メートル近い崖を落下してフロントの部分をかなり大破させていた。
もともと車の通りなどない道だったから怪我を負った大和は気を失ったまま半日近く放置され、その日の夜中に屋敷へ向かおうと車を走らせていた不二に発見された。

かなりの高さから落下したため全身数箇所を単純、複雑問わず骨折をしたり多少内臓にダメージを受けたりしてはいたものの、命に関わるほどの傷は負っていなかった。
おそらく崖の途中に突き出していた木々の枝が落ちていく車のスピードを抑えていたのが幸いしたのだろう。
あとはゆっくりと傷が癒えていくのを待つだけのはずだったのだが、しかし大和が目を覚ます気配は一向になかった。
心電図も脳波もまったく正常なのに、意識だけが戻らない。
地元の病院にいる間は不二が大和に付き添い、乾は東京に残された手塚と一緒に過ごしていた。
そうして一ヵ月後、恐らく不二が手配したのだろう、病院を併設しているこの研究施設に大和は移送されてきた。

 

『どうしてあんな場所で事故なんか……』
手塚が寝入ったのを確認してから乾がリビングに戻ってきて不二に呟いた。
あんなにタイミングよく不二が事故を発見したことが偶然だとは思えない乾は事故の直後にそのことを問い詰めたのだが、不二は状況が落ち着いたら話すよと言ったきり口を閉じてしまった。
その後の一ヶ月は手塚と一緒に過ごしつつ大学に通っていたのだが、とうてい大和や手塚のことが気になって何事にも集中できない状態が続いていた。
そうして不二が大和と共に東京に戻ってきて、やっと乾はゆっくりと不二の話を聞く機会を得られたのだ。

『先輩がイギリスに行くなんて、嘘だったんだよ』
その言葉に乾が驚いて顔を上げて不二を見つめる。
不二はソファに身体をあずけて視線を俯けたままぽつぽつと話し始めた。

 

さすがに急すぎる話を不二は信じることができず、それなら行き先と研究施設の名称をはっきりと教えてくれと言ったのだが大和はまだ正式には決まっていないからなどと曖昧な返事をするだけだった。
結局、不二は会社の名前を使ってイギリスの該当しそうな研究施設や大和の知り合いに当たってみたものの、大和が研究員として赴任するといった話はどこからも出てこなかった。

『じゃあ、大和さんはどこに行くつもりだったんですか?』
『どこにも行くつもりはなかったんだよ』
不二は小さく溜息をついて乾をちらりと見て再び俯く。
『先輩は、ずっとあそこにいたんだ』

自分の調べた結果をつきつけても大和はイギリスに行くの一点張りで不二の言うことを認めようとしない。
埒のあかないまま手塚と共に東京に戻ったものの、納得できない不二はこちらの生活が多少落ち着いてから再びあの屋敷を訪れてみた。
合鍵を使って中に入ってみれば、案の定、大和はまだそこにいた。
『これからどうするつもりなんですか?』
そんな不二の問いかけに大和は『どうしてもここでやっておきたいことがあるんですよ』と薄く笑って答えた。
それはイギリスには行かないことを暗に示唆しているのかとも思えたが、不二は何も言わずにその後一週間を大和と過ごした。
しかし一緒にいるといっても大和は一日のほとんどを自室にこもって何かしているようで食事以外は滅多に姿を見せない。
たまに顔を見せるとその表情は日を追うごとに憔悴していくようだったが、不二はそんな大和をただ見つめているだけだった。
さすがに仕事をいつまでも休んでいられない不二は大和を残して東京に戻ることにしたのだが、大和はそのことに明らかな安堵の表情を浮かべていた。

『じゃあ、俺が行ったときも大和さんはまだあそこにいたんですか?』
『うん……、いたと思うよ』
色を失った庭のテラスに腰をかけて大和のことを考えていたあの時に、その物想いの対象がすぐそばにいたのだと思うと心の奥からやりきれなさが込み上げてくる。
『一体、何をしていたんですか、大和さんは?』

一度だけ、どうしても気になって仕方のなかった不二はコーヒーを持って大和の部屋をノックした。
本来なら部屋の主が返事をしてから少し待って扉を開けるところなのだが、今回は返事も待たずにドアを開けて中を覗く。
大和は窓際の机の前から驚いたように振り返った。
『ちょっと失礼ですよ、不二君』
慌てた様子はないものの、大和は不満の表情を隠すこともせず席を立ってドアの方へと歩み寄ってくる。
その姿越しに不二が見たのは机の上に開かれているノートとペンだった。
不二の視線に気づいたのか、大和はわざとそれが見えなくなるような位置に立ってコーヒーを受け取る。
『ありがとうございます』
その一言を残してドアは閉められてしまった。

しかし机上の光景を見た不二には、それが何であるのか凡その見当はついた。
あれほど強く想っている手塚を遠ざけてから書き記すものなど他に思い浮かばない。
『まったく……』
更につのる心配と少しの苛立ちと哀れみに、不二は小さく舌打ちをしてその場を離れた。

それからは不二も大和に会いに行くことはなく、それでも不安と心配を抱えつつ過ごしていたのだが、そこに入ってきたのが乾からの連絡だった。
『大和さんがさっき来たんですよ』
それを聞いた不二は背中にぞくりとするものを感じて思わず肩をすくめた。
イギリスに行かないなら行かないでずっとあの屋敷に居てくれるよう願っていたのに、それを自分に連絡をせず乾に会いに行くとは……。
職場でその電話を受けた不二はすぐにも屋敷に向かいたい衝動をなんとか抑えて終わらせるべき仕事を片付け始めた。

大和は必ずあそこに戻ると、それは不二の確信だった。

『大和さんが書いていたものって?』
『うん……』
『不二さん?』
『先輩自身のこと、手塚と出会ってから今までのこと』
『それって……』
一つの可能性が乾の胸に過ぎって眉を顰めさせた。
愛する者を遠ざけて自分の過去を記して、そのくせイギリスに行くわけでもなく……。

『まさか、自殺……?』

ゆっくりと顔を上げてきた不二と視線が合って、乾はこのとき初めて彼の辛そうな表情を見た。
唇を噛んで、僅かに細められた奥にある瞳は小さく揺れている。
『分からない』
本当に分からないのか乾の言った言葉を認めることを拒否しているのか、それきり不二は黙り込んでしまいしばらく言葉を発することはなかった。

 

 

 

 

乾は夜の芝生の上に寝転がって星の瞬く空を眺めていた。
地面からは湿った土の独特な匂いが漂ってくる。
空に浮かんでいるのは尖った三日月で、今夜は月明かりを期待することはできなかった。
しかしその分、星の輝きは美しい。

さくさくと芝生を踏む軽い音が聞こえてきて乾は首を巡らせて音の方に視線を投げた。
手塚が近寄ってきて乾の隣に腰を下ろす。
「あのとき以来、俺ここで満月って見てないんだよね」
腕を頭の下で組んだ乾は星を見つめたままぽつりと呟いた。
隣で微かに笑う声が聞こえてくる。
「じゃあ今度は満月の日に来ればいいじゃない?」
「うーん、そうしたいけど、なんだかんだで忙しくてさ。初めてここに来たときみたいに十日間くらいのんびりしたいよ」
「うん……」

あのとき、森の中で迷ったことが乾の人生を少しだけ違う方向に向かわせた。
もしかしたら大和や手塚には会っていなかったかもしれないし、今こうして寝転がって夜空を見上げていることもなかったかもしれない。
それまで通り、自分は都会から滅多に抜け出すこともなくそれを当たり前だと思いながら大学に通っていたのだろう。
年度が変われば新しい知り合いができるのは当然だとしても、こういう知り合い方をした彼らは特別な存在に思えてならなかった。
今まであまり付き合いのなかった年齢の離れた年上と年下の存在は、乾の人生にそれまでなかったものをもたらしてくれたようなそんな気さえするのだ。
そしてこの屋敷も、2年の間に乾にとっては郷愁さえ感じさせる特別な場所になっている。

乾は首を少し傾けて隣に座っている手塚を見上げた。
彼もこの2年で随分と変わったと思う。
不安定さがなくなったというのだろうか。
ここから東京へ戻ったときの支えてやらなければ崩れてしまいそうな弱さはもう見られなかった。

「ねえ、いつか言ってた君の答って、もう出たの?」
「え、何?」
振り向いた手塚の顔は庭に取り付けられている小さな照明に照らされて僅かにオレンジ色を帯びている。
月明かりの中の青白い美しさとは違う温かみのある色が今の手塚自身を表しているように思えて、乾はついその表情に見とれてしまった。
「あ、ああ……。手塚国光の過去は自分のものかって」
「あ……」
手塚は少しだけはにかんだような表情を見せた。
「どうして急に?」
「ん……、随分と変わったから。あの時、君は手塚国光が自分の気持ちを認めてまっすぐに前を見られるようになったって言ってただろ。今の君もなんとなくそんな感じかなと思って」
「どうかな。もしかしたら開き直りかもしれないよ」
「そうなの?」
「うん……、本当はあんまり考えてないんだ。あの時は一体自分がなんなのかってすごく知りたくて。でも考えようとすると彼の日記が頭に浮かんできてぐちゃぐちゃになった」
手塚は足を伸ばすと深呼吸をするように胸を反らせてそのまま身体を倒した。
その横顔が目の前に来て、ふいに乾の脳裏に月明かりの中で涙を零していた彼が浮かんできた。
「だけど、やっぱり君は変わったと思うよ」
「それは……、多分ここにいるからだよ」
手塚は視線だけを乾に向けて小さく笑った。
「ここが好きなんだ。ここにいるとなんとなく自分を認められるような気がする。俺と手塚国光は双子みたいなものなんだよ、一つのものを共有してるけど意識は違う。存在は別々だけど決して別人じゃない。それに……」
一度言葉を切って息を吸い込んだ手塚の瞳は夜空を見据えている。
その凛とした横顔に乾は嬉しさと安心感と、そして少しの寂しさを覚えた。
「それに?」
その言葉の続きが聞きたくて催促する。
「それに、確かに俺はここに存在している。それは祐大が望んでくれたことで、俺はあの人に必要とされて生まれてきたんだ。もちろん……、彼のしたこと自体は間違いだったのかもしれないけど、でもやっぱり、素直にそれが嬉しいと思うんだ」

また3人でここに戻りたいと手塚が言い出したとき、乾はその提案にあまり賛成はできなかった。
大和はあの状態だし、不二も例え手塚のことを考えているにしてもやはり彼には彼の抱えてきた想いがある以上、どこかしら不安なものを感じてしまうのだ。
けれど今、目の前の手塚を見る限り、全ては乾の杞憂だったのかもしれない。
何かの目標に向かってまっすぐに歩いているというわけではないけれど、それでも手塚があの頃よりもずっと強くなっているのは間違いなかった。
もう自分の腕の中で小さく弱い姿を見せることはないのだろうと思うと切ないような喪失感を覚えるのだが、それ以上に一人の人間の成長に自分が関われたことを乾はどことなく不思議でくすぐったいもののように感じていた。

 ―― 大和さん、あなたは早く目を覚ますべきです。
    あなたが愛した彼を、しっかりとその目で見るべきです。

同じ間違いを繰り返したくはないと、そう書かれていた大和の手記が思い出される。
再びここを訪れるようになってから、不二に言われてそれを読んだ。
最初は大和が書いたものを自分が勝手に見てもいいのかと思ったのだが、そのノートの始めのページには
「ここで共に暮らした3人へ。懺悔のつもりではないけれど、自分の全てをここに書きます」
と記されていた。

手塚国光の日記とこの大和のノートと、その両方を読んだ手塚は何を感じたのだろうと、今は隣で上を向いたまま目を閉じている彼に視線を走らせる。
やっぱり綺麗な顔してるなと、じっと見つめる乾の視線に気づいているのかいないのか手塚はじっと目を閉じたままその睫毛を僅かに震わせていた。

 

「大和さん、今度は冬休みまで来られないと思います。これからまた忙しくなりそうで」
乾はベッドの側に膝をついて眠っている大和の顔を覗き込みながらそう告げた。
手塚とホームズがそんな二人の様子を見守るように後ろに立っている。
「今度来る時までに目を覚ましててくれるといいんですけどね」
それから乾は立ち上がって「じゃあ、行くね」と手塚に振り向いた。
「うん」
手塚が頷くのを見て乾も軽く頷く。
いつも乾が帰るときに手塚の表情が少しだけ寂しそうな色を浮かべるのだが、乾にとってそれは密かに嬉しいことだった。
今日もそんな表情をしている手塚に満足して、乾はドアの方にゆっくりと足を向ける。
手塚とホームズもその後について部屋を出た。

大和の部屋のドアは開け放たれたままだった。
昼の間はいつもそうされている。
誰が決めたわけでも特に理由があるわけでもないけれど、それが不二にも手塚にも乾にも今では当たり前のことになっていた。

 

車のバックシートから振り返ると、玄関の前で不二と手塚が並んで見送ってくれているのが目に入る。
手塚は小さく手を振っていた。
しかしその姿は車が公道へ出るためにハンドルを切ったためすぐに見えなくなってしまい、乾は仕方ないなとばかりに小さく溜息をついて身体を戻しバックシートに身を沈めた。
今の自分はきっと少し前の手塚と同じ表情をしているのだろうと思う。
こうして車に乗り込んで屋敷を後にする瞬間が一番嫌いだった。
大和にも言った通りこれからしばらくは大学の方が忙しくなりそうで、当分ここに来られなくなるだろう。
本当は今回だって無理矢理日程を調整して3日間の空きを作ったくらいだった。

それでも、普段とは違う居場所がある自分に乾はけっこう満足していた。
あの屋敷のことやそこの住人たちのことは乾の周囲の誰も知ってはいない。
どうしても口にすることはできなかった。
彼らとの繋がりは自分だけのものにしておきたいという幼稚な独占欲なのかもしれないが。

窓の外をぼんやりと眺めていると、やがて車は大和が事故を起こした現場の近くまできていた。
ここも既に何度も通っているが僅かに色の違っているガードレールを見る度に、乾の胸には大和に対するさまざまな想いが込み上げてくる。
まだまだ話したいことも聞きたいことも沢山ある。
また抱きしめて欲しいとも思う。

そして何より、早く手塚のことを見せてやりたかった。
きっとあの人は手塚の変わりように驚くことだろう。
彼は彼なりに手塚国光のことも自分の中に認めようとしている。
再びここへ引っ越してくる準備をしているときに、手塚は小さく呟くように乾に言ったことがあった。

『手塚国光もあそこへ一緒に連れて行きたい気分なんだ』

その時の少し笑みの浮かんだ手塚の表情は、いつもは見られないくらい優しい印象を乾に与えていた。
ずっと自分自身に不安を抱えて生きてきた手塚だが、それも完全に消えることはないにしろ少しずつ薄れていくのだろうと確信できる。
そうして自分は、できる限りそんな彼らの側に居たいと思う。
これから先、彼らに自分の存在が必要になるのかどうかは分からないし、もしかしたらいつまでもお客さんでしかないのかもしれない。
それでも乾自身にはあの屋敷も彼らも既に必要不可欠なものになっていた。

物思いにふけっている間にも車は細い道から県道に入った。
乾にとって、この県道に出る瞬間はいつもの日常が始まる合図だった。
完全にバックシートにもたれかけていた身体を起こして少し背筋を伸ばしてみる。
そして都会とは全く異なる雑然さを見せる街並みを横目にしながら、乾は胸を張って大きく深呼吸をしてみるのだった。

 

 

窓から入り込んでくる風が白いカーテンを大きく揺らしている。
それを目の端に映しながら、手塚は画面に出てくるニュースの中から大和が興味を惹かれそうなものを探していた。
「んん……、あんまりないな。夜になったらまた何か出てくるかもね」
そう言って手塚は画面から目を離し、一旦眼鏡を外してから緩く目をこすった。
この距離なら眼鏡がなくても十分に大和の顔を見ることができる。

「乾さん、冬まで忙しいんだって。来てもゆっくりしてられないって言ってた。でも研究室での実験も楽しそうだよ、忙しいって言ってるくせに顔は嬉しそうだった」
手塚はくすりと笑って持っていた眼鏡を画面の横、大和のそれが置いてある隣にコトリと置いた。

「みんな研究職だね、ちょっと羨ましい。ほんと言うと俺も大学に通いたいんだけど……、やっぱり無理かな。
乾さんが帰っちゃうと寂しいね。
……昨日聞かれたんだ、俺の答えは出たのかって。
東京に戻ったばかりのときは曖昧なことは駄目なんだと思ってた、俺自身が何なのかはっきりさせないとって。
でも……、曖昧なままでも、いいよね。ここで過ごす毎日に、けっこう満足してるんだ。
きっと祐大のノートを読んだからだと思う。

彼を愛してたんだね、本当に。

俺のことも……。

だけど祐大がどんな気持ちでいたのか、気づかなかった。
病院にいたときからずっと親切にしてくれる兄みたいに思ってたし、ここに来てからは……周助ばかり見てたから。

でも実感がないよ、愛されてるって。

 

こういうの、かなり寂しい。

 

自分の気持ちを言うだけ言って眠ってるなんてずるいよ。
なんだかすごく中途半端すぎる。

だから早く起きなよ、待ってるんだから。

 

……風が強くなったね、窓、閉めるよ」

 

 

手塚が立ち上がるとその近くに寝そべっていたホームズも一緒になって首をもたげた。
くんと小さく鳴く彼の頭をひと撫でして窓辺に近寄った手塚は、窓に掛けた手を一旦止めて夕暮れ色に染まり始めた景色を見下ろした。
周囲の地形の関係なのか、夏のこの時期には夕方から夜にかけて強めの風が吹くことが多い。
都会と違って湿気を含まない風が身体にまとわりつく暑さを消し去ってくれるようで、手塚はこの風に吹かれているのが好きだった。

 

部屋の中では目の前に投げ出されていた指が僅かに動くのを見てホームズが首を捻りながらもその指先をひと舐めしていた。
しかしそれが動いたのは一瞬だけで、再び力を失ったようにその指は止まってしまった。
それでもホームズは主人が目覚めるのを期待するかのように瞳が閉じられたままの顔に鼻を寄せてその頬を数度つついてみる。
それに刺激されたかのように小さく睫毛が揺れて、その間から一滴の涙が零れ落ちてきた。
細い跡を残してそれが滑り落ちていく頬をホームズが嬉しそうに舐め始める。

しばらく風を楽しんでいた手塚が再びベッドの横に戻ってきて何やら興奮しているホームズを嗜めた。
「もう行こう」と部屋を出るように促しても動こうとしないホームズに、手塚はいつものことだと思い一人でドアの側まで足を運ぶ。
そこで振り返りもう一度ホームズの様子を見てみるけれど彼が動く気配は全くない。
仕方ないなというように小さく溜息をついて、手塚はそのまま部屋を出て行った。

静かに閉まるドアの音にホームズは振り向いて小さく鼻を鳴らす。
それからしばらくは主人の顔を見つめていたものの何の反応も示さなくなったことに退屈したのか、彼はまたベッドサイドの床に寝そべってしまった。

外はもう薄い藍色になってきて部屋の中も次第に明るさを失っていった。
それでもホームズは緩く尻尾を動かしながら時折首をもたげては頭上にある指先を見つめてみる。
しかしそれが動く気配は全くない。
いつしかホームズの目もゆっくりと閉じられた。

やがて室内は小さな照明のあるベッドサイドを残して暗闇に覆われた。

 

そのぼんやりとした薄明かりの中、再び小さく指先が動いたものの、既に眠り込んでいたホームズはそれに気づくことはなかった。

 

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(2004/4/21)
 


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