■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...7
 

「どうしてそんなことをしたのか、自分でも分からないんです」

その頃の手塚の心を占めていたのは不安だった。
大事なものを失くしたままの自分。
自分のことが分からない自分。
もしかしたら、どうしようもなく嫌な人間だったのかもしれない。
普通の子どものように生活できない自分はきっと両親に迷惑をかけていたに違いない。
自分は両親に嫌われていたのかもしれない。

まるで雪だるまのように膨れていく自分自身への不安。
知ってしまったら自分が傷つくかもしれないのに、それでも知りたいという欲求と焦燥。
そしてなぜ自分だけがという自己憐憫と、過去の全てを踏まえた上で普通に生活している周囲の人たちに対する羨望と妬み。
『可哀想な手塚国光。だから私たちが親切にしてあげなくちゃね』
誰も口に出しては言わなかったけれど、そんな気持ちは態度や口調に滲み出ていた。
そうやって気を遣われれば遣われるほど、手塚は傷ついていく。
同情や哀れみなんかいらない。
そうは思っても、一人では到底生きていけない自分が情けなかった。

結局、自分は何かが欠けたままの中途半端な状態で生きていくしかないのかもしれない。
恐らく記憶が戻ることはないだろう。
きっぱりと過去にこだわることを諦めてしまえればいいのに、それもできない。
それに、一人で外も歩き回ることも許されないこの身体で、一体どんな充実した生活が送れるというのか。

「死にたかったわけじゃないんです。なんとなく、自分には意味がないのかなって」

工作用の鋏では致死に至るほどの傷が簡単に与えられるはずもなく、その刃を数回手首の上に走らせたところで看護士に鋏を取り上げられた。
カシャン、と軽い音を立てて床の上に放り投げられた鋏をぼんやりと見つめながら、手塚は看護士の喚く声がうるさいと思っていた。

その後のことは覚えていない。
気がつけばベッドに横たえられ点滴を打たれていた。

「みんなの態度が一層優しくなりましたよ。今まで以上に気を遣ってくれて」

そして、その日から大和が二日と間を置かずに顔を出すようになった。
手塚の部屋に来ては、外は寒いだの仕事で失敗しただのと一方的に喋っては差し入れといって持ってきたケーキやお菓子などを嬉しそうに食べていく。
大和が来るのは嫌ではなかった。
彼が自分の過去を取り戻してくれるかもしれないという期待はとうに捨ててしまっていたが、それでも彼が外の空気を運んでくるのは事実で、いつしか手塚はそれを心待ちにするようになっていた。

「もう全部諦めてしまおうと思っていたんですけど、やっぱり心の底では期待していたんです。もしかしたら、って」

それから数ヶ月後、手塚は施設を離れて大和と一緒に森の中にぽつんと建てられている洋館に移ってきた。
どういう経緯があったのかは聞いていないし、手塚にとってそんなことはどうでもよかった。

『どうして、ここまで俺に親切にしてくれるんですか?』
『うーん……、君が弟みたいで放っておけないから、ですかね』

照れくさそうに頭を掻きながらそう答えた大和に、手塚は初めての小さな笑顔を見せた。

 

 

「弟みたいだって言われたとき、すごく嬉しかったんです。祐大が遠い親戚だっていうのは、それはそれで身内だから嬉しいんですけど、俺はもっと近い存在が欲しいと思っていたから」
はにかむように視線を斜め下の方にやっている様子が可愛く思えて、乾の口元にも笑みが浮かんだ。
「『弟』って言葉が救いのように感じました」
「でも、大丈夫なの? 君の身体に何かあったら、こんな所に住んでる上に車もないんじゃ」
「ん……、そうかもしれないですね」
眉根を寄せて心配そうな顔をしている乾に手塚はまるで他人事のように答えた。
「だったら、ここに来たのは無謀なんじゃないの? 確かに病院みたいな所に閉じこもってるよりは環境的にいいんだろうけど」
「多分、大丈夫ですよ俺は」
でも、と言いかけて乾は言葉を呑み込んだ。
僅かに笑みを含んだ顔が自分をじっと見つめていて、その表情は『大丈夫』という言葉を裏付けるかのような確信に満ちていた。

「実際に、これまで発作とかそういったものを起こしたことはないんです。まあ、少し疲れたりするとすぐに熱を出したりはしますけどね。
それに、仮に発作みたいなものが出たとしても祐大がなんとかしてくれるんじゃないですか?」
「なんとかするって言っても、何かあってから救急車とか呼ぶんじゃ……」
一瞬、手塚の顔がきょとんとなって、しかしすぐにそれは苦笑に変わった。
「聞いてなかったんですか? 祐大は医者なんですよ」
「え……?」
思いもよらなかったことを耳にして、乾はぽかんと唇を半開きにしたまま手塚を見つめた。
同時に大和の姿が脳裏に浮かぶ。

翻訳の仕事をしていると聞いていたし、書斎にあった本も全てではなかったが大半は文学に属するもので医学に関係したものなどなかったはずだった。
それに大和の穏やかで静かな雰囲気も、どちらかといえば医学よりも文学に携わっている者に相応しいように感じる。
最初から彼が医者だと聞いていれば、そういうものなのだと受け止めていたかもしれないが、既に乾の中に出来上がっていた大和のイメージからは医者という職業はかなり意外な気がしたのだ。

「でも医者っていうよりは研究者なのかな。日本の国家試験を受けたわけでもないみたいだし。ちょっと見えないかもしれませんよね、俺も祐大の白衣姿なんてあまり想像できませんから」
乾の表情から何を考えていたのか読み取ってしまったらしい手塚が可笑しそうに言った。
「うん……、意外、かな」
「でも向こうの病院にいるときに日本の企業から研究員として引っ張られたそうですから、かなり優秀だったらしいですよ」
「へえ……」
そういえば、大和は高校のときにイギリスへ行ったと不二から聞いたのを思い出した。
手塚もある程度は彼らの学生の頃の話を聞いているらしい。
乾の頭に、本に挟まれていた写真のことが浮かんできた。

―― 国光は彼のことを知っているんだろうか?

あそこまで似ているとなると血縁関係と考えてもおかしくはない。
もしも手塚が彼のことを知らなかったとしたら教えてやってもいいのではないかと思った。

「大和さんと不二さんの昔の話って、聞いたことある?」
ふいの質問に二・三度まばたきをしてから、手塚は「え……と、少しは聞いてますけど」と口元に指先を持っていきながら考えるような仕草をした。
その少し子どもっぽい様子と写真の彼のイメージを重ね合わせてみると、顔形は似ているものの持っている雰囲気は全く違うように感じられる。

「中学で同じテニス部にいたそうです。祐大が3年で部長をしてたときの1年が周助だって」
「それから?」
「う…ん……」
視線を斜め下にずらして僅かに首を傾けているところを見ると、手塚もそれほど詳しいことは聞いていないらしい。
「周助がわりと強かったって。……それくらいです」
「そっか……」
「何か知りたいことでもあるんですか?」
落胆したのが分かったのか、手塚は覗き込むように乾に顔を向けてきた。

手塚の瞳を見返しながら、もしも写真の彼が手塚の親類なのだとしたら、大和が敢えてそれを言わなかった理由でもあるのだろうかと僅かな不安が胸をよぎった。
それでも自分自身を取り戻したいと願ってきた手塚の話を聞いたばかりの乾は、どんな小さな可能性でも示してやるべきだろうと思う。
同時に、そこには手塚が欲しがってやまない情報を自分が与えてやることができるという自己満足も含まれているのだが。

「書斎の本に大和さんたちが学生の頃の写真が挟まっててね。大和さんと不二さんと、もう一人、君にそっくりな子が映ってたんだ。もしかして親戚か何かじゃないかと思ってね。聞いてない?」

途端に手塚がぱっと目を見開いて驚きの表情を示したかと思うと、椅子から立ち上がってドアの方に向かっていった。
「乾さん、どの本か教えてもらえますか?」
ノブに手をかけて振り向いた手塚の目つきは少しきつくなっていて、そんな表情をすると雰囲気まで写真の彼にそっくりになるな、と乾は思いながら「いいよ」と頷いてベッドから離れた。

 

 

書斎から数歩入ったところで手塚はじっと乾を見つめてきた。
その横を通り過ぎて、乾はあの植物図鑑のある棚まで行って本を手に取る。
そしてそのままページを開こうとした手を止めて、まだドアの近くにいた手塚にその本を差し出した。
乾の視線に促されるようにゆっくりと側まで来た手塚だが、その差し出されたものをすぐには受け取らず唇を引き結んで眉間に僅かなしわを寄せている。
それは短い時間ではあったが手を伸ばしている乾には実際よりも長く感じられ、複雑そうな顔をしている手塚の内心を少しでも読み取りたいとその表情を見つめていた。

やがて手塚はそっと手を差し出して本を受け取った。

すぐにぱらぱらと軽い音を立てながらページを繰っていた手塚だったが、その手は途中で止まることはなく最後のページまで辿りついてしまった。
「え、ないの?」
その様子を見ていた乾は慌てて手塚の手から本を取りあげると自分も同じようにページをめくっていった。
しかし結果は同じで、あの時のように自然にページが開いて写真が現れることはなかった。
「本当にこの本だったんですか?」
「ああ」
間違えるはずはないと、訝しげに見上げてくる手塚にそう返事をしたものの、一応近くの棚を見てみるがやはり植物図鑑はその一冊きりしかなかった。

大和か不二が気付いてしまってしまったのかもしれない、そう思いながら小さくため息をつき乾は手にした本を無意味にめくっていた。
なんとなく気まずい雰囲気を感じて乾が「ごめん」と小さく呟く。
その傍らに立っていた手塚は「乾さんが謝ることないですよ」と彼を見上げて少し笑おうとしたらしいが、そこには落胆の表情がありありと見てとれた。

「そんなに似てたんですか?」
ぽつりと呟くように手塚が聞いてきた。
「うん、少し君よりは大人っぽい感じだったかな。でもそっくりだったよ。見た瞬間、君だと思ったくらいで……」
乾が話していると、ふいに手塚は何かに弾かれたように窓際に近寄っていった。
話の途中だったが乾は彼の行動に気を取られて口をつぐみ、どうしたのだろうと手塚の様子に視線を注いだ。

手塚が向かったのは机の上のパソコンで、座るのも面倒なのか立ったままで何やら操作を始めた。
いきなり何をと乾がその背後から画面を覗き込んでみると、どうやら手塚は不二の名前を検索にかけているらしい。
「周助の名前とテニスで何か出てくるかもしれないから」
黙っている乾に説明するように手塚が言う間にも、画面には検索結果が羅列されていく。
思っていたよりもその数が多いことに二人とも驚いていた。
更に「中学」という項目で絞り込んだ中から手塚がいくつかをピックアップして表示させる。

それらをざっと見ていくうちに二人の息を呑むような声がほとんど同時に発せられた。

それは過去に行われた大会の結果と出場校のメンバー表だった。

 第30回全国中学生テニス選手権大会団体戦
  男子優勝:青春学園中等部(東京)

それに続くメンバー表の中にある二人の名前。

 手塚国光(3年)
 不二周助(3年)

 

手塚は身動きひとつせずにじっと画面に見入っている。
同じように画面を凝視していた乾はふいに手塚のことが気になりその表情を見たいと思ったのだが、自分の位置からではまともにそれを見ることはできなかった。

「その同じ名前のが、多分……写真の彼だったんじゃないかな」

苗字どころか名前まで同じ、顔形も似ている。
写真の手塚と目の前の手塚の間には何らかの関係が存在していて、それが血縁関係であることは間違いないと確信できた。
しかし、そうだとしたらなぜ大和は彼のことを手塚に告げなかったのか。
手塚が求めても手に入らないものを、それでも諦めきれずに欲して苦しんでいるのを間近で見ていたはずなのに。
それは不二にしても同じことで……。

乾があれこれと考えを巡らせている間、じっと動かずに立ちっぱなしだった手塚が軽くため息をついて椅子に腰を下ろした。
彼が体勢を変えたのをきっかけに乾も場所を少しずれて画面と手塚の表情が見えやすい位置に移動する。
そして慣れた手つきでキーボードを打つ手塚の表情を覗いた乾は、そこにそれまでに見たことのない彼の表情を見つけてなんとなしに戸惑ってしまった。
僅かに細められた目は鋭さを増し、小さく唇を噛んでいる手塚はまるで冷たい空気を纏っているかのように感じられる。
昨日の夜、月明かりを受けて青白い顔をしていた彼は、それでも暖かさをその肌に持っていたような気がするのに。

まるで15歳の少年とは思えない雰囲気の手塚の横顔を見ていた視界の端に、ふいに画面が動いたのを感じた乾は再びそちらに目を移した。
そこに表示されていたのは『手塚国光』の当時の戦績だった。

「すごいんじゃないか、これ……」

『優勝』という結果ばかりが続くその戦績に、思わず乾の口からため息が漏れた。
他にも当然のようにジュニアランキング1位、海外遠征への参加など、手塚の強さを示すような言葉が続いている。
そしてページが変わると、そこにラケットを脇に抱えてコートの側に立っている少年の姿が映し出された。
全身を映しているため乾が見た写真よりは表情が見えずらくなっているものの、やはり間違いなく『彼』だった。

ガタっという突然の音に乾は僅かに身体をすくませた。
手塚が勢いよく立ち上がったため椅子が後ろに倒れたのだ。
しかしそんなことを気にする様子もなく、手塚は窓際に歩み寄るとそれを背にして身体を預けた。
左手で顔の半分を覆うようにして俯き、しばらくしてから大きなため息をついて乾の方に視線を向けてくる。
困ったような、泣き出しそうな表情。
さっきの冷たい雰囲気はどこにも見られなかった。

「おかしいよ」
僅かに口元が緩んだのは自嘲のような笑みのせいだった。

「ここに来る前にも自分で調べたんだ、今みたいに。少しでも何か知りたくて、自分の名前で検索をかけたのに。こんなもの、一つも出てこなかった……」

手塚の声はだんだんと小さくなっていき、最後に掠れたような声でぽつりと呟くように言った。

「どうして教えてくれなかったんだろう」

それきり手塚は窓の手すりに腰を乗せるような格好で黙りこんでしまった。
午後の日差しが手塚の後ろから差し込んでいるせいで、いつもは黒く見える髪が僅かに茶色に光っていた。
彼の髪には多少のクセがあるらしく、毛先が少し跳ねているその上に光が流れているような印象を受ける。
見た目よりも柔らかいんだよな、と、乾は昨夜触れた手塚の髪の感触を思い出していた。

あのときといい、今といい、手塚の脆い部分を見せられて何かしてやりたいとは思うものの、気の利いた言葉ひとつかけられない自分がもどかしい。
それに、やはり大和や不二が『彼』のことを知っていて手塚に黙っているのは不自然だった。
もしかして自分は余計なことをしてしまったのかもしれないという不安が少しずつ乾の心を責め始めていく。

「大和さんに聞きにいこう」

それは自分が言い出したことだから自分がなんとかしなければという乾の自己責任のようなものだった。
「聞いちゃった方が手っ取り早いよ」
その言葉に、手塚はすぐに頷いてついてくるかと思っていたのだが、意外にも彼は窓際から動こうとはせず視線を伏せたままじっとしていた。
「国光?」
「ん……」
「どうしたの? 行かないの?」
さっきはあんなに勢い込んで書斎に向かったはずなのに、今度はまるっきりその気がないかのように窓辺に寄りかかっている手塚を訝しく思いながらも乾は「行こう」と促してみる。
それでも手塚に動く気配はなく、眉根を寄せて一体何を見つめているのか、何もない足元の空間に視線を落としていた。

 

 

その夜の食事に手塚は顔を出さなかった。
大和や不二にとってはいつものことで大して気にもしていないらしいが、乾だけは昼間あんなことがあっただけに手塚のことが心配でならない。
本当は今すぐにでも二人に『手塚国光』のことを聞いてみたかったのだが、手塚の言葉がそれを思い止まらせていた。

『少し考えたいんです』

足元を見ながら呟いた手塚の言葉に、乾は従うしかなかった。

「……いくん、乾君?」
「は?」
さっきまで大和と不二が仕事の話をしていたため、乾はすっかり自分の思考の中に篭ってしまっていた。
「考え事でもしてましたか?」
いまいち要領を得ないような顔をしている乾に大和が不思議そうに聞いてきた。
隣の不二はそんな乾を見て小さく笑っている。
「いや、別に……。すいません」
なんだかよく分からなかったが、自分が大和の問いかけに対して上の空だったのは確かなようなのでとりあえず謝っておくことにした。
「大丈夫ですか? 体調でも悪いんじゃないですか?」
「いえ、そんなことないです。大丈夫です」
会話が噛み合ってくると乾もいつものペースに戻って大和に視線を向ける。
「卒論のこととか、いろいろと考え込んでました。すいません」
少し照れ笑いをするように乾はちょっと耳の後ろを掻いてからグラスに手を伸ばした。
本当は卒論のことなどこれっぽっちも考えていないのだと鋭い大和だったらお見通しかもしれなかったが、とくに追究されることはないだろうと思い乾は堂々とシラをきった。

「明日、海に行こうと思うんです。乾君も一緒に行きましょう。別に泳いだりするわけじゃないから足に負担がかかることはないと思いますよ」
「は?」
さすがに今度の話はちゃんと聞いていたものの、その内容が思いもよらないことだったので結局乾はさっきと同じような間の抜けた返事をしてしまった。
同時にまた隣から、ククっと抑えたような小さな笑い声がする。
「前からね、手塚が海に行ってみたいって言ってたんだ。明日っていうのも少し急なんだけど、明日が過ぎたらまた仕事が入ってきちゃう予定でね。だから行けるときに行っちゃおうって」
「はあ……」
「手塚も喜ぶんじゃないかな、君が一緒なら。このことろよく話をしているみたいだし」
不二は相変わらず穏やかな笑みを浮かべてはいるものの、やはりその瞳は無表情なままだった。

「明日は早いですからね、乾君も今夜は早めに休んでおいた方がいいですよ」
「あ、はい……」

既に話は決まっていたらしいが肝心の行き先がまだ未定だったようで、それから大和と不二は、どこの海岸はまだ人が多いとか釣りはできるかなどあれこれと話し合いを始めた。
それを横目に乾の思考は再び手塚のものへと向かっていく。

―― 何を考えるっていうんだ?

手塚の言葉は、乾にはよく分からなかった。

 

 

食事を終えた乾は自分の部屋に戻る前に手塚の部屋のドアをノックしてみた。
しばらく待ってみたが中からの反応は何もない。
もう一度ノックしてみようかとも思ったが、少し考えたいと言った手塚の表情が脳裏に浮かんできて乾は上げかけた手を下ろした。
そもそも自分が行っても結局は何もできないし言葉ひとつかけてやることもできないだろう。
だったら自分は邪魔になるだけかもしれない。
本当は側にいてやりたいという気持ちを抑えて、乾はそのまま自分の部屋に入ってまっすぐにテラスへ向かう。
柵から身を乗り出して見るまでもなく、手塚の部屋の灯りは消えていた。

―― 知りたくないのかなあ。

自分だったらすぐにでも大和に詰問するのにと思いながら、乾はテラスの椅子に腰を下ろした。
背もたれにだらりと凭れて手塚から聞いた話を思い起こしてみる。
自分が普通に生活を送ってきたこの数年間、10歳になったばかりの少年は自分には考えにも及ばない生活を送っていた。
しかも本来なら出会わないはずの自分たちが、ほんのした偶然からこうして一緒にいて話をするようになるなんて。

ここへ来た当初は、あまり彼らの生活に踏み込むのはよくないだろうと思っていた。
しかし今は少しでも手塚の力になりたいと思う。

今夜も輝いている月をぼんやりと見つめながら、昨夜その光の下で涙を流していた手塚の姿を思い描く。
目の前であんな綺麗な泣き方をされたのは初めてだった。

ふいに乾の目の端に灯りが瞬いた。
誰かが書斎に入ったらしく、その窓から灯りが漏れてきている。

―― 誰だろう?

手塚か、それとも大和か。
おそらく不二ではないだろう。彼はあまり書斎には入らないらしい。

躊躇うことなく乾はテラスを後にして書斎へ向かった。
もしも手塚だったら『彼』のことには触れずに、昨日のように他愛もない話に興じようと思う。
もしも大和だったら……。

―― 聞いてみよう。

手塚が知りたくないというのならそれでも構わない。自分がどうこう言う権利はないのだから。
聞いてみたいと思うのは乾自身の興味からだ。
手塚にそっくりな『彼』の存在。
敢えてそれを手塚に伝えなかった理由。
他人のプライバシーにはあまり関わらない乾だったが、今回のことにはどうしても納得できる理由が欲しかった。

そして、大和自身に対する興味もあった。

 

書斎のドアの前に立って乾は大きく深呼吸をした。
チラっと手塚の部屋のドアに目を遣ったがそこには何の変化もない。
それから少し控えめに、まるで遠慮しているかのような小さなノックをする。

「はい?」

答えたのは大和だった。

 

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(2003/10/13)
 


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