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■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...14
「まさか……、その帰りに?」
大和は頷いた。
そうして大きな溜息をつくと組み合わせた指を眉間に持っていき、そのまま俯いてしまった。
重苦しい沈黙の中で二人は動くこともなく、乾はじっと目の前の写真を見つめていた。
そこに映っている大和の楽しそうな表情が余計に乾の胸の痛みを突いてくるような気がする。
「雨が降っていました」
くぐもった声がして乾は大和の方を見たが相変わらず彼は俯いたままで、それでも少しずつ少しずつ自分の中のものを吐き出すように喋り始めた。
手塚の葬儀の日は朝から雨だった。
部活や学校関連の者を始め、他校の生徒や面識のあったらしいコーチや留学を薦めた財団の者たちで手塚の周囲は埋め尽くされた。
大和はそんな人ごみに入るのが嫌で、道の反対側からぼんやりと彼らの出入りを見つめていた。
それはまさにモノクロの世界だった。
『最後のお別れ、しなかったそうですね』
低くも柔らかい声が聞こえてきて少し視線をずらすと、いつからそこにいたのか黒い傘を差した不二が隣に佇んでいた。
手塚が誰よりも大和を慕っていたと知っている彼の両親は、最後に一目あの子に会ってあげて下さいと大和を祭壇の方に促した。
しかし大和は失礼になるとは思いながら、決して手塚の側に行こうとはしなかった。
人の流れをじっと見ていた大和がふいに歩き出した。
その途端、背中に不二の呼び止める声が聞こえてきて、「ああ、不二君がいたんだっけ」と思い出し振り返る。
何か言いたそうな表情の彼を見て、そういえばさっき何か言っていたなと思うものの、その内容を思い出すことはできなかった。
少しの間不二の顔を見つめていたが、彼が何も言い出しそうにないので再び背中を向けて歩き出す。
しばらくすると後ろからぱしゃぱしゃと水を跳ねる軽い音がして、大和は自分に降り注いでいた雨が遮られたことに気づいた。
隣に並んだ不二が傘を差し出している。
そのまま無言で歩き続けた二人だったが、大和が突然ぽつりと呟いた。
『納得、できますか?』
その言葉に首を小さく横に振った不二だったが、大和はその様子を見ることもなく、ただじっと数歩先の濡れたアスファルトに視線を注いでいた。
自室のベッドに転がって、手塚が何度もその頬を押し付けていた枕に顔を埋めた。
そのまま首を巡らせていくと机や本棚、オーディオ機器などが目に入ってくる。
全て手塚が触れたことのあるものばかりだった。
このベッドに彼が横たわったことも何度あったか分からない。
手塚は大和の腕の中にいても滅多にその目を上げなかった。
いくら瞳を覗き込もうとしても、彼は恥ずかしがってすぐに視線を逸らせてしまう。
そうして羞恥を感じながら震える指も唇から零れる声も身体の熱も、その全てが数日前までは大和のものだった。
思い出そうとするまでもなく、そんな彼の姿が瞼の奥に浮かんでくる。
携帯の短縮を押せばいつもの手塚の声が聞こえてきそうで、ふと掛けてみようかなどと思ったりもするが、さすがにそこまでは大和もすることはなかった。
葬儀から一ヶ月ほどが過ぎた頃、手塚の母親から息子の日記を渡したいという電話が入った。
そうして大和の手元に届いたのは、手塚が小学校4年から毎日書き続けていた十数冊に及ぶ日記だった。
その全ての表紙の裏に同じ言葉が書かれている。
『大和部長へ』
冬休みに入る直前、大和は高校に退学届けを出した。
両親と一緒にイギリスへ行くためだった。
家族は卒業するまで日本に残ったほうが良いのではと勧めたが、大和は「構わない」と言ってきかなかった。
正直なところ、手塚との思い出の残る学校にいるのが辛かったのだ。
テニスコートや部員たち、手塚をよく見かけた図書室、そんな記憶がある限り校内のどこにいても彼の姿を探してしまう。
学校だけではない。
通学路や駅の改札など、とにかく生活のあちらこちらに手塚の存在が刻み付けられていて、それが大和の気持ちを揺さぶって休む間も与えてくれない。
家に帰れば帰ったで、眠りにつくベッドは学校にいる以上に大和の身体に熱をもたらして止まなかった。
どうしようもなく手塚を抱きしめたくて、抱きしめたくて、なのにそれはもう一生叶うことのない願いなのだと思うと大和は気が遠くなるような気がした。
『いってきます』
そう言って自分を見つめてきた手塚は、確かにその言葉通りに今もアメリカでコートに立ちラケットを振っているのだと、そう信じたままで時間が止まってしまえばいいのに。
現実なんか認識できなくてもいいから、手塚は今も海の向こうにいるのだと信じることができたらいいのに。
あんなに愛していた手塚がいなくなっても、こうして正気でいられる自分が不思議だった。
もしかしたら自分の愛が足りなかったのだろうか?
もっともっと手塚を愛していたら、今頃は自分も幸せな夢の中に漂っていられたのかもしれない。
『いってらっしゃい』と送り出した手塚はもう帰ってはこない。
そのことを充分に承知している自分に、大和は嫌悪を抱いた。
「あのときも僕は逃げ出したんです」
いつの間にか風が強くなってきていた。
窓に揺れるカーテンがふわりと大きく揺らめいて、外からはざわついた木々の音が聞こえてくる。
その音に混じって、大和の声は消え入りそうなほど細いものだった。
「乾君。僕が今話していることは全て見苦しい言い訳にしか過ぎません。それでも君に聞いてほしいんですよ。僕の気持ちの全てを知っていてほしいんです」
大和の言葉は平坦で抑揚がなくて、ときどき声が掠れているのは無理矢理に喋ろうとしているからかもしれない。
これまでの話に心を痛めながらも言うべき言葉を見つけられない乾は、じっと見つめてくる大和にただ黙って小さく頷いた。
「僕はさっき、写真の手塚君と今ここにいる国光が同一人物だと言いましたよね」
「……はい」
「もっと正確に言うと、同じ遺伝子を持つ人間ということです」
「は? え、っと……、それは……?」
いきなりの話の飛躍に乾の思考がついていきかねた。
しかし大和の言ったことを頭の中で繰り返すうち、事実と言葉の一つひとつが次第に集まってきて形を作り始める。
『遺伝子』、似すぎている二人の姿、大和が医者であったこと。
イギリスにいた大和が研究のために日本に呼ばれたと言っていたのは国光だったか。
脳裏に浮かんでくる突拍子もない考えに乾は戸惑い、そんなことはあり得ないと大和を凝視する。
乾の表情が変わったことでその考えていることも読み取ったのだろう、大和は大きく深呼吸をしてからソファの背に身を凭せかけ天井を仰ぐようにして目を閉じた。
「多分、乾君の考えていることは当たってますよ」
「でも……! そんなことあり得ないでしょう? だいたい法律で禁止されてるじゃないですか!」
思わず前に身を乗り出した乾を、薄らと瞼を上げた大和が見つめてくる。
その口元が歪んでいるのは笑みなのか悲しみなのか、乾には分からなかった。
「法律をみんながみんな、ちゃんと守っていると思いますか?」
「……でも、そんなこと……」
「禁じられているとしても研究は進められていくし需要もあるんです。現にアメリカや中国には複数の存在があると言われていますしね」
そう言いながら、眉を寄せて自分を見ている乾の表情に大和は苦笑した。
「軽蔑、されてそうですね」
「あなたの言う通りだとして」
乾は一旦、口を噤んで写真の手塚を見下ろした。
やはり信じられないと思いながら。
「あなたの言う通りだとして、どうして手塚君なんですか? それが事実だったとしてもあなたが高校生の時に彼は亡くなっているんでしょう。それに……」
言葉が詰まる。
乾にとってはそれが一番信じられないことだし、信じたくもないことだった。
「愛していると言ったじゃないですか。なのにそんなこと……」
「できるはずがない、と?」
静かな声が興奮気味の乾の声に重なった。
まさに言わんとしていたことを先に言われて乾は黙り込み、その通りだと咎めるように大和を見つめる。
「愛していました、どうしようもないくらい。……そうですね、確かに君の言ってることが正しいんでしょう。でもそれは君の愛し方でしょう? 僕も僕なりに、あのときは精一杯愛していたんです。
もっとも、それが今の僕を苦しめているんですけどね……」
大和がイギリスでしたことといえば、ただひたすら勉強をすることだった。
国立大学の医学部に入学してからは講義以外の時間は図書館で過ごし、部屋に戻っても難解な書籍や論文を読み漁る。
休日は地元のボランティアなどに参加し、夜はまた勉強。
ルームメイトや親しくなった学部仲間からの誘いも時には受けて、映画や夜の街に繰り出すこともあった。
他のことに集中して手塚のことを思い出す暇もないほど疲れたいと、最初の頃こそ、そんな希望通りに疲れ果てていたものの、大和の身体も神経も次第にそんな環境に慣れていってしまった。
そうして気がつくと手塚のことを思い出している自分がいる。
結局、イギリスに来て新しい生活を始めたとしても胸の痛みが消えることはなかった。
『辛い経験が想い出に変わるには、どれくらいかかると思う?』
どうしようもないくらい手塚のことを思い出して眠れなかった夜、大和は初めてルームメイトに相談らしい言葉を投げかけた。
『時間の問題じゃないと思うけど、でも考えないようになんて思ってたらいつまでも想い出にはならないんじゃない?』
ちょっと前のお前みたいにさ、とつけ加えてルームメイトはベッドに潜り込んでしまった。
その後、暗い部屋の中でしばらく天井を見上げていた大和は静かに起き上がると、できるだけ音を立てないようにベッドの下の荷物を引っ張り出した。
そこから数冊のノートを探してミニライトを手にベランダへ向かう。
表紙を開いて小さな灯りの中の文字を指でなぞってみた。
―― 大和部長へ
そうして初めてそのノートのページを捲ってみる。
綺麗に並んだ几帳面そうな文字が目に入ってきて、途端に大和の胸が苦しくなった。
今までどうしても読むことができなかった手塚の日記。
表紙裏の一言がどういう意味を持っているのか、大和には分からなかった。
しかも最近のものばかりではなく、大和と会う以前の日記にまで同じことが書かれている。
一体いつ、こんなことを思いついたのか……。
手塚の身にあんなことが起こらなければ、決して自分の手元にはこなかったであろうこのノート。
それを読むということは手塚がもういないのだという現実を突きつけられるようで、中身が気になりつつもこの日記を開く気にはなれなかった。
そのノートは手塚が1年の夏頃からの日付で始まっていた。
文字の合間から手塚の言葉が溢れてきて大和を呑み込んでいく。
不本意な結果に終わった夏の大会、3年の引退、秋の新人戦、そして大和の卒業……。
再び繰り返されていく過去の記憶を辿る中で、次第に手塚の言葉と大和の気持ちは同調していった。
そこにあった手塚の困惑や苦しみは全て大和の感じたものと同じで、そして初めて部室で手塚を自分の腕に閉じ込めたときの気持ちも同じものだった。
彼は感情を表に出すのが苦手なのだと、それは理解しているつもりでも時に大和は不安に駆られていた。
そんな自分は、なんて不義理で馬鹿だったのだろうと思う。
手塚はこんなにも自分に対して真剣に気持ちを向けてきていたのに。
―― 終始、俺に気を遣ってくれたけど、そんな必要はない。あの人から受けるのなら、快感も痛みも全て悦びだから。
―― 俺の全てを差し出したいと思った。めちゃくちゃにされても構わない、そんなふうに思うのは少し異常なのかもしれないけど。
―― アメリカへ行ってしまったら会えなくなる。離れて過ごすこと自体がピンとこない。
―― それでもこれは俺の夢だから。この話を断ったらあの人に軽蔑されるだろう。
―― 自分の我侭で出発を遅らせたと知ったらあの人はどんな顔をするだろう。
―― 呆れるかもしれないけど、きっと困ったように笑ってくれると思う。あの人に子ども扱いされるのは心地いい。
―― 明日、あの人に会ったらしばらくは会えなくなる。離れていても思い出せるように、心と身体に全てを刻んでおきたい。
冷静な表情の下に、羞恥に伏せられた瞳の奥に、これほどの想いがあったことを大和は気づきもしなかった。
もっと気持ちをぶつけていればよかった、もっと愛してやればよかった。
あの頃は精一杯に愛していたつもりだったけれど、それでもきっと足りなかったのだろう。
もっともっと愛してやりたかった。
次第に目の前が霞んできて、やがてノートの文字が見えなくなった。
瞳に留まりきれなくなった涙が頬を伝っていく。
それは手塚がいなくなってから、初めて大和が流した涙だった。
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(2003/10/26)
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