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■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...19
気が付くと乾はベッドの上で寝返りを打とうとしていた。
無意識のうちにタオルケットか何かを自分の身体にかけようと辺りに手を伸ばしてそれを探り当てたが、柔らかい布地は自分の身体の下にあって引っ張ることができなかった。
「んー……?」
仕方なく目を開けてみると、ベッドの上、さらにタオルケットの上に横になっている。
そういえば、と今の状況を考えて、昨夜は手塚の様子を見ながら眠ってしまったことを思い出した。
それにしても自分は床に腰を下ろしてベッドに凭れていたはずなのに、どうしてここに寝ているんだろうとぼやける視界で周囲を見回してみる。
ここに寝ていたはずの手塚の姿は見当たらなかった。
身体を起こしてサイドテーブルを見ると乾の眼鏡が丁寧に置かれていた。
それを手に取ってかける。
クリアになった視界で部屋を見回してみるがやはり手塚はいなかった。
昨夜の様子を思い出すと彼を一人にしておくのはよくないような気がする。
とにかく手塚を探そうとベッドから身体を降ろしたところで、白いレースのカーテンが揺れているのが目に入った。
その向こうに椅子に腰掛けている人影が薄らと映っている。
「おはよう」
その姿を認めた乾はほっとしてカーテンを開けながら森の方に視線を向けていた手塚に声をかけた。
「おはようございます」
振り返った表情は思いのほか明るいものだった。
「コーヒー、淹れましょうか」
そう言いながら手塚が腰を浮かすのを乾は片手を上げて「俺がやるよ」と制した。
部屋の中ならカップから立ち昇る湯気が鼻をくすぐってくるけれど、今は外にいるために僅かな風がその香りを流してしまっている。
しばらく無言でコーヒーを啜っていると、手塚が小さな溜息をついてカップをソーサーに置いた。
「あとで祐大のところに行ってきます」
そう言った手塚の表情には穏やかな笑みが浮かんでいて、昨夜、大和の部屋の前にいたときの虚ろな瞳の色は消えていた。
一晩のうちに彼の中で何かが変わったのだろうかと、乾は手塚の顔を覗き込んでみたがそれを読み取ることはできない。
ただ手塚の僅かに微笑んでいる姿が逆に痛々しく思えて、乾は彼に注いでいた視線を手元のカップに移した。
「心配かけてしまって、すいません」
乾が視線を下げた途端、手塚の小さな声が聞こえてきた。
反射的に顔を上げて目の前の瞳に見入る。
小さな笑みに憂いのような光が加わって、15歳の少年はいつもより大人びて見えた。
「昨日、夜中に目が覚めてしまって、それからずっと考えていたんです」
そう言うと手塚は森の方に顔を向けて何もない中空にしばらく視線を漂わせる。
乾は何も言えずにその横顔を見つめて話の続きを待った。
「いつまでもこのままでいられないのは分かっているつもりでした。一生、今の生活を続けられるはずはないって。
いつかは祐大や周助とも離れる時が来るんだろうって思うんだけど、でも俺はこんな身体でしょ? 自分のこともはっきりしないし、もしも一人になったらって考えるとすごく怖かった。
本当はずっとあそこにいればよかったのかもしれないって思うこともあるんです。ここでの暮らしは俺にとって心地よくて、だから余計にあそこに戻りたくないと思ってしまう。
でも、それは祐大にとって迷惑なことなんだって、もういい加減に認めなきゃ……」
「迷惑なんて、大和さんはそんなふうに思ってないよ」
「……うん、きっと思ってない。でも、やっぱり迷惑だと思うから」
ぽつりぽつりと話す手塚の声はかなり頼りない響きがするものの、その表情にはどこか凛としたものが漂っていた。
「でも、大和さんのところに行って何を話すつもり?」
きっと大和の気持ちは変わらないと思う。
そんな簡単な決意ではないだろう。
「一つだけ聞きたいことがあるんです」
ふいに手塚の瞳が伏せられた。
「それがどうしても今の自分に必要なことのような気がするから」
自分が考えている以上に手塚はしっかりとしている。
自分に涙を見せた姿や熱にうなされている様子を見てきたために、何より大和から彼の素性を聞いたことが乾に手塚の弱い部分だけを感じるようにさせていたらしい。
しかし今、目の前で少し大人びて見えるその表情には強がりなど少しも感じられない。
それなのに、彼の助けになってやりたいという気持ちは以前にも増して強くなっていた。
「少し、安心したよ」
「え?」
「昨日の夜の君は、ちょっと見てられなかったから」
「ああ……」
自分の姿を思い出して恥ずかしくなったのか、手塚は少し視線を逸らせてはにかむように小さく笑う。
「あんまり突然だったから。見ない振りしていたものをいきなり突きつけられたような気がして」
「……そうだね」
ふいに風が強くなって手塚の髪を大きく揺らした。
その端が目にでも入ったのか、一瞬顔をしかめて顔にかかった髪を払いのける。
それがきっかけにでもなったように手塚は大きく溜息をつくと残っていたコーヒーを一気にあおって立ち上がった。
「じゃあ、行ってきますね」
そう言って乾を見下ろしてくる手塚の口元が少しだけ歪められていて、それが彼の表情に僅かばかりの不安の色を感じさせていた。
「俺はいつでも……」
一旦、背中を向けた手塚に乾の声が重なった。
手塚は顔だけを振り向かせて乾を見つめてくる。
「力になるから。たいしたことできないけど、話くらいは聞けるから」
それは少しでも手塚を助けてやりたいという、言葉だけを聞けば乾が手を差しのべているはずのものだった。
それなのに「どうか自分に話してほしい」と、まるで自分が手塚に縋っているような、そんな感覚が乾の中にはあった。
「……君さえよければ」
そう小さく付け加えた乾の言葉に手塚は「ありがとうございます」と微笑み返して再び背中を向けた。
その姿が廊下に消えて静かに扉を閉める音を聞いたとき、ふいに乾は一つ聞きたいことがあったことを思い出した。
―― 結局、どうして俺はベッドの上で寝ていたんだ?
まさか国光を追い出しちゃったんじゃないだろうな。
そんな可能性もなくはないなと、乾は小さく溜息をついて椅子の背もたれにだらりと寄りかかった。
その日の夕食に大和と手塚は姿を見せなかった。
食事をしながらも乾の頭には大和と話をすると言って部屋を出ていったときの手塚の小さな不安を含んだ笑みが浮かんでくる。
今まで隣で食事をしていた不二が正面にいるというのもなんとなく落ち着かない。
手塚は大和に何を聞こうとしていたのだろうと、本当はあのとき聞きたかったがそれはできなかった。
考えすぎかもしれないが今は自分が口を出すべきではないと、なんとなくそんな気がしていた。
「どっちのこと考えてるの?」
くすりとした笑いとともに不二の声が聞こえてきて乾は口元に運びかけていたスプーンを止めて伏せ目がちだった目を上げた。
頬杖をついた不二がじっと見つめてくる。
この人の瞳はどこまで澄んだ色をしているのだろうと、そんなことを考えながら乾はスプーンを置いて溜息をついた。
「さっきから溜息ばかりだね」
乾が全く自覚していなかったことを可笑しそうに指摘する。
「手塚のこと?」
分かっているとでも言いたげな不二のもの言いに、乾は一瞬眉をしかめ僅かに唇を開いたものの出かかった言葉は寸前で呑み込まれてしまった。
それでも不二には分からないくらい静かに息をつくと乾はじっと正面の澄んだ瞳を見つめ返す。
すると不二はふっと笑みを見せて頬杖をついていた肘をテーブルから離し、姿勢を正すように背筋を伸ばした。
「ごめんね、僕もどうすればいいのか分からないんだ」
そう言って視線を伏せる。
「僕は渦中の人だからね。先輩を引き止めた方がいいのかやめた方がいいのか、客観的に考えようと思うんだけど……」
なかなかね、と呟くように続けてそれきり不二は口を閉じてしまった。
ほとんど会話のない食事を終えて、乾は自室に戻りごろりとベッドに横たわっていた。
頭の下に手を組んでぼんやりと天井を見つめているとこの屋敷にきてからのことが次々と思い出されてくる。
考えてみれば不思議だと思った。
森で迷ってここに来てから10日ほどは過ぎただろう、思ってもみなかったことが自分の周りで起きている。
大和と手塚はどうしているだろう。
部屋を出る手塚を見送ってから二人の姿を見ていない。
ふいに乾は上体を起こして振り返り、壁越しに手塚の部屋の方にじっと視線を注いでみる。
そうして小さく唇を噛むと勢いよくベッドから降りてテラスへの扉を開けた。
手塚の部屋の灯りがついているのを確認するとすぐに踵を返して早足で部屋を出る。
その勢いのまま手塚の部屋の前に立って小さく息を整えてから目の前に立ちふさがる扉をノックした。
部屋の中の様子を窺うようにしばらく耳を澄ませてみたが何の反応もない。
少し間をあけてもう一度ノックをしてみたが同じことだった。
自分の息遣いしか聞こえないような静けさが、やがて乾の多少昂ぶった気持ちを落ち着けさせていく。
―― どうするつもりだったんだか。
急に湧き上がってきた何かに突き動かされてノックをしてしまったものの、何をするかも何を言うかも乾には分かっていなかった。
昨夜、手塚が大和の部屋の扉にしたようにそっと眼前の扉に触れてみる。
すべすべとした感触の木の扉は僅かな温もりを含んでいた。
指先を扉に残したまま大和の部屋に視線を移し、一瞬足をそちらに動かそうとしたもののきっと結果は同じだろうと乾は視線を伏せて自室に足を向けた。
ここでの暮らしが心地良いといった手塚の気持ちは乾も充分に分かっていた。
明後日になればここの生活はなくなってしまう、そう考えると乾の心にも寂しさが浮かんでくるのだった。
次の日、乾はいつものようにテラスで軽く食事をした後で屋敷の中をゆっくりと歩き回ってみた。
ここに来てから初めて通された暖炉のある部屋、既に行きなれてしまった食堂や書斎、今まで入ったことのない部屋にも足を向けてみた。
自分ももうすぐここを出て行くのだと思うとやけに感傷的な気持ちになってしまいそうせずにはいられなかった。
そのうち、どこからかホームズが姿を見せて乾の後をついて回るようになった。
そういえばと、手塚が熱を出してからホームズのことを見ていなかったことを思い出す。
「退屈だろう」
そう言いながら乾は膝をついてホームズの頭を撫でてやった。
それから乾はホームズを連れて芝生の裏庭に向かった。
手塚とホームズがいつも遊んでいたボール投げをするつもりだった。
何度もホームズの口にくわえられてぼろぼろになったボールが乾の手の中にある。
不二に頼んで持ってきてもらったそれは薄汚れた黄色をしたテニスボールだった。
家で動物を飼ったことのない乾にとって犬と遊ぶことは初めてのことだったが、単にボールを投げて取ってこさせるということがこんなに面白いものだとは思わなかった。
つい夢中になって遊んでいるとホームズが急にあらぬ方を向いて数回声をあげた。
ん? と彼の向いている方に視線を移してみると自室のテラスに出てきた手塚の姿があった。
膝をついてボールを受け取ろうとしていた乾は思わず立ち上がって数歩その足を前に出す。
が、手塚はすぐに部屋に戻ってしまいテラスの扉も閉められてしまった。
あっという間の出来事に乾はしばらくきょとんとしていた。
瞼の裏に残ったその姿を思い出してみる。
明るい陽射しの下、手塚の姿はやけに白いような気がしていた。
結局、午後も夕食のときも大和と手塚は姿を見せなかった。
昨日と同じように不二と会話の少ない食事をして部屋に戻ってベッドに横になる。
夜にしてはまだ早い時間だったが何をする気にもなれず、貴重な時間が無為に過ぎていくようで嫌だった。
そうしてうとうとし始めた頃、小さなノックの音が響いてきた。
慌てて身を起こして返事をすると、手塚がいつものように控えめに扉を開けて室内を覗きこんでくる。
しかし乾にはノックをされた瞬間から、それが手塚なのだということが分かっていたような気がした。
「ごめんなさい、寝てました?」
乾のベッドに半身を起こしている姿を見て今まで寝ていたと思ったのだろう、手塚が申し訳なさそうに顰めたような声を出した。
「いや、大丈夫だよ。ちょっとうとうとしてたけどね」
そう言いながらベッドから足を下ろして軽く背筋を伸ばす。
手塚もそんな乾の様子を見ながら最小限に開いた扉から身体を滑り込ませるようにして部屋の中に入ってきた。
「電気がついてたから、まだ起きてるかなと思って……」
そんな手塚の言葉に促されるように棚の上の時計を見ると、その針は既に午前1時を回っていた。
うとうとしていたというよりは、一度眠ってから目を覚ましかけたところらしい。
「ああ、大丈夫」
もう一度そう言うと乾は眼鏡を取って軽く眉間を揉む。
再び眼鏡をかけるとまだ僅かにぼんやりとした視界の中に扉の側から動こうとしない手塚の姿が入ってきた。
「どうしたの? 入りなよ」
「ん……」
ゆっくりと乾の方に近づいてくる手塚の手には1冊の本のようなものがあった。
そのまま乾との間を少し開けてベッドに腰を下ろす。
しばらく無言の時間が過ぎた。
初めて会った頃はこんなふうに言葉がない状況には居たたまれない雰囲気を感じていたものだが、今はそんなこともなく静かな時間を心地よいと思えるようになっていた。
「昨日……」
「ん?」
背中を少し丸めて俯いているせいか手塚はいつもより小さく見えるような気がした。
言い難いことでも言おうとしているのか、唇を小さく噛んで眉をしかめている。
昨日大和のところへ行ったときのことを話そうとしているのだろうと分かって、乾はじっと手塚の唇が開くのを待っていた。
「昨日……、力になってくれるって、話を聞いてくれるって……」
今にも消えそうな小さな声だった。
「それは俺がどんな人間だったとしても、そう思ってくれるんですか?」
「なんか、随分と大袈裟な言い方だね」
僅かな不安が乾の胸に広がって、しかしそれを無視したくて乾はくすりと笑いながら少しからかうような言葉を選んでしまった。
そんな乾の小さな笑みに誘われたように顔を上げてじっと見つめてくる手塚の口元も僅かに緩んだように見えたが、それはすぐに消えてしまった。
目の下が陰がいつもより濃く頬の色も白みがかっている。
熱が下がったとはいえ、体調はまだ本調子ではないのだろう。
「大丈夫だよ、どんな人間だとしても」
乾は手塚を安心させるようにできるだけ優しい声を出したつもりだが、それは思ったよりも低い声になってしまった。
「大丈夫」
もう一度、手塚に向かって小首を傾げて言う。
その途端、手塚の唇が小さく震えて、しかし出てくるかと思われた声はきゅっと噛みしめられた唇が遮ってしまった。
同時に黒い瞳が僅かに潤む。
涙が出てしまうと自覚したらしく、手塚は慌てて乾から顔を背けて俯いてしまった。
こくりと何かを呑み込みように小さく喉が動いてから抑えたような溜息をつく。
そうして手にしていたものをそっと乾に差し出してきた。
それは新書版のようなサイズの少し厚めのノートだった。
布貼りの表紙は深い緑色をしている。
乾の不安の原因だ。
今の状況で手塚がノートを手にしていることが何を意味しているのか、まさか……と思うがそれは決して認めたくない。
一瞬そのノートに目を留め、続けて手塚の表情を見ようとしたが彼は俯いたままだったためそれはできなかった。
もちろん受け取ることを拒否することもできず、乾はゆっくりと手を伸ばして思いの外重みのあるそれを手に取った。
何もなくなった手塚の手は何かを待つようにその場に留められていたが、しかしそれはすぐにぱさりとベッドの上に下ろされた。
その柔らかい音とともに乾はノートの表紙を捲る。
目に入ってきたもの。
『大和部長へ』
―― どうして……。
これを手塚に渡した大和の真意が、乾には理解できないと思った。
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(2004/1/1)
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