■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...13
 

何も言わず、乾はじっと大和を睨みつけていた。
乾本人はそれほど意識していたわけではないのだが、それは「睨んでいる」瞳だった。

「あの手塚君の代わりに国光を好きになるのが怖い、ということですか?」
「代わりじゃありません」
大和は静かに首を横に振り、伏せ目がちの顔を乾に向けた。
「僕が愛しているのは手塚君だけです。きっとこれから先、何があっても手塚君だけなんです」
「だったら、何から逃げるんですか?」

さっきから何かを聞く度に大和の答えは返ってくるものの、それがかなり曖昧で肝心なことを口にしていないということに乾の苛立ちが募っていく。
既に乾の言葉も非難の色を抑えることはなくなっていた。

ふいに大和は身体を少し前に出して手を伸ばし、乾の手にあった写真をそっと取り上げた。
何の抵抗もなく、すっと手から抜けた写真を見つめて大和が微笑む。

「国光は代わりなんかじゃないんです」

大和はゆっくりと深呼吸をするように胸を上下させて一瞬目を閉じた。

 

「この写真に映っているのは国光本人なんですよ」

いい加減にしてくれと乾は思った。
もう訳の分からない言葉は充分だと。
溜息とともにそんな乾の気持ちが伝わったのだろう、大和は自嘲するように鼻で小さく笑い、手にしていた写真を乾の方に向けてテーブルに置いた。

「双子でもないのに似過ぎていると思いませんか? それに国光という名前はそんなにありふれたものではありませんよ?」
ちらっと大和は乾の様子を窺ったが、乾は黙ったまま写真に見入っている。
「彼の両親は親戚との付き合いはなかったと言ったでしょう。そんな彼らが故意に国光という名前をつけるとは思えない。仮に偶然つけた名前が国光だったとしたら、それは非常に確率の低い偶然です。君は何も疑問を感じませんでしたか?」
「それは……」
確かにそうは思ったものの、こうだと言われてしまえば多少の疑問があっても納得せざるを得ないだろう。

「でも……、だとしたらどういうことですか? 国光本人ということはないでしょう。この写真の手塚君はずっと前に……」

もしかしたら。
ある考えが乾の頭に浮かび上がった。
大和は手塚の死を受け入れられずに、国光を彼本人だと思い込んでいるのではないか?

「写真の手塚君は、ずっと前に亡くなっているんでしょ?」
わざと『亡くなっている』という言葉をゆっくりと強調してみせた。

「そうですね」
大和はそう言ってから乾の顔を覗き込んできた。
黒目がちの静かな瞳だった。
それが僅かに細められる。
「僕が現実を認めていないと思ってます?」
どこまでも鋭い大和は乾の言葉の端からその考えを汲んだらしい。

「ちゃんと認めていますよ。生きている以上、避けて通れないものがあることは僕だって承知しています。
……でもね、承知はしていても納得できないことはあるんですよ」

 

 

大和が物心ついたころには既に大きなドイツシェパードが家にいて、一人っ子だった彼はその愛犬と兄弟のように日々を過ごしていた。
食事のときも眠るときも、常にそのシェパードが大和の側で尻尾を振っていた。
しかしいつからだったか、シェパードはあまり食事を口にしなくなり定位置だった居間のソファの側にうずくまっている時間が多くなっていった。
そんな状態が数週間続いたある朝、いつも大和のベッドの足元で眠っていた彼はどんなに大和に揺り動かされてもその目を開けることはなかった。
大きな声で名前を呼んでもエサを口元に持っていってみても、彼はぐったりと横たわったままだった。

大人たちから「もうおじいさんだったんだよ」と言われても、大和にはそんな理由はなんの意味もなかった。
昨日まで自分の後をついて歩いていたのに、自分の手からエサを食べていたのに、それが朝起きてみれば動かなくなっている。
6歳の大和には納得できるはずもなく、シェパードを火葬にした後もしばらくの間は「どこに連れていったの? いつ帰ってくるの?」と両親を問い詰めていた。

 

大和にとっての二度目の別れは11歳の時だった。
いつも自分を可愛がってくれていた祖母が倒れた。

両親が共働きだったため、週の半分は近所に住んでいた祖母と夕食をとっていた。
彼女が倒れたのはその夕食の最中だった。
テーブルから立ち上がろうとしたところで身体が崩れ、その拍子に近くにあった食器も一緒になって床の上に落ちていった。
耳障りな食器の割れる音とゆっくりと倒れていく祖母の姿が大和の瞳に焼き付けられた。
驚きのあまりしばらくは動けなかった大和だが、それでも震える手で母親に連絡を入れた。

救急車で運ばれていった祖母は、その夜のうちに息を引き取った。

 

 

「納得できますか? ついさっきまで一緒にいた人が突然目の前からいなくなるんですよ、無理矢理この手をこじ開けられるようにして大切なものを奪われて。それなのに、僕は何もできずにただ黙って見ているしかできなかった……」

乾には何の言葉もかけることはできなかった。
喉に声を詰まらせながら喋っている大和は、少し冷静さを失っているようにも見える。
そんな大和の姿など見たくないと思う乾だったが、それでも彼が自分に何を伝えようとしているのか見極めたくて、目の前の彼から目を逸らしつつもじっとその言葉に耳を傾けていた。

 

 

大和が自分の性癖に気づいたのはいつ頃だったのか、少なくとも中学2年になる頃には薄々そうではないかと思い始めていた。
性に関する情報もそれなりに理解できるようになると、次第に自分は何かが違うと感じるようになった。
決定的だなと感じたのは、自分の手で性的欲望を処理するときに思い浮かべるのが女の子ではなくクラスメイトの男子だったり男の先生だったりしたことだった。
そんな自分を認めきれず、しかしどうすればいいのかも分からない状態のまま大和は3年に進学した。

 

『彼を好きになる』
目の前に並ぶテニス部新入部員の中に初めて手塚を見たとき感じたことだった。
整った顔立ち、鋭い瞳、引き結ばれている唇、体操服からすらりと伸びている手足。
大勢の新入部員たちの中で、彼一人が大和の目を引き付けて離さなかった。

コートに立つ手塚は完璧だった。
その容姿は一点の汚れも知らないような高潔さを漂わせ、充分すぎるほどの技術と知識をもってのプレイは3年のレギュラーでさえ敵うものではない。
コートを舞うその姿に、どうしようもないほど大和は焦がれていた。

もちろん大和の手塚に対する想いは恋愛感情だけではなかった。
彼ならこの傾きかけているテニス部を建て直してくれるかもしれない、今後の部を託す後輩としても手塚の存在は魅力的だった。

しかしプレイヤーとしては完璧でも、それが即ち部をまとめられる要素かというとそうではない。
そういう立場に立つ者として、手塚には少々欠点があった。
そしてその欠点こそは、大和が最も秀でている部分でもあったのだ。

周りの人間に対する無関心、それが彼の欠点だった。
対戦相手として見る時は異常なほどの関心を見せるくせに、それ以外のときは誰が何をしていようと無関心で自分から他の部員に近寄ることもなかった。
そんな彼に大和は時々、部内の状況や部員のことを話して聞かせた。
そうやって少しずつ手塚に自分以外の周囲のことを意識させようとしていたのだ。

そんなふうに手塚と話をするようになって気づいたことがある。
意外にも手塚はシャイだということだ。
無口なのも他の部員たちに接しようとしないのも、どうやって接するきっかけを作っていいのか分からずに最初から諦めていたらしい。
それを裏付けるかのように、一度声をかけてくれたという同学年の不二周助とはよく部活後に一緒に練習をするようになったと聞いていた。

そうして3年生にとっての最後の試合が終わるまでの半年弱、大和は手塚に部長として伝えられるだけの全てを伝えてテニス部を引退した。

大和にとって部を引退することはとてつもない痛みだった。
それまでに築いてきた手塚との関係は揺らぎないものとなっている。
しかしそれは部の先輩と後輩という立場でのことであって、既に全てを任せてしまった自分を手塚は意味のある存在だと思ってくれるのだろうか。
そんな不安が大和の胸を占めていた。

毎日のように会っていた手塚と会えなくなって大和の中の熱は更に上がっていった。
以前は側にいることで逆に気持ちも落ち着いていたのかもしれない、それがなくなってみて初めて大和は自分がどれほど手塚を欲していたのか自覚し始めた。

自分の欲望を吐き出すために幾度となく夢の中で手塚を抱きしめる。
その度に大和は罪悪感を感じて自己嫌悪に陥った。
時折、校内や区営コートで手塚に会うこともあったが、大和が自分の中で手塚を抱けば抱くほど現実の手塚は汚れのない輝きを増すようで、それが更に大和の罪悪感を増長させていく。

それでも大和はかつての部長という「良い先輩」を演じていくことに努力した。

しかし、それも卒業式の日までだった。

式の後、一人で部室にいた大和のもとに手塚がやってきた。
別に約束をしていたわけではなかったが、大和はここにいれば手塚が来てくれると思っていたのだ。
自分が卒業式の後に一番行きたがる場所を知っている、それだけのものが自分と手塚の間には存在しているだろうと確信していたのだ。

じっと戸口に立って大和を見つめてくる手塚の瞳には困惑が宿っていた。
そんな自信のなさそうな手塚など初めてで、大和もどう声をかけていいのか分からなかった。
そうして手塚は何かを言おうとしたらしく僅かに唇が動いたがそこから言葉が出ることはなく、代わりに零れたのは一滴の涙だった。

反射的に大和は手塚を抱きしめていた。
一回りは小さい手塚の身体が自分の腕の中に納まっているかと思うと、大和の胸は痛みを訴えるほどに締め付けられた。

ここまでならまだ言い訳はできる。
手放し難い温もりを感じながら自分に言い聞かせてみるがとても自分から腕を解くことなどできなかった。
そうしているうちに微動だにしなかった手塚が僅かに身じろぎ、「部長?」というくぐもった小さな声が胸の中から聞こえてきた。
大和にとってその呟きは誘っているものとしか受け取れず、そっと彼の両頬を掌で包み込んだ。
その手が冷たかったのだろう、一瞬ビクリと身体を震わせて、しかしそれでも手塚は動こうとはせずそれどころか自分の手を大和の手に重ねてきた。

都合がよすぎるかもしれないと思いつつも手塚の行動を了承と受け取って、大和は静かに唇を合わせていった。

これで自分たちの関係は変わってしまった。
小さな後悔と、しかしそんなものをあっという間に押し流してしまうほどの歓喜が大和の胸に溢れてくる。

自分の気持ちを伝えていいだろうか、もしかしたら手塚は単にパニックに陥っていてこの現実を認識できていないだけかもしれない、全ては自分が都合よく解釈しているに過ぎないのではないか……。
悦びの中で唇を合わせながらもそんなことを考えて、大和は彼から離れたとき何と言うべきなのか迷っていた。

 

 

『アメリカへの留学を決めました。10月に向こうへ行きます』

手塚が大和にそう告げたのは桜も散りきってしまった頃だった。
一瞬、胸がどきりとして言葉に詰まったけれど、大和は「そうですか」と既に自分より少し低いくらいまでに背が伸びていた手塚の方へ顔を向けた。
俯いて複雑そうな表情をしているのは多少なりとも後ろめたい気持ちがあるからだろう。
しかし手塚はこの話にすぐに頷いたに違いないと、大和はそう思った。
話を持ってきた財団は大和もよく名前を聞いていたし、毎年優秀なスポーツ選手を援助して海外へと送り出していることでもその功績を認められていた。
その留学を経てプロになった選手も各分野で多数活躍している。
常に上を見つめている手塚がそんな話を躊躇うはずはなかった。

いずれそういうこともあるだろうと思っていた大和だが、さすがに本人の口からそれを聞いては穏やかな気持ちではいられなかった。
しかも手塚が高校に入学してやっと同じコートに立てるようになったという矢先だったのだから。
それでも10月まではまだ半年近くはあると、大和はその時間を手塚とのテニスに費やそうと自分に言い聞かせた。

そうして迎えた8月の全国大会で大和たちは優勝を勝ち取った。
これでもう充分だと思った。
何年も求めていた舞台に立つことができた。
それも手塚と共に。
自分のテニスはここで一つの区切りがついたと思った。

 

 

手塚が少し身体を動かしたために、その柔らかい髪が大和の首をくすぐった。

『どうしても誕生日には一緒にいたくて、本当は9月の出発だったのを適当な言い訳をして遅らせてもらったんです』

アメリカへの出発を数日後に控えたある日、学校から戻った大和を手塚が訪ねてきた。
その日は手塚の誕生日だった。
部屋に通して肌蹴たシャツの鎖骨あたりに口付けを受けながら手塚がそう言うのを聞いて、大和はくすりと笑って数えきれないくらい重ねてきたその身体を抱きしめた。

しばらくは会えなくなるし、当然こんなふうに抱き合うこともできなくなる。
でもお互いにそんな話はいっさい口に出さなかった。
ただ離れていても忘れないように、二人はいつになく相手の身体に気持ちを集中させていつも以上にそれを感じようとしていた。

 

10月に入ると夜も少し肌寒くなってくる。
そんな夜の道端で二人は最後の口付けを交わした。
さすがに人目があるかもしれないと唇は一瞬で離れてしまったが、大和にとってそれは一生忘れることのできない口付けとなった。

『いってきます』

そう言って自分を見つめる手塚は、それこそが大和の焦がれた手塚だった。
真っ直ぐに見つめる揺るぎない瞳、強い意志を表している口元、相手を威圧するようなその空気。
大和は何も言うことができず静かに頷いた。
頷きながら、ただひたすら彼に逢えたことに感謝していた。

やがて手塚が視線を伏せて小さく頭を下げた。
そうして背中を向けて歩き出そうとした瞬間、それまで何も言えなかった大和の口から言葉が飛び出した。

『手塚君。…………いってらっしゃい』

手塚は振り向いてにっこりと笑った。

それは手塚が決して大和以外には見せなかった表情だ。

 

 

 

 

そして大和が見た手塚国光の最後の表情でもあった。

 

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(2003/10/20)
 


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