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■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...21
乾は電車のドアに寄りかかって流れていく都会の景色を眺めていた。
東京へ戻ってきてからしばらくは予定外に遅れてしまった夏季休暇明けに提出するゼミの課題論文の仕上げに明け暮れた。
連日のように大学や専門図書館へ通い、夜はパソコンを使っての情報収集と幾度かの徹夜をして2日前に仕上げたばかりだ。
そうして残っているあと一週間の休みを、乾は手塚と過ごすことになっていた。
実のところ、ここ数日を時間的にかなりの無理をして課題を仕上げたのもこのためで、不二が一週間ほど仕事のために留守をするので出来れば乾に手塚の様子を見ていてほしいと頼まれたのだった。
それにしても、今こうして電車の中から高くそびえるビルや整然とデザインされた公園などを見ていると、あの屋敷での日々が現実だったとはとても思えなくなってくる。
そろそろ午前10時になるこの時間、あの芝生の庭ではもう蝉の声が響いているだろう。
どうかすると大和はこの時間になっても起きてこないことがあった。
景色の色も時間の流れも違うあの場所は、相変わらず森からの涼しい風に吹かれているに違いない。
あの日、不二と手塚が屋敷を出た後で乾は大和の部屋を訪れた。
もちろんその時点でいろいろと言いたいことも疑問に思うこともあったのだが、はなからそんな話をするつもりはなかった。
ここまできてしまった以上、自分にはどうすることもできないだろうと思っていた。
大和にしても自分の言葉一つで気持ちが変わってしまうような中途半端な覚悟でないことは明らかなのだから。
『結局、君の調査の手伝いはできませんでしたね。森の中の案内もできないままで』
大和もほとんど食事を口にしていなかったのかもしれない。
その顔には虚ろな疲労感が色濃く表れていた。
『大和さんはいつここを出るんですか?』
『そうですねえ……。まずは身辺の整理をしないと』
『国光たちの荷物は誰が?』
『明後日に業者の者が来ますから』
『向こうでの連絡先、教えていただけますか?』
『まだ決まってはいませんが、その前に君の連絡先を聞いておかないと』
当たり障りのない表面を滑るような会話を交わして時間は過ぎていった。
二人の間にある落ち着かない空気が煩わしい。
ふと乾はこの屋敷に来た初めの頃、大和と夜のテラスで話をしたことを思い出した。
あのときは楽しくて充実した時間だった。
『大和さん、ここ数日のニュースはちゃんとチェックしてましたか?』
ここで大和と過ごすのも今日が最後なのだと思うと、どうせならあのときのような時間を過ごしたいと思った。
そうして結局、その日はずっと大和の部屋で軽い食事をつまみながら話し込み、気がつけば日付が変わっている時間になっていた。
それでも二人は話をやめようとはせず、尽きない話に真剣な顔をして時に笑顔を浮かべてお互いの時間を共有しようとしていた。
しかし乾の方が先に眠気を覚えたらしい。
つい出てしまう欠伸を堪えようとしているのを見た大和がくすりと笑って「そろそろ寝ましょうか」と切り出した。
乾も頷いて部屋を後にしようとしたのだが、どうしても一つだけ言っておきたいことがあってその足を止めた。
『国光はあなたに愛想をつかされたと思っていますよ』
大和は一瞬眉根を寄せたものの、それはすぐに消えてしまった。
『そのことだけでも、違うと言ってあげられませんか?』
大和は少し俯いて目を閉じ、口元に僅かな笑みを浮かべた。
そうして一言、「おやすみなさい」と言っただけだった。
陽が高くなり蝉の声が激しくなってくる頃、乾はリュックを片手に迎えの車の前に立っていた。
ドアを開けて荷物をバックシートに置いて振り返る。
そこには大和が静かな笑みを浮かべて佇んでいた。
『一つ聞かせてください』
乾の問いに大和は「ん?」と首を小さく傾げてそれを了承した。
『もしも俺がここに来なかったら、こんなふうに国光や不二さんたちと離れることはなかったんですか?』
『……もしも、というのは意味がありませんよ。今は現実としての時間が流れているんですからね』
その答えに乾は頷きながら苦笑した。
それから「お世話になりました」と軽くお辞儀をして車に乗り込もうとした乾を大和の声が引き止めた。
『乾君、お願いがあります』
『あ、はい』
乾が振り返って返事をした途端、大和が緩やかに乾を抱きしめてきた。
突然目の前が大和の着ていたアイヴォリーのシャツに覆われて、乾は一瞬息を詰めて身体を堅くした。
背中に回されていた腕にそっと力が入って、同時に静かな声が頭上から降ってきた。
『僕の代わりに、国光を抱きしめてやってくれませんか』
その言葉を受けて乾の体からふっと堅さが抜けた。
『……一度だけでいいですから』
息の詰まるような大和の声に、乾はその頭を彼の肩口に凭せかけて目を閉じた。
こうして抱きしめられて相手の身体に頬を寄せることがこれほど心地の良いものだとは思わなかった。
乾の意識していないところで腕が上がり大和の背中に回される。
『分かりました』
囁くような声で答えて頷くともう一度大和の腕に力が入り、そして乾の身体を引き離した。
景色の流れていく速度が緩やかになり電車が駅のホームに滑り込んだ。
そこで降りて改札を通り抜けたところで携帯が着信を知らせてくる。
不二からだった。
『ごめん、迎えの車がもうきちゃったんだ。君のこと待ってられなくて申し訳ないんだけど』
「いえ、大丈夫ですよ。気をつけていってらっしゃい」
『ありがとう、じゃあ手塚のことよろしくね』
切れた携帯をポケットにしまいながら乾は初めて歩くこの街並みを眺めた。
数年前に再開発された眺めは非常にスッキリとしていて無駄がない。
以前はそんな街並みに心地よさを感じたものの、今はあの無作為に伸びる草花に囲まれた庭を見たかった。
メールで送られた地図を見ながら歩くこと10分程度で不二と手塚の住むマンションに到着した。
エントランスで暗証番号を押すとすぐに手塚の声がスピーカーから聞こえてくる。
「今、開けるから」
機械を通しているとは思えないくらいのクリアな手塚の声が弾んでいた。
玄関のドアを開けた手塚を見た途端、乾は僅かに眉を顰めた。
顔色が悪い。
頬のラインが鋭くなっている。
それでも乾を見上げる手塚は嬉しそうに微笑んでいた。
「元気?」
目の前の手塚にはあまりそぐわない挨拶のような気がしたけれど、まさかいきなり顔色が良くないとも言えず乾は遠慮がちにそう聞いた。
手塚は小さく頷くと部屋の中に乾を促して自分もその後についていった。
短い廊下を抜けると途端に視界がパっと開けたような感じで広いリビングになっていた。
薄手のカーテンが引かれているためか、夏の強い陽射しが程よく遮られて優しく室内を照らしている。
どこからかホームズが尻尾を振りながら乾に飛びついてきた。
「やあ」
乾は膝をついて大袈裟なくらいにその頭を撫でてやる。
ふいに懐かしいような奇妙な感覚が乾の胸を突いてきた。
東京に戻ってからまだ2週間なのだから懐かしいというのも変なのだが。
「毎日何してるの?」
リビングのソファに座り手塚の淹れてくれたコーヒーを前にして乾が聞いた。
さっきまではしゃいでいたホームズは乾の足元にうずくまって尻尾を緩やかに振っている。
「日記を、読んでいます」
「……そう」
「なんか変な感じです。祐大から聞いたことも全部が他人事みたいに思えるし」
そうして俯いて苦笑しながら手塚はソファから立ち上がった。
「ちょっと待っててください」
そう言って薄い笑みを浮かべる手塚が寂しそうに見えて、乾は戸惑いながらも「ああ」と頷いた。
人が動いた気配に気づいたホームズも起き上がり、一緒に行くとばかりに手塚の足にまとわりつく。
「お前は待ってるんだ」
手塚が少しだけキツい声とともに伏せの手つきをするとホームズはクンと小さく鳴いて首を傾げる。
その様子を見た手塚は一度乾に視線を向けてからリビングを出ていった。
やがて戻ってきた彼の手には一通の白い封筒があった。
それを乾に渡して手塚はそのまま窓の方に歩み寄って行く。
表にはここの住所と手塚国光の名前。
そして裏には大和祐大の名前。
「大和さんからの、手紙?」
乾はソファで上体をひねり窓際にいる手塚と手中の封筒を見比べた。
「先週、届いたんです」
「俺が読んでも、いいの?」
「はい」
手塚は窓に寄りかかって薄いカーテンを僅かに開けて、じっと窓外の景色を見つめている。
乾は再び封筒に目を戻して、丁寧に封を切られたそれから一枚の便箋を取り出した。
封筒と同じ、白い無地の便箋だった。
そしてそこに書かれているのはあまりに短いメッセージ。
君の人生において、少しでも多くの笑顔がありますように。
便箋を折りたたんで封筒に戻すと、乾はゆっくりと手塚の側に歩み寄った。
「ちゃんと寝てる?」
手塚と同じ方向に視線を走らせて彼が何を見ているのだろうと思いながらそう聞いてみた。
52階の最上階にあるこの部屋からは少し遠くにある海まで臨むことができる。
外気温も高くなってきているのだろう、遠くの景色がゆらゆらと揺れていた。
今いるこの高さからは地上で動いている車や人の姿ははっきりと分からない。
その喧騒も一切聞こえてこない。
無駄のないデザインを施された大小の建物が静かに林立しているだけに見えた。
施設の中に閉じ込められるように暮らし、緑に囲まれた屋敷からこの静かな都市に来た手塚にはこの景色はどう見えているのだろうと思う。
そうして視線を下げて手塚の方を見た乾の胸に小さな電流が流れた。
手塚の頬に一筋の涙が零れていた。
まるでそのことに気づいていないかのように、手塚は虚ろな瞳でじっと窓の外を見つめている。
「国光?」
乾の小さな声に手塚が顔を上げようとして、その瞬間目を閉じたのだろう。
瞳に溜まっていた涙が新たに零れた。
『気がつくとね、泣いてることがあるんだよ』
自分のいない間、手塚と一緒にいてやってほしいと頼まれたときに不二がそう言っていた。
『急に黙り込んだかと思うと泣いてるんだ。そんなときは何を言っても上の空でね』
「国光?」
もう一度、今度は少し声を大きくして呼んでみると一度は乾を見上げてきたものの、すぐにその視線は窓の外に向けられてしまった。
『申し訳ないんだけど、一週間この部屋に来てもらえるかな。さすがに一人にはしておけなくて』
手塚の指がカーテンを握り締めていて、その爪が白くなっていた。
乾は言うべき言葉を探し出すことができず、もどかしい気持ちのままにその指先を見つめていた。
手塚の頬にもう涙は零れてこないものの黒い瞳にはまだそれが溜まっていて、瞬きをすればすぐにでも落ちてきそうだ。
「大和さんがさ……」
乾の言葉にそれまで虚ろに外を見ていた手塚がはっと乾を見上げてきた。
その拍子に再び涙が零れる。
乾は手塚の肩に手をかけてそっとその身体を抱き寄せた。
手塚は特に驚くこともなく、それどころか乾に身体を預けてくるように頬をその胸に寄せてくる。
「これは大和さんから」
何が?という顔をして手塚が乾の胸から頬を上げた。
「大和さんが自分の代わりに君を抱きしめてくれって」
それを聞いた手塚は僅かに身じろぎをして、それから乾の身体に腕を回してぽつりと呟いた。
「自分でやればいいのに」
「……そうだね」
「祐大も周助も、誰もこんなふうに抱きしめたりしてくれる人はいなかった」
しばらく無言のままでそうしていた手塚が呟いた。
「自分のことが分からなくて、祐大も周助もいるのにすごく孤独な感じがして……。だけど、そんなときどうすればいいのか……分からなかった。だから……、一人で夜中に月を見て、そうするとなんとなく……自分を納得させることが、できる気がした」
その声は次第に詰まっていき、乾の身体に回していた腕にも力が入っていった。
「でも……分かった」
手塚は一旦言葉を切り、静かに深呼吸をするように息を吸い込み吐き出す。
それが乾の胸に僅かに暖かく湿った感触をもたらした。
「俺は……こんなふうに……して…ほしか……っ」
しゃくり上げてくるものに遮られて手塚の言葉は最後まで続かなかった。
それでも乾は彼の言いたいことを理解していると伝えるかのように強く手塚を抱きしめた。
堪えきれない嗚咽が時々胸に響いてその度に手塚の肩が揺れる。
乾はまるで子どもをあやすように手塚の背中を軽く叩いて「もう、いいから」と口元に触れていた彼の髪に囁いた。
「誰かに愛されるのって、どんな感じなんですか?」
夕食の片づけを終えてシャワーも浴びて、あとは寝るだけの二人はそれぞれ寛いだ格好でソファによりかかっていた。
そこで不意に出された手塚の質問に、乾はしばらく首をひねって考えてしまった。
―― 俺は愛されたことはあるんだろうか?
確かに付き合ってきた女性もいたが、お互いの間にあったのが愛なのかと問われるとそれを素直に肯定することができないような気がした。
大和の話を聞いてしまったせいかもしれない。
これまでに自分が相手に抱いてきた気持ちが愛と言えるものなのか、乾には分からなかった。
「乾さん?」
「え、ああ、ごめん。でも難しいこと聞くから」
乾が苦笑しながらそう答えると、手塚は真面目な顔をして「難しい……ですか?」と首を傾げた。
「うーん、難しいといえば難しいし、そんなことないといえばそんなことないし……」
手塚相手にどう答えていいものか分からず、乾は再び考え込んでしまう。
「乾さんには付き合ってる人、いないんですか?」
「ん、今はいない」
「じゃあ、前はいた?」
「まあ、……一応ね」
「その人のこと、愛してた?」
「んー……、そのときは本当に好きだったよ。多分、愛してたって……思う」
思いきりソファに背中を預けていた手塚はそのままごろりと横になって側にあった大ぶりのクッションを抱きしめた。
「楽しかった?」
「ん?」
クッションを頬に当てたため手塚の眼鏡は鼻の上でずれて今にも落ちそうになっていた。
手塚の視力がどれくらいのものなのか乾は知らなかったけれど、それを気にするふうもなく手塚は寝転んだまま乾を見上げている。
「好きな人と付き合うのって、楽しい?」
いつもレンズに覆われていた手塚の瞳が今は焦点を失っているようで虚ろに見えた。
「楽しいし、嬉しいし……、でも悲しくなったり頭にきたり。……いろいろとあるよ」
そんな乾の言葉に手塚は小さく笑うとゆっくりと目を閉じた。
そのまましばらく手塚が動かなかったので眠ってしまったのだろうかと乾がその顔を覗きこもうとしたとき、僅かに開かれていた唇が動いた。
「周助が好きだった」
唐突なその言葉に乾は何と答えていいのか分からず、ただ「うん」と頷いた。
「いつからか分からないけど、気がついたら好きになってた。祐大とも病院にいた誰とも違う感じだった」
手塚は相変わらず目を閉じている。
「でも周助には祐大がいるんだと思ってた。気づいてたでしょ? 時々、周助の首に痣がついてたの」
「……ああ」
「胸が痛かった、病気かと思うくらい。あんなの初めてで、誰かを好きになるのって辛いんだなって……」
そうやってぽつりぽつりと話す手塚の表情を乾は無言で見つめていた。
閉じた瞳の向こうで彼が何を見ているのか、その黒い睫毛が僅かに震えている。
「不二さんと二人で暮らすのは辛い?」
「……もう……、……き…ない」
「え?」
唇をクッションに押し付けて喋った手塚の言葉が聞き取れなくて、乾は少しだけ身を乗り出して聞き返した。
手塚がさっと目を開けて乾を見上げてくる。
「もう、好きじゃない」
そうして再び目を閉じた。
それは何の感情も感じられない言葉だった。
「どうして?」
「ここに来る車の中で周助に聞いた、全部。周助も祐大と同じ所の人だって。俺を監視するために一緒にいただけだって……」
乾は眉根を寄せて思わず溜息をついた。
そこまで話す必要があったのだろうかと、緩やかな笑みを浮かべる不二の表情を思い出す。
「好きだと思ってた気持ちが、すっと失くなった感じがした。あんなに胸が痛かったのは何だったんだろう……、俺は本当に周助のことを好きなわけじゃなかったのかな」
「人の感情は複雑だよ。自分でも好きなのか嫌いなのか分からなくなるときがある。好きで仕方ないのに次の日には憎いくらいに感じたり、でも考えてみるとやっぱり好きで……」
ふいに手塚が起き上がり大きく息をついてずれていた眼鏡を掛け直した。
胸に抱いたクッションに半ば顔を埋めるようにしてじっと何もないテーブルの上を見つめている。
「手塚国光は、……幸せだったかな」
そう言って伏せていた視線を乾に向けてきた。
「何回も何回も日記を読んだ。彼も祐大も男だから自分の感情が認められなくて、単なる憧れだと思い込もうとして。誰にも相談できずにずっと苦しんでた」
宵の口のこの時間、都会の喧騒はかなりのものだが最上階にある部屋には外の喧騒は全く届かない。
手塚が言葉を区切るとその静寂には耳鳴りがするくらいだった。
「憧れだとか好きだとか愛してるとか、人の気持ちを表す言葉はたくさんあるけどそんなのはどうでもいい。それらの言葉は他人が考えたものだから、この気持ちにそんな言葉を当てはめる必要はない。俺はただ、大和部長の側にいたい」
「国光?」
不思議そうに見つめてくる乾にくすりと笑いかけて手塚は再びその身体をソファに横たえた。
「日記に書いてあった彼の言葉」
「覚えてるの?」
そう言われて手塚は何回も読んでたから、と肩を竦めて見せた。
「手塚国光は、きっと幸せだったと思うんだ」
「どうして?」
「次の日の日記から随分と雰囲気が変わった。なんか、まっすぐに前を見るようになった……そんな感じ」
手塚はちらりと乾を見上げると眼鏡を外してそれをテーブルの上に置いた。
そうして左手を上に向かってまっすぐに伸ばして指を開く。
「この手は彼のもの。指も爪も目も、この身体は手塚国光のもの……」
じっと指先を見つめながら呟く手塚に、乾はかけてやる言葉を思いつかなかった。
やっと見つけた自分の過去。
しかしそれを知ってしまったために自分の存在が余計あやふやになってしまったのだろう。
それでも自分が自分であることを確認したくて、そのきっかけを「手塚国光」に求めたのだろうか。
何度も日記を読み返しては彼の言葉に耳を傾け、できるものなら彼を自分自身にしてしまいたがっているのだろうか。
目の前の手塚はまだほんの少年で、本来なら親の庇護を受けて学校に通ったり友人たちと騒いだりしているはずなのに。
必死に自分の存在を探そうとしている手塚の姿に乾の胸は痛んだ。
「手塚国光の人生を、俺のものだと思ってしまっていいと思う?」
手塚の真剣な瞳が乾を見つめていた。
きっと彼の中で答えは出ているのだろう。
小さく噛まれた唇と僅かに寄せられた眉根はその答を肯定してくれと縋っていた。
「それは……」
乾が口を開いた途端、手塚の瞳が僅かに見開かれた。
「それは、君自身で考えなきゃ」
手塚の黒い瞳が伏せられ、そして閉じられた。
辛そうに歪むその表情に乾の表情も同じように歪んだ。
しかし乾のそれは一瞬で、すぐにその表情は小さな吐息とともに崩れてふっと笑顔が浮かぶ。
「大丈夫、ゆっくり考えればいいんだからさ」
それを聞いて見上げてきた手塚の顔には不安の色が過ぎっていたものの、それでもその口元は小さな笑みを浮かべようと僅かに力が入ったようだった。
彼らにとってそれからの一週間はあっという間に過ぎていった。
その間、手塚が涙を流したのは2回。
いずれも乾が何かの用事でリビングを出たときのことで、それまでソファにいた手塚が窓によりかかり外の景色を見ながら泣いていた。
その度に乾は安心させるように手塚を緩く抱きしめて、彼が自分から身体を離すまでそっと髪を撫でていた。
そうしていると毎日使っているシャンプーの香りが仄かに漂ってきて、その一週間が終わってからも乾は手塚のことを考える度に少しだけ甘いフローラルの香りを思い出すようになってしまった。
不二が帰ってくる前の夜。
手塚が乾の使っている部屋に来てぽつりと呟いた。
「手塚国光が、羨ましい」
ベッドのヘッドボードにクッションを当てて本を読んでいた乾は「どうして?」と聞きながら読み途中の本をぱたりと閉じた。
「好きな人に愛されて、だから強くいられたし、まっすぐに前を見ていられた。でも俺は……、きっとそんなふうにはなれない。自分で自分のことが分からないんだから」
手塚はベッドの端に腰を下ろして小さな溜息をついた。
そうして乾に笑顔を向ける。
「そんな人間、誰も愛してはくれない」
それ以上乾は手塚の笑顔を見ていることができずに目を伏せた。
―― 大和さん、国光にこんなことを言わせたいわけじゃないでしょう……?
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(2004/3/17)
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