■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...12
 

翌日いっぱい手塚の熱は続いたが、3日目にはそれも下がってきたらしい。
それまでずっと手塚の側についていた大和が朝のテラスに顔を出してきた。

不二が差し入れた食事にもまともに手をつけていなかったらしく、頬のラインが少しだけ削がれ目の下にも薄らとクマを作っていた。
二日ほど大和の姿を見ていなかったホームズが椅子に座った彼の膝に足をかけて思いきり尻尾を振っている。
その頭を撫でながらいつもの穏やかな表情をしているものの、その瞳は虚ろで相当疲れているようだった。

「手塚はどう?」
コーヒーを差し出しながら不二が訊ねる。
「もう大丈夫でしょう。今朝は熱も下がって大分気分がいいようですからね」
相変わらずホームズの頭に手を置きながら出されたコーヒーを一口飲んで大和は大きく深呼吸のような溜息をついた。

「大和さんは大丈夫なんですか?」
「僕?」
乾の言葉に大和は少し目を大きくして意外そうな顔をした。
「ああ、僕は大丈夫ですよ。ありがとう」
にこりとしてカップを下ろすと皿の上にあったクロワッサンを手にして立ち上がった。
「すいませんけど僕は少し休ませてもらいますね」
そうしてクロワッサンをかじりながらテラスを後にする大和に尻尾を振りながらホームズがついていった。

大和があっという間にテラスからいなくなったことに乾は心の中で安堵の溜息をもらした。
彼の顔を見た途端、手塚の部屋でのことを思い出してしまいどう対応していいのか分からなくなった。
彼の行動の意味が理解できずに混乱してしまう。
さっき大和の体調を気遣ったときに彼が意外そうな顔をしたのは、あんなことのあとで乾が自分に話しかけてくるとは思わなかったからだろう。

『あとで話します』

―― 言い訳でもするつもりかな。

自分がいると知っていてあんなことをしておきながら言い訳も何もないだろうと思うものの、それでも早くその話を聞いてみたいと思う乾だった。

 

 

乾が大和の部屋の扉をノックしたのは夕食後すぐのことだった。

「先輩が呼んでるよ。時間があったら部屋まできてほしいって」
大和は部屋で食事をとったらしく、それを下げてきた不二が乾に告げてきたのだ。

扉を開けた大和は昼間眠ったせいか目の下のクマを残してはいるものの、すっきりとした表情をして乾を迎えた。

部屋は乾たちのところより幾分広く、窓の数も多かった。
壁には暖炉が備え付けられていて、その反対の壁は作り付けの本棚になっている。
手塚の部屋のものよりは小さめだが、それでも充分な高さがありやはりここも本でいっぱいになっていた。

「そこのソファにでも座っててください。今コーヒー淹れますから」
大和が視線で窓に近い場所にある大きめのソファを指し示した。
しかし乾はすぐにそこへは行かず、手塚の部屋に入ったときと同じように本棚の方へと向かった。
半分近くは洋書でタイトルからして意味の分かるものではなかったが他の本が全て医学関連の書籍らしいのをみると、それらの洋書もその類だろうと思われる。
本当に医者なんだなあ、と妙なところで納得しながら反対側にある暖炉に目を向けた。

乾はその上にある写真立てに気が付いて目を瞠った。

それは書斎の本に挟まっていたあの写真だった。
近くまで寄って写真立てを手に取りじっと見つめる。
笑顔の二人と無表情な一人。
まだ夢を追いかけていた頃の彼らの姿を見ると胸が詰まるような気がした。

「この写真、ずっとここにあったんですか?」

振り返ると既に大和はカップを持ってソファに腰を下ろしていた。
写真に気を取られていた乾をじっと見ていたらしく穏やかな視線が注がれている。

「いいえ、本に挟んでおいたのを持ってきたんです」
「やっぱり大和さんだったんですか?」
平然とした顔でこの前と違うことを答えた大和に眉を寄せながら、乾は写真立てを暖炉の上に戻してソファに向かった。

「この前は知らないなんて言ってすいませんでした。でもその方が君も興味を覚えてくれるかと思ったんですよ」
コーヒーの入ったカップを差し出しながら大和は首を傾げてにこりとする。
それを無意識に手に取って口に運んだ。

「興味を持つって、その手塚君にですか?」
「そう。もともと、君が手に取りそうな本に僕が挟んだんですよ、あの写真」
乾の動きが止まった。
言っている意味は分かるが、その理由が全く分からない。
どういうことなのかと聞こうとしたところを大和の言葉に遮られて、乾の唇は少し動いただけにとどまった。

「君に国光に対する興味を持ってほしかったんです」

ますます意味が分からなくなって、乾は大和の表情を覗き込む。
しかし相変わらずの笑みを浮かべている彼の表情からは何も読み取れない。
それはある意味、無表情なのと同じことだと思った。

「分かるように説明してくれませんか。俺にはあなたの言ってることの意味が全く分からないんですけど?」
「そうですよね」
僅かに俯いた大和が目を閉じて小さく溜息をつく。
そうして膝の上に両肘をついて組み合わせた指を口元に持っていった。

「僕は近いうちにイギリスに戻ります」
「え……?」
大和は俯いたままだ。
「近いうちって、いつ?」
「できるだけ早く」
大和の要領を得ない返答に乾は戸惑う。
彼がイギリスに戻るのは彼の都合だからどうこう言えることではないが、それが自分とどう関わってくるのかが全く分からなかった。

「あの……、国光も一緒なんでしょう?」
「いいえ」
即答すると同時に大和は顔を上げて乾をじっと見つめてきた。
「そんな、だって……」
「だから君にお願いしたいんです」
「は?」

「君にお願いしたいんです」

同じ言葉を繰り返されたものの、乾の口からは何の言葉も出てこない。
大和のいつになく真っ直ぐで真剣な瞳に見据えられて、言いたいことは理解しているが、それを受け入れるだけの余裕が乾にはなかった。

「何を言ってるんですか?」
大和の言いたいことなど百も承知していると思っていたが、それでも敢えて聞かざるをえない。
彼はどういうつもりなのか。

「僕が出発する前に国光と不二君には東京へ行ってもらいます。もう知り合いに頼んで部屋も用意してもらってますから」
「どうしてですか? 一緒に行けばいいじゃないですか」
「できません」
先ほどと同じように否定の言葉を即答する。
いつもは返事をするときも喋るときも、大和は言葉の中に適度な間合いを置いていた。
しかし今はそんなものは全く感じられず、それだけのことが彼の雰囲気を随分と変えているように思われた。

「不二君はともかく、国光には友達と言える人間がいませんからね。常にとは言いません。時々でいいですから彼の顔を見にいってやってください。それで、もしも何かあったら力を貸してあげてほしいんです」
「一緒に行くわけにはいかないんですか?」
「駄目です」
同じことの繰り返しだった。
それでも乾にはなんとなく分かってきたような気がする。
大和の否定の言葉は現状を言っているのではなく、自分自身を納得させるために言っているのだと。

「国光は何て言ってるんですか?」
「まだ言ってません」

手塚が可哀想だと思った。
大和は手塚が記憶を失ってから初めて心を開いた相手だったに違いない。
そして今でも遠縁とはいえ、自分の唯一の身近な存在として彼は大和を信頼しているはずだった。

弟みたいだと言われたことが嬉しかった、と手塚は言っていた。
そのときの彼の嬉しそうな、でも少し恥ずかしさが混じったような表情が頭に浮かんでくる。
大和にしても、彼を大事にしているのは誰にでも分かるくらいはっきりしていることなのに。

「国光を置いてけぼりにして酷いやつだと、そんな顔してます」
「…………」
それには答えず、乾は不快そうに顔をしかめてそれを返事にした。
そんな不快感を隠さない彼の態度に、大和は僅かに口元を緩めて小さく笑う。

窓にかかっていた白いレースのカーテンが小さく揺れているのが乾の目の端に映った。
夏だというのに、夜になるとこの辺りは驚くほど涼しい風が入ってくる。
乾はさっきまで真剣な顔で真っ直ぐに自分を見つめていた大和が僅かに笑ったことに少し苛立ちを感じていた。
気持ちを言い当てられてふてくされているとでも思われているのだろうか。
なんとなく投げやりな気持ちになって乾は黙り込んで揺れるカーテンをじっと見ていた。

「確かに僕は酷いです」
自嘲するような言い方に、それでも乾はカーテンから目を離さない。
見なくても彼が今どんな顔をしているのかは凡そ見当がつく。
口の端をきゅっと持ち上げ目を伏せ気味にして、乾が彼の方を向くと同時にその視線を注いでくるに違いない。
しかしその瞳がどんな感情の色を示しているのか、面白がっているのか寂しげなのか、そこまでは見当がつけられなかった。

「これ以上、僕が側にいたら駄目なんです」
乾にとってそれは訳の分からない言い訳だった。
眉をひそめてじっと大和を見据える。

「そんなことないでしょう? 自殺までしようとした彼を助けたのはあなたじゃないですか。国光があんなふうに笑ったりできるのだって、これからのことを考えられるようになったのだって、全部あなたが側にいたからでしょう?」
乾は喋っているうちにだんだんと自分の気持ちが昂ぶってくるのが分かった。
ここまで手塚の心を開かせたのに、何が駄目だというのか。
「彼は自分のことをちゃんと考えています。でもまだ不安定で、だからあなたが側にいてあげないと……」

いてあげないと駄目になる、と言いかけたものの乾は口をつぐんだ。
手塚に対して『駄目』などと否定の言葉を使いたくなかった。

彼を癒せる立場にいるくせに、必要とされているくせに、それを自分から放棄しようとしているのが不可解だった。
ふいに乾の胸にぽんと何かが浮き上がってきた。
それは羨望のような嫉妬のような感情だった。
手塚が月の下で見せた涙も海で見せた笑顔も、確かに乾に向けられたものだったけれど、それ以上の絆が大和と手塚の間にはある。
そんなことを今更のように感じて、乾は少し寂しい気持ちがしていた。

それまで俯いていた大和が顔を上げた。
「あのね、乾君」
それはまるで子どもを宥めるような優しい口調だった。
しかし大和の瞳は今までのように乾を真っ直ぐに見つめてくることはなく、多少落ち着きなさげに空中を泳いでいる。
しばらく溜息をつきながらそんな様子を見せていた大和だったが、恐らく何かを決心したのだろう。
あの穏やかな瞳をじっと乾に注いできた。

「乾君の正直な気持ちを聞きたいんです」
「……何を、ですか?」
大和の言葉が少し大袈裟なような気がして、乾は眉を少しだけひそめた。

「君は国光にどんな感情を持っていますか?」

感情、と言われて最初に頭に浮かんできたのは好きとか嫌いとかいった単純なものだった。
しかし大和が欲しいのはそんな子どもじみた返事ではないだろう。

さっき乾が羨ましいと感じた二人の関係、その大和の立場につくことができたら。
誰にも打ち明けない気持ちを自分だけに話してくれるほどに信頼してもらえたら……。

「力になりたいと思います。彼が少しでも前に進もうとするなら、後押ししてやりたい。そして……、あなたほどに信頼してもらえたら、と」

ふっと溜息の気配がして、少し下を向いていた乾は顔を上げて目の前の大和に視線を移した。
嬉しそうに少し目を細めている彼は心底安心しきっているような表情で、いつもの穏やかな笑みよりも多少彼を若く見せているようだった。
「国光の側にいるならそういう人がいいんです。だから……僕では駄目なんですよ」
「さっきから駄目だと仰ってますけど、どうして駄目なのか教えてください。俺にはあなたこそ国光には必要だと思えるのに」

大和はコーヒーを一口含むとソファから立ち上がって近くにあった机の引き出しを開けた。
そうして手にしてきたのは1枚の写真だった。
それを無言で乾に差し出す。
そこにいるのは学生時代の大和と手塚だった。
ふざけているのか手塚の後ろに立ち彼の肩口に顎を乗せて笑っている大和。
二人の身長差はかなりあったのだろう、大和が随分と背中を丸めている。
きちんとフレームの中央に収まっていないのは二人のどちらかが腕を伸ばしてカメラを持ちシャッターを押したに違いない。
手塚が少し緊張しているらしい面持ちから、おそらくそれは大和の役目だったのだろう。

「僕は手塚君を愛しているんです」

小さな呟きだった。
乾は一瞬だけ大和の顔を窺うと、また写真に視線を落としてその中の二人を見つめる。
今よりも少しだけ派手な笑い方の大和と、何かに戸惑っているかのように少し俯き加減でカメラを見たため上目遣いになっている手塚。
これまで大和や不二から彼の話を聞いてイメージだけはできていたものの、それとは随分と離れた雰囲気の手塚だった。
どちらかといえば、今の手塚に近いかもしれない。

「愛しているんです、彼を。あの頃からずっと、ずっと……、今も……」

溜息のように消え入りそうな言葉が乾の耳に届き、その後しばらく大和は黙り込んでいた。

「もしかして、国光を彼の代わりにしようとしてるんですか?」

自分でも酷いことを言っていると思った。
しかし眠っている手塚に『手塚君』と呼びかけたり口付けをしたり、大和のしていることは手塚を代役にしようとしているとしか思えない。
おそらく今までも同じことを何度も繰り返していたのだろう。
手塚が夢に見ると言ってた自分を呼ぶ声は、大和の囁きを無意識のうちに聞いていたのかもしれない。

その問いに何も答えない大和に、更に乾は口を開いた。

「でも、それじゃあ不二さんとのことは何なんです?」

それには答える気があるのか、大和はちらりと乾を見たあと、それが癖なのか指を組んで口元に持っていく仕草を見せた。
「不二君は……、それこそ代わりなんですよ、手塚君の。僕を哀れんでやり場のない気持ちのはけ口になってくれてるんです。まあ、不二君には不二君の目的があるみたいですけどね」

当たり前のようにさらりと言われて乾は不快感を強めた。
大和の言い方ではまるでお互いに自己の利益だけを優先させているとしか思えない。
二人の関係はもっと純粋な気持ちから成り立っていると思っていただけに大和の言葉は少なからずショックだった。

「乾君。前にまた僕の話を聞いてもらえるかと、君に言ったことがありますよね?」
初めて大和から写真の『手塚国光』のことを聞いた夜、帰り際に確かにそう言われたことを乾は思い出した。
「あのときはまだ少し迷っていたんですけどね。でも君に全部話そうと思うんです。そうして僕は……」

その言葉に乾は大和の顔を凝視した。
どういう意味なのかと問うのではなく、それは非難の意味だった。

 

 

『僕は……、僕はここから逃げ出したいんです』

 

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(2003/10/18)
 


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