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■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...10
屋敷につくと不二がエンジンも止めずに車から降りて玄関へ向かった。
大振りの扉を手で押さえて手塚を抱えた大和が通るのをじっと待っている。
そんな二人を見て乾も慌てて車から降りて後を追おうとしたが、勢い込んで足をついてしまったせいか足首に痛みが走り一瞬その動きを止めた。
その痛みが乾を冷静にさせたのかもしれない。
乾は短く溜息をつくと車のエンジンを止めて後ろのハッチを開き荷物を降ろし始めた。
とりあえず荷物を全て玄関の中に入れてから、乾は2階の手塚の部屋に行ってみた。
扉が大きく開かれたままになっていたのでそこから様子を覗いてみる。
手塚は既にベッドに寝かされていて、その枕元に大和が膝をついて手塚の額の汗を拭っていた。
不二はクローゼットからパジャマを取り出したところらしく、扉の側にいる乾に気づくと小さく頷いた。
「手塚は大丈夫だよ」
「はい……。あ、荷物、とりあえず玄関に入れておきました」
「ああ、ありがとう。ごめん、足まだ治りきってないのに」
「いいえ、平気です」
答えながらも乾の視線はちらちらと手塚の方に行っていた。
さっきまで手塚の汗を拭いていた大和は、今は静かに長い指で彼の髪を梳いていた。
幾度となく繰り返されるその動きに、乾はすぐにでも手塚の側に行って同じことをしてやりたいという気持ちが湧き上がってくるのを感じる。
そして同時に、大和から髪を梳かれるのはどんな感触なのだろうと、目の前の光景にじっと見入っていた。
その日の夜は大和がずっと手塚に付き添っていたため、夕食は不二と乾の二人でテーブルを囲むことになった。
乾にとってはいつも隣の不二が正面にいるということが少し落ち着かなくて、適当な話をしつつも早々に食事を切り上げて部屋に戻ろうとしたところを不二に声をかけられた。
「悪いんだけど、部屋に戻るついでに先輩の食事、届けてあげてもらえるかな?」
「あ、はい。いいですよ」
乾の返答に「じゃあ、ちょっと待ってて」とキッチンに引っ込んだ不二はあまり時間を置かずに大きめのトレーを持って戻ってきた。
乾はトレーを片手に乗せたまま手塚の部屋の前に立ち、少し遠慮がちに扉をノックしてみる。
中の気配を探るように耳を扉に近づけてみるが何の返事も返ってこない。
もう一度ノックしてみてもそれは同じだった。
大和も眠ってしまっているのだろうかと、そっと扉を開けて細い隙間から部屋の様子を伺ってみる。
中はサイドテーブルの灯りだけが点けられていて、ベッドの周囲がオレンジ色に照らし出されていた。
手塚はよく眠っているようだったが状態は相変わらずらしく、離れている場所からでも額に薄らと汗が滲んでいるのが分かった。
ベッドの脇にはどこからか持ってきたらしい簡素な椅子が置かれていたが、大和はそれには座らず枕元に膝をついたままベッドに頬杖をついている。
全く動く気配がないのはやはり眠っているのかと、乾はとりあえずトレーをテーブルに置こうと部屋に入ろうとしたそのとき……。
「手塚君……」
小さな大和の囁きが聞こえた。
乾は動きを止めて大和に見入る。
眠っているのかと思った大和は頬杖をつきながら反対の手で手塚の頬をそっと撫でていた。
何度も何度もゆっくりと頬の上を指先が上下して、やがて頬から離れた関節の目立つ指は僅かに開かれている手塚の唇をなぞり始める。
「手塚君……」
それは声なのか吐息なのか分からないくらいの囁きだった。
手塚が唇を触られることで眠りを邪魔されるのを嫌がってでもいるように、眉根を寄せ僅かに首を動かして意味をなさないうわ言のような声を出す。
しかしそれは一瞬のことで、すぐに手塚の眉は元の形良いものに戻っていた。
手塚が身じろぎしたことで大和は唇から指を離したものの、今度は手のひらを頬に添えて首を傾げる。
そうして、そのまま上体を手塚に近づけていった。
―― ……なっ
乾が状況を理解する前に、大和の唇はそっと手塚のそれに触れていた。
その瞬間、乾の胸が痛んだ。
それは何かに胸の奥の方をぎゅっと掴まれたような痛さで、それは次第に胸から腕や手足へと弱い電流のように伝わっていく。
一度離された唇は、それでもすぐに触れ合わされる。
ただ触れるだけの静かな口付けが何度も繰り返された。
そして、ようやく大和が手塚から身体を離して元の体勢に戻ったとき、彼は乾がそこにいるのを知っていたかのように振り向いて僅かな笑みを浮かべた。
「大和さん?」
ちゃんと声を出したつもりだったが、それは自分で思っていたよりもずっと小さな弱いものだった。
大和のじっと乾を見つめたままの表情は笑みを浮かべてはいるものの、まるで今にも泣き出しそうに眉がしかめられていた。
やがて大和が俯いたため乾に注がれていた視線は外されてしまったが、その口元が微妙に歪んでふっとした吐息が漏れる。
そしてゆっくりとした動作で立ち上がると、大和は真っ直ぐに扉の側にいる乾の方へと足を進めてきた。
近くまできた大和は細目に開けられていた扉を大きく開くと、
「わざわざありがとうございます」
と乾の持っていたトレーをその手から取り上げた。
「あ、いえ……」
ただじっと立っているしかできなかった乾がかろうじて答えると、大和はにこりと穏やかな笑みを見せて部屋のテーブルに向かいトレーを下ろした。
食器がカチャリと小さな音を立てたのが耳に入り、それに触発されたかのように乾の口からは咄嗟の言葉が出ていた。
「どうしてですか?」
「何が、ですか?」
乾に半分ほど背を向けた格好の大和は置いたトレーに目を向けたまま答える。
「何って、今……」
「乾君」
焦って滑りそうな乾の言葉を静かな大和の声が遮った。
「君には後で話しますから。今は……」
そう言って部屋の奥に横たわる手塚に視線を移した。
「……分かりました」
それ以上何も言えない乾は小さく頭を下げると扉を閉めようとノブに手をかけた。
それが閉まる直前もう一度部屋の奥に目を向けて、オレンジ色の灯りの中で表情なく眠っている手塚を見つめた。
大和はすぐに食事をとるつもりはないらしく、再びベッドの側につくとその手で汗ばんだ手塚の前髪をかき上げた。
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(2003/10/16)
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