ベッドサイドに置かれた携帯が震えて緑色の光を明滅させ始めた。
マナーモードにしてあったため振動の音しか響いてこない。
ぎゅっと目を閉じていた菊池がそれに気づいて薄っすらと瞼を上げた。
「出ないのか?」
携帯にちらりと視線を向けた菊池の心を見透かしているように、角松は動きを止めて仄かな灯りに照らされている瞳を見つめた。
僅かに潤んでいる瞳はシェードランプの灯りをぽつりと映し出している。
それが閉じられたかと思うと、それまで角松の肩を掴んでいた手が首の後ろに回されてゆっくりと身体が引き寄せられる。
濃厚に唇を求めてくる菊池に応えながら、角松は既に静かになってしまった携帯に一瞥をくれて小さく笑った。
「帰らないのか?」
「んー……、泊まっていく」
うとうとし始めている角松の顔を、肘をついて覗き込みながらいつも同じことを聞いていた。
返事は分かっているのに、それでも聞いてしまう。
抱き合った後に一人残されるのは堪らなく嫌だった。
身体の興奮が冷めても、それでも心と肌が温もりを求めて痛み始める。
目の前の広く厚い胸に頬を乗せて聞くともなしに響いてくる鼓動を聞いていると、僅かに意識の残った無骨な手がゆっくりと菊池の髪を梳いてきた。
やがてそれが動きを止めて、肩を抱くような位置に落ちてくる。
耳に鼓動を、肩に手の温もりを感じて、ようやく胸の内を鈍く突いてくる痛みは治まるのだった。
* * * *
成績優秀で物静かな優等生。
中学の半ば頃には既にそんな印象が菊池に纏わりついていた。
『菊池らしくないぞ』
『菊池にしては珍しいな』
テストで簡単な問題をミスしたり、忘れ物をしたり、優秀で物静かな優等生らしからぬ結果を出すとそんなことを言われることが多かった。
言った者にしてみれば、それは菊池を心配してのことだったかもしれないし、単なる冗談程度の軽い気持ちだったかもしれない。
しかし菊池にとってそれは、本人でさえ気づかないうちに心身を縛り上げていく柔らかい鎖だった。
当然のように菊池は周囲の自分に対する期待に応えなければと思うようになり、しばらくするとそれは無意識の中に入り込んで菊池を動かすようになっていた。
菊池自身でさえ「それ」が自分の性格なのだと思い込んでしまうほどに。
期待に応える優等生でいることには何の苦痛も感じなかった。
勉強することは好きだったし、細かい校則も気にはならない。
何より、自分がどうあればいいのかを示されていることは菊池にとって楽なことだった。
それでも時々何かが胸をついてくることがあった。
どういう時、という何かがあるわけではないけれど無性に感情が昂ぶるのだ。
しかしそんな感情をどうすればいいのか分からない。
ただじっと耐えてその場をやりすごす以外に方法は思いつかなかった。
菊池が初めて女の子を抱いたのは高校2年が終わる頃のことだ。
卒業を間近に控えた先輩に付き合ってほしいと言われて、とくに好きということもなかったが嫌いではなかったのでOKした。
初めて手を繋いで、初めてキスをして、初めて抱きしめたとき、菊池はずっと探していたものを見つけたような気がした。
悩んだときや落ち込んだとき、そして訳の分からない感情に揺さぶられたときに何が必要なのか。
それは慰めの言葉でも笑顔でもない。
温もりだった。
ただじっと抱きしめて抱きしめられていれば、それだけで心につかえていたものがゆっくりと溶けるようになくなっていくのだ。
セックスの行為そのものよりも、菊池は静かに抱き合っているだけの方が好きだった。
腕の中に温もりがあればそれだけで充分だと思えるくらいに。
彼女の方もそんな菊池の態度をいいように解釈してくれたらしい。
いつまでも抱きしめててくれるのがすごく嬉しいと、そんなことを呟かれたことがあった。
遊びに行ったり食事をしたりセックスしたり、一緒にいるときは楽しい時間を過ごしていたがそんな関係も菊池の卒業を機に終わってしまった。
別に終わらそうとしたわけではなかった。
ただ菊池の選んだ進路では自由に時間を使えなくなってしまったため、どちらからともなくなし崩し的に会わなくなってしまったのだ。
慣れない日常の作業、常に時間に追われる日々。
プライバシーなどないに等しい生活の中ではさすがの菊池といえどもペースを掴むのに懸命にならざるをえなかった。
一緒に入学した仲間たちがぽつぽつといなくなる中で、菊池は本当に意味があるのかと疑いたくなるような習慣にも慣れていき、気が付けば友達と呼べる人間もできていた。
そうして、一度慣れてしまえば生活面に関しては楽になる一方かもしれないと思えるようになった頃、菊池の心にまた突き上げる何かが生まれ始めた。
周囲からの期待、羨望、嫉妬。
再び聞こえ始めた『菊池だから』『菊池にしては』という言葉。
厳しい生活に慣れてきたことは自分が成長した証なのだと思っていた菊池にとって、その同じことの繰り返しは少なからずショックだった。
自分は何も変わっていないのだろうか。
既に敷かれていたはずの人生のレールを外れてここに来たのは、自分で自分を確立したいと思ったからだ。
そうして確実に自分はその道を歩み始めていると感じていたのに。
心がきゅうきゅうと締め付けられることが多くなってくると、菊池は自分でも気づかないうちに周囲の人間、とくに人懐っこい尾栗に安息を求めるようになっていた。
調子のいい尾栗はいつも腕を組んできたり後ろから抱きついたりしてくる。
口ではふざけるなと言ってみせるものの、本当はそれがひどく嬉しかった。
自分からそういうことをするのは『菊池らしくない』。
だから決して自分を崩すことはできず、ときどき自分の身体に回される尾栗の腕に自分の手を添えるのが精一杯だった。
『雅行のそんな顔、初めて見たかも』
それは尾栗がじゃれついてきたときに言われた言葉だ。
何も意識していなかったからどんな顔をしていたのかは分からない。
ただ尾栗が嬉しそうに笑っていたから、きっと菊池もそれに近い表情をしていたのだろう。
尾栗が真剣な目をして菊池に腕を差し出してきたのは、それから少ししてからだった。
躊躇うことなくその腕を取り、菊池は久しぶりに人肌の温もりを味わった。
それは溜息が出るほどに深い温かさで、菊池の心にある痛いものや刺々しいものを緩やかに溶かしていくのだった。
一緒に3人で週末の下宿を借りている角松は二人のしていることを知っているようだったが特に詮索をしてくるということもなく、かといって妙に気を遣うということもない。
しかしそれが角松なりの気の遣い方なのだということは、二人とも既に心得ていることだった。
やがて学生時代も終わり3人はそれぞれの赴任先に散っていくことになった。
「雅行はさあ、遠距離恋愛ってしたことないだろ?」
「ああ」
「俺さ、一度失敗してるからすげぇ不安」
「何が?」
「だって雅行って妙に人に甘えたがるところがあるじゃん? 他のヤツともこういうことしちゃうんじゃないかと思うと、なんかやだ」
「それはないだろう」
「言いきれる?」
「ああ」
「ほんとに? 洋介でも?」
「なんでいきなり洋介が出てくるんだ?」
「だって、俺がこうなってるってことは洋介にもこうなる可能性があるってことだぞ」
「なんでそうなる?」
「なんでもそうなの。もしさ、洋介に迫られたらお前どうする?」
「…………」
「な? 考えちまうってことは可能性があるってこと」
「……仮にそうなったとしたら、お前はどうするんだ?」
「うーん、どうかなぁ。なんか、洋介だったら分かるような気がするから」
「何が?」
「いや、分かんねぇけど、なんとなく分かるかなって」
「よく分からないな」
「ま、とりあえず俺のこと気にしてろってこと。あとさ……」
「うん?」
「もしも、好きな女ができたら……さ。そうしたら、そっちに行って、いいから」
「女?」
「そう、好きな女。雅行も俺も、別に男じゃなきゃダメってわけじゃないだろう? だとしたら、女には敵わないだろうしさ」
「そうかな?」
「多分な。女相手だったらそっち優先にしろって話」
「男相手だったら?」
「…………だめ。男は俺だけ」
「洋介は?」
「………………できれば、俺だけ?」
「勝手なヤツ」
それから何度も海に出て、時には陸に繋ぎ止められて、尻を叩かれるようにあたふたと走り回っているうちに角松が同じ艦隊に着任してきた。
連絡は取りあっていたものの久しぶりに会う角松は一回り逞しくなったようで、陽に焼けた顔や首、節くれ立った指、何より自信に満ちた表情は角松がこれまでをどのように過ごしてきたのかを語るのに充分なものだった。
その夜、角松の胸に縋りついたのは菊池の方だった。
多少の酒が入ってはいたものの、そのせいばかりではない。
二人で学生の頃に通った店で飲んで、ふっと気持ちが緩んでしまったというのが一番近いかもしれない。
相手が角松以外だったらそんな気も起こらなかっただろう。
尾栗のことが頭を過ぎり胸の奥に後ろめたさが宿ったものの、それは角松との行為を止めさせるほどのものではなかった。
男とするのは初めてだという角松を導きながら、菊池は自分の中にこの状況を見つめるもう一人の自分がいるような気がしてならなかった。
息も詰まるような快感に喘ぎながらも、どこかが冷めていた。
やがて熱が引き、角松の胸にもたれるようにしてその鼓動を耳にする。
そうして目を閉じて規則正しい音を聞いているうちに菊池の心は安らぎ、もう一人の自分は消えていくのだった。
頻繁ではないものの、角松と会えばどちらからともなく身体を求めて抱き合っていた。
―― できれば、俺だけ?
目を閉じれば尾栗の無邪気な笑顔が浮かんでくることもある。
それでもこうして角松との関係を続けているということは、自分が彼らに求めているものはただの身体の関係だけなのだろうか。
よほど倫理感に欠けているのかと思いながらも、やはり心を包んでくれるその温もりを拒むことなどできはしないのだと菊池には分かっていた。
* * * *
角松にもたれたままで今にも眠りに落ちそうになっていた菊池は、携帯から聞こえてきた僅かな振動音にはっとしてサイドテーブルに首を傾げた。
尾栗からのメールに違いない。
確認しようかどうしようかと迷っていると、同じように振動音に気づいた角松が手を伸ばして携帯を取り上げた。
「康平からだろ?」
「ああ……、多分」
「いいのか? さっきの電話だってそうだろ?」
ほら、と渡された携帯だったが、菊池はそれを開くこともしないまま枕の側にぽんと置いた。
「べつにいつものことだ」
そう言って、角松の胸の定位置に頭を乗せて菊池は目を閉じた。
腰のあたりまで剥き出しになっている菊池の背中をゆっくりと角松の指が上下し始める。
「康平もそろそろ異動になるんじゃないか?」
「かもしれないな」
「こっちに来たらどうする?」
「どうするって?」
「俺達、もう会うのはやめるか?」
「…………」
「やめたくない?」
「俺は……、俺はこうしていられればいい」
「俺でも康平でも?」
「ああ」
「だったら二人とも近くにいないときはどうするんだ?」
「我慢する」
「我慢、か。子どもみたいだな。なあ、一つ聞いてもいいか」
「ん?」
「お前と康平って、本気なのか?」
「本気って?」
「だから、……恋愛感情ありなのか?」
「そういうんじゃない。女ができたらそっち優先だから」
「そっか」
「こういうの、おかしいかな」
「いいんじゃないか。雅行がそれでいいなら、俺はいいと思うけど」
「ありがとう」
「…………康平からだな」
「ああ」
「出たいんじゃないのか」
もしもし? ああ、すまない。ちょっと寝てた。
……っ。
いや、なんでもない。……ああ、……ああ。
来週? 分かった、久しぶりだな。
うん。
……会いたいな、早く。
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