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■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...15
大学での5年間を終えた大和は、病院での内科や外科の研修には行かず附属施設の中にある研究室に入ることを選んだ。
在学中に遺伝や、とくに生物の発生に興味を覚えた大和は時間さえあればそれらを専門としている教授のもとに足を運んでいた。
研究室への誘いはその教授からのものだった。
忙しい毎日の中、いつの間にか大和は素直に手塚のことを想い出せるようになっていた。
もちろん胸は痛むし、どうしようもない寂しさや虚しさに心が覆われるのだが、少なくとも現実を放棄したいと思うことはなくなった。
それと同時に日本へ帰りたいという気持ちが強くなってきた。
しかしそれは日本に帰るというよりは、手塚の側に行きたいといった方がいいのかもしれない。
葬儀の日、手塚の両親に促されたにもかかわらず大和は決して手塚に近づこうとはしなかった。
それは手塚の死を認めたくないという一心からだった。
日本を離れたのも日記を開かなかったのも、自分が手塚の死を受け入れてしまったら、それこそ本当に彼の全てが無くなってしまうような気がしていたからだ。
手塚の香りがあちこちに残る日本から逃げ出す以外、当時の大和には道がなかった。
しかし気持ちが次第に落ち着いてくる中で、少しずつ心の中に変化が現れてきた。
今でも愛しているのに、どうして手塚を一人で日本に残してきているのだろう。
彼は今も冷たい所で自分のことを待っているのではないだろうか……と。
時折きていた不二からのメールの返事に、日本へ帰りたい気持ちがあることをそれとなく書いて送信した翌日、再び不二からのメールが届いた。
父親の会社が新しい研究部門を立ち上げるための新規スタッフを探しているから、それに応募してみないかという内容だった。
一緒に送られてきたアドレスを見てみると、そのことに関する詳しい記事が載っており確かに大和が現在所属している研究室の内容と重なる部分があった。
もしかしたら日本に帰るいいきっかけになるかもしれない。
そう思った大和は履歴書と自分の現在の研究課題や今後の方向性などをまとめたレポートを会社に送ることにした。
その後、これまでにまとめた論文の提出や面接を経て大和は正式にその研究部門のスタッフとして会社に迎えられることになった。
大和にしてみればそれは意外なことで、大学を出てまだ専門的な研究も1年ほどしかしていない自分が選ばれるとは思っていなかったのだ。
もしかしたら、と穏やかに笑んだ不二の顔が浮かんできたが、それでもいいかと思った。
とにかく手塚の近くに行くことが、その時の大和にとって一番大事なことだったのだ。
6年ぶりに日本に戻った大和は2、3日で身の周りのことを整えるとすぐに会社の研究室へと出向いた。
本当は手塚の墓参りを一番にすべきなのかもしれないが、彼の死を最も象徴するその場所に行って冷静を保っていられる自信がまだ大和にはなかった。
大和の所属するチームが担当するのは、既に基礎技術が開発され実用化されつつある臓器クローンの技術を更に進めようというものだった。
さすがにチームの中では最年少の大和だったが、周囲を観察する力と人心を掌握することに長けていた彼はすぐにメンバーの中に溶け込むことができた。
更に彼の研究熱心な態度や独自な発想が受けて、上司たちの信頼を得るのにもそれほどの時間はかからなかった。
2年が過ぎる頃には部門の中でも大和は若年ながら一目を置かれる存在になり、さらにその頃には不二も同じ研究室に来て一緒に仕事をするようになっていた。
ひたすら毎日研究室へ通う日々の繰り返しではあったが、大和にとってこの時期は手塚を失って以来、一番精神的に安定していたときだったといえるかもしれない。
しかしそれは、大和自身も無意識のうちに薄い皮膜のようなもので過去を覆っていたからにすぎなかった。
ふとしたはずみに手塚のことを想いだすことはあっても、自分からそこに浸ることは決してしない。
日記も一度読んだきりでそれ以来開いたこともない。
不二と一緒のときもまるで暗黙の了解でもあるかのように、学生時代やテニスに関わる話は一切していなかった。
それが崩され始めたきっかけは、ほんの偶然の出逢いだった。
仕事からの帰宅途中、いつも使っている駅で大和は高校のテニス部顧問と再会した。
日本を発ってからは不二以外とは連絡をとっていなかったため、久しぶりに会った顧問はあれからどうしていただの今は何をしているだのと大和を質問攻めにしてきた。
そのうち、ぜひ今度部活に顔を出して全国制覇したときの話を部員たちに聞かせてやってほしいと言い出した。
実は既に不二にも何度か同じことを頼んでいるらしいのだが、不二は丁寧な口調ながらもきっぱりと断っているというのだ。
部員たちも当時の部長をしていた大和や全国クラスだった手塚、不二のことを知っており、少しでもいいから彼らのプレイを見てみたいと言っているらしい。
『中等部、高等部と続けて部長をしたのは大和君だけだったからね。けっこう有名なんだよ』
そんな顧問の話に愛想笑いをしながら、それでもかつての恩師の頼みを断りきれずに大和は次の休みに顔を出すと約束してしまった。
いつになく空が高く見える小春日和の午後、大和は久しぶりに高校の敷地内をテニス部の部室に向かって歩いていた。
全く変わっていない学校の様子と、さっきから耳に入ってくる懐かしいボールを打つ音と掛け声に僅かに胸がざわめき立ってくる。
職員室に顧問を尋ねたところ、休憩時間になったら部員に紹介するから先にコートの方へ行っていてくれと言われたのだが、しかし、いくらOBとはいえいきなり練習の様子を覗くのもどうかと思い、大和は迷った末に部室へ行ってみることにした。
その部室も外から見た感じは全く変わっていなかった。
下の方に傷の走る慣れ親しんだドアに手をかけて一瞬ためらう。
それでも大きく深呼吸をしてドアを開けた。
目の前の光景に背筋にぞくりと泡立つような感覚を覚えた。
外観と同じように、ここはあの頃の自分がいた部室と何一つ変わっていない。
机やホワイトボードの配置も雑然とした雰囲気も、この場に満ちている匂いまで当時のままだった。
背後から聞こえてくる声もボールを打つ音も、かつてのチームメイトたちの発するものであるかのように感じてしまう。
そうして恐る恐る一歩を踏み出したとき、机の上の壁にA4サイズくらいの写真が額に収められて飾ってあるのが目に入った。
自分たちがいた頃にはなかったものだ。
興味を惹かれ近づいてみて……。
いきなり胸の中を鷲掴みにされたような衝撃を受けて鼓動が大きく跳ね上がった。
体中に電流が走ったように痺れて、それがゆっくりと指先まで伝わっていく。
それは大和たちが全国制覇したときの団体戦メンバーの集合写真だった。
顧問と大和を中心にして雑然と適当な位置に立っているメンバーたち。
大和の隣にいるのは手塚だった。
この数年、記憶の中にしかいなかった手塚が、ラケットを脇に抱えながら心なしか口元を緩ませて大和に視線を投げかけてきている。
途端に激しい想いが大きなうねりのようになって大和を呑み込んでいった。
「……っ」
声にならないような声が咽から漏れる。
胸の奥から込み上げてくる何か熱いものがそのまま涙となって溢れてきた。
気がつけば、駅へ向かうそれなりに人通りのある道を大和は足早に歩いていた。
涙は止まることなく後から後から溢れてくる。
それを手の甲で拭いながら、ただ機械的に足を動かしていた。
すれ違う通行人が、大の男が泣きながら歩く姿に遠慮しながらも訝しげな視線をちらちらと向けてくる。
しかし大和はそんなものを気にするふうもなく、現実を振りきるかのように歩く速度を速めた。
次の日の夜、不二が大和のもとを訪れた。
部屋には学生の頃のアルバムや試合記事の切抜きが散乱している。
それを横目に見ながら、入社以来、無遅刻無欠勤の大和が無断で仕事を休んだうえに電話もつながらないと皆が心配していると伝えた。
『それに今日は大事なミーティングがあったでしょう?』
ぼんやりとソファに座って床の上の散乱物に視線を落としていた大和は、ああ……と気のない返事しかしてこない。
不二は軽く溜息をついて簡単にミーティングの内容を話し出した。
しかしその内容を聞いた途端、大和の虚ろな表情が一変してその瞳に生気が戻り始めた。
ミーティングに参加するよう連絡が来たのは各部門からの数名ずつで大和と不二も呼ばれていたのだが、その顔ぶれを見ればどういった話になるのか凡その予想はできていた。
が、不二の言葉は大和の予想を遥かに超えたものだった。
『ヒトのクローン、やるみたいですよ』
もしもその話を聞いたのが一週間前、もしくは一週間後だったとしたら、大和も純粋に研究者として大いに興味を惹かれただけですんだかもしれない。
大和はあまり運命とか定めといったものを信じる性質ではなかったが、それでもこの瞬間だけは自分の人生の中で唯一「運命的」だと思ってしまった瞬間だった。
そのプロジェクトが始まるのはまだ少し先のことだったが、すぐに大和は行動を起こした。
法律で禁じられていることはもちろん、それ以前に倫理的に大きな問題を孕んでいることから当然この事実を知っているのはプロジェクトに関わる研究員とごく限られたトップだけだ。
大和がまず始めたことは、プロジェクトに関する決定権を持つ部長に取り入ることだった。
露骨なことはせず周囲に悟られないように、しかし確実に相手の懐に入れるよう狡猾に事を運んでいく。
相手には「決して異論を唱えない、自分の思い通りに動かせる人材」と思わせること、更に上のトップとも繋がりをつけること。
研究以外のプライベートな時間を全て削る覚悟でそのことに専念した。
そうして相手の懐に喰い込んでいくうちに、大和は会社の不正な取引をも知るところとなる。
もちろんそれは大和にとっては願ってもないことで、自分の手を違法行為に染めることも厭わなかった。
それらは全て、不二が部屋に訪ねてきたときに感じた光明を現実にするための準備だった。
そうした中で、彼らのプロジェクトが始まった。
さほどの時を経ることなく、大和は自他共に認める担当部長の片腕的な存在となっていた。
もちろんその後ろ盾もあってチームの中でも中心に位置することができた。
そんな彼がある日、部長に一冊のファイルを差し出した。
それは会社と厚生省役員を始めとする官僚たちとの間で交わされた贈収賄の詳しい数字の記録だった。
『僕の要求を聞いてくださらなければオリジナルを警察に渡します。もちろん僕の手が後ろに回ることも覚悟していますよ。そうなったとしても、僕は一向に構わないんですから』
捨て身とも取れるその言動に、担当部長も大和の要求を呑むしかなかった。
しかしその要求は実のところ、脅された相手にとってはさほど重要なことではなかったのだ。
大和が望んだことはドナー細胞の選定に関わる全ての権限を自分に持たせてほしいというものだった。
もともと使用する細胞は京都の医療センターに発注することになっていたが、それが大和の権限で他の施設に変わったとしても部長にとっては何ら不都合があるわけでもない。
そんなことでいいのかと相手が鷹揚に頷いた瞬間、大和の口元が僅かに緩み眼鏡の奥の目が細められた。
カチャリ、という音にはっとして乾はいつの間にか伏せていた顔を上げた。
喋り続けてのどが渇いたのだろう、大和がコーヒーカップを置いたところだったらしい。
「それは……、本当のことなんですか?」
目の前の真剣な表情を見れば嘘ではなさそうなことぐらい分かるのだが、それにしても内容が内容なだけに乾は呟くように訊ねた。
「ええ、全部本当ですよ」
分かりきった答だったが乾の眉間に小さなしわが寄った。
「でも、それが本当だったとしても変じゃありませんか? 国光は15歳だと言ってましたよね。仮にその実験が成功したのだとしても、年齢が合わないんじゃないですか?」
「そうですね。でも僕たちはただぼんやりと国光の成長する過程を見ていただけじゃないんですよ」
まさに手塚を実験対象としていたかのような口ぶりに、乾は初めて大和に対して嫌悪感のようなものを抱いた。
大和もそれを感じ取ったらしく、自分を見つめてくる乾から視線を逸らせて溜息をつく。
「例えば移植用の臓器を必要としている患者から必要な幹細胞を取り出してそれをもとに正常な臓器を作り出す、それは当時でもかなり実用化の段階に入っていました。僕たちが研究していたのはそれをいかに効率よく時間を短縮できるかということです。早急に臓器が必要な患者もいますからね、あまりのんびりはできないんですよ」
乾にとって、そんなことを話す大和は普段とは別人のように感じられた。
先ほどから話を聞かされていても、それが研究の内容に触れる箇所になると大和の表情に薄らと笑みが浮かんでくるのだ。
研究者とは皆こういうものなのだろうかと思いながら、乾はそんな大和の姿など見たくないとでもいうように自分のカップに視線を落とすようにして話を聞いていた。
「国光にもね、その技術を使ったんですよ……」
『傲慢』という言葉が乾の頭に浮かんできた。
目の前のこの男に、一体なんの権限があるのかと。
「よく、そんなことができましたね。何とも思わなかったんですか? そんなに愛していた人を実験材料にするなんて……」
その途中で、乾は何かを思いついたようにふと口を噤んだ。
一番、肝心なことを思い出したのだ。
「どうして、手塚君の細胞が手に入ったんですか?」
詳しい話を聞く前も疑問に思ったことだった。
大和が高校生の時に手塚はこの世を去ったのだから。
「手塚君の髪です。彼の髪が僕のベッドに残っていたんですよ。葬儀から帰ってきた夜にそれを見つけましてね、僕にとっては彼の形見でしたから」
「……そんなことが本当に可能なんですか?」
「ええ。意外にね、そんなに難しいことではないんですよ」
そういってにこりとする大和はまるで無邪気な子どものような表情をしていて、そんな彼を拒絶するように乾は俯いて静かに目を閉じた。
「君に軽蔑されても当然だと思います」
乾は大和の言葉に目を開けたものの、視線は伏せたままでそれを聞いていた。
「何とも思わなかったのかと言いましたけど、確かに後ろめたい気持ちはありました。でも、もう一度彼を抱きしめることができるかもしれないと思うと、そんなものはすぐに消えてしまうんですよ」
「それは……、自分勝手なんじゃありませんか?」
「そうですね」
ふっと小さな自嘲の笑みが聞こえた。
「あまりに身勝手で我侭で、……そうなんでしょうね」
ふいに大和は立ち上がって窓に近づき、仰られているカーテンを抑えると窓を閉めた。
外から聞こえていた木々のざわめきが消えて、室内はしんと静まり返ってしまう。
その静けさは乾に落ち着かない感じをもたらした。
「きっと……」
大和は窓を閉めてもそのままガラス越しに暗い森を見つめている。
やけに虚ろで生気のない表情がガラスに映されているのが乾の位置から見えた。
「きっと、僕の時間は手塚君と別れたあの夜で一度止まってしまったんです。だから君の言うような自分勝手な愛し方しかできなかったのかもしれませんね」
そうして大和はじっと森を見据えたまま動こうとはしなかった。
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(2003/10/29)
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