■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...11
 

部屋の灯りも点けずに乾はベッドに身体を投げ出していた。
カーテンを閉めきっているため目を開けていようがいまいが同じような暗闇の中で、脳裏に浮かんでくるのはさっきの光景ばかりだった。

せっかく大和とまともに話せるようになったと思ったばかりだったのに、またしてもああいった状況に自分が置かれたことが不快に思えた。
しかも今回は大和の故意に違いない。
自分がいると知っていて手塚にあんなことをしていた。

―― なんなんだ……。

ただ唇を触れ合わせるだけのその行為は不二のときとは違って性的に強い意味を持ってはいなかったのかもしれない。
それでも何度も繰り返された口付けは、身内や友人以上の意味を持っているとしか思えなかった。

どうしても頭から離れない二人の光景はやがて乾の中でその姿を変えていく。
手塚に唇を落としていたのは大和だったにも関わらず、脳が作り出すイメージの中ではそれは乾になり、大和に唇を落とされているのもまた乾になった。
そうかと思うとそれはまた手塚と大和に戻っていく。

どうしようもない思考の連鎖を断ち切るように乾はベッドから起き上がりバスルームへ向かった。
いつもはゆっくりとお湯に浸かっている乾だが、とても今夜はそんな気にはなれない。
自分の動きを止めてしまうと勝手な妄想に気持ちが支配されてしまいそうで、そんな状況にイライラしていた。

服を脱いで頭から水を浴びてみる。
最初はその突然の冷たさに身体を緊張させたものの、次第にそれは心地いい冷たさに変わっていった。
どれくらいそうしていたのか、シャワーを止めてバスタオルで身体を拭いていると自分の中から熱が込み上げてくるような、じんとした感覚に包まれた。
鏡に映る自分の姿を見てみる。
そこにいたのは至って平凡な人間の姿で、不二や手塚のように人を惹きつけるものなど何もない自分だった。
思わず苦笑する。

―― 俺はここで何をしようとしていたんだろう?

偶然に紛れ込んだこの屋敷で、いつの間にか彼らの生活にくいこもうとしていた自分が滑稽に思えた。

バスルームを出た途端、部屋のテーブルに不二がいたことに驚いて乾は「あれ?」と少し裏返ったような声を出してしまった。
案の定、不二は可笑しそうにくくっと笑うと「ごめんね」と小首を傾げた。

「ノックしても返事がないからちょっと覗いてみたんだ。そしたらシャワー浴びてたみたいだから待たせてもらってた」
「ああ、すいません。すぐ着替えます」
腰にバスタオルを巻いただけの姿だったため、乾は急いでクローゼットを開けて服を取り出そうとした。
「あ、ちょっと待って」
制する不二の言葉に乾はTシャツを取ろうとしていた動きを止めてテーブルの方に振り返った。
不二は乾も既に見慣れた小さな茶色い遮光ビンを目の高さに掲げている。

「もうお風呂に入っちゃったのかな、シャワーだけ?」
「シャワーだけですけど……」
「そう、よかった」
乾の返事ににこりと不二が微笑んだ。
「今日は君も陽に焼けたかと思ってね、これ持ってきたんだ」
そう言って持っていたビンをテーブルの上にコツリと置いた。

「マッサージですか?」
あまり今は気が乗らないなと思いつつ聞いてみると、不二は「ううん」と言って立ち上がり、乾が出てきたばかりのバスルームに入っていった。
何をするのかと興味にかられて中を覗いてみると、不二はビンを洗面台の空いたスペースに置いて乾の方に振り向いた。
「お湯をぬるめにしてね、そこにこのオイルを5、6滴入れるんだ。炎症を抑えてくれるから日焼けしたあとにはいいんだよ」

そう言われてみて初めて乾は、さっきからやけに身体が火照っているのは日焼けのせいだったのかと気づいた。
「はい……。ありがとうございます」
なんとなく乗り気がしないのに気づいているのか、不二は
「疲れているようだったら無理しないですぐに寝た方がいいよ?」
と言ってバスルームを出て扉に向かった。

「あ、あの……っ」
いつものように「じゃ、おやすみ」と言ってノブに手をかけようとした不二に乾は慌てて声をかけた。
「ん?」
しかし声をかけたものの、後の言葉が続かない。
自分でもよく分からないうちに呼び止めてしまったのだ。

「どうしたの?」
何かを言いたいのに何も言えないでいる状況を察したのか、不二はやんわりと微笑んで乾の言葉を待っている。
「いえ、あの……」
穏やかな表情をしているとはいえ、そうやって見つめられていると余計にあたふたとしてしまって結局考えがまとまらない。
何かを言わなきゃと思うほど言葉に詰まってしまい、仕方なく乾は小さく溜息をついて
「すいません、何でもないです」
と謝ってしまった。
しかし何でもないことは不二にも一目瞭然で、少しだけ困ったような顔をすると「ねえ」と口を開いた。
「何かあったのなら、話、聞くよ?」
扉を後ろにしながら少し首を傾げて、見上げるようにしてそんなことを言ってくる不二はいかにも優しげだった。

このところ乾は不二の笑っていない瞳を訝しい目で見ていたが、どうしてそんなふうに思ってしまったのだろうと不思議に感じるほど今の不二の瞳は温かくて。
自分の感情なのに思い通りにならず心の中で渦巻くそれを持て余し、一人でいたくない、一人になりたくない、人恋しいと言ってしまうと単純に聞こえるけれど、そうとしか言えない想いが胸に溢れていた。
誰かを抱きしめたい。
それが正直な気持ちだった。
二人の光景と自分の感情が作り出した勝手な光景に触発されて、乾は性的な熱を感じていた。
もし目の前の不二が女だったら間違いなく抱きしめて、込み上げてくる熱をぶつけていたに違いない。

 

 

テーブルに向かい合わせに座って話をするものの、不二は「何があったのか」と聞いてくることはなく、話題は昼間の海のことなどに終始していた。
心にモヤモヤを抱えた乾だったが、不二が敢えて話題を逸らしてくれているのが実はありがたかった。
実際、大和と手塚のことを不二に話すつもりもなかったし、それにこんな感情を言葉で説明することもできない。
今はただ誰かと喋って眠くなるまで時間を費やすのが一番だと思った。

 

「そういえば、不二さんも医者なんですか?」
帰りの車の中の大和の様子を思い出すと同時に、不二が大学の医学部に進学したという話を思い出したのだ。
「え、僕?」
不二は意外そうな顔をして乾をまじまじと見つめてきた。
「大和さんから昔の話をいろいろ聞いたので……」
「ああ、そうなんだ」
僅かに見開かれていた瞳が元に戻ると、ふっとした笑顔がその表情に広がった。

「医者になるつもりはなかったんだよ。ただ僕の父親が製薬会社をやっていてね、いずれは僕もそこで働くつもりだったから。経営とか営業なんかよりは研究部門の方がいいかなって思っただけ」
「じゃあ、その会社を継ぐんですか?」
「いや、義兄さんがいるからね。僕は好きなようにできるんだ」

「それなのに、テニスをやめちゃったんですか?」

それは自然と乾の口から出た言葉だった。
気にはなっていたものの、今聞こうとかすぐに詳しいことを知りたいとか思っていたわけではない。
ただ話の流れでつい言ってしまっただけだった。

しかしそれを聞いた途端、不二は唖然としたように唇を僅かに開いて何かを言おうとしたらしい。
しかし出てきたのは言葉ではなく「あ……」という少し戸惑ったような、不二にしては珍しく困ったような声音だった。

「ねえ、先輩はどこまで話したの?」
苦笑しながら少し身を乗り出して、不二はテーブルに片肘をついてその掌を頬に当てがった。

とりあえず乾は大和から聞いたことを簡単に話し始めた。

不二は黙って頬杖をついたまま聞いていたが、乾が一通り喋り終わると「まったく……」と小さく唇を噛んでしばらくは言葉もなくあらぬ方向をぼんやりと見つめていた。
「先輩が思い出話するとは思わなかったな」
そうして乾の方に向き直ると
「別に約束してたわけじゃないけどね、なんとなくあの頃の話はしないっていう暗黙の了解みたいなのができてたんだ」

それはいつもよりトーンの落ちた声で、乾がここに来た最初の夜に聞いた不二の声に近いような気がした。
「それは……、今でも辛いから、ですか?」
「う…ん、辛いっていうのかなあ」
頬杖をついていた手を今度は顎の下に持っていき、不二は少し離れた先の空間に視線を漂わせた。

 

 

『手塚国光』という名前は以前から知っていた。

住んでいる場所が少し離れていたから地区レベルの大会で一緒になることはなかったけれど、大きな大会には必ず顔を出していてその試合結果でも常にトップにいる少年だった。
小学校のときに対戦したのは2回。
どちらも不二の負け。
しかも最初の試合展開はかなり一方的なもので、それまで周囲から「強い」「センスが抜群」などと言われ続けた不二にとっては初めての屈辱を味わった試合となった。

ネット越しに握手をするとき初めて間近で見た手塚の表情。
眼鏡の奥にある瞳はその頃から変わらなかった。
射るような鋭い瞳と意志の強そうな口元。
しかし彼にはたった今打ち負かした対戦相手のことなど全く目に入ってはいなかった。
彼はもっと遠いところ、今の自分では到底手の届かない高いところを見据えているように思えた。

不二は自分が手塚の瞳に映っていないことが悔しくて仕方なかった。

中学に入学し手塚と一緒にテニスをすることになって、不二は改めて彼の実力に目を瞠った。
3年のレギュラーでさえ手塚に敵う部員はいなかった。
そして以前にも増したその存在感。
コートに入った手塚は当たり前のようにその視線で相手を威圧し、周囲の部員もその完璧なプレイに目を離せなくなった。

しかし部の決まりで1年がレギュラーになることはできない。
どんなに強くても1年は連日を基本練習に甘んじていなければならなかった。

『このあと少し打たない?』

最初に声をかけたのは不二だった。
それ以来、手塚と不二は部活のあとで区営コートを借りて打ち合うようになった。

しかしいくら不二が懸命にボールを追って打ち込んでも、手塚は表情ひとつ変えずに冷静に返球してくる。
不二にしてもスクールのコーチたちからは一目置かれているほどの力を持っていたにも関わらず、手塚の前では自分なりに築き上げてきたそのプライドがメッキのように剥がされていくような気がしていた。

彼が本気を出したプレイというのはどんなものなんだろう。
それを見てみたいと思いつつ、不二は今の自分に手塚を本気にさせるだけの力がないことが悔しくて情けなかった。
だからこそ手塚から出されるどんな打球にも、不二は一球一球真剣に向き合っていた。
少しでも気を抜けば手塚はそれを鋭い瞳で見抜き、そんな球を打った自分を軽蔑するのではないかと思ったのだ。

それがいつ頃からだったか、練習中も常に変わらなかった手塚の表情が少しずつ変わっているのを感じるようになった。
最初は気のせいだろうかと思った。
しかしいつもの区営コートでの練習で不二のサービスエースが決まったとき、手塚が不二を睨みつけてきたのだ。

―― 手塚……?

それはすぐに消えてしまったけれど、確かにエースを取られた悔しさを表した瞳だった。
手塚が練習中にそんな視線を向けてきたことに不二の身体がぞくりと震えた。
どんなときも表情を崩さず冷静にプレイしてきた彼が、一瞬とはいえ自分に感情をぶつけてきたのだ。
不二の口元に僅かな笑みが浮かんだ。

―― ねえ、手塚。やっと僕のこと、見てくれたの?

 

その年のテニス部の成績は全国に手が届くこともなく終わってしまった。
夏の大会が終われば3年には引退が待っている。
同時にそれは、漸く1年にもコートという舞台に立つチャンスが生まれるということだった。

3年にとって最後の大会が終わった翌日、手塚と不二は揃って部長の大和に呼ばれた。

『テニス部のこと、よろしくお願いしますね』

そう言って大和は頭を下げた。
まさか部長にそんなことをされるとは思わなかった二人だったが、以前から彼の部に対する真摯な想いを知っていただけに、その姿には胸が詰まった。

『必ず全国制覇してみせます』

大和を見つめてそう言ったのは手塚だった。

既にその時には大和と手塚の間に深い信頼関係が築かれていることを不二も感じ取っていた。
手塚が他の部員の知らない瞳をコートで自分に向けてくるように、大和にもまた誰にも見せないものを向けることがあった。
それは普段の手塚からは考えられないような穏やかに笑んだ表情で、その瞳には信頼と暖かさが宿っていた。
それは手塚と自分の「ライバル」という立場とは全く違う、夢を託す者と託された者の二人だけにしか分からない感情だったに違いない。

しかし不二はそんなことに興味はなかった。
不二の中にあるのはコートに立つ手塚の姿だけだったのだ。

そして3年が引退したあとの秋の新人戦で、手塚と不二はその強さを周囲に見せつけた。

相変わらず部活後の区営コートでの練習も続けられていたが、そこには時々大和も顔を出してはアドバイスをするようになっていた。
2年になる頃には不二に「天才」という言葉がつきまとうようになる。
しかしそんな言葉を受ければ受けるほど、不二は一向に縮まらない手塚との距離にもどかしさを感じていた。
もう少しで追いつける、そう思った次の日には手塚は二歩も三歩も先に行ってしまう。

それでも懸命に不二はその背中を追った。
必ず追いついて、追い越して……

―― いつか僕を追わせてあげるよ。

考えてみれば、ここまで誰かに執着したのは不二にとっては初めてのことだった。

そうやって日々を重ねて、3年の夏に手塚が部長となったテニス部は全国制覇を成し遂げた。
その瞬間、手塚は初めて不二に笑顔を向けた。
そこにどれ程の感情が込められていたことか。
しかしその笑顔は自分に向けられたものでないことを不二は充分に承知していた。
それは自分を通り越して、その場にはいない大和を見ているに過ぎなかった。

―― よかったね、手塚。でも僕たちはまだ終わりじゃないんだよ?

 

しかし、その「終わり」は突然やってきた。

白菊に囲まれて狭い箱の中に横たわっている手塚にはどんな小さな表情も浮かんではいない。
遺影の無愛想な顔の方がまだ感情がこもっているように思える。
いつものユニフォームを着て愛用のラケットを胸の上に乗せて、それなのにあの鋭い瞳を自分に向けてこないことが不二には許せなかった。

『勝ち逃げなんて、卑怯すぎるんじゃない?』

ぽつりと呟いた不二の言葉は、誰にも届いていなかった。

 

 

「不二さん?」
ぼんやりと空中に視線を向けている不二に乾が声をかけた。

「え、ああ……。ごめんね、僕もちょっと思い出に耽っちゃった」
不二は我に返ったように乾に視線を戻すと僅かに苦笑した。
「すいません、あまり思い出したくないんですよね」
「いや、いいんだよ。で、なんだっけ、テニスをやめた理由だっけ?」
前かがみになってテーブルに肘をついていた不二は、小さく溜息をつくと椅子の背もたれに身体をあずけてにこりとした。

「僕は手塚がいたからテニスをしてたんだ。彼が前を走っていたから僕も全力で走っていられた」
分かる?とでもいうように不二は乾の顔を覗き込んできた。

「だから手塚がいなくなった途端、僕のテニスへの興味は一切なくなっちゃったんだよ」

不二の瞳はどこまでも澄んだ色をしていて、テニスを捨てたことなど何でもないことなのだというように穏やかな笑みを浮かべている。
そんなものなのだろうかと思いつつ、乾はその笑みの中に僅かな翳りを感じ取っていた。

大和と同じように不二もまた思い出に囚われたままなのかもしれないと思いながら、乾は二人をここまで執着させてしまった会ったこともない『手塚国光』に思いを馳せていた。

 

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(2003/10/17)
 


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