■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...18
 

乾は朝から気分が重く、午前中のテラスにも少し顔を出しただけですぐに部屋に戻ってしまった。
テラスで数日ぶりに顔を合わせた手塚は病み上がりのせいで相当疲れたような様子をしているものの、乾の顔を見ると小さく微笑んだ。
乾にとってはそれがあまりに痛々しく思えて、自分も同じように「おはよう」と笑い返したつもりだったが手塚は少しだけ訝しそうに小首を傾げた。
きっと笑うに笑えず、おかしな顔をしていたに違いない。

 

大和がその話を切り出したのは四人の食事がほとんど終わった頃だった。

「大事な話をさせてください」
妙に改まった大和の態度に不二と手塚は同時に視線を送ったが、乾だけは眉を潜めて小さく溜息をついた。

大和が話した内容はいたって簡潔なものだった。

以前、イギリスで勤めていた研究室から声がかかったのでそちらに行くことにした。
不二と手塚には悪いが東京に戻ってほしい、と。
そして既に住む所の手配も済んでいるからと付け加えただけだった。

乾が先に見たのは手塚の方だった。
唇を僅かに開いたままじっと視線を動かすこともなく隣の大和を見つめている。

「なに……、それ?」
少しの無言の後で手塚の口から掠れた声が漏れた。
「随分と急な話ですね」
隣から聞こえた声に首を動かすと、目に入ってきたのはいつもの穏やかな笑みを浮かべた不二の横顔だった。
「そうですね、急すぎるのは申し訳ないと思います。ただあんまりゆっくりと考える暇を与えられていなかったんですよ。なので、二人には相談しないで決めてしまいました」
「ちょっと待って……」
「四日後には東京から迎えの車がくることになってますから、それまでに荷物をまとめておいてくださいね。不二君、国光の準備も手伝ってあげて……」
「ちょっと待っててば!」
いつになく声を荒げた手塚が大和の話を遮った。
「東京って、あそこに戻れっていうの?」
不機嫌そうな、しかし少し怯えているような表情の手塚の方に少し身体を向けて、大和は安心させるようににこりと笑った。
「大丈夫ですよ、あの病院に戻るわけじゃありません。場所は近いですけど普通のマンションですよ。ここと比べたらどうしようもないですけど、それなりに広いですから快適だと思いますよ」
そう言うと手元のグラスにあった水を一気にあおって大和は席を立った。
「それじゃあ、準備の方をよろしくお願いしますね」
そうしてドアに向かおうとする大和を呆気に取られたように手塚が見つめている。
しかしすぐ我に返ったようにガタンと派手な音を立てて椅子をのけると、手塚は大和の後を追った。

二人が出て行ってからも少しの間、手塚が大和に問い詰める声が聞こえていたが、それもすぐに静かになった。
残された乾は既に閉じられてしまった扉をじっと見つめる。
あんな説明だけで手塚が納得するはずがないのに、この後どんな言い訳をするつもりなのだろうと気を揉んでしまう。

「乾君は知っていたみたいだね」
「え?」
「今の話」
不二はさっきと変わらない笑みで乾の目を覗き込んできた。
「……はい、昨日、聞きました」
「そう。それで今朝から様子が変だったんだ」

「あの……」
「ん?」
相手の返事を待っているときに小首を傾げるのが不二の癖なのだろう、今もそうやって乾の言葉の続きを待っている。
どんなに相手が言いよどんでも決して促すとか催促するとかいうことはしない。
ただじっと言葉を出してくるのを待っている、それが不二の話の聞き方だった。

「全部、聞いたんです。国光のこと」
「え?」
それでも不二は「何を?」と穏やかな笑みを浮かべたまま話の続きを待っていた。
恐らく全てといっても本当に全てを大和が話すはずがないと思っているのだろう。
しかし続けて出てきた言葉に、さすがに不二の表情も変わった。

「大和さんたちの学生時代のこともイギリスに行ってた時のことも、日本に帰ってきてからの実験のことも……、全部です」
そう言って乾がちらりと隣に視線を向けると、不二は僅かに口元を歪ませてテーブルの一点をじっと見つめていた。
「……全部って?」
視線を逸らすことなく出されたいつもよりずっと低いその声からは不二独特の柔らかい響きが全く感じられない。
彼がそんな声を出すこと自体、大和から聞いた話が真実なのだと肯定しているも同然だった。

だが不二は乾が言った全部という言葉だけでは納得できないらしく、一番肝心なことを乾の口から聞きたがっているらしい。
不二の無言からそれを感じ取っているものの、乾にしてもなんとなくそれは言い出しづらいことだった。
しかし乾が口に出して言わない限り不二も黙り込んだままでいるのだろうと、仕方がないとばかりに小さな溜息をついて乾は口を開いた。

「不二さんたちが中学で一緒だった手塚君の細胞を使って、国光を……」
乾はそこから先の言葉に詰まってしまった。
なんと言えばいいのだろう?
造った? 誕生させた? 生き返らせた……?
どれも当てはまるようで、しかし違うようで、乾は頭の中であれこれと思い当たる言葉を探してみた。
そんな乾の戸惑いが分かったのだろう、それまで黙っていた不二から小さな笑い声が漏れた。

「驚いたでしょ?」
「え? ……はい」
不二にはいつもの穏やかな表情は浮かんでいなかった。
というよりも、どんな表情もないと言った方が当てはまっているのかもしれない。
じっとテーブルの一点に視線を注ぐ瞳には感情を窺うことができず、ただ明るい茶色に透き通っているだけだった。

「なんとかならないんですか?」
「ん? なんとか、って?」
僅かに顔を乾の方に向けてくる。
「このまま大和さんがイギリスに行ったら国光が可哀想すぎます。そうは思わないんですか?」
「先輩は手塚のことを君に頼んだんだね?」
「は?」
聞いていることとは全く違うことを逆に聞き返されて、一瞬乾は言葉に詰まった。
同時に何の表情もなかった不二の瞳が僅かに動く。

「ねえ、手塚のことが心配?」
「それは……、心配ですよ」
「会ったばかりなのに?」
「確かにそうですけど、でも、彼の今の状態を考えたら心配しないわけにいかないでしょう」
不二の言葉になんとなく苛々としてしまい、乾は無意識のうちに眉をひそめてしまった。
そんな乾の気持ちを感じ取ったのか、不二は「ああ、ごめんね」と言いながらそれまで顔だけを向けていた体勢から僅かに腰を上げて、完全に乾の方に身体が向くよう座り直した。
そうして片肘をテーブルに置いてそのまま頬杖をつくと、にこりと乾をみつめてきた。

「先輩の気持ち、なんとなく分かるな。手塚に本当に必要なのはやっぱり君みたいな人なんだろうね」
「どうしてそうなんですか?」
乾の口調に責めるような色が浮かんだ。
「手塚が本当に側にいてほしいのは大和さんと不二さんでしょう?」
「ん……」
不二はそれまで乾に向けていた視線を外して少し考え込むようにその目を伏せていたが、やがて手元のグラスを取ると温くなってしまった水を喉に流し込んだ。
そうして小さく一息つくと、グラスの中の水を弄ぶようにゆらゆらと揺らしながら呟いた。

「僕たちは手塚を知りすぎちゃってるんだよ。だから君みたいに手塚の事を真っ直ぐに見られないんだ」

大和が言う通り、手塚が不二に特別な想いを抱いているのだとして不二はどうなのだろうと、グラスの中で揺れる水に見入っているふうな彼をちらりと盗み見た。
自分への気持ちに気づいていながら、なぜ大和との情交の跡を見せつけるようなことをするのか。
数日前にテラスで見た三人の様子を思い出す。
柔らかく笑みを見せる不二と、彼の胸元に不機嫌な視線を投げる手塚、そして無言でいた大和……。

「不二さんはどうしてここに来ることを承諾したんですか?」
一体、不二は手塚にどんな想いを抱いているのだろう。

「大和さんのしたことを責めていたって聞きました。なのに、どうして大和さんの申し出を受けたんですか?」
不二は手にしていたグラスをそっとテーブルの上に置くと椅子に深く身体を預けるように凭れて呟いた。
「そうだね……」
そうしてさっきまで手塚が座っていた席をじっと見つめる。

「ねえ、乾君。具体的に先輩は君にどんなことを頼んだの?」
「え……?」
「教えてもらえる?」
「……時々でいいから顔を見に行ってやってほしいって、それから、困ったことがあったら助けてやってくれと」
「OKしたの?」
自分が手塚の助けにならないのなら話はしないとでも言いたいのだろうかと、乾は不二の横顔を覗いてみた。
乾に見つめられていることを何とも思わないかのように不二はじっと手塚の席に見入ったままでいる。

「大和さんが本当にイギリスに行ってしまうなら、俺は頼まれなくてもそうすると思います」
表情のなかった不二にふっと笑みが戻り静かにそれを乾に向けてきた。

「先輩と僕はね、手塚に対する思い入れが強すぎるんだよ」

 

初めて手塚と対戦して以来ずっとその背中を追いかけてきたのに、いつか勝って追い越してやると、ずっとそのプレイを見つめてきたのに。
あまりに突然に手塚がいなくなり、不二は目の前の目標を失ってしまった。
周囲の者からは手塚以外にも対戦したことのない強い選手は大勢いるだろう、今テニスをやめてしまうのは勿体なさすぎるなど散々に言われた。

しかし、不二にとっての手塚はテニスの強さだけではなかったのだ。

滅多に表情を崩さない整った顔立ち、すらりとした身体にしなやかそうな手足、常に学内でもトップを誇る成績、教師からも生徒からも信頼されるストイックとも言えるほどの品行方正な生活態度、そしてコートに立ったときの他を威圧するような鋭い眼差し……。
それらの全てを持つ手塚こそが不二の追いかけている手塚だった。

そんな他を寄せ付けない手塚がコートで自分に向けてくる睨みつけるような視線は、彼がライバルと認める者だけに向けられるものだった。
それを受けるときの背筋を這うようなぞくぞくとする快感。
確かに大きな大会で強い選手と当たることは何度もあったが、そんな感覚に自分を陥れるのは手塚ただ一人だった。

手塚と大和の関係に気づいたのは中学3年になる少し前あたりだったか。
それまでにも手塚が信頼の表情を大和に向けるのは見ていたが、その中に僅かながら甘くてはにかむようなものが混じるようになっていた。
見るからに高潔な彼が一体どんな顔をして大和に抱かれているのかと思うと、そのギャップがあまりに激しくて不二の中からは奇妙な笑いが込み上げてくる。

―― 本当に君って、すごいよ。

 

手塚がいなくなってからの不二は何に熱中することもなく、いずれは父親の会社に入ることを前提に医学部への進学を決めた。
その間にも幾度となくもう一度ラケットを持つように勧められたが、不二は決してクローゼットの奥にしまい込んだラケットに触れることはなかった。

あの雨の日、狭い桐の箱の中で窮屈そうにしていた手塚を見たときから不二のテニスに対する情熱は不思議ともいえるくらい綺麗さっぱりなくなっていた。
手塚がいないならテニスをしていても意味がない。
不二が執着していたのはテニスではなく、手塚自身だったのだから。

そんな虚しさと同時に、手塚に対する憤りとも憎しみともつかない、しかし明らかに手塚を責める感情が湧いてきた。

―― ここまで僕を追わせておいて、自分はさっさと手の届かない場所に行ってしまうなんて。あまりに卑怯すぎるよ……。

不二の中に残ったのは、永遠にじくじくと燻り続けるしかない手塚への執着心だった。

 

大和がしたことの真実を知らされたとき、不二の中に湧いてきたのは嫌悪感だけだった。
この数年間、胸の奥に閉じ込めてきたものを無理矢理に引っ張り出されて目の前に突きつけられたようで思わずそれから目を背けたくなる。
今更どうしようというのだろう?
こんなことをしたって、あの手塚と同じになるわけがないのに。
例え同じ設計図を持っていたとしても、そんなことは不可能なことぐらい大和は充分に承知しているはずだ。

いつか自分の作り出した手塚に失望されられるに決まっているのに……。
酷く優しげな表情でモニタを見つめる大和に冷ややかな視線を向けながら、そうなったらそうなったで大和の自業自得だと心の奥で小さく笑っていた。
中学時代からの先輩として尊敬はしていたから、嫌いになるとか軽蔑するとかいった感情はすぐには湧いてこなかったものの、それでも自分の奥底から憎しみに似たようなものが少しずつ少しずつ染み出してくるように感じていた。

―― どうして今更、思い出させるの?
   心の奥にしまっていたものなのに……。

 

大和と手塚が二人で語り合っている様子をモニタの中に眺めながら、不二はじっと手塚の表情に見入っていた。
それが大和に向かうときだけ僅かに和らぐことはすぐに気が付いた。
もしかしたら……。
僅かな焦りが不二の心を小さく揺さぶってくる。

もしも、このまま手塚が大和に心を寄せるようになってしまったら?
愛情という特別な感情を大和に持ってしまったら?

大和も自分も、手塚に寄せていた想いは種類こそ違うものだったけれど、その強さは相当なものだったと思う。
それなのに、大和の願いは叶って自分はそれを見ているだけ。
自分勝手だと充分に承知はしているものの、そんな不公平を考えただけで不二の眉は顰められてしまう。

それでなくてもモニタの中の手塚に自分はどうしようもないほどに苛々とさせられてしまう。

自分を睨みつけてくることのない鷹揚とした瞳、軽く引き結ばれているだけの唇、何より彼の纏う無機質な雰囲気。
時に横柄なほどに高潔だった『手塚国光』の片鱗などこれっぽっちも認められない。
こんな手塚を見せられるのは不二にとっては耐えられないことだった。

いつまでこんな日々が続くのだろう、いい加減に他のスタッフのように本来の部門に戻してもらうよう申請しようかと考えていた時だった。
突然、耳に飛び込んできた看護士の喚き声。
慌ててモニタを見ると床の上で看護士に抱きかかえられたような格好の手塚が見えた。
担当医師が部屋に入ってきて手塚をベッドに抱え上げたり指示を飛ばす声が聞こえてきたりしたが、一体何が起こったのかをすぐに理解することはできなかった。

 

確かにここしばらくの手塚の様子はおかしかったかもしれない。
大和も心配はしていたようだが、とくに手を打つでもなくそのままにしておいた。
そのことに負い目を感じているのか再び手塚を失うことを恐れているのか、おそらくはその両方なのだろうが、大和は以前にも増して手塚の側にいる時間が増えた。

努めて明るく振舞う大和と、手首に傷をつけたことなど忘れたかのような落ち着いた様子の手塚。
不二から見ればお互いに気を遣いすぎて上辺だけのママごとをしているように感じられる。

―― 一体何をしているんだろう。先輩も手塚も、僕も……。

 

それから数ヵ月後、手塚を施設の外で生活させたいという大和の申請が許可された。
これで以前の部門に戻れると思う反面、こんな中途半端なところで手塚から離されるのは納得がいかないような気がしていた。
手塚と共に多感な時期を過ごし、彼の死と再び生まれてきた手塚を目の当たりにしてきたのだ。
こんなことは滅多に経験できるものではない。
しかし今の手塚を見ているとどうしよもなく虚しい気持ちになってしまうのも確かだった。
以前のように手塚を追いかける情熱を思い出し、しかしそれが出来ない現状に気持ちだけがどんどん膨らんでいってしまう。
ここで手塚と離れてまた自分の心に蓋をしてしまうことも考えてはみたが、離れてしまえば余計に手塚のことが気にかかってしまうのは目に見えていた。

だから大和から出された自分たちの行き先に同行してほしいという話を不二はすぐに了承した。
考える間もなく「いいですよ」と返事をした不二を大和は一瞬不思議そうな面持ちで見つめたが、すぐにその顔は和らいで安心したかのような笑顔を見せた。

 

―― 綺麗な瞳だな。

それは一週間ほど遅れて館にやってきた不二が最初に手塚と対面したときの感想だった。
モニタからではなく、初めて手塚を目の前にして肉眼で見たその瞳はひどく純粋なものに思えた。
切れ長の目をしているものの、その瞳は子どものそれのように黒目の部分が多いからかもしれない。

『初めまして。先輩の仕事の手伝いに来たんだけど、君の勉強も僕がみることになるから。よろしくね』

そう言って差し出した手を手塚は躊躇いながらも握り返してきた。
その手はあまりに小さく柔らかすぎて、不二の胸に僅かな痛みをもたらした。

最初の頃、手塚は不二と向かい合うと緊張してしまうのか表情も硬く口数も極端に少なかった。
それでも不二独特の物腰の柔らかい態度や口調に馴染んでいき、一ヶ月もする頃には手塚も小さく笑みを浮かべるようになっていた。
その表情に更に別の色が加わったのはいつ頃からだったのか、不二もはっきりとは覚えていなかった。
手塚の隣に座って勉強を見ている最中、問題の説明をしようとして僅かに身体を寄せたりすることがしょっちゅうあった。
その度に手塚は落ち着きを失くして視線をあちこちに泳がせてしまう。
勘違いのしようもなかった。
明らかに手塚は不二のことを意識している。

それを感じたとき、不二は胸の中で大きな溜息をついた。

―― 僕たちは一体どうなっていくんだろう……?

手塚が不二に初恋ともいえる淡い感情を抱くのも、考えてみれば不思議ではなかった。
施設で手塚に関わっていたのは年配の医師や看護士ばかりだったし、女性がいたとはいえ彼女たちの同情心を敏感に感じ取っていた手塚は却ってその存在を疎ましいと思うだけだった。
大和に対しては心から信頼してはいるものの、それは家族に対する愛情のようなもので心の痛みやほろ苦い感情を伴うものではなかった。

そこに初めて手塚とは全く関係のない人物がやってきたのだ。
いつも穏やかな表情を浮かべて丁寧に勉強を見てくれるその青年を好ましいと思うにはたいして時間はかからなかっただろう。
それは不二にも覚えのある、年上の同性に憧れる気持ちだったのかもしれない。
しかし日がたつにつれ、手塚の不二を見る瞳が次第に熱を帯びるようになっていった。

それは小さな悪戯心だった。

いつものように手塚の隣に座って問題を解いていく様子を見ていた不二が、机上の少し離れた場所にあった参考書を取ろうと腰を浮かして手を伸ばしたときだった。
自然と手塚に覆いかぶさるような格好になったのだが、その途端、手塚の身体が過剰とも思えるくらいにビクリと震えるのが目に入った。
不二が気づかないふりをして再び椅子に腰を下ろして手塚の様子を盗み見てみると、手塚も何事もなかったかのようにノートに向かってペンを走らせていたが明らかにその頬には赤みが差していた。

あの手塚も大和の前ではこんなふうになっていたのだろうかと、二人の関係を知ったときに想像していたことが胸の中に蘇ってくる。
目の前にいるのはあの手塚国光でないことは充分に承知しているのだが……。

『手塚の唇って、かわいいよね』

その言葉に弾かれたように手塚が顔を上げて不二を見つめてきた。

『女の子とかに興味、あるんでしょ? キスとかしてみたいって思わない?』

小さく開かれているその唇にそっと指を添えると、手塚は身じろぎをするように僅かに身体を後ろにずらしてしまった。
何かを言いたいらしいが、どう言葉に表していいのか分からないのかもしれない。
ただ唇だけが小さく震えていてそれが不二の指にも伝わってきた。
困ったような表情をしているがそれでも不二の瞳から目を逸らすことはできないらしい。

―― 君がそんな顔をするなんてね。

不二は喉の奥でクっと笑って、しかし表情には手塚を安心させるようにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。

『ごめん、ヘンなこと言って邪魔しちゃったね』
そう言うと指を離して再び手元の参考書に目を落とした。
もちろんその後、手塚が勉強に集中できないであろうことは百も承知だった。

それからだったかもしれない。
朝のテラスで大和の首筋や掌を軽くマッサージしたりしていると、不二は自分に注がれる手塚の視線を感じるようになった。
一度、あえてその視線に顔を上げたことがある。
そこには睨みつけるような鋭い手塚の瞳があった。

瞬間、不二の胸に衝撃が走った。
何年ぶりだろう。
コートに立っていた手塚と比べるとまだ幼い表情を残してはいるものの、その瞳はあの頃の鋭い光を湛えて自分を見つめている。

そんな視線に晒されていることに、不二は奇妙な快感を覚えた。

 

 

「歪んじゃってるよね」

ふっと自嘲するような色を含んだ声がして乾は顔を上げた。
不二は目の前のグラスの淵を細く白い指でなぞっている。

確かに歪んでいるのかもしれない。
不二が大和と関係を持っていたのは大和が好きだからでもなく、慰めようとしていたからでもなく、自分を手塚の視線に晒させたいため……。

『僕の時間は手塚君と別れたあの夜で一度止まってしまったんです』

それは不二にしても同じなのかもしれないと乾は思った。
本来なら手塚の死というこれ以上どうしようもない事実でその想いは断ち切られたはずなのに、自然の摂理に逆らったやり方で再び手塚が目の前に現れてしまった。
それによって大和も不二も叶えられないと分かっていながら自分の欲求を手塚にぶつけようとしている。
しかも三人の関係は以前よりも複雑なものとなってしまった。

これから先、ずっと三人で暮らしていくことを考えるとさすがに乾の胸にも不安が込み上げてくる。
しかし手塚にとってはどうなのだろう。
今の生活の中に自分の生き方を見つけようとしている彼にとって、ここでの生活を壊されてしまうのは相当辛いことに違いない。
しかも大和は最後まで嘘を通すつもりだろうが、そんな嘘に手塚が納得するとも思えない。

今の自分にできることが何一つ思い浮かばないのが乾には情けないくらいにもどかしかった。

 

 

階段を上りきった真正面の一番奥に大和の部屋はある。
いつものようにそのまま部屋の方へ向かおうとした乾の視線がその一点に止まった。

手塚が最奥の部屋の前で座り込んでいた。
扉に背を凭せかけて、折った方膝の上に顎をのせてぼんやりと床を見つめている。
薄暗い中でのそんな彼の姿が乾の胸に刺すような痛みをもたらした。
静かに足を進めていくと、その数歩手前あたりで気づいたのか、俯いていた手塚がその顔をゆっくりと上げた。
頬にはうっすらと涙の跡が見てとれる。
すがるように見上げてくる瞳もまだ僅かに潤んでいた。
恐らく食堂からここまで大和の後をついてきたものの、話もろくに聞いてもらえないまま締め出されてしまったのだろう。
昨日の今日で大和の気持ちが変わるとも思えない。

「部屋に戻ろう」
乾の言葉に手塚は僅かに眉を顰めて俯き、その首を力なく横に振った。
本当はこのまま手塚の気の済むようにさせてやりたいとは思うのだが、いかんせん彼は昨日までベッドに臥せっていたのだ。
身体の不調に精神的な疲労も加わってかなり憔悴しているはずだと思うと、できるだけ早く休ませてやりたかった。
「さあ」
そう言って乾は腰を屈めて手塚の肘にそっと手を添える。
そのまま引っ張り上げるように少し力を入れると、意外にも手塚は素直にそれに従った。
しかし、それでもまだ諦めきれないかのように目の前の扉を悲しげにじっと見つめる。
小さく開かれた唇が僅かに震えていた。
こんな手塚の姿を見たら、もしかして大和も気を変えるのではないだろうかと思うのだが、きっと彼のことだからそんなことは充分承知しているのだろう。
今朝から乾が見ていた限り、テラスでも食堂でも大和はまともに手塚のことを見ようとはしていなかった。

「すいません」
聞こえないほどに小さく呟くと手塚は扉に背を向けて歩き出した。
乾もその後について足を進める。
手塚の部屋の前まできて彼がノブに手をかけるのを見ると乾は「おやすみ」と言いながらぽんとその頭に手を置いた。
しかし手塚の手はノブを回すことはなく、そのままじっと動かなかった。

「国光?」
「あの……」
ノブに手をかけたまま、手塚は顔だけを振り向かせて乾を見上げてきた。
「少し、一緒にいてもらっていいですか?」
乾にまで拒絶されてしまうのではと思っているかのようにその表情は怯えている。
そんな手塚を安心させるように、乾は笑顔を見せて「いいよ」と言いながら彼の頭に置いたままだった手で柔らかい髪をくしゃりと撫でた。

 

手塚の横たわるベッドの淵に腰を下ろして乾はじっとその寝顔を見つめていた。
先ほど手塚がシャワーを浴びた時に使ったらしいボディソープの柔らかい香りがまだ仄かに漂っている。
やはり相当疲れていたのだろう。
乾に促されベッドに入ってから、それほどの時間を経たずして手塚は静かな寝息を立て始めた。
まだ生渇きのままの髪がいつもより黒く艶やかに見える。

『向こうの仕事は時間がすごく不規則になるんだそうです』

大和の生活ペースに巻き込まれたら手塚の身体は到底もたないだろう。
それ以前に手塚を一人残して仕事に行くなど、そんな不安なことはできない。
だから一緒に連れていくわけにはいかない。
手塚のことを考えたら、彼が東京に戻るのが一番いいのだと。

どんなに手塚が喰い下がってみても、大和は同じ言葉を繰り返すだけだったらしい。

―― 離れたくないよな……。

乾の手を握り締めていた手塚の指にはもう力は入っていない。
しかしそれを静かに布団の中に入れてやろうとした途端、僅かながらその指に力がこもった。
目を覚ます気配はないから無意識のうちなのだろう。
もしかしたら、彼の夢の中でこの手は大和の手なのかもしれないと思うと離すこともできなくなる。

朝まで付き合うか、と乾は小さな笑みをもらして手塚の寝顔を見つめた。

 

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(2003/11/24)
 


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