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■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...9
淡々と喋る大和の口調にはあまり感情が感じられなった。
三人の思い出を語っていた楽しそうな表情も消えている。
「酔っ払いのドライバーが起こした事故だったんです」
手塚の葬儀の日は朝から雨だった。
部活や学校関連の者を始め、他校の生徒や面識のあったらしいコーチや留学を薦めた財団の者たちで手塚の周囲は埋め尽くされた。
大和はそんな人ごみに入るのが嫌で、道の反対側からぼんやりと彼らの出入りを見つめていた。
それはまさにモノクロの世界だった。
週が明けて普段通りの生活が始まったが、手塚を失ったテニス部は明らかに精彩を欠いており、不二もその週は部活に顔を出さなかった。
そして週末、手塚が行く予定だったアメリカへの留学枠に不二が推薦されたという話を聞いて、大和は取り合えず不二に留学の意志があるのかを聞いてみた。
電話の向こうの不二はいつも通りの穏やかで僅かに笑みを含んだような声をしていた。
だから「今日、退部届けを出してきたんです」と言った言葉も、大和は留学を決意してのことだろうと受け取ったのだ。
しかしそのとき以来、不二は二度とラケットを握ることはなかった。
それから数ヶ月が過ぎて、大和はイギリスへ行くことを決めた。
もともと父親のイギリスへの転勤があることは分かっていて、あとは大和が一人で残って日本の大学に通うか両親と一緒に渡英するかの選択だったのだ。
イギリスに行ってからも、大和は時折不二と連絡を取っていた。
その後、不二は付属大学の医学部へと進学する。
周囲からは幾度となくもう一度テニスをするようにと薦められていたらしいが、不二は例え仲間内での遊びのテニスだったとしてもラケットを手にすることはなかった。
「不二君もね、あの頃は天才だって言われてたんですよ。だから僕としても彼がテニスをやめてしまったのは残念なんですけどね。でもその気持ちはよく分かるんです。僕もイギリスに行ってからはテニスをしなくなっちゃいましたから」
もしかしたら大和は少し笑おうとしたのかもしれないが、その表情は笑顔にはなりきれず中途半端なところで止まっていた。
『手塚国光』の死が大和と不二の人生の大きな分岐点を作ってしまうほど三人の関係が深かったことを思い、乾は自分の周囲の人間を思い浮かべてみる。
しかし、そこまで深い付き合いのある人物は一人として浮かんでこなかった。
仲間同士の間にこれほど深い絆を作ることができるのかと感じる反面、でもそれは乾にとっては少し怖いとも思えるのだった。
「すいませんでした。余計なことして……」
「何がですか?」
「大和さんたちが敢えて国光には話していなかったことだったのに」
「ああ、いいんですよ、別に」
大丈夫、というように大和は何かを制するように右手を体の前に上げてにこりとする。
「隠していたというわけではないんですよ。ただ自分が手塚君のことを話すのがちょっとね、まだ引きずってるところがあるもので。情けないですけど」
そう言うと大和はカップを空にして椅子から立ち上がった。
「そろそろ失礼しましょう。乾君も休んでおいた方がいいですよ」
「あ、はい。その……、すいませんでした、いろいろと聞いてしまって」
「もし国光が彼のことを知りたいと言ったら教えてあげてください。僕は彼が直接聞きにくるまでは多分話さないと思いますから」
わかりました、と答えて乾も立ち上がりドアの側まで大和のあとをついていった。
長身の乾にとっては自分より背が高い人間が周囲にいないため、こうして相手を見上げるということが普段はできない。
だから今、ほんの少しであっても目線を上げて大和を見ていることが乾に不思議と落ち着かせる感覚をもたらしていた。
「久しぶりに昔の話をしました」
ドアを開けて身体を半歩ほど廊下に出したところで大和が振り返った。
「そのうち、また話を聞いてもらえますか?」
その言葉に乾の心が嬉しさで少しばかり躍りあがった。
もちろんあんな話を聞いたばかりだったので顔には出来るだけ出さないようにはしていたけれど、大和がじっと視線を注ぎながら笑みを返してきたところをみると、喜びの表情は出てしまっていたらしい。
「じゃあ、おやすみなさい」
閉められたドアの向こうで足音が遠のいていくのを、乾はそこに立ったまま聞こえなくなるまで耳を澄ませていた。
次の日、彼らは薄らと空が白んでくる頃には出発の準備をしていた。
昨日のうちにレンタカーを手配していたらしく、乾が玄関から車回しに出るとそこにはワンボックスが一台停められていた。
運転するのは不二と決まっていたらしく、彼が運転席に座ってミラーや椅子の調節などをしているうちに大和はクーラーボックスやらの荷物を後部座席に運び込む。
その周りをホームズが落ち着かない様子でウロウロしていた。
出発してから三時間ほどでついたのはゴツゴツとした岩場の多い場所だった。
海へ行くと聞いて海水浴場のような場所を想像していた乾には少し意外で、そのことを大和に聞いてみると、
「国光を海に入れるわけにはいかないんでね。だったらこういう岩場の方が楽しめるでしょ? 釣りもできますしね」
と既に手にしていた釣竿を楽しそうに振ってみせた。
出発した時間が早かっただけに三時間かかったといってもまだ早朝と言えるくらいで、気温もそれほど高くない海からの風は気持ちいいくらいに涼しかった。
時間的に空はまだ薄い水色をしていたが、数時間もすれば夏特有の真っ青な色に変わるに違いない。
それでも海面には眩しすぎるくらいに陽射しが映っていて、海に来るのが久しぶりだった乾はしばらくの間、目を細めてその様子を眺めていた。
しばらくすると大和と不二が適当な岩を見つけてそこに腰を下ろし釣りを始めていた。
ホームズはその足元で大和がエサをつけているのを首を捻りながら見つめていた。
乾も「一緒にどうです?」と誘われたものの、手塚が一人で少し離れた岩場の方に行くのを見て適当に誘いを断って彼の後を追った。
歩き慣れない岩場をふらふらとおぼつかない足取り歩いて行った手塚は、少し波がかかりそうな場所にある大きな岩に座り込んだ。
「そこだと波がかかっちゃうよ」
隣にある少し低くなった岩に立ちながら乾が言うと、
「少し濡れてみたいから」と悪戯そうな笑みを浮かべて手塚は答えた。
そう言ってる側から大きめの波が近くの岩に砕けて、飛沫が煌いたかと思うと手塚の顔に少しかかった。
一瞬驚いて目を閉じながら顔を背けた彼が可笑しくて、乾が「大丈夫?」と笑いながら聞くと、手塚は不思議そうな顔をして乾を見上げてきた。
「本当にしょっぱい」
「え?」
「海水って、本当にしょっぱいんですね」
そう言いながら手塚は少しだけ舌を出して口の横を舐めている。
その姿と表情がいつになく子どもっぽくて、乾はもう一度笑いながら立っていた岩に腰を下ろした。
昨日のことがあってから夕食にも顔を出さなかった手塚を心配していた乾だったが、今目の前にいる手塚は初めての海が想像以上に気に入ったのか、かなり楽しそうな様子を見せている。
これならわざわざ自分から昨日の話を持ち出す必要もないだろうと、乾も子どもの頃の海の思い出などを振り返りながらしばらくは他愛もない話をしていた。
「少し日陰に入った方がいいですよ」
話しているうちにも陽射しはどんどん強くなり、手塚の様子を心配したのか大和が岩場に腰を下ろしたまま声をかけてきた。
しかし手塚は「もう少し」と言ってその場を動こうとはしない。
「大丈夫?」
自分の方が低い岩に座っていたため、乾は見上げるような格好で手塚の表情を覗き込む。
手塚はじっと下を向いて、岩に纏わりついている波が作り出した泡のようなものを見つめていた。
「自分が消えてしまうのって、どんな感じだと思います?」
手塚が泡を見つめたままぽつりと呟いた言葉の意味を図りかねて、乾は「え?」と聞き返した。
寂しさが付き纏うような質問に答えかねていると、手塚はふっと小さく笑って乾を見下ろしてきた。
「人魚姫の話を思い出したんです」
大人びた15歳の少年の口から出る『人魚姫』という言葉がなんとなくくすぐったく感じる。
「泡になって消える瞬間って、どんなかなって」
「どうしてそんなこと思うの?」
楽しそうに海を満喫していたと思っていたが、やはり楽しいままでは終わらないらしい。
「ものすごく自分があやふやな感じがするんです。きっと何も思い出せないからなんでしょうけど」
「本当に何も思い出せないの?」
「はい……」
手塚は裸足の爪先を伸ばして海水に浸らせながら、時折その指先を曲げたり伸ばしたりしている。
いつも午前中の少しの時間しか外に出ていない手塚は顔も腕も色は白い方なのだが、その爪先にいたっては驚くほど白くて、そこに青白く浮き出ている血管は明るい陽射しの元でなんとなく痛々しく思えた。
「何かイメージみたいなものとか、そういうのも全然?」
手塚は黙ってこくりと頷く。
「よく分からないけど、診療内科みたいなのは? え……と、催眠術とか……?」
同じように黙ったままで今度は軽く首を横に振り、手塚は小さく笑った。
「効果なかったみたいです」
「そう……」
「あ、でも、たまに、本当にたまになんですけど、夢みたいなものを見ることがあるんです」
「どんなの?」
「ん……、夢っていうのとは違うのかもしれないけど、声が聞こえる時があって。俺のことを呼んでるんです、手塚君って」
「誰が?」
「分かりません。真っ暗で何も見えなくて、声だけなんです。それもやっと聞けるくらいの小さな声で」
「そっか。でも、それだって記憶の一つなんじゃない?」
「はい……」
パシャっと軽い音を立てて手塚が爪先を跳ね上げた。
光る飛沫が一瞬空中で動きを止めて次の瞬間には波の間に消えていく。
それが気に入ったのか、手塚は何度となく同じことを繰り返していた。
そうしてしばらく経ってから、手塚は急に岩の上に立ち上がり両手を上げて思いきり背筋を伸ばすようにして深呼吸をした。
いつも部屋にいるときは勿論、ホームズと遊んでいるときでもあまり大きな動作をしない手塚だったから、そんなふうに両手を大きく伸ばして陽射しを受けている姿を乾は初めて見た。
その光景が眩しいと思うのは夏の陽射しがだんだんと強くなってきたせいもあるけれど、思春期特有の彼らが本来持っている輝きなのだろうと思う。
もう自分の周りにはそんな連中はいないな、と思いながら乾は真っ直ぐに背中を伸ばして立っている手塚の姿を見つめていた。
「あの家で暮らしていると、もういいかなって思うのも本当なんです」
口の端をきゅっと上げて、少し悪戯っぽい笑みを浮かべて手塚が見下ろしてきた。
「とくに不自由することもないし、好きな本を読んで好きな勉強をして、そのうち祐大たちの仕事を手伝ったりして。
その気になれば外に出なくたって大学の講義も聴くこともできます。過去に拘っているよりは、ずっと前向きな生活だと思いませんか?」
「本当にそう思ってる?」
その言葉に、楽しそうに笑っていた手塚の口元は一文字に引き結ばれた。
乾に注がれていた視線も自分の足元に伏せられて、そうして小さく溜息をつく。
「無理にでもそう思わないと。何もなくて、だから自分がすごくあやふやで……、今がこんなだからこれから先もこのままで。……このままどころか、いつ自分がいなくなってもおかしくないような気までしてくるんです」
乾は「よっ」と小さな声を出して岩から腰を上げると、再び自分よりも小さくなった手塚の頭に軽く手を置いて二度、三度とその髪をくしゃりとした。
手塚は首を少し傾げて乾を見上げてくる。
「大丈夫だよ」
その言葉に手塚は眉間を僅かに狭めて、口には出さないものの「どうして?」と聞いているような表情をした。
「思い出せなくても、君は消えたりしないよ。人魚姫とは違う」
「……そうかな」
手塚の返事はいくぶん心もとないものだったが、その瞳は嬉しそうに笑っていた。
午後の一番強い陽射しを避けたいという大和の配慮で、正午少し前に彼らは海を離れた。
そもそも早朝のうちに海に着けるように出発したのもそのためだった。
途中の国道沿いのシーフード・レストランで昼食を済ませて再び車に乗り込むと、あっという間に食事後の気だるい雰囲気が車内を包み込んだ。
助手席に乗っていた乾も、今にも閉じそうな瞼をこじ開けようと懸命になっている。
彼自身は免許を持ってはいるものの滅多に運転をすることはない。
それでも助手席にいる人間に眠られるのはドライバーとしてはあまりいい気持ちではないという話を大学の仲間から聞いていた。
つい出そうになる欠伸をかみ殺して少しでも動けば眠気は覚めるかと、首の後ろに手を持っていってうなじを軽く揉んでみたりする。
途端に隣の不二が小さな笑い声をもらした。
「無理しないで、寝ちゃっていいんだよ?」
はっとして横を向くと、さすがに正面から目を離すことはできないらしいが、それでも不二はにこりと笑っていた。
「あぁ、すいません。食べたら眠くなっちゃって」
そう言いながら眠気を覚ますように軽く両手で頬を叩いてみたりする。
それが不二にとっては更に笑いを誘う結果になったらしい。
「ふふ……、お腹はいっぱい、天気もいい、こんな状態で車に乗ったら眠くなるのも当然だよ。後ろなんか、車を出した途端に寝てたからね」
その言葉に乾が後部座席を振り返ってみた。
そこには両腕を組んで僅かに首を前に倒している大和と、その肩にちょこんと頭を預けている手塚の姿があった。
小さく開かれている手塚の唇があまりに無防備に思えて、つい「かわいいな」という呟きが乾の口からもれた。
「手塚も寝てるときは天使みたいだよね」
そんな不二の言葉に自分が言ったことが聞こえていたのだろうと思い、乾は一瞬恥ずかしさを感じたものの、彼も同じようなことを言っているのだと気づいてやっぱりそう思うよなともう一度後部座席に目をやった。
しかしどちらかと言えば「天使」というイメージは不二の方が近いような気もする。
茶色がかった柔らかそうな髪と、それよりも更に明るい茶色の透き通るような瞳。
穏やかに笑んでいる口元。
普通に会社で仕事してたら女の人にすごくモテるだろうなあ。
あ、確か医学部って……。こんな先生が病院にいたらいろんな意味で大変そうだ。
あれ、違うよ。だって不二さんは大和さんと……。
いつの間にか乾の瞼は閉じられて、車のドアに身体を持たせかけるようにして眠りに落ちていった。
―― ……停めた方が……。
―― …でしょう。解熱剤……と思い…………。
ぼんやりと目を覚ましかけた乾の耳に会話が聞こえてきた。
うっすらと瞼を上げて流れていく窓の外の景色を眺めてみる。
「これを少し飲んで」
後ろから聞こえてきた大和の声がいつになく真剣な響きを含んでいて、乾はどうしたんだろうとまだ覚めきっていない身体で振り返ってみる。
後部座席の様子は一変していた。
シートが全てフラットにされていて、そこに手塚が大和に支えられるようにして上半身を起こしていた。
大和から差し出された紙コップに口をつけると、手塚はすぐに「もう、いい」というように緩く首を振って目を閉じた。
大和はコップを受け取ると静かに手塚を寝かせて、足元を覆っていた薄手のブランケットを肩までかけてやる。
「どうしたんですか!?」
さすがに大きな声は出さなかったものの、乾の驚いた声に手塚を見下ろしていた大和が顔を上げた。
「ああ、大丈夫ですよ。ちょっと熱が出ただけです」
そう言って乾を落ち着かせるためなのか、本当に手塚の状態に心配がないのか、大和はにこりと笑みを向けてきた。
「さっき解熱剤を飲ませましたから。まあ今日明日は熱が続くでしょうけど、この程度なら心配はいりませんよ」
大和の妙に落ち着き払った態度に「ああ、この人は医者だったんだ」と思い出して乾も少し安心した。
それでも汗をかいた額に前髪をはりつかせて、呼吸をするたびに胸を大きく上下させている手塚の様子を見てしまうと、大丈夫なんだろうかとそこから目を離せなくなってしまう。
そんな乾の気持ちを察したのか、ハンドルを握っている不二が「大丈夫だよ」と小さく声をかけてきた。
「手塚はよく熱を出すんだ。彼には辛いかもしれないけど、僕たちにしてみればけっこう慣れちゃってるんだよ。それに、本当にマズいとなれば先輩があんなに落ち着いてるわけないからね」
「そうなんですか……?」
「そうだよ。だから大丈夫」
そして一瞬だけ顔を横に向けると小さく笑って、また視線を前に戻した。
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(2003/10/15)
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