■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...6
 

午前零時少し前に乾は開け放してあったテラスへの扉に近づいた。

引いておいた薄いレースのカーテンを開けると心地よい風が頬を掠めて部屋に入り込んでくる。
室内よりもはるかに涼しいテラスの手すりに寄りかかって一つため息をつき、乾は書斎の窓に目をやってみた。
今夜は灯りがついていない。
夜になってテラスに出ると、乾の視線は無意識のうちに書斎の方に向けられるようになっていた。
大和と不二の関係を悟った夜から二度ほど大和が仕事をしている最中の書斎に入って本を物色したのだが、彼とは二言三言、言葉を交わすだけに留まっていた。
大和と二人になると、乾の方がなんとなく落ち着かなくなってくるのだ。
彼の姿を見るたびにその腕や指先に意識が行ってしまい、それらが不二の身体の上で動く様を想像してしまう。
同時に不二の僅かに抑えたような甘い声も脳裏に蘇り、結局、乾は大和と視線を合わせることができなくなる。

そんな乾の落ち着かない内心を感じ取っているのか単に仕事が忙しいだけなのか、大和も無駄な話をもちかけたりはしてこなかった。

雲ひとつ見当たらない夜空に浮かぶ月を眺めながら乾は大きくため息をつく。
今夜は月の明かりが強すぎて、いつもは輝いている星の瞬きも鈍く霞んでしまっていた。

 

「乾さん」

ふいに小さな声が下から聞こえてきた。
視線を落とすと1階のテラスから少し出たところに手塚が立ってこちらを見上げている。
乾が気づいたのを見ると、こっちこっちというように無言で手招きを始めた。
何をするつもりなのか分からないが、とりあえず乾は軽く手を上げてそれに応えるとテラスを後にした。

 

満月の夜、少し早い月見でもするつもりだろうかなどと思いながら、乾は既に慣れてしまった屋敷内を通って1階のテラスに出てみる。
しかしそこに手塚の姿は見当たらなかった。
どこに行ったのかと首を巡らせてみると、芝生の庭の真ん中に仰向けになって横たわっている手塚の姿を認めた。

「国光!?」

咄嗟に名を呼んで彼の側に駆け寄りその横に膝をつく。
しかしその慌てぶりとは正反対に手塚はきょとんとした表情で乾の顔を覗き込んできた。
「あ、あれ……?」
「どうしたんですか?」
「いや……」
乾が戸惑い気味に耳の後ろに手をやるのを見ながら手塚がふっと笑みを浮かべた。

月明かりに照らされて青白くなっている頬が、手触りの良さそうな絹のように見える。
真っ黒な瞳には月を映しているかのポツンと小さな光が宿っていた。

「具合が悪くなって倒れてるのかと思った」
そう言いながら乾は仰向けになっている手塚の傍らに腰を降ろした。
「祐大から何か聞いたんですか?」
視線だけを乾の方に向けた手塚は何が可笑しいのか少しだけ口元で笑っている。

昼間も感じたことだったが、意外に手塚はよく笑う。
初めて会ったときは無愛想で表情のない子だと思っていたが、一旦、気楽に話せるようになるとささやかだが清潔な笑顔を見せるようになっていた。

「祐大は少し大袈裟なんです。ちょっと食欲がないっていうだけでも一大事みたいな顔して」
「それだけ心配してるんだよ、君のこと」
あたりさわりのない乾の言葉に手塚はくすりと笑う。
「俺のこと、全部聞きました?」
「……うん。事故で……ご両親のことと、記憶のこと……」
事実をはっきり言うことが躊躇われて、乾は言葉尻を濁すように小さな声で答えた。
手塚はそれきり視線を夜空に向けて黙ってしまった。

沈黙が続く。
しかしそれは居心地の悪いものではなく、それどろこか明るい月の光と風に揺れる木々の僅かなざわめきの中で、乾は自分の心が次第に澄んで透明になっていくような気がしていた。

「あ……、照明がなかったんだ」
ふいにこぼれた乾の言葉に手塚がちらっと視線を走らせる。
それに気づいたのか、乾は周囲をなんとなしに見回していた顔を傾けて手塚の問いかけるような瞳に応えた。

「なんだかいつもと庭の雰囲気が違うような気がしてたから。いつもは照明がついてるけど今夜は消えてる」
「ああ、俺が消したんです。その方が月も綺麗だから」
そうして再び視線を夜空に戻した手塚につられて乾も空に浮かぶ丸い月を見上げた。
ここへきてから初めて星の本当の美しさを知ったが、今見ている月の輝きはそれを遥かに凌ぐように強烈で、都会のぼんやりとした月しか知らなかった乾には怖いくらいに感じられた。

「ねえ、俺みたいに寝っ転がってみて」
「え? あ……、ああ」
腰を降ろしていただけの乾は手塚に言われるままに、ゆっくりと上体を倒して芝生の上に寝転んでみた。
芝生の少し湿った、懐かしい感じのする匂いが鼻を掠める。
そして乾の眼前に広がった光景は……。

視界に入るもの全てが夜空だった。
真上を向いたことで芝生も森の木立も目に入らない。
ただ暗い夜空と輝く月と星々だけ。

「すごいな……」
「でしょ?」
ため息と共に乾の口から漏れた感嘆の言葉に、手塚の少しだけ嬉しそうな声が頷いた。

「こうしていると、人間ってみんな一人なのかなって思うんです。そう思うと、少しだけ安心する」

しばらくの沈黙の後、15歳の少年の口から出るにしては寂しげな言葉に、乾は何か言わなければいけないだろうかと首をそっと手塚の方に傾けてみた。
青白い光に照らされている頬も僅かに開かれている唇も、時間を止められたように微動だにしていない。
しかしその時間の中で、閉じられた目にかかる睫毛だけが僅かに震えていた。
少し深く息を吸い込んだらしく、唇がさらに開くと同時に……。

 

睫毛の間に、乾は光るものを見つけた。

 

それが溢れて目じりからこめかみに伝う。

 

乾は声をかけようとしたが、なぜか喉が掠れて小さく息を吐いただけにとどまった。

綺麗な光景だと思った。
横たわる手塚も、彼を照らす月も星も、すっと流れた涙も、全てが自然の中にある美しいもののように感じる。

壊したらいけない。

自分には触れられない光景だと思った。
それなのに、乾は流れた涙の跡を拭ってやりたいとも思う。

涙の意味が知りたくて、涙を流した彼に手を差し伸べてやりたくて、乾はそっと手を伸ばして手塚の目じりに触れた。
その瞬間、軽く閉じられていた瞼が微かに動き、そして一筋流れて止まったと思っていた涙が堰をきったように溢れてくる。

 

―― 気が緩んだ、かな?。

乾にも覚えのある感覚。
泣くまいと涙を懸命に堪えているとき、ふいに誰かの優しさを感じるとそれはもう止められなくなる。
今の自分は少しでも手塚にとって優しい存在になっているのだろうかと、自己満足と分かってはいるけれど、そう思いたかった。

 

 

次の日も大和と不二は忙しいらしく、早々に午前中のテラスから姿を消してしまった。
残された手塚と乾も二人がいなくなるとテーブルの上を片付けてそれぞれの部屋に戻った。

足の具合は大分よくなっていた。
もう包帯をするのも大袈裟な気がして今はネットで軽く湿布を押さえているだけだったが、それでも歩くのにはとくに差支えがないような気がする。
ただし普通に歩こうとして体重をかけると多少の痛みが伴ってはいるのだが。

テラスの椅子に身体を預けて森に目を向けてみる。
いつまでも大和の好意に甘えている訳にはいかないとは分かっているものの、この屋敷の時間の流れが妙に心地よく感じてしまい少しでも長くここにいたいと思ってしまう。

そんなふうにしばらく目を閉じて雑多な思考に漂っていた乾の耳に小さなノックの音が聞こえてきた。
目を開け首だけを室内の方に向けて返事をすると、半分ほど開いたドアの向こうに手塚が顔を覗かせた。
「入ってもいいですか?」
遠慮しているのか、やや控えめな声で聞いてくる。
「ああ、どうぞ」
そう応えて乾は立ち上がると部屋の中に戻った。
手塚も部屋に入ったものの、ドアを後手に閉めたままその場所に俯き加減でじっとしている。
「どうぞ?」
乾がテーブルの方を顎で示しながら促すと手塚は小さく頷いて「失礼します」と言いながら歩を進めた。
乾も同じテーブルにつこうかと思ったが、昨日手塚の部屋で話していたときの距離を思い出して自分はベッドの方に腰をかけることにした。
あまり近くで話をするのは、なんとなく緊張してしまうような気がしたのだ。

手塚にしてもどこか昨日の様子とは違う感じがする。
昨日は長時間話をしていてかなり打ち解けられたように思っていたのだが、目の前の手塚は何が落ち着かないのか視線をあちらこちらに向けては時にちらりと乾の方を伺ってくる。
しかし乾にとってはそんな様子が逆に可笑しくて、まるで小動物を見るような気持ちでその頬を緩めた。
「どうしたの?」
その問いかけに手塚はやっと乾に視線を定めた。

そして、
「夕べは、すいませんでした……」
と小さく呟いた。

「すいません、って、何が?」
「なんだか、付き合わせてしまったみたいで……」

 

結局、昨夜は手塚が涙を流す横で乾は言葉もなくただ横たわっていた。
ときおり漏れてくる小さな嗚咽を耳にしながら、それでも乾は言葉をかけることができずにじっと夜空を見つめているだけだったが。
しかし一度だけ、そっと宥めるように手塚の頭に手を置いて柔らかい髪をくしゃりと撫でた。
その時、しゃくり上げるものを堪えるように手塚の口から出た言葉も、やはり「すいません」だった。

 

「別に気にしてないよ。あんな綺麗な月が見られて、俺は嬉しかったけど?」
「……そうですね」
乾の言葉に手塚はふっと口元を緩めて少し安心したような笑みを見せる。
しかし他人に自分の泣いている所を見せてしまったことが照れくさいのか、手塚は一瞬だけ乾と目を合わせたかと思うとすぐに視線を外してしまった。
それでも微かに笑ったことで、彼がこの部屋に入ってきたときのどこか遠慮したようなおずおずとした雰囲気は消えていた。

その後も二人は昨日のように話し込んでいた。
だが昨日と違うのは、手塚が自分のことを少しずつ話し始めたことだった。

 

手塚の記憶のスタートは病院のような施設の中だった。

両親と三人で乗っていた車が事故に遭い両親はほぼ即死、後部座席にいた手塚も怪我自体は軽かったものの心臓への負担が相当のものとなり1ヶ月ほど意識不明の状態に陥った。
そしてようやく目が覚めた手塚が失っていたのは自分の過去だけではなかった。
基本的な生活知識や言葉までがままならなくなっていたのだ。

意識が戻ってからしばらくのことは手塚自身はほどんど覚えていないらしい。
次第に周囲の様子を自覚できるようになったときには、体調を考慮しながらのリハビリを連日のように続けていたという。
その間三年、手塚は一度も施設の外に出ることはなかった。
普通の人間が聞くとさぞ辛い日々だったのだろうと思うのだが、手塚は涼しい顔をしてあっさりと言った。

「大変だなんて思ったことは一度もなかったですよ」

過去の記憶も生活の知識も全て失ってしまった彼にとっては白紙の状態からのスタートだったのだろう。
ある意味、それが幸いしてたのかもしれない。
他人と自分の立場を比較することもなく、その生活をすんなりと受け入れられたのだから。

手塚の知識を吸収するさまは、まさに砂が水を吸い込むようにと表現できるくらい速いもので、当初、周囲の者が予想していたよりもずっと早く彼は一般的な知識や言葉、学力を取り戻していった。
そうして生活も安定してきて手塚自身が自分の置かれた状況を理解するようになると、彼の中に強烈な欲求が芽生え始めてきた。

―― 自分の過去を知りたい。
   自分がどんな人間だったのかを知りたい。

しかし、それに答えられる人間は彼の周囲にはいなかった。

彼は9歳まで両親の仕事の都合でアメリカに暮らしていた上、日本に戻ってからも学校へは通わず生活の大部分を自室で過ごしていた。
それでも手塚の要望に応えるように施設の者がアメリカでのことや帰国後の様子をを調べてくれようとはしたものの、手塚が求めているような情報はほとんど皆無に等しかった。
もちろん近所の家の者や、死んだ両親の職場での友人もいた。
しかし彼らは心臓を患っている息子の存在は知っていても、「手塚国光」という個人がどんな人物だったのかまでは何も知らなかったのだ。

ただ遠い親類だという大和という男が一人名乗り出てきて、その息子、大和祐大が1枚の写真を持ってきたことがあった。

手塚が大和祐大のことを認識し始めたのは施設に来てから1年ほどしてからだったらしい。
最初のうちは「部屋にやってきてはよく分からない話をしていく人」だったが、次第に自分の遠縁の者でありこういった境遇になった自分を気にかけていてくれるのだと理解していった。
そんな大和の存在が手塚にとって特別なものになるには、それほど長い時間はかからなかった。
唯一、自分の周囲で白衣を着ていない人間。
リハビリや診察といった「仕事」を抜きにして手塚に接する人間。
もちろん医師や施設内の誰もが手塚には親切に明るく、時には友人のように接していたが、やはりいつも「外」からくる大和は彼らとは全く違う存在だった。

「祐大だけが、外と俺をつなぐパイプみたいなものなんだと思ってました」

大和が持ってきた写真は小さな赤ん坊を抱いた一組の夫婦のものだった。
それが手塚の両親と手塚自身だという。
「君の住んでいた家が処分される前に父がいろいろと探してみたんですけど、アルバムといったものは見つからなかったそうです。ただ、居間の棚の上にこの写真が飾られていたらしくて」
申し訳なさそうに言う大和の手からその写真を受け取り、自分の両親と自身の姿をじっと見つめてみても、手塚の心には一片の感情も湧いてはこなかった。
懐かしさも視概感も全くなく、それはただの一枚の写真に過ぎない。

しかし、手塚にとってそれは少しの哀しみでしかなかった。
それよりも大和が自分の過去の断片を持ってきてくれたこと、それがこのうえもなく嬉しく感じたのだ。

「祐大がいれば、もしかしたら自分を取り戻せるかもしれないと思ったんです」

自分自身を知りたいという欲求は日増しに強まっていくのに、どうにも埋まらない自分の中の空白。
求めれば求めるほど、もどかしくて。
そんな手塚にとって大和は僅かに射し込んだ光明のようなものだった。

しかしそれ以来、手塚の過去を示すものは何も見つからなかった。

閉塞的な環境の中で募る欲求と焦燥、そして心に広がっていく虚しさ。
それが少しずつ少しずつ、手塚を侵食していった。
彼は次第に言葉少なになっていき、ついには医者との必要な会話しかしなくなっていた。

 

 

 

そしてある日、手塚は工作用の鋏で手首を切りつけているところを看護士に発見された。

 

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(2003/10/12)
 


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