■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...22
 

夏が過ぎて秋が来て、それもあっとう間に風の冷たい季節に変わった。

大学の講義の間にも乾は時間を見つけて不二と手塚の元に顔を出していた。
不二は会社の研究部門から製薬事業部へ移り、いずれは会社を受け継ぐ義兄のアシスタントについている。
手塚は滅多に部屋から出ることはなく昼間のほとんどの時間をパソコンの前で過ごし、大学の講義や自分の興味の赴くままにあれこれと知識を詰め込んでいた。
これについては乾も最近知ったことだったが、手塚はあの屋敷にいた頃から既にいくつか大学の講義を受けていたらしい。
内容としては国内外の文学や歴史を中心にしてはいたものの医学部関連の基礎講義も履修していたということで、これに関しては恐らく大和や不二の影響もあったのだろう。
今も手塚の受けている講義は多岐に渡っていたため、これから先、何か目標があるのかと聞いてみたが手塚は曖昧に受け流すだけで、自分の中ではそれなりの考えがあるらしいのだがそれを乾に話すつもりはまだないようだった。

大和に関しては全く状況がつかめないでいた。
何度か屋敷に連絡を入れてみたが一向に繋がらず、夏が終わる頃にはその電話番号も使用不能になっていた。
不二の方にも連絡はないらしい。
手塚の様子を知らせてやりたいと思うものの、大和が日本にいるのかさえ不明なままだった。

そんな状態に不安が募った乾は、無駄だと思いながらも連休を利用してあの森の中の屋敷を再度訪れてみることにした。

 

 

屋敷に向かうタクシーのバックシートから見える森は夏と様相を一変させていた。
ほとんどの樹々は葉を茶色に染めているか葉を落として裸になってしまっている。
それでも所々に常緑樹が見られるものの、それは夏の濃い緑とは違いどこか色褪せているように思えた。

あの日、大和に見送られて一度通ったきりの道をもう一度辿ることに乾は妙に落ち着かない気持ちを感じていた。
一度は通って知っているはずの道なのに、季節が変わって彩が変化したことがここまで自分に違和感を覚えさせるなど今まで味わったことのない感覚だった。

細い道を走っていくとやがて右手奥に白色の建物が樹々の間にちらちらと姿を覗かせる。

タクシーが車回しに入って玄関の前に停められると、乾は「少し待っててください」と声をかけて車を降りた。
そうして目の前の大きな扉に手をかけてみたが当然それは開くことはなく、何度かノブをがちゃがちゃいわせてみたものの扉は硬く閉ざされたままだった。
扉から少し離れて斜め上に視線を上げてみる。
大和が使っていた部屋だ。
しばらくそこを見つめてから、乾は踵を返して裏庭の方へとゆっくり足を進めてみた。

細かい砂利の上に枯れ葉が落ちていて、それを踏む度にかさりと少しだけ鋭く乾いた音が耳に響いてくる。
毎年こうして季節が変わるのは当然なことなのに、今の乾にとってこの自然の変化はあまりに寂しいものだった。
薄手のコートのポケットに両手を入れたまま、ぼんやりと俯きながら歩いていくと目の前が突然開けて裏庭に出る。
寝起きの彼らの目を癒していた美しい緑の芝生も、一面が淡い茶色に変わっていた。
そんな色褪せた景色の中で、テラスの白いテーブルと椅子だけがまだ高い午後の陽射しを受けてやけに眩しく目に入ってくる。
近づいてみるとテーブルの足元や椅子の上にも枯葉が落ちていて、それはもう今は誰もここにはいないのだと乾に告げているように思われた。
部屋に入る扉を見ても厚いカーテンが閉められていて中を覗くことはできない。
もちろん中に入ることもできなかった。

乾はテラスへ上がって椅子の上の枯葉を払い腰を下ろした。
目を閉じると向かいに座っている大和やティーポットを持つ不二の姿が浮かんでくるものの、顔に感じる風の冷たさにそれらはすぐに掻き消されてしまう。
ふと手塚の言葉を思い出して背後にある大きなモミの木を振り返ってみた。
その根元の周囲に目をやってみるが当然今の時期にシロツメクサなど見られるわけもない。

風が吹いて足元の枯葉がかさかさと音を立てて転がっていった。
夏には決して聞くことのなかったその音に虚しさを感じて、一人この場に戻ってきたことを乾は後悔した。
そもそもここで大和と会えるとは思っていない。
それは自分をさえ誤魔化そうとする口実にすぎない。
期間にすればたった二週間にすぎなかったのに、ここで一日を過ごしていた日々が酷く懐かしく思えて、乾は目を閉じて空を仰いだ。

しかし、もしもここで本当に大和に会えたとしたら、自分は何を話すのだろう。
もちろん手塚や不二の様子を伝えたいとも思うのだが、それ以上にもっと違う話がしたかった。
手塚国光が絡んでくる話は詳しく聞いたものの、その他の彼のことに関しては考えてみればほとんど何も知ってはいない。
とにかく、今は彼に会いたくて仕方がなかった。

「大和さん、どこにいるんですか……?」

ぽつりと呟いた言葉は発した本人でさえ予想もしていなかったくらいに乾の胸を貫いた。

 

 

大和からの連絡が入ったのは、乾が屋敷から戻って一ヶ月ほどしてからだった。

『ああ、乾君。元気でやってましたか?』

電話越しであっても大和の声はすぐに分かったのだが、まるで普通過ぎる挨拶に面食らってしまった乾はしばらく言葉を口にすることができなかった。
『乾君? ……乾君?』
しばらくの沈黙の後、大和が訝しそうに自分の名前を繰り返すのを聞いて、乾は急に我に返ったように早口でまくし立て始めた。

「大和さん!? 今どこにいるんですか? 今まで何をしてたんです? まだ日本にいるんですか?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に大和が苦笑しているのが分かる。
「実は今、君の部屋の下にいるんですよ。君に会いに行こうと思って」
「えっ?」
乾は慌てて窓からベランダに出て下の通りを覗いて見るが大和の姿は何処にも見当たらない。
その気配を察したのか、大和が「もうエントランスに入っちゃってますよ」と少しのんびりとした口調で言った。
その低くて穏やかな声音に、本当に大和なのだと心の奥から湧き上がってくる懐かしさのような切なさのような、そんな思いを感じながら乾は玄関に行ってエントランスのロックを解除した。

そうして彼がこの階に上がってくるまでのしばらくの時間、乾はドアを開けてじっと斜め向かいのエレベーターのドアが開くのを待っていた。

 

自分の部屋に大和がいることが酷く場違いのような気がして、なんだか落ち着かないまま乾は小さなテーブルを挟んで大和と向かい合っていた。
あれほど会いたいと思っていたのに、聞きたいことも言いたいこともたくさんあったはずなのに、こうして彼を目の前にすると妙によそよそしい態度を取ってしまう。
きっと大和もそれを感じ取っているのだろう。
しばらくは乾のペースに合わせて無難な会話に興じていた。

ここしばらく音信不通だったため、もしかしたらイギリスに行っていたのだろうかと思っていたのだが大和はずっと日本にいたらしい。
職場に退職願を出したため世話になった人たちへの挨拶回りだとか、イギリスに行く準備のために実家に戻ったりだとか、「あれこれと雑用が多くて」と言う彼の表情が記憶の中の彼よりも明るいことに乾は違和感を覚えた。

「どうして不二さんや国光に連絡を入れなかったんですか?」
それからしばらくして切り出された乾の言葉は二人の間に僅かな沈黙をもたらした。
大和は指先を組んで口元に持っていく仕草を見せて小さく息を吐く。
「……怖いんです」
一瞬だけ乾と視線を合わせて、しかしすぐに俯いた彼の口元は笑みを湛えていたもののそれは自嘲の笑みなのだろう。
「今更ですけど、決心が鈍りそうで」
「鈍ったらいけないんですか?」
そう言った自分の口調が思ったよりも強かったことに乾自身が驚き、大和も顔を俯けたまま上目遣いに乾を見つめてきた。
「すいません。でも、鈍ったら鈍ったで一緒にいればいいじゃないですか。それは……」

 ―― それは、あなたの義務でもあるんじゃないですか?

そんな言葉を言いそうになって乾は慌てて口を噤んだ。

自分が言えるようなことではない。
第一、そんなことはきっと本人が一番……。

「乾君?」
途中で言葉を止めてしまった乾を促すように大和は僅かに身を乗り出してくる。

 ―― とても言えない。

本人が一番分かっているであろうことを、ここで敢えて言う必要はないだろうと思った。
それらを全て踏まえて大和が出した結論がこれだったのだから。
「いえ、べつに……」
そんな返答に大和が何かを言おうとしたのを察して、乾は急いで席を立ってキッチンに向かった。
そうして既にサーバーからなくなりかけているコーヒーを淹れ直そうと棚に置いてある豆に手を伸ばしたところで背後から大和の小さな呟きが聞こえてきた。

「乾君の言いたいこと、分かります」

しかし乾は聞こえないふりをしてそのまま豆を挽き始めた。

 

「突然お邪魔しちゃって、申しわけありませんでしたね」
玄関で靴を履く前に大和は振り返ってそう言った。

もう時間だから、とソファから腰を上げた大和を乾はもう少しと引き止めてみたのだが一体何の時間がないのか分からないが「もう行かないと」と言って大和は手近に置いてあったコートを手に取った。
乾にしても不二や手塚の近況など、彼に伝えるべきことは既に伝えてしまっていたからこれ以上話さなくてはならないことはない。
それでもやはり大和が帰ってしまうのは酷く残念だった。

「本当に君には感謝をしています。僕のお願いなど聞く理由は一つもないはずなのに」
そんな言葉を聞いた乾は心の中で今更のように気がついた。
手塚を気にかけて彼の助けになりたいと思っているのは、もちろん手塚自身が心配だし彼を好きだからでもある。
しかしそれと同じくらいに、もしかしたらそれ以上に自分は大和の期待に応えたいと思っているのかもしれない。
いまだよく分からない彼に惹かれているから、その彼が自分に頼みごとなどをするから……。

だがそう思うと同時に小さな痛みが乾の胸に起きてくる。
結局、自分と大和はそういう関係でしかないのか、と。

「あの……」
乾は靴を履くために背中を向けた大和に慌てて声をかけた。
まだ言っていないことがあった。
「あの、今度会うときはもっとゆっくりと話がしたいです」
自分よりも背の高い彼を見上げることに不思議な安心感を覚える。
「俺は、まだあなたのことをよく知らないんです。だから」
大和が優しげな笑顔を向けてきたことで、乾は自分があまりに縋るような顔をしているのではないかと思って恥ずかしさから瞳を伏せた。
そうしてしばらくの沈黙のあと、
「ありがとうございます」
という声が降ってきた。
乾が顔を上げてみると玄関の薄暗さの中、大和の瞳の色まで見ることはできないけれど、それでも彼は嬉しそうな表情をしていた。

「それから……」
乾はただでさえすぐ側にいる大和に更に一歩近づいてその両手を彼の背中に回して少しだけ力を込めた。
少し上で小さく息を呑む気配が感じられる。
「すいません。この前あなたにこうされて、すごく落ち着くっていうか……気持ちよかったんです。俺よりも背の高い人に抱きしめられるって、今まで覚えがなかったから」
大和の肩口に頬を乗せていると彼の両腕もまた自分の身体に回される気配を感じて乾は目を閉じた。

もしも大和が女性を性の対象にしている男だったら乾もこんなことはしなかっただろう。
もちろん乾のこの行為に性的な意味は全くなかった。
それでも同性に対する憧れの気持ちや抱きしめられる心地よさを、大和ならきっと分かってくれるだろうと思ったのだ。

「次に会うときも、いいですか、こうしても?」
身体が浮遊するような心地よさに身を任せながら乾が呟く。
それに答えるように大和は腕にぎゅっと力を込めて乾の身体を抱きしめた。

乾はそれを了承の意味に受け取り、
「ありがとうございます」
と言って少しだけ強く肩口に頬を押し付けた。

 

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(2004/4/21)
 


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