■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...5
 

乾がしばらく夜空を眺めていると部屋の中からこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
顔を向けると暗闇の中から浮き出てきたように、大和が月灯りと照明で僅かに明るくなっているテラスに出てくる。
その手にはワイングラスが2つとボトルが1本あった。
「何もなしで話をするのもつまらないでしょう? かといってコーヒーじゃ余計に目が覚めちゃいそうですし。寝酒のつもりで少し、ね?」
グラスを置いてボトルを開けるとその中身を静かに注ぎ込んだ。
僅かな明かりしかないテラスではただ透明にしか見えない液体が静かに揺れている。

「星がきれいでしょう?」
大和を待つ間、乾が夜空を見上げていたのを知っているのか、同じように彼も空を見上げながら口元を綻ばせた。
「初めてここに来た時は本当に驚きました。いくら見ていても見飽きないんですよ」
眼鏡の向こうの目を細くして大和は独り言のように呟いている。
つられて乾も同じように夜空を見上げて「確かにそうですね」と同意すると、その言葉に大和がにっこりとした。
「でも、ここに住むのはやっぱり不便ではないんですか?」
不二にはぐらかされてしまった質問を、乾はもう一度口にしてみた。
もしも大和にまであやふやにされてしまうようだったら、もう彼らのことは詮索しないようにしようと思いながら。
そもそも行きずりの自分にそんなことを聞く権利などないのも充分承知はしているのだ。
しかし大和はあっさりと乾の望む答を返してきてくれた。

「国光の体調のためなんですよ」

予想外の答に乾は一瞬驚きの表情を見せた。
「どこか、悪いんですか?」
何も考えずに聞いてしまってから、また余計な詮索だろうかと少しだけ後悔する。

「心臓が、ちょっとね」
乾の心配とは裏腹に、大和の方には別に隠すつもりもないらしい。
「それと彼は10歳の時に事故に遭っていてね、両親と、それから……それまでの自分の記憶を失くしているんです」
「記憶喪失……?」
「ええ」
やりきれないというように溜め息をつきながら大和は俯いた。

「国光君は高校生くらいですか?」
「15歳です」
「記憶は全く……?」
「いまだに何も思い出さないようですね」
「そうですか……」
それまでの自分を失ってしまうというのはどんなものなんだろうと、乾は手塚の無表情と黒い澄んだ瞳を思い出しながら考えてみた。
家族と記憶を失って暮らしてきた5年間、しかしどう考えてみたところで乾にはそんな生活など想像することもできなかった。

「でも大和さんが彼を引き取ったってことは、けっこう近い親戚なんですか?」
「いえ、そんなこともないんですけど、彼の家は親類との付き合いが殆どなかったらしいんです。それでも僕の父親とは多少の行き来があったようで」
「大和さんのご両親は?」
「イギリスにいます。だから日本にいる僕が国光と一緒に暮らすことにしたんですよ」
「でも……、ここにいるのは国光君には不便じゃないですか? 学校に行くにしたって……」
「学校へは行ってないんです」
乾は話が振り出しに戻ったことに気がついた。
学校へも通えないほど心臓を患っているのだろうかと、芝生の上でホームズと戯れていた手塚の姿を思い出す。

しかし、それならそれで手塚に何かあったときのために病院へ行きやすい町中に住んだ方がいいのではないか。
しかも車がないのでは、緊急の場合に困るのではないか。
乾の中にどんどん疑問が溢れ出してくる。

その疑問が乾にもっと詳しいことを聞き出せと催促していたが、手塚のことを話すときの大和の表情がそれを躊躇わせていた。
それは僅かな変化ではあったけれど、いつもは穏やかな瞳が伏せられ眉根に小さなしわが寄っている。
食堂で一瞬だけ見たのと同じ表情。
視線を向けた先には何があるわけでもなく、何も映していない瞳はただ沈んでいるだけのように思える。

―― ちょっと辛そうだな。

聞けないと分かっているから少しでもその心を読み取りたいと、乾は無意識のうちに薄暗い照明の中に浮かぶ大和の顔を見つめていた。
しかし大和はすぐにその視線に気付いたのか同じように乾の瞳を真っ直ぐに見返してきたので、結局乾は芝生とテラスをぼんやりと照らしている灯りに目をやる他なかった。

「それじゃあ、国光君の勉強は大和さんが見てあげてるんですか?」
あまり深い事情を聞くこともできないが、全く違う話題を出すのも不自然だったから、乾はできるだけ当たり障りのないことを聞くことにした。

「いや、それは不二君の仕事なんですよ」
沈んでいた瞳が元に戻り、大和はグラスを口につける。
淡い光が彼の喉元の陰影を強調して、液体を飲み込むと同時に上下する喉がやけにリアルだなと乾に思わせた。

 

 

次の日の夕食後も、乾は自室のテラスに出て星空を眺めていた。
考えてみるとここに来てから世間の出来事を何一つ確認していない。
今までは毎朝ニュースをチェックして、家に帰ってからも大雑把ではあるが社会や政治、国際関連の一日の出来事を把握するようにしていた。
そうしていないと不安になるのだ。
世の中で起きていることを知らないと自分一人が置いていかれてしまうようで、世間と足並みを揃えることは乾にとっては必要な精神安定剤のようなものだった。

それがここに来てからは環境があまりに変わりすぎたために自分のことでいっぱいで、とても外のことにまで考えが及ばなかった。
しかも不思議なことに、ここ数日の社会の動きを知らなくても全く焦っているような気にもならないのだ。
都会と田舎の違いなのだろうか……と考えてみる。
自分もここに暮らしたら、大和のように穏やかな雰囲気を持つ人間になれるのだろうか、と。

テラスに出てきたときから書斎の灯りがついていることには気付いていた。
また大和が仕事をしているのかもしれない。
昨夜、手塚の話を少し聞いた後は大和の仕事のことや世間を賑わせているニュースの話などをして過ごした。
町から離れての隠遁生活のように感じていたけれど、大和は政治や経済の話題にも聡く、必ず彼自身の意見を交えて話をしてくる。
学生ということもあり、普段接する大人といえば大学の教授くらいだった乾にとって、大和と話をすることは殊の外楽しく有意義なものに感じられた。
そんな昨夜のことを思い出し、もし今夜も彼のもとを尋ねたらまた話をしようと誘ってくれるだろうか、などということを考えてしまう。
もちろん乾にはそれを実行する気はなかったのだが。
二日も続けて仕事の邪魔をするわけにもいかないし、彼は大和のように「話でもしましょう」とさらっと言える会話のセンスも持ち合わせていなかった。

彼は今夜も窓際の机に座り、欧文だらけの雑誌をめくっているのだろうか……。
そんな姿を思い描きながら窓から洩れる灯りに目を向けていた。

そうやってしばらく何もしないで、ぼーっと椅子に身をあずけていた乾の耳に僅かに小さな音が聞こえてきた。
それは書斎の方からのもので、何か軽いもの、おそらく雑誌が机から落ちるような感じの音だった。

大和が机から雑誌を落としたのだろうかと、他に何か気配でも感じることができるかもしれないと静かに書斎側のテラスの端に寄ってみた。
窓は開いているらしいが、この場所からでは中を覗くことはできない。
それでも微かに人の動く気配は察することができた。

「…………」
僅かに聞こえてきたのは声を抑えたくぐもった呻きのようなものだった。
普通では出てこないようなその声を聞いた乾は思わず眉をひそめる。
大和の具合でも悪くなったのだろうかと思ったが、もしかしたら書斎にいるのは彼ではなくて手塚なのではないかと考え直してみる。

「……っ、や……っ」
書斎の様子を見に行こうと足を一歩出したとき、続けてその声が聞こえてきた。
それが耳に入った瞬間、乾の身体に電流が走るような僅かな震えが起こった。
苦しんで呻いている声ではない。
咄嗟に判断ができた。
と同時にその場から動けなくなってしまう。
続けて窓から洩れてくる微かな声に身体中の神経を集中させてしまっていた。

それはどう考えても身体に触れられたときに洩れてくるような類の声で……。

―― 不二さん?

大和の声でないのは確かだった。
不二か手塚なのかの聞き分けはできなかったが、それでもなんとなくそれは不二のような気がしていた。

断続的に洩れてくる声と、小さな衣擦れのような音。
誰か二人が書斎で身体を触れ合わせているのは明白だった。
こんな盗み聞きのようなことはするべきじゃないと思いながらも、乾はその場を動くことができず、ただ自分の身体まで少しずつ熱くなっていくのを感じているしかなかった。

「や……、ここ…じゃ、やだ……」

やはり不二の声だった。
そしてそれに答える声。

「そうですね」

大和の声。

 

その瞬間、乾の胸がつきんと痛んだ。

 

 

乾がこの屋敷に来てから5日目。
これくらいになると乾にもここの住人たちの生活パターンが掴めるようになっていた。
一番の早起きは不二で、朝は庭の草花や屋敷のあちこちに置いてある植物の様子を見て回ってから食事の用意を始める。
それに遅れて手塚がホームズと一緒に庭に出てきて芝生の上でボール投げなどをして遊んでいる。
10時過ぎる頃になると大和もテラスに顔を出して不二の用意した軽食をつまみ始める。
とくに三人で一緒にテーブルにつくというわけではなく、それぞれホームズと遊んだりコーヒーを口にしながらそれを眺めたりテラスにつながる部屋のソファで本を読んだり。
好きなことをしていながら、それでもこの時間はテラスに集まるというのが彼らの常らしかった。
そんな時間を過ごしてから不二と手塚が勉強のために部屋に戻ると大和も自室へと引き上げる。

それは非常に穏やかで静かな時間で、そんな中に身を置くことは乾にとっても心地いいものであった。
しかし大和と不二の距離が縮まった途端、乾の心臓は一瞬ではあるが小さく跳ね上がってしまう。
途切れ途切れの不二の声と、一言だけ肯定の返事をした大和の声。
それが脳裏に蘇ってきては、不二が大和にコーヒーカップを渡そうとする瞬間や、お互いに視線を合わせる様子などから目が離せなくなっていた。

男同士なのに……という気持ちは不思議と湧いてこなかった。
周囲の人たちと直接の接点を持っていないこと、この屋敷の雰囲気自体が多少なりとも退廃的な空気を作り出していること、それらが三人に彼らだけの世界を作らせているように思える。
そして何より、不二の持つ独特な線の細さ。
二人の関係を知ってから、乾の中で彼の中性的なイメージが更に強くなっていった。

―― 普通に町中で暮らしてたらかなり女の人にモテてるんだろうな。……でも女の人には興味ないのかな。

そんなことを考えながらコーヒーを淹れる不二の手つきをぼーっと見ていると、いつの間にか足元に近づいていたホームズが乾の膝に前足を乗せてきた。
手にしているサンドイッチがお目当てらしい。
乾はクスっと笑い半分ほどパンをちぎってホームズの目の前に差し出してやる。
そうやってパンをもらうことに慣れているホームズは、乾の手に歯をあてることなく器用にパンを口に納めた。
一口貰えたことに満足したのか、その場にうずくまったホームズの横を手塚が通り抜けていく。
途中でジュースのグラスを手に取ってそのまま大和の向こう側に回りこみテラスの手摺りに腰をかけた。

「ねえ、手塚。今日の勉強は一人でやってくれる?」
手塚がジュースを一口飲んだところを見計らって不二が声をかけた。
「急な仕事を回されちゃってね」
チラっと大和に視線を流して再び手塚の方に顔を向ける。
「わかった」
そう返事をしながら不二に顔を向けた手塚の眉が一瞬しかめられた。
眼鏡の奥の目が細められ、その表情は次第に何かを咎めるようなものに変わっていく。
それに気付いた乾は不思議に思いながら手塚の棘を含んだ視線を追っていった。

僅かに肌蹴られた不二のシャツの襟元、鎖骨の下あたりにほんのりと色付いた痣が見えていた。
それが何かなど考えるまでもなく分かってしまう。
しかし不二はそれにはまるで無頓着のように柔らかい笑みをこぼしていた。

乾が再び手塚に視線を戻したときには、彼はいつもの無表情になっていて余程注意をしていない限り気付かないほどの小さな溜め息をついてグラスに口をつけた。

―― 彼も知っているのか?

その溜め息から彼らの状況を感じ取り、今更ながら三人の生活が奇妙なものに思えてきた。

「それじゃあ、不二君。急で申し訳ないですけど、よろしくお願いしますね」
そう言って大和が席を立つのを見て、乾は彼が朝の挨拶をしたとき以来、無言でいたことに初めて気がついた。
いつもなら何かしら話をしていただけに、どうかしたのだろうか……と小さな気がかりが胸に残った。

「じゃ、僕も始めようかな。手塚、悪いけど、後でこれ下げておいてくれる?」
と不二はテーブルの上のトレーを指差した。
手塚は「ああ」と答えたものの、その視線は芝生に向けたままだ。
そんな手塚の様子に小さく笑みを浮かべて、不二はテラスから部屋に戻っていった。

二人がいなくなってからも手塚は手摺りに腰をかけたまま、ぼんやりと庭を眺めていた。
乾にしてみれば手塚と二人だけの状況というのは初めてだったため、何か話をした方がいいのかどうかと迷っていたのだが、手塚はまるで乾には無関心なふうに見える。
しかし無理に話をしなくてもいいかと思い始めたとき、意外にも手塚の方から乾に話しかけてきた。

「このあと、何をするんですか?」
何の前置きもなくいきなり言葉を向けられて、乾は一瞬のどをつまらせてしまった。
「あ……、えっと、別に何も。足は大分いいけど、さすがに森を歩き回ることはできないし。また本でも借りようかなと……」
真っ直ぐに向けられる瞳に、乾は自然と自分の視線を芝生の方にずらした。
何度同じことを繰り返されても、乾には彼らの真っ直ぐな視線を受け止めていることはできなかった。

「何もなければ、少し話をしたいんですけど」
「俺と?」
「ええ。駄目ですか?」
「いや、そんなことないよ。でも勉強しなくて、いいの?」
乾の問いに手塚が微かに笑った。
笑顔というには小さすぎる笑みだったが、それでも初めて乾に向けられた手塚の笑顔だった。
「別に大丈夫ですよ。それじゃあ30分くらいしたら俺の部屋でいいですか?」
「ああ、分かった」
その返事を聞くと手塚は手摺りから立ち上がってテーブルの上のカップやグラスをトレーに載せ始めた。
それを乾が手伝おうとすると「頼まれたの、俺だから」と制されてしまい、これ以上テラスにいる必要のなくなった乾はとりあえず一度部屋に戻ることにした。

 

 

乾が部屋に戻ってから程なくして、隣の部屋のドアが開閉される音が聞こえてきた。
手塚の部屋だ。
片づけにも大して時間はかからなかったのだろう。
あれから15分とは経っていなかった。
手塚が部屋に戻ったものの、彼の都合もあるだろうと思って乾は30分経つのを待って自室を出ていった。

 

「すごいな……」

手塚の部屋に一歩踏み込んで、最初に目に入ってきたのは部屋の片側の壁一面に備え付けられた本棚だった。
床から天井までびっしりと本で埋められた棚に目が釘付けとなり、足までが自然とそちらに向かってしまう。

「全部、君の?」
「はい。あ、見たいのがあったら持っていってもいいですよ」
「ああ、ありがとう。じゃあ、後で見せてもらおうかな」
そう言って棚を見上げていた乾がふりかえると、手塚は既にベッドの方へ歩み寄って行きその端に腰をかけるところだった。
部屋のつくりはどこも同じようで、テーブルや机の配置も乾の使っている部屋とほとんど変わらない。
バスルームの扉も一緒だった。
違うところと言えば、たった今、乾が圧倒された本棚があることとテラスに通じる窓の側に大振りの観葉植物が置いてあることぐらいだ。
余計なものが目につかない無駄のない部屋。
それは整頓されているというよりも、生活感自体が全く感じられない場所だった。

とりあえず乾は部屋の中央に置かれているテーブルについて手塚を見やる。

「話がしたいって、どんなこと?」
こうして慣れない相手と二人でいることに多少の緊張を感じながら、とにかく早く話を始めてほしいと乾は思っていた。
しかし手塚はすぐに答えるわけでもなく、ただ両手をベッドの縁にかけて足元の絨毯を覗くように俯いており、まるで何かを考え込んででもいるように見える。

「国光君?」
乾が黙りこんでいる手塚を促すようにそっと話しかけると、彼はその問いに僅かに顔を上げて「国光でいいです」と言う。
「そう? じゃあ、国光ね」
さすがに不二の名前を呼び捨てにすることはできなかったが、自分より年下の手塚の名前を呼ぶことにはあまり抵抗を感じなかった。

「別に何か話があったわけじゃないんです。ただ……、外の話を聞きたいなと思って」
手塚は足元を見つめたまま話し出した。
その俯き加減と、半ば伏せられている瞳がやけに彼を大人びて見せている。
今更ながら、乾は手塚の端整な顔の造りに見入ってしまいそうになった。
不二の透き通った茶色の瞳といい、手塚の整った顔立ちといい、見た瞬間に心を奪われそうになる人間というのは乾の近くにはこれまで存在していなかった。
彼らのことは、きっといつまで見ていても見飽きないのではないだろうか。

「乾さんはどんな所に住んでるんですか?」
そう言って手塚はぼんやりと自分を見つめていた乾の方に顔を向けた。
「え、ああ……」
ふいに手塚に視線を向けられ、その眼鏡の奥の瞳を見た途端、彼に心を見透かされたような気がして乾はバツが悪そうに軽く笑った。

「東京だけど、都心からは少し離れた所だよ。大学の近くのアパートに一人暮らしで……」

それから乾は手塚が聞いてくるままに、普段の自分のことを話した。
部屋にいるときは何をしているのか、大学での課目の選択の仕方や講義の様子、彼の住んでいる周辺の街並み……。
手塚の質問は途切れることがなかった。
次から次へといろいろな疑問が湧いてくるようで、それはまるで連想ゲームのようだなと乾は感じていた。

そうやって話し込んでいくうちにだんだんと手塚の表情も和らいでいき、時折その唇からは小さな笑い声もこぼれるようになった。
そんなふうに笑う手塚は表情のないときの彼とは全く違い、15歳という年齢に相応しく清々しい印象を放っている。
学校に行っていないという生活から手塚自身をどこか特別な目で見ていたが、こうしているとどこにでもいるごく普通の少年なのだと、乾は何かほっとするものを感じていた。

 

乾が話すことは何でもない普段の生活のことばかりだった。
それなのに、それを楽しそうに、ときに真剣な顔をして聞いている手塚の姿からは、彼がかなり「外の世界」に対して興味を持っていることが感じられる。
それまでは手塚の表情を掴むこともできなかったため、彼も大和や不二と同じように今の生活に何の不満もないのだろうと思っていたが実際のところはそうではないらしい。
考えてみれば当然のことで、普通だったら15歳の男子中学生なのだから友人と遊び回ったり女の子に興味を覚えたり、そんな生活が当たり前のはずだった。
それに世間の情報がシャットアウトされているわけでもないのだから、屋敷に篭りきりの手塚であっても同世代の中でどんなことが流行っているのかなどは充分把握しているらしい。
そういう状況で学校にも行けない生活というのは非常に可哀相だという、憐憫のような感情が乾の中に湧き上がってきた。

「たまには町に出たりとかしてるの?」
「そういうことは全然。半年に1回、検査で東京に行くくらいで」
「……そうなんだ。せっかくここから出ても検査じゃ遊ぶこともできないね」
「う、ん……。でも、あんまり遊びたいとも思いませんし」
意外だった。
乾はてっきり手塚が普通の生活ができないことに不満を持っているとばかり思い込んでいたのだが。
「そうなの? でも君くらいの歳だったら友達と一緒に遊び回ってみたいとか思わないの?」
しかしその言葉に返ってきたのは自嘲気味な手塚の微笑だった。
そして、
「友達は、別に欲しいと思いません」と呟くように答えた手塚は少し不機嫌そうに口元を歪めている。
そんな彼を見て軽率なことを言ってしまっただろうかと思った乾だったが、不思議と「まずいな」といった気持ちにはならなかった。
それよりもここに来てからの数日間、自分に対して全くの無表情でいた手塚がこの短い時間でここまで表情を変えるようになってくれたことが嬉しかった。

「今日は満月なの、知ってますか?」
ふいに手塚は乾の方に顔を上げて、それまでよりも少しだけ明るい声音で聞いてきた。
その瞳はまるで何かを期待するかのような光を宿している。
「あ? ああ、そうだね」
突然のことで少々戸惑った乾だが、自分を見つめてくる手塚の表情が再び歳相応の少年のものに戻ったことにほっとして、無邪気ともいえるその瞳を初めて真っ直ぐに見返してみた。
そうしたことで手塚の口元が僅かに綻んだような気がした。

「今夜、12時になったら部屋のテラスに出てくれませんか?」

『いいけど、どうして?』という問いに手塚は何も答えず、再び乾への質問攻めが始まった。

普段はどちらかといえばあまりお喋りではない乾だったが、次々と質問されては答えないわけにはいかない。
それでも手塚と話をするのは大和や不二と話しているときと違ってとても気が楽だった。
やはりあの二人は自分より年上だということもあり、向かい合っていると多少の緊張感を感じてしまう。
数日前の夜、1階のテラスで大和と話をしたときとはまた違う充足感を乾は感じていた。

そのうち手塚はどこからかクッキーを持ってきて紅茶を飲みながらも話は続き、いつの間にか不二が食事の用意ができたと呼びに来る時間になっていた。
手塚の部屋のドアを開けた不二は二人が一緒にいることに一瞬意外そうな顔をしたものの、「早くおいで」といつもの笑みを浮かべた。

部屋を出るとき乾はもう一度今夜のことを聞いてみたが、手塚は僅かに笑うだけで何も教えてはくれなかった。

 

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(2003/10/11)
 


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