■■ 僕が愛した君のすべて ■■
...1
 

鈍い痛みが右の足首を覆うようにまとわりつく。

額を流れる汗が目に沁みてきて何度もタオルで拭ってみるけれど、それはほとんど無駄な行為ですぐに新たな汗が流れてくる。
ずり落ちてくる眼鏡を押し上げるのも既にどれほど繰り返したか。

むせ返るような腐葉土の独特な臭い。
柔らかい地面は歩きづらく、時に足を取られ痛む足首に余計な負担がかかる。
聞こえてくる音といえば自分の荒い息遣いと落ちている葉や枝を踏む不規則な足音、そして時折掻き分けなければならない茂みの葉づれの音だけ。

「まいったな……」

乾は足を止めて空を見上げた。
生い茂る深緑の木々の隙間から見える午後5時の空は、僅かに濃い藍色をしてはいるものの白い雲が映えるほどには晴れ渡っている。
枝葉の影に小さな茶色い鳥がとまっていて、しきりに羽の裏側に頭を突っ込む動作を繰り返していた。
あの鳥なら空に羽ばたいて、すぐにでもこの森から抜けられるのに……。
二十数年生きてきて、今ほど本気で鳥が羨ましいと思ったことはなかった。

周囲を見渡しても目に入るものは原生林のような鬱蒼とした森で、いくら目をこらしたところで道らしいものを見つけることはできない。
携帯電話のアンテナを確かめてみても、方位磁石を振ってみても、それらは全くの役立たずでしかないことが確認できるだけだった。
しかもそれが分かっているのに、心細さや苛立ちから何度も同じことを繰り返してしまう。

―― このまま夜になってしまうかもしれない。
   まあ、冬でなくてよかったかな。

少なくとも夏なら森の中で野宿をしても凍死の可能性は低いだろう。
無理矢理にもプラス思考に考えてみるけれど、そんな小さな気持ちは現実の前にあっという間にかき消されてしまう。

 

僅かに残っていた獣道の跡が途絶えてから既に3時間近くは経っていた。

ふと前方にある赤茶色の幹をした大きな木が目に入った。
乾はそれに近寄ってじっとその幹を見つめる。

「なんてことだ……」

その木には見覚えがあった。
というより、確かにこの木を数時間前に見ている。
幹の表面にできているこぶしも全く同じだった。
たいして景色の変わらない森の中、乾は同じ場所を巡っていたらしいことに気付いて愕然とした。
一気に力が抜けてしまい、大きな溜息をついて赤茶けた幹の根元に腰を下ろす。
痛めた足首は相変わらず鈍い痛みを訴え続けてくる。
疲れ果てた乾は、そのまま身体を幹に凭せかけてゆっくりと目を閉じた。

 

ハッ、ハッ……。

耳の側に荒い息遣いと湿った生暖かいものを感じる。
その感覚にゾクリと鳥肌を立てながら、乾はゆっくりと重い目蓋を上げた。

―― ……?

一瞬、自分の置かれた状況を理解できずにいたが、目の前の木立や茂み、そして湿っぽい森の臭いに刺激されて次第に頭がハッキリとしてくる。

―― 迷ったんだっけ……。

そう思い出した途端、再び右耳に生暖かい刺激を受けて無意識にビクっと身体を震わせる。
反射的にその方向に身体を向けてみると、まず目に入ったのは黒い毛並み。
相手が獣だと悟り一瞬パニックに陥りそうになったが、そこにいたのは理知的な瞳を持ったシェパードだった。
乾が気付いたのを理解しているらしく、彼の顔を心配そうに覗きこむような仕草をしながらクゥン……と鼻にかかったような声を出している。
そのシェパードの表情は、森の中で心細い思いをしていた乾を癒すには充分なほどの魅力を持っていた。

「やあ」

乾は小さな声でそう言いながら、そっとシェパードの頭を撫でてやる。
それが余程気持ちいいのか、彼は目を細めて甘えるように喉を鳴らしながらその鼻先を乾の腕に擦りつけてきた。
頭を撫でていた手を背中に回して毛並みに沿って指を滑らせる。
飼い主がどれ程このシェパードを大事にしているのかが分かるような、見事に艶のある美しい毛並みだった。
ふと青い首輪の先に銀色のタグがついているのに気付いて、乾はそっとそれを手に取ってみる。

『HOLMES』

「ホームズ?」
タグに刻まれていた文字を声に出して読んでみると、シェパードの耳が僅かに反応するようにピクリと動いた。
「そっか、お前の名前はホームズか」
乾の呟きに答えるように、彼はクゥンと小さく鳴いた。

飼い犬がいるということは、近くに誰かいるかもしれない。
そう思った乾は疲れきった身体を無理矢理に立たせてみる。
途端に右足に痛みを感じた。
「……っ」
先ほどよりも鋭い痛みになっている。
それでもずっとここに座っているわけにはいかない。
眠り込んでいたのはそれほど長い時間だったわけではないようで、辺りはようやく薄暗くなってきたくらいだった。

「お前の飼い主はどこ?」
乾の言葉にホームズは首を傾げてじっと見返してきた。
「まさかお前まで迷子じゃないだろうな?」
ふっと笑いながら腰をかがめて彼の頭を強めに撫でてやる。
するとホームズは、まるで乾の求めるものを察しているかのようにゆっくりと歩き出した。
少し歩くと振り返って尻尾を振ってくる。
まるで「ついてこい」と言っているように。

「案内してくれるの?」

乾は半分は期待しながら、半分は諦めながら、それでもこの場所にじっと一人でいるよりはましだろうと思いホームズの後をついていった。

しばらく歩いて陽も落ちかけた頃、それまでずっと続いていた森が突然終わりを迎えた。
木立がなくなり、目の前には緑の芝生が広がっている。
その景色のあまりの違いに、乾は唖然として周囲の様子を窺った。

広い芝生の先には瀟洒な外観の建物が建っている。

―― こんな所に誰か住んでるのか?

森の中を数時間歩き回ったにも関わらず、家どころか小さな小屋ひとつ見かけなかったことを不思議に思いながらも乾は数歩足を前に進めた。
建物の1階には広いテラスのようなものが付属していて、そこには白いテーブルと2脚の椅子が備えられていた。
芝生の様子を見ても手入れはされているように思える。
やはり誰かが住んでいることは間違いないらしく、気の緩んだ乾の顔に安堵の色が広がった。
そんな乾の様子を見ると、ホームズは突然建物の方に向かって走り出した。
「あっ……」
呼び止めようにも既に彼はかなりの距離を乾から離れてしまい、そのまま建物を回りこんでその向こう側に姿を消してしまった。
一人残されてしまったが、少なくとも森の中から出ることはできたし人が住んでそうな家も見つけることができた。
ほっと一安心して大きな溜め息をつくと、乾は芝生の庭を横切ってホームズの走っていったのと同じ方向に向かってみた。

 

乾が足を引き摺りながら庭の中ほどまで来たところでテラスの扉が開く気配がした。

ビクっとしてテラスの方に顔を向けると、そこには大きな観音開きの扉に手を掛けてこちらを見ている長身の男が立っていた。

「あの……」
突然申し訳ありません、と言葉を続けようとしたところで、どこからか聞こえてきた犬の鳴き声に乾は言葉を止めてしまった。
男の背後からホームズが飛び出してくる。
そのまま乾に向かって真っ直ぐに走ってきて、目の前までくるとピタリと止まり嬉しそうに尻尾を振り始めた。

人懐こい彼に感謝をするようにぽんぽんとその頭を軽く撫でてやって、乾は再び男の方に視線を移した。
「すいません、森の中で道に迷ってしまって……。勝手に庭に入ってしまいました」
そう言いながら乾はテラスの方に足を進めた。
ホームズがその横に寄り添うようにピッタリとついてくる。

長身の男は乾がテラスの下にきたところで初めて口を開いた。
「足を怪我されているのですか?」
低い、しかし耳障りの良い落ち着いた声だった。
小さめの丸い眼鏡をかけていて、その奥の瞳は心配そうに乾の足元を見つめている。
「あ、はい。少し捻ってしまったみたいで……」
「大変でしたね。どうぞ入ってください」
そう言って扉の前から身体をどかして、そこから中に入るよう促した。
「ありがとうございます」
乾は小さくお辞儀をしてテラスへ上がるための短い階段を登ろうとしたが、右足を出した途端、身体のバランスを崩して手すりに縋る格好になってしまった。

「大丈夫ですか?」
少し慌てたらしい男が近寄ってきて乾に肩を貸す。
「すいません」
男の肩を借りつつも、できるだけ体重をかけないようにしながら乾は彼と一緒に階段を上がった。
乾も身長は高い方だが、それよりも男の方が僅かに高いようだ。
彼の表情を見てみたいと思ったが、こんなすぐ側でじろじろ見るのは失礼だろうと思い、乾は数歩先の木製の床を見つめながらゆっくりと足を運んだ。
そのまま先ほどから目に入っていた白い椅子に座らされ、乾はホっと一息ついた。
「背中の荷物を下ろしましょうか」
そう言いながら男は乾の背中のリュックに手をかけた。
「あ、すいません」
言われて初めて荷物のことに気付いて慌てて自分でリュックを下ろす。

「少し待っていてくださいね」
言い残して男は家の中に入っていった。
残された乾は椅子の背もたれに身体をあずけて目を閉じた。
足も余程疲れていたらしく、しばらくすると足全体がじんじんと疼くような感覚に包まれる。
その足元から甘えるような小さな鳴き声が聞こえてきて、乾はそこにちょこんと座っているホームズに手を伸ばした。
「助かったよ」
ホームズはまるで乾の言葉を理解しているように、嬉しそうに差し出された掌を舐め始めた。

 

「ホームズ、あまりはしゃがないでくださいね」
戻ってきた男の声にホームズは一声小さくクンと鳴くと、再び乾の足元に座り込んだ。
彼は手にしていた大きめの木箱を床に置くと、ホームズの背中をポンと叩いて「どきなさい」とホームズをどかすと代わりに自分がその位置にひざまずいた。
そうして乾の靴の紐を解き始める。
「あ、自分でやります」
慌てて乾は手を靴に添えようとしたが、
「あなたはじっとしていてください」
とやんわりと制されてしまった。
森の中を歩き回って大分汚れてしまっている運動靴を少し恥ずかしく思いながら、仕方なく乾は男のするがままに任せるしかなかった。
彼は自分の手が汚れるのも気にしない様子で紐を解いて靴と靴下を脱がせる。
そのまま乾の素足に手を添えて少しだけ捻ってみた。
「いっ……!」
途端に走る痛みに思わず乾の声が洩れる。
その足首は内側が少しだけ青く変色していた。
それから男は乾の足を自分の片膝に乗せて足首の周囲の感触を確かめるように、しかし痛みを与えないように優しく触れて他に痛む所はないかと聞いてきた。
指先やふくらはぎの方に触れられ、多少のくすぐったさを覚えるものの痛みを感じることはない。
「大丈夫みたいです」
彼の手の感触を僅かながら気持ちいいと感じてしまい、そのことに軽い羞恥を覚えた乾はそれを悟られないようにできるだけ声を抑えて答えた。

「よかった、軽く捻っているだけみたいですね」
そう言うと男は手元の木箱を開いてスプレーやら包帯やらを取り出し慣れた手つきで捻った足首の処置を始める。
乾は男の指が器用に自分の足に包帯を巻いていくのを黙って見つめていた。

あっという間に包帯を巻き終わると端をピンで留め、その出来に満足したように男は小さく頷いて「立てますか?」と乾を見上げてきた。
ぼーっと男の指先を見ていた乾は、声を掛けられハっとしたように男の顔を見返した。
丸い眼鏡の奥の瞳は優しげな色を浮かべている。
少し長い前髪がその眼鏡にかかっているのがなんとなく邪魔に思えた。
それがなければ、自分を見つめてくる黒い瞳をちゃんと見ることができるのに……。

男の薄い唇が僅かに笑ったように見えて、乾は我に返ったように自分の今の思考を手繰り寄せた。
自分は今、この瞳に見とれていた?
途端に恥ずかしい気持ちに襲われて、乾は視線を横に流して「すいません」と小さく呟いた。

「もう暗くなってきますね。中に入りましょう」
そして自分の膝から乾の足を下ろす。
「これじゃ靴は履けないでしょうから、こちらをどうぞ」
そう言って男は一緒に持ってきていたらしい大きめのサンダルを乾の足元に置いた。
「荷物と靴は置いたままでいいですよ。後で部屋に運ばせておきますから」
「え?」

―― 部屋に運ばせておくって……

「あの……」
乾の戸惑いに気付いたのか、男はクスリと小さく笑った。
「しばらくここにいるといいでしょう。どっちみち、車が来ないことにはここからは出られませんから。立てますか?」
肘をとって先ほどと同じように肩を貸して、男は乾を椅子から立たせた。
少し歩いてみたが、包帯でしっかりと固定されているせいか随分と楽に歩くことができる。

そのまま乾は男に促されるままにテラスを後にして家の中へと入っていった。

 

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(2003/10/7)

 


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