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■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...4
起きているような眠っているような、そんな微妙な感覚の中を漂っている乾の耳に小さなノックの音が聞こえてきた。
最初はぼんやりとした頭でそれを聞いていたが、やがて意識がはっきりとしてきて自分の部屋のドアをノックされているのだと理解して慌てて返事を返す。
喉が渇いていたらしく僅かに掠れた声と、額や首筋にじっとりとまとわりつく汗が乾を不快にさせた。
控えめに開かれたドアから顔を覗かせたのは不二だった。
「そろそろ食事にしよう?」
「あ、はい」
そう言うのと同時にベッドに預けていた身体を起こすと、腿の上あたりに開かれたままになっていた本がぱさりと音を立てて身体の横に落ちた。
あの写真を見つけてからしばらくの間はそれに目を奪われていたが、いつまで見ていたところで何が分かるでもないと、乾は元通りに図鑑のページにその写真を挟み込み別の本を読み始めた。
しかしそんなことをしても手塚そっくりな人物の姿が頭から離れることはなく、それに付随して大和や不二、そして手塚の関係がどのようなものなのかが気になってきて仕方がなかった。
本を読んでいるつもりでも、それはただ文字の羅列を目で追っているというだけで内容は全く頭に入ってこない。
そうしているうちに乾はうとうとし始め、数時間の間、覚醒と睡眠の狭間を漂っていた。
半分ずり落ちた眼鏡を掛け直すと、不二がさっきより大きくドアを開けて自分を待っていることに気付き急いでベッドから降りる。
「眠ってたみたいだね?」
ドアの側まで行くと乾よりも身長が低い不二は見上げるようにしてしっとりと汗が浮かんでいる顔を覗きこんできた。
「本を読んでいたらうとうとしてしまって……」
「よほど疲れていたんだね。よかったら食事はシャワーのあとにする? すごい汗だよ?」
そう言われて乾は自分の首筋を触ってみた。
指にぬるりとする感触が気持ち悪い。
「すいません。そうさせてもらいます」
実際に先ほどからまとわりつく汗に不快感を感じていた乾には、不二のこの言葉は有難かった。
「食堂の場所は分かるよね? 別に急がなくても大丈夫だから」
相変わらずの穏やかな笑みを浮かべながらそれだけ言うと不二は静かにドアを閉めた。
軽く汗を流してから食堂に向かうと、大和と不二は既に食事を始めていた。
手塚は今夜も顔を出していないらしい。
乾が昨日と同じ席に座るとそれを見計らって不二がグラスに水を注いでくれる。
「随分と歩きずらそうですけど、また痛み出したんですか?」
え? という顔で乾は大和の方を見た。
「いえ、昼間よりも歩き方がぎこちないような気がしたので」
そう言いながら心配そうな顔つきで自分のことを見つめてくる大和の視線に耐え切れず、乾は少しだけ視線を逸らせた。
「あの……、シャワーを浴びたので、それで包帯を取ってしまったら少し歩きづらくて」
大和に限らず、不二にしても手塚にしても、真っ直ぐに相手の瞳に視線を送ってくる。
そういった視線のやりとりに慣れていない乾は、見つめられれば自分から視線を逸らしてしまう以外にその場をやりすごす手段は思いつかなかった。
それにしても大和の問いに乾は驚いた。
食堂のドアを開けてから椅子に座るまで、それほど長い距離があるわけではない。
歩数にしても10歩はないだろう。
昼間だって彼の前で歩いたのはほんの少しの間だけだ。
何より、確かに包帯がなくなり足首の固定感がなくなったことは多少歩きづらい感覚を乾にもたらしたが、それでも本人にしては大して昼間と差もなく歩いているつもりだった。
そんな僅かな変化を見つけてしまう大和の注意力に乾は敬服していた。
その日の食事は周辺の町の様子などを話す中で進められた。
大和と不二の話で分かったことは、週に一度、町の小さなスーパーの人が食材を届けてくれること。
その他で必要になったものは個人個人でパソコンから注文依頼をしているらしい。
つまり彼らがこの屋敷の敷地内から出ることは、ほとんどないということだった。
自分から外に出なくても必要なものは全て揃うし、とくに不自由を感じることもないと大和も不二も言っているが、それこそ引退した老夫婦でもないのにそんな生活をしているのがやはり乾には不思議だった。
そのうち話は流れて乾の大学の話になった。
彼らの学生の頃の話題を出すには不自然な流れではないだろうと思った乾は、先ほどから聞いてみたかったことを口に出してみる。
「大和さんと不二さんは学生時代からの知り合いなんですか? 確かこの前は先輩だと仰ってましたけど」
「そうだよ。中学で同じ部活だったんだ」
「え?」
同じ部活、という言葉に乾は呆気に取られたように大和と不二の様子を交互に見る。
―― 中学で同じ部活、ということは……。
「あの……、不二さんって今おいくつなんですか?」
「僕? 34だけど?」
その答えに乾は言葉を失った。
目の前の不二はどう見ても自分より僅かに年上の、多めに見ても25・6歳だろうと思っていたのだ。
驚いている乾を見て大和が抑えたような声で笑っている。
「不二君は僕の2年後輩なんですよ。まあ、誰が見ても30前に見えるでしょうけどね」
「はあ……」
乾は唇を半分開いたまま、くく……と小さく笑う大和に視線を移す。
大和と不二が2歳違い、というのがどうも信じられない。
あの写真が脳裏に蘇ってきた。
大和と不二と、そして手塚によく似たもう一人。
別に隠す必要もないのだろうが、なぜかあんなところにひっそりと挟まれていた写真のことは口に出せないような気がした。
「なんか、懐かしいですね」
そう言って大和はにっこりとしながら不二の方を見た。
大和のそんな言い方に、乾は何か思い出話でも始まらないかと期待した。
話の端にでも彼のことが聞けるかもしれないと思いながら。
しかしそんな期待はあっさりと裏切られた。
「乾君、学生時代って楽しいでしょ?」
「え?」
突然大和が自分の方に話を振ってきたことに一瞬戸惑い、答を考える前に反射的に「ええ」と曖昧な返事をしてしまった。
「楽しかった頃の本当の輝きを知るのは、いつも後になってからなんですよ」
大和の声は今まで聞いていたものと同じ穏やかなものだったが、伏せられた瞳は何も見ている様子はなく、いつも口角の上がっていた唇は今に限って不満を訴えるように下がっていた。
「大和さん……?」
訝しげに乾は俯き加減の大和の表情を覗き込もうとした。
なぜだかその言葉に続きがあるような気がして、それをどうしても聞きたいと思った。
「あの、大和さ……」
カシャン……
「あ……っ」
何かがぶつかるような透き通った音と不二の短い声がほぼ同時に聞こえてきた。
乾が驚いて隣を見ると、不二のグラスが皿の上に倒れて周囲には水がこぼれている。
その水がテーブルの上を伝って乾の皿の方に徐々に伸びてきていた。
「ごめん」
不二が慌てて手近にあったナプキンを手にして椅子から立ち上がった。
事態が呑みこめた乾はハっとして大和の方を見てみる。
彼は既にいつもの彼に戻っているようで、不二が苦笑しながらテーブルの上を拭いているのをやれやれ……といった表情で眺めていた。
「乾君、水かからなかった?」
一通りこぼれた水をふき取って席に着いた不二が乾の服を心配げに見ている。
「え、あ……、はい。大丈夫です」
「そう、よかった」
そう言ってにこりと微笑む不二に、乾は明らかに作為的なものを感じた。
あまりにタイミングが良すぎるような気がする。
大和の言葉に何か不都合なことが含まれていただろうか?
『楽しかった頃の本当の輝きを知るのは、いつも後になってから……』
言わんとしていることは理解できる。
月日が過ぎて昔を思い出すとき、少なからず人はそんな思いをするものなのだろう。
何事もなかったように町の話題を口にしている二人を見て、乾はまるで自分の心が消化不良を起こしているような、納得できない気持ちを抱えたまま食事を続けた。
夜になると真夏の時期でもこの辺りはかなりの涼しさを感じる。
僅かにそよいでくる風を受けながら、乾は自室のテラスの椅子に腰を下ろして満月に近づいている月が浮かんでいる夜空を見上げていた。
芝生の庭の隅にはいくつかの弱い照明が点けられていて、それ以外の人工的な光が見えない夜は異様なほどの星の輝きを見ることができる。
都会のぼんやりとした夜空に慣れてしまった乾にとって、それは言葉にならない感動だった。
ちらちらと瞬く星を見ているだけで全く退屈しない。
そうして星の明かりを受けて半ば恍惚とした気持ちになっていたところにノックの音が聞こえてきた。
その控えめなノックの仕方で不二だと分かる。
そして今までと同じように顔だけをちょこんと覗かせて「入ってもいい?」とにこやかな笑みを見せる。
乾は名残惜しそうに星空を一瞥して部屋に入った。
二言三言、言葉を交わしながら不二は持っていた二つの箱をベッドの足元に置いた。
一つは既に見慣れた木製の薬箱。
もう一つは少し小振りの、やはり木製の箱だった。
その小振りの箱から取り出したのは、乾が昨夜サイドテーブルの上に見た置物。
「それは?」
「オイルポット」
「オイル?」
「そう、アロマオイル。ねえ、どの香りが一番好き?」
乾が少し戸惑っているのも構わずに不二は箱の中からいくつかの小さな茶色い瓶を取り出した。
それらをサイドテーブルに置き、蓋を開けて一つずつ乾に渡していく。
乾も渡されるままにそれを受け取って少しだけ鼻に近づけてその香りを嗅いでみる。
それぞれに甘かったりフルーツのようだったり、どれもいい香りのように感じてどれが一番というのも選べないような気がしていた。
それでも幾つかの中から一番すんなりと自分の中に入ってきたものを選んで不二に渡した。
「これ?」
「はい。これは……?」
「カモミール・ローマン。落ち着ける香りだよ」
そうして不二はオイルポットの上皿に水を入れ、それに乾の選んだオイルを数滴垂らして蝋燭に火をつけた。
「じゃあ、シャツとズボン、脱いで」
「は?」
乾は自分でも間抜けな声を出したと思ったほどだから、不二にしてもそれは可笑しなものだったに違いない。
くすりと笑いながら、
「マッサージするんだから、服を脱いでもらわないとね」
と面白そうに言った。
「え、あ、……はい」
「もしかして、何か違うこと考えてた?」
「えっ、違うって、……そういうんじゃ……」
慌てる乾の様子は更に不二の笑いを誘っている。
「冗談、冗談。灯りを少し落とすから、別に恥ずかしくないでしょ?」
「はあ……」
それでもきょとんとしている乾をよそに、不二はサイドテーブルのライトをつけてから部屋の電気を消した。
明るかった室内がやや薄暗い、しかし優しいオレンジ色に変わる。
その中で不二はライトの側に箱から取り出した瓶を名前を確かめるようにかざしては、そこからいくつかを選んでオイルの調合を始めた。
その繊細そうな指が既に慣れているらしい作業を続けるのを見ながら、乾は着ているものを脱いでトランクスだけの姿になった。
「そしたらベッドにうつ伏せになってて?」
乾は言われるままにうつ伏せになって腕の上に顎を乗せ、そのままこの前のようにちらちらと揺れる蝋燭の炎をぼんやりと見つめていた。
人の手の温もりがこんなに気持ちいいものだということに乾は少なからず驚いていた。
女性と肌を重ねた経験もあったし、もちろんその度に相手の温もりを心地いいと感じてはいたものの、これほどまでに恍惚感のようなものを得たことなかった。
滑るオイルの感触と微かに漂ってくる香りも手伝っているのかもしれないと思い、乾はさらに上の感覚を求めたいとばかりに深くその香りを吸い込んでみる。
―― 夕食のときのこと、聞いてみようか……。
気持ちがリラックスしたせいかそんな考えが乾の頭をよぎったが、今はそんなお喋りをするよりも背中を滑る指の感触を楽しんでいたいと出かかった言葉を呑み込んだ。
「軽くシャワー浴びてきなよ」
タオルで手を拭いている不二にそう促されたが、ふわふわと心地良い気分に浸っていたかった乾はすぐに動くことができなかった。
「乾君? 大丈夫?」
まるでぐったりとしているような様子に心配になったのか、不二はベッドに横たわったままの乾の顔を覗きこんだ。
「ああ……、すいません。大丈夫です」
乾は薄っすらと目を開けると上半身を起こしながら上の空のように頼りなげな声で答えた。
「なんか、気持ちよくて……」
「ふふ……、シャワーを浴びてくるといいよ。それから包帯を代えてあげるから」
その言葉に乾は重たげに身体をベッドから下ろしてバスルームに向かった。
シャワーを浴びて部屋に戻ると不二はテーブルの上に紅茶の用意をしていた。
乾を見ると小さく微笑んで、
「先に湿布、しちゃおうか」
とテーブルを離れた。
昨日と同じようにベッドに伸ばされた足を腿の上に乗せてしなやかそうな指で包帯を巻いていく不二を乾はぼんやりと見つめていた。
時折、足の裏を指がかすめるくすぐったさに思わず眉を潜めて足を引きそうになる。
それが分かるのか不二は包帯を巻きながらクスっと小さく笑った。
「あの……」
「ん?」
乾の言葉に不二は顔を上げずに答えた。
「あの……さっき、グラスを倒したのは……、わざとですよね」
不二の反応を見たくて顔を覗き込もうとしたが、下を向いて目を伏せているその表情からは何も読みとれない。
「どうして、そう思うの?」
「なんか、タイミングがよかったから」
「よし……と。はい、できたよ」
乾の足をぽんと軽く叩いて、不二は顔を上げた。
「本当に偶然なんだけどなあ」
困ったように少しだけ眉根にしわを寄せているが、乾にはそれさえもわざとらしく見えてしまう。
食堂で不二がグラスを倒したのが故意だと感じたときから、乾の不二に対する目は変わった。
あのあと水がかからなかったかと聞いてきたときも、その後でにこりと笑ったときも、変わっているのは表情だけで彼の瞳は心配も微笑んでもいなかったような気がする。
「だったら、学生の頃のこと、聞いてもいいですか?」
「うん、いいよ。何か聞きたいことがあるの?」
「いえ……、別にこれといってないんですけど」
本当は写真の人物のことを聞きたかった。
しかし自分があの写真を見ていることは不二に知られたくないと、なんとなくそう思ってしまった。
それは自分の手の内を全て見せてしまうようなことなのだと。
「うーん、そうだなあ。別に普通の学生だったよ? 僕たちの行ってた学校は中学から大学までの一貫教育でね。いわゆるエスカレーター式で受験がない分、のんびりはしてたかな」
「じゃあ、大和さんとは中学から大学まで一緒だったんですか?」
「いや」
そこで一度話を止めて、不二はテーブルからさっき用意した紅茶のカップを持ってきた。
「はい」とベッドに足を伸ばしたままの乾にカップを渡し、自分も彼の足元に腰を下ろす。
そうして香りを楽しむようにゆっくりと紅茶を口に含んでから小さく溜め息をついた。
「大和先輩は高校3年のときにイギリスに行っちゃったんだ。家の都合だったらしいけど」
「でも、今こうして一緒に暮らしてるっていうことは、よほど仲が良かったんですね」
「うーん……、まあ、ね」
不二は少し俯いて、苦笑しているらしい。
「僕のフランス語もいいように使われてるよ」
「フランス語?」
「先輩は翻訳みたいなことをしていてね。たまにフランス語の翻訳が僕にまわされるんだ」
「そうなんですか……」
乾には大和という人物が少しずつ見えてきたような気がして、それが更に彼への興味を抱かせた。
学生時代のことを聞いて「彼」のことを少しでも知りたいと思っていたのだが、いつの間にか気持ちは大和の方に向いてしまっている。
「それにしても、大和さんはどうしてこんな森の中に?」
「うん……」
不二が言葉を濁してしばらく視線をずらしているのは何か話しづらいことなのだろうかと思いながら、乾は不二がカップを持つ手元を見つめていた。
何度見ても繊細な指だと思う。
「先輩はあんまり他人と関わりあいになりたくないんじゃないかな」
「人との付き合いが嫌い、ってことですか?」
「そんな感じかな?」
しかし乾はその理由には納得できないものを感じていた。
――『退屈していたんですよ』
そう言った大和の言葉を思い出す。
人と関わりあいたくないという人間がそんなことを言うだろうか。
もし本当に他人を煩わしいと思うのなら、乾がこの屋敷に来た時点で町に連絡を入れてタクシーでもなんでも呼ぶことができたはずだ。
それに彼の気遣いのよさも不二の言った理由を否定しているような気がした。
「不二さんは?」
「ん?」
「やっぱり他人と関わりたくないんですか?」
「ふふ……、そうだね。ここは気に入ってるよ。外に出て気を遣う必要がないからね」
不二はやんわりと笑みを浮かべてはいるものの、やはりその瞳は無表情だった。
不二が部屋を出ていってから後、乾はまたテラスに出て星空を眺めていた。
不二の意図が分からない。
自分が知りたいと思っていることを目の前でシャットアウトされているような、そんな気がしていた。
―― 気のせい、かな……?
自分によくしてくれる人を疑うことに気が咎め、やはり偶然なのだと思い込もうとしてみるけれど、その度に乾の脳裏に不二の瞳が浮かんでくる。
幾度めかの深い溜め息をついて、テラスからかろうじて見える棚上の時計を見てみた。
既に零時半を回っていて、見上げる夜空の星の位置もかなり変わっていた。
さっきと同じように星を見ていても全ての思考を停止させるような無心の状態になることができない。
ただ星明りを浴びていたいだけなのに、次から次へと脳裏に浮かんでくる光景や疑問に頭の中を支配されてしまう。
昼間眠りすぎたのか一向に眠気は訪れなかった。
書斎から持ってきた本はまだ部屋にあったがミステリーを読みたいような心境でもない。
それでも何か本を見たいと思うが、テラスから見える書斎の窓からはさきほどから灯りが洩れている。
誰かいるのだろうが本を選んでくるだけならいいだろうと、乾はテラスを後にしてドアに向かった。
控えめなノックに応えたのは大和の声だった。
乾は幾分ほっとしてドアノブに手をかける。
さっきまで話していた不二とまた会うのもなんとなく気が重かったし、手塚だったら話をしていない分、彼の冷たいともいえる表情に緊張してしまいそうだった。
ドアを開けると窓際の机についていた大和が半身をひねってこちらを向いていた。
おや? という顔をして、今度は身体全体を向けるように椅子に座り直す。
「すいません、ちょっと本を借りにきただけなので、すぐに出ます」
大和の邪魔をしたくないとでもいうように出来るだけ静かにドアを閉めると、乾は昼間持ち出した本をもとの棚に戻した。
大和の側の棚まで足を運び大判の植物図鑑を空いたスペースに収めようとしたとき、ふいにそれを手放したくない衝動に駆られた。
もう少しだけあの写真を手元に置いておきたい。
そう思ったのだ。
しかし戸惑ったのは一瞬で、乾の手は何の躊躇いもないようにその本を元のスペースに戻していた。
「足はまだにしても、森の中を歩き回った疲れは取れました?」
「はい。さっきも不二さんにマッサージしてもらいましたし。今も昼間寝すぎたせいで眠れなくなったみたいです」
「そうですか」
椅子の背もたれに肘を掛けるようにして乾の方に向いていた大和は、小さく笑うと僅かに呻くような声を出して伸びをした。
「はぁ……。眠れないようだったら少し話でもしませんか?」
「え……、でも仕事の途中なんじゃないですか?」
机の上に目をやると開かれたままの雑誌が数冊と細かい文字が書かれたノート、パソコンにはグラフや写真が入っている報告書のようなものが映し出されている。
不二の言っていた通り翻訳をしているらしく、その全てが欧文だった。
乾の視線に気付いた大和は「いいんですよ」と答えて机上の雑誌やノートを片付け始めた。
「急ぐものでもありませんしね。ああ、乾君さえよければの話ですけど」
どうです? というように上目遣いに見上げてくる大和は少しだけ悪戯っぽい表情をしているようだった。
「俺は、大丈夫です」
「そうですか、よかった。……とは言ってもここではねえ」
書斎には机と椅子が一対しかない。
この部屋は話をするには向いていなかった。
「下のテラスに行きましょうか。この時間なら外も涼しいし、風も気持ちいいですよ」
「はい」
「じゃあ、先に行ってて下さい。僕もここを片付けてからすぐに行きますから」
言われるままに乾は書斎を出て階段を降りた。
彼と二人で話せることに嬉しさを感じる。
ここに来た直後、夕食の前に話をしてはいたものの、あのときは乾にもゆとりがなかったし今ほど大和という人物に興味を持っていなかった。
嬉しさと僅かな緊張を胸にしたままテラスへの扉を開けると静かな風が頬を撫でていった。
乾は青白く照らし出される椅子に腰を下ろして、ぼんやりとオレンジ色の光を放っている芝生の小さな照明を見つめながら大和が来るのを待っていた。
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(2003/10/10)
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