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■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...16
『なんてことしたんですかっ!』
大和を問い詰めて予想通りの答えを聞いた不二は珍しく声を荒げた。
培養液と人口羊水の中で成長してきた「彼」の身体の機能は一般的な数値よりもかなり劣ったものだった。
自分で呼吸をするようになってからもしょっちゅう体調を崩してはスタッフを慌てさせ、それでも致命的な状態には至らずになんとか回復していくといったことを繰り返していた。
「彼」の核が受精卵に移植された段階で、それまで記号で呼ばれていた「彼」に名前がつけられた。
―― 手塚国光
それを聞いた不二は酷く嫌そうな顔をして大和に何を考えているのかと文句を言ってみたが、彼は軽く受け流して最後には「決定権は僕にあるんですよ」と不二を押さえ込んでしまった。
それから2年間、手塚は周囲をはらはらさせながらもその身体や知能を成長させていった。
彼に接するのは指示を出された医師や看護士、リハビリ教育担当の者たちで、研究スタッフが直に接して何かをするということはなかった。
大和も不二も、その間ずっとモニタの中でしか手塚を見ることはなかったのだ。
手塚に異変が起きたのはその頃だ。
既に身体は4、5歳くらいにまで成長していたのだが、突然、心肺機能が低下して意識が戻らなくなった。
それが命に関わることではないと分かったものの、一向に目を覚まさない手塚に大和の我慢も限界を超えてしまう。
部長の許可を得て手塚の部屋に入り、彼の側で様子を見ることにしたのだ。
周囲の者は「やっぱり名づけ親だから情が移るのかな」などと呑気なことを言っていたのだが、そんな中で不二だけは一人訝しげな視線を大和に向けていた。
それから数年間、手塚の意識は一向に戻る気配を見せず、ただ点滴と複数のチューブに頼ってその身体は成長していった。
研究スタッフの大半は本来の部門に戻ったり新しい研究に配属されていき、残ったのは大和と不二を入れた4名だけになっていた。
不二の疑問が強いものとなったのは手塚が7、8歳程度まで成長した頃だった。
その面影がどうしてもかつてのチームメイトに重なってしまう。
最初は名前のせいで自分がそう思い込んでしまっているのだろうと考えようとしたが、明らかにそれでは納得できないくらいにモニタの中の少年は彼を思い出させた。
大和にそれを言ったのはなんの気なしだった。
なんだか似てますよね、と雑談をするように不二が言った言葉に大和が答えたのだ。
『本人ですからね』
不二はそれが冗談ではないと分かると声を荒げて大和に詰め寄った。
それでも大和は満足そうに口元を緩めて愛しむようにモニタを見つめているだけだった。
手塚の部屋のソファに凭れてウトウトしていた大和がふと目を開けると、小春日和の午後の陽射しが手塚の顔を照らしていた。
これでは眩しいだろうと、大和は窓際に行きカーテンを半分引いてやる。
そうしてベッドサイドの丸椅子に腰掛けてそっと手塚の前髪に触れてみた。
今まで陽に当たっていたためだろう、その髪は温かさを大和の指に伝えてくる。
先ほどから始めた点滴のために外に出されていた手塚の腕がやけに白かった。
その指先を静かに握り締めてみる。
大和の記憶の中に残る細くて少し節のある指の感触とは全く違う、それは小さくて柔らかいものだった。
そのまま指の裏側をそっと撫でていると、今にも手塚の僅かに甘さを含んだ声が聞こえてきそうな気がする。
『くすぐったいんですけど……』
しかし大和の耳に入ってきたのは、突然不規則になった電子音だった。
その音の乱れに大和はぎょっとしていくつかあるモニタの一つに見入る。
そうして再びベッドの手塚に視線を移した。
まったく変わらない状況の中、じっと大和は伏せられている彼の睫毛や軽く閉じられたままの唇を見つめる。
どれほどそうしていたのか、不規則だった電子音はいつの間にか規則的なリズムを取り戻していた。
期待外れだったのかと、もう一度大和はいくつかのモニタをチェックしてから丸椅子に座り直そうとして目を瞠った。
手塚の睫毛が小さく震えている。
それは次第に大きくなり、ゆっくりと瞬きのようなものを繰り返す。
その瞳は何も映していないかのようにぼんやりとしてはいたが、それでも何かを追うように大和の方に向けられた。
最後にこの瞳を見た夜のことを思い出す。
あのときの貫くような鋭い光はないものの、その色は全く変わることなく大和を捉えていた。
『手塚君……?』
そっと囁いてみるとそれが聞こえているのか定かではなかったが、まるで返事の代わりのように一度瞬きをする。
『おかえりなさい、手塚君』
大和は小さな指をぎゅっと握り締めて、片手で少しだけ目に掛かっていた前髪をかき上げてやった。
「国光に教えた話は全部嘘なんですね」
「ええ」
夜の森に視線を向けたまま大和は答えた。
「意識を失くす以前に教育されたことは多少覚えてはいたようですけど、ずっと側にいたはずの医師たちのことはすっかり分からなくなっていました」
そう言って振り返ると、ソファには座らずにそのまま机の方へ歩み寄ってそこに寄りかかるようにして腰を落ち着けた。
結局、大和は自分のしたことをどう思っているのだと、乾は俯く彼の姿を見つめていた。
大和に対する手塚の表情が変わり出したのはいつ頃からだったのか。
いつの間にか大和が顔を出したときだけ手塚の表情が和らぐようになったと看護士から聞かされた。
その後の手塚は体調に異変を来たすこともなく、次第にその生活も安定したものとなっていった。
そんな状況に大和は大きな満足感を得ていた。
あの日記を読んだときに感じた後悔。
―― もっと愛してやりたかった。
それを叶えることができるのなら自分の全てをかけても構わないと思いながら。
しかし大和の手塚に対する気持ちは少しずつ違う方向に動き始めていた。
もちろんそうなることは大和も承知しているつもりだった。
一度失ってしまった手塚は二度と戻ってはこない。
目の前にいるのはこれから新しい人生を始める全く別の存在だ。
それでも身体の細胞の一つひとつは間違いなく自分の愛した手塚のものなのだから、つまりは目の前の彼も手塚自身なのだと大和は信じて疑わなかった。
しかし小さな違和感はそこらじゅうに転がっていた。
喜怒哀楽の乏しい表情。
鋭さなど微塵もない穏やかな瞳。
例え遺伝子が同じでも人格は全く別のものになるし顔つきも変わってくる、それは充分に承知しているはずだったのだが……。
初めて大和が手塚の検査の様子を見たときのことだ。
検査用の簡易服に着替える際、手塚はそれまで着ていた服を何の躊躇いもなく脱ぎ捨てて全裸になった。
周囲に複数の人間がいたにも関わらずだ。
それが大和に大きな衝撃を与えた。
『あ……、ちょ、っと……』
『どうして? 君の身体は何度も見てるんですけど?』
『そう、ですけど……』
服に手をかける度に僅かな抵抗を見せた手塚の表情を思い出す。
何度も身体を重ねた自分の前でさえ羞恥を見せていた。
その羞恥が快楽に呑み込まれて次第に消えていくのを見るのが大和は好きだった。
それなのに……。
憤りとも嫉妬ともつかない感情が大和の内に湧きあがってきて、まるで無防備に肌を晒す眼前の手塚を誰の目も届かない場所にさらっていってしまいたい衝動に駆られた。
やがて手塚にも自立心のようなものが出てくると、当然のように自分の過去を知りたがった。
もちろん本当のことを言うつもりのない大和たちはそれらしい話を作り上げてやったが、思いのほか手塚の過去や家族に対する想いは強いものだった。
基本的に施設内では身体の負担にならないことは自由にさせていたため、手塚はパソコンの検索を使って事故や自分に関することを探し出そうとまでし始める。
しかしそれについては大和も危惧していたため、手塚の考え出しそうな言葉に対してロックをかけておいた。
そうして渡したのは手塚とは何の縁もない親子の写真だった。
さすがに彼の気持ちを考えるとこんなことをする自分に嫌気が差したものの、それで少しでも気持ちが落ち着くのならと思ったのだ。
しかしその行為は裏目に出た。
それ以降、全く自分のことについて分からないとうことが手塚を追い詰めてしまったのだ。
次第に看護士たちとも口をきかなくなり、大和とは多少の言葉を交わすものの、それでも以前と比べれば彼は無口になっていた。
手塚が手首を切ったのはそれから半年ほど経った頃だった。
傷自体は軽いものでどうということもなかったのだが、大和にとっては手首を切るという行為自体に相当なショックを受けていた。
もう一度、手塚を失うかもしれないという恐怖を思うとどうしようもないほどの痛みが胸を襲う。
それから大和は都合をつけては手塚の部屋に顔を出すようになった。
離れていると不安で不安で仕方がない、まさに頭の中は手塚のことで一杯だった。
そんな大和とは対照的に手塚は意外とも思えるほどの落ち着きを取り戻していた。
相変わらず看護士たちとは話をしなかったものの、大和に対してはその口元を緩めることさえあった。
そしてあれほど知りたがっていた過去に対するこだわりも捨ててしまったかのように、一切口に出すこともない。
もちろん手塚が完全に諦めたのではないことはすぐに分かったが、だからといって自分がこれ以上何かをすることもできないと、大和はひたすら「外から訪ねてくる親類」を演じていた。
大和が手塚を施設から連れ出すきっかけになったのは手塚の何気ない一言だった。
『しょっちゅう様子を見にこられるのが煩わしいよ。こんなところで誰にも邪魔されないで暮らせたらいいのに』
それは雑誌に載っていた避暑地のような高原を見ながら手塚が呟いたものだった。
その言葉を聞いた大和に、甘く胸が疼くような衝撃が起こる。
今までそんなことは考えもしなかったのだが、もしも手塚とそんな生活ができるのなら……。
部長に出された大和の申請は条件付きで通された。
定期的に検診を受けさせること。
外出の際には行き先を連絡すること。
少しでも異変が見られたら速やかに施設に戻ること
そして、もう一人スタッフを同行すること。
それらを了承した大和はすぐに手塚のもとへ向かった。
『ここを出る許可を貰いましたよ』
いきなりのことに事態が呑み込めない手塚は、不思議そうにきょとんとした表情のまま大和を見つめていた。
当然喜ぶだろうと思っていた大和だったが、手塚は状況を理解すると途端に訝しげな視線を向けてきた。
『どうして、ここまで俺に親切にしてくれるんですか?』
―― 君を愛しているから、もう二度と離れたくないから……。
心の中でそう言いながら大和はにこりと笑った。
『うーん……、君が弟みたいで放っておけないから、ですかね』
一瞬、手塚は瞳を見開いて大和をまじまじと見つめ、そして初めて笑顔らしい笑顔を見せた。
それは手塚が最後に見せたあの夜の笑顔そのもので、その瞳には大和に対する信頼の表情が表れていた。
大和が手塚を連れて行ったのは東京から車で4時間ほどかかる小さな町だった。
さらにそこから30分ほど行った森の奥の洋館。
それは大和の曾祖父が建てたものだった。
曾祖父と曾祖母と執事のたった3人で住んでいた場所。
精神を病んだ曾祖母を親類を始めとする周囲の目から隠すために移り住んだのだと、小さい頃に聞いたことがある。
そのそきは、妻を閉じ込めるようなことをした曾祖父を酷い人だと思ったものだが、今思えば、それは二人で静かな場所に暮らしたいと願ってのことだったのかもしれないと感じる。
本当に曾祖母を周囲の目から隠すためだけなら、何も自分までがこんな不便な場所に同行する必要はなかったのだから。
時が流れて、自分もまた曾祖父と同じように手塚を連れてこの洋館に住むことになったのはまるで可笑しなことだと思った。
執事はいないが、その代わり不二が条件に出された同行人としてやってきた。
もちろん彼を指名したのは大和だったが、断る気になれば断れたその話を不二は二つ返事でOKした。
大和のしたことに対して言葉荒く詰め寄った不二が素直に応じたことに多少訝しいものを感じたものの、それでも大和の胸にあった微かな希望に少しだけ光が射し込んだような気がした。
―― 戻れるだろうか……。
テニスを通して三人でひたすら夢を追っていた頃に。
愛する人が目の前に当然のようにいること、ただ愛し愛されていることを感じていられること、いつまでも一緒にいられるのだと疑いもしないこと。
そんな自分だった頃に戻れるだろうか……と。
しかしそんなことは絶望的に無理なのだということは大和が一番よく分かっていた。
それでも信じることだけは自由だろうと、大和は重々しい正面玄関のドアを開け、手塚の背中をそっと押してやった。
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(2003/11/8)
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