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■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...8
ドアを開けて中を覗くと、この前のように窓際の机に大和がいてその上半身をこちらに向けていた。
「本を読むのもいいですけど、今夜は早く休んでおいた方がいいですよ?」
そう言ってにっこりと笑みを浮かべる大和を見ながら、乾はこの人が医者だったら患者も安心できるのではないかと、ふとそんな感じを覚えた。
威圧感など微塵も感じさせない穏やかな雰囲気は、大きな病院の白い診察室にいるよりも町の小さな診療所にいる方が似合うに違いない。
そう考えると手塚と同様に白衣姿の大和など想像しにくいと思っていたはずなのに、その様子を簡単に思い浮かべることができた自分が何だか少し可笑しかった。
「あの……、少し話をしたいんです。忙しかったら構わないんですけど」
ドアを後手に閉めて、そこに寄りかかるようにして視線を伏せたまま聞いてみた。
あまり大和を直視してしまうと、また余計なことを考えて変に緊張してしまいそうだったからだ。
「もちろん大丈夫ですよ。じゃあ、また下のテラスにでも行きましょうか」
「あ、いえ……」
テラスはまずいと思った。
これから乾が聞こうとしているのは手塚のことだ。
彼が自分の部屋のテラスに出てきた場合、その話している内容を聞いてしまう可能性もある。
「あの、俺の部屋でもいいですか?」
「構いませんよ」
「じゃあ、先に行ってコーヒーでも淹れておきます」
そう言うと、大和の返事を待たずに乾は書斎を出て行った。
「君から声をかけてもらえて、安心しました」
乾の部屋のテーブルについてコーヒーを一口飲んでから大和が言った。
彼のカップを持つ手に視線を向けていた乾は、その言葉に「え?」と短い疑問符を投げかける。
手塚のときはベッドに座っていたが、大和相手だとそれも失礼な気がして今回は乾も同じテーブルについていた。
やはり距離が短いと少し緊張してしまうのだが。
「このところ、君に避けられていましたから」
首をすこし傾げて表情を覗き込むようにしてくる視線を受け、乾は思わず目を伏せてしまった。
自分の鼓動が一瞬跳ね上がるのを感じる。
『そうですね』
あのときの大和の声が思い出された。
静かでいつもより低くて、僅かな甘さを含んだ優しい声だった。
その記憶に一気に思考を引きずられそうになって、乾は慌てて出来るだけ胸を上下させないようにして深く息を吸いこんだ。
「君の気に障ることをしてしまったと気になっていたんです」
「あ、そんなことないです。ただ……仕事の邪魔、できないと思って……」
「乾君」
俯きながら小さく笑った大和は二、三度軽く首を横に振って乾の言葉を遮った。
「僕と不二君が書斎にいたときのこと、気づいたんでしょう?」
言葉もなく驚いた乾は思わずずらしていた視線を大和に向けた。
俯いていたはずの大和も視線だけは乾の方に向けていたらしく、お互いに数秒の間見つめ合う格好になってしまった。
「僕も迂闊でした。君が部屋の窓を開けているかテラスに出ているかもしれないということを考慮するべきでしたね。不快な思いをさせてしまいました」
「いえ、不快だなんて……」
乾は図星を指されたことと大和が誤解をしているらしいこと、その二つに対する言い訳を同時にしようとして多少の混乱に陥った。
どう言えばいいのか分からず口篭ってしまう。
「あの次の日から君の様子が変わってしまいましたから。だけど僕も謝ろうにもどう言い出していいのか分からなかったものでね」
ははは……と照れ隠しのように頭を掻くような仕草をしながら大和が笑った。
そんな彼を見るのは初めてで、しかもそれがどことなく可笑しくて、乾もつられて自然とその口元を緩めていた。
「別に不快に思っていたわけじゃないんです、本当に。ただ……、なんていうか、人のああいうの聞いちゃうと、……なんか、その……」
さすがに二人の行為を想像してましたなどとは言えないが、それでも避けていたのは不快感からではないのだと伝えようとして乾はしどろもどろになりながら言葉を選んでいた。
「ありがとうございます」
大和はそんな乾の様子から言いたいことを察したようで、視線を合わせてにこりとした表情で誤解が解けたことを伝えた。
「さて、話っていうのは?」
心にわだかまっていたものがなくなってほっとしたのか、大和はゆったりと椅子の背に凭れながら長い指を組み合わせてそれを口元に持っていく。
乾も同じようにほっとしたのだがそれは一瞬のことで、大和に話を振られたことでまたしても少し落ち着きをなくしてしまった。
「あの……、大和さんたちの学生の頃の話が聞きたくて」
「学生の頃、ですか。構いませんけど、どうしたんですか、急に?」
乾は小さく息を整えた。
「書斎の本に大和さんの昔の写真が挟んでありました。大和さんと不二さんと、もう一人、国光にそっくりな子がいて」
乾はちらりと大和に視線を走らせたが、その表情はとくに変わることもなく組んだ指でそっと唇を撫でていた。
「国光から今までの話を聞きました。ずっと自分のことを知りたくて、少しでも近い身内がいるのなら会ってみたいって。あの写真の子は国光の親戚でしょう?
どうして教えてあげないんですか? 大和さんだって国光が苦しんでいるのを間近でみてきたんじゃないんですか?」
そこまで喋って、乾は自分の口調がいつの間にか早く、そして少しきつくなっていることに気づいた。
少し落ち着こうと深呼吸をする。
大和は相変わらず同じ体勢のままだったが小さく咳払いのようなものをすると、すっと目を細めて僅かに俯いた。
それは微笑んだ表情なのか辛そうな表情なのか、乾には判断ができない。
「随分と懐かしいものが紛れていたんですね」
「でも、もうその本には挟まっていませんでした。大和さんが抜いたんじゃないんですか?」
「いいえ」
心外だなあとでも言いたげに大和は苦笑した。
「不二君かな?」
それが本当なのかどうか乾には分からなかったが、それについてはどちらでもよかった。
「あんなにそっくりで名前まで同じなんて、俺自身、どいういう子なのか知りたいなと思って」
その言葉に大和は初めて驚いたような反応を示した。
「名前も知ってるんですか?」
「はい。国光が調べたんです。不二さんの名前から中学の時の大会結果が出てきました。そこに『手塚国光』って名前があって、写真もありましたし」
「国光が、調べたんですか……」
大きな溜息とともに詰まったような声が漏れてきた。
やはり大和にとって『彼』は手塚にはあまり知られたくない存在だったらしい。
眉がしかめられて眉間に小さなしわが寄っていた。
「国光、何か言ってましたか?」
「前に自分の名前で検索をかけたことがあったそうです。なのに結果が一つも出てこなかったのはおかしいって。
それと……、俺は大和さんに聞きに行こうと言ったんですけど、国光は少し考えたいと」
「そう、……ですか」
考え込むようにじっと視線を伏せて大和はそれきり黙ってしまった。
しかしそんな様子を見せられる乾としては余計に興味を煽られることになり、心の中では早く話してくれと急かしたいものの、さすがにそれを言葉にすることはできずにじりじりとした気分を味わっていた。
そうして間をもたせるため乾がコーヒーのカップに手を伸ばしたとき、ふいに大和が口を開いた。
「手塚君のことは、ああ、手塚君っていうのは写真の彼の方ですけど、もう国光に話しても仕方ないんですよ」
「仕方ないっていうのは、どういう……?」
聞きながら手にしたカップをそのまま口に運ぼうとしていた乾だったが、大和の言葉がそれを止めさせた。
「手塚君はもういないんです」
いない、という言葉がどういうことを意味しているのか、あまり認めたくはないと思いつつも乾の表情は曇っていった。
その考えを肯定するかのように大和の眉間が僅かに動きしわを刻む。
「他には手塚君のどんなことを?」
意外にもそれは明るい声だったが、恐らくこの場の雰囲気を落ち込ませないための配慮なのだろう。
「とくに詳しく調べたわけじゃないんです。テニスの試合結果と写真を一枚見ただけで」
「すごい結果だったでしょ?」
そう言う大和の表情はとても嬉しそうで、まるでさっきのものとは違っていた。
自慢の後輩といったところなのだろうと、3人で並んでいた写真の彼らを思い出して自然と乾の表情も柔らかいものになっていく。
「とんでもないプレイヤーでしたよ、手塚君と不二君はね」
乾は『彼』とともに不二の名前が出されたことに少し驚きを感じたが、それについては何も言わず続く大和の話に耳を傾けていた。
彼らの通っていた中学のテニス部は全国でもそれなりに名前を知られており、その実力は強豪と言われるに相応しいくらいのレベルにあった。
そんな中で大和は2年の夏から部長を務めていたが、彼が部長になる数年前からはなかなか部自体が思うような成績を残すことができなくなっていた。
確かに過去には団体で全国優勝をするまでの実力はあったものの、それも次第に薄れはじめていた頃だ。
当然、大和としては自分の代で再び全国優勝をしたいとは思っていたのだが、正直なところあまり期待できるようなメンバーたちではなかったのが現実だった。
そこに入ってきたのが手塚と不二。
既に小学校の頃から全国大会に出場していた彼らの実力は本物で、2・3年の部員は誰も彼らに勝つことができなかった。
そんな二人に大和は多大な期待を寄せてはいたものの、1年生がレギュラーに入って大会に出ることは部内で認められていなかったため彼らは大会に出場することはできなかった。
結局、大和たちの代は全国大会にも手が届かないまま引退した。
プレイヤーとしての大和はそれなりの実力はあったものの、手塚や不二には到底及ばなかった。
しかしその人望は厚く部員からも顧問からも確固たる信頼を寄せられていた。
部を引退する直前、大和は手塚と不二を呼んで自分の作り上げてきたテニス部の今後を託した。
例え全国大会まで出られなかったとしても、やはり自分の部を誇りに思っていたのだ。
かつての、全国でも強豪と言われていたテニス部を取り戻してほしいと、大和は二人に自分の想いの全てを伝えた。
それに応えるかのように二年後、手塚が部長となって率いたテニス部は念願の全国優勝を果たす。
「ま、もっとも、彼らが期待に応えてくれたというのはおこがましいですかね。誰よりも優勝を望んでいたのは彼ら自身だったんですから」
そう言った大和は乾が見たことのないような晴れやかな表情をしていた。
本当なら自分たちの手で悲願を達成したかっただろうに。
しかしそれをやってのけた後輩たちを羨ましいと思う以前に、まるで自分のことのように喜んでいる大和が微笑ましかった。
こういう人なんだな……と、乾はこのとき初めて大和の持つ魅力の一つを知ったような気がした。
「僕たちの学校は大学までの一貫教育でしたからね。彼らが高校に入ってまた一緒にプレイできることをすごく楽しみにしていたんですよ。今度こそ一緒に全国へ出ようって、よく三人で話をしていました」
「仲が良かったんですね」
「そう……ですね。彼らのような選手に会えたのは、本当にすごいことだったんだと思います」
残り僅かだったらしいコーヒーを一気にあおると大和はサーバーを手にとって空になったカップに再びコーヒーを注いだ。
そうして湯気の立つコーヒーをそっと口に含むと小さな溜息をついた。
「手塚君にしても不二君にしても、お互いを認め合えるようなライバルに出会えたことは貴重だったでしょうね」
言葉とは裏腹にそれまで浮かべていた笑みは消えて、視線を伏せている表情は寂しげに見えるものだった。
いなくなった、という言葉が乾の脳裏を横切る。
きっとそれに関しても大和は話してくれるだろうと、乾は何も言わずにカップを持つ彼の指先を見つめていた。
「彼らが高校に来たとき僕は本当にわくわくしましたよ。全国大会がどうこうというより一緒にプレイできることがすごく嬉しかったんです。でもね、手塚君には海外留学の話がきていたんですよ」
手塚にアメリカへの留学の話が来たのは中学3年の春休み前だった。
スポーツの振興を目的とした財団が毎年選ぶ海外へのスポーツ留学のメンバーに手塚が推薦されたのだ。
手塚はすぐにその話を承諾したようだったが、それを大和と不二に話したのは高校に入学して一ヶ月ほどが過ぎた頃だった。
彼なりに、どう切り出していいのか迷っていたのだ。
日頃から高校では三人で全国へ行こうと話していただけに、それを裏切ってしまうことになると思っていたのだろう。
10月には手塚が日本を離れると聞いた不二は一瞬言葉をなくしたものの、それでも明るい口調でこう言った。
『だったら、今年の全国大会は絶対に優勝しなくちゃね』
その言葉通り、彼らは夏の全国大会を制覇した。
そして手塚のアメリカ出発を四日後に控えたある日の夜。
大和の元に連絡が入った。
手塚が、息を引き取った……と。
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(2003/10/14)
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