「ああ、そうだ」
差し出されたコートと帽子を受け取りながら、何かを思い出したように草加が振り返った。
「明日の土曜は久しぶりに狩りにでも行かないか?」
「ほう、貴様から狩りに誘ってくるとは珍しいな」
少しからかうように方眉を上げた滝が草加の顔を覗き込んだ。
こいつが珍しいことを言うときは絶対に何か腹の奥に隠しているに決まっている。
それがいつも穏やかな笑みを浮かべている草加に対する滝の基準のひとつだった。
既に長い付き合いになるというのに、いまだにこの男の表情を読めないことがある。
迂闊に返事をして後々面倒になるのはごめんだった。
「なにを警戒している。せっかく解禁の季節になったんだ、行かない手はないだろう?」
「……そうだな。久しぶりに獲物を追うのもいい気晴らしになるかもしれん」
滝が視線を逸らせて小さく溜息をついた途端、草加が可笑しそうに小さく笑った。
「気晴らしとは面白い。貴様のどこに晴らしたい憂さがあるというのだ?」
「なに?」
「仕事は順調、領民との関係も良好。閣下の覚えもめでたくなったというのに、一体何の不満がある」
貴様が言うな、貴様が。
だいたいこの一ヶ月の貴様の仕事はなんだ。
顧客の持ち株をまるで賭け事すれすれのようなところで売り買いしておいて。
しかもどういうわけか、驚いた顧客からの問い合わせは全て私のところに来るんだぞ。
貴様の意図も分からぬままに説明をしなければならん私の身にもなってみろ。
結果が全ていいように出ているから助かってはいるが、一つ間違えれば大惨事だったんだぞ。
だいたい共同経営者でありながら何の説明もなしに大賭けしておいて事後承諾もなにもあったものではない。
そうやっていつも貴様は……。
思いきり吐き出したいのをぐっと堪えて、滝は目の前でにこにことしている草加を軽く睨みつけてやった。
と、同時に背後に軽い靴音が響いてくる。
先に視線を向けたのは草加で、その表情が更に嬉しそうに緩んだのを見て滝はその背後の人物が誰かを悟った。
「草加様、お忘れものでございます」
「おや、これは失礼した。ありがとう」
草加は一度はめた手袋を脱ぐと差し出された銀色のシガレットケースを受け取った。
「明日、狩りに行こうと話しをしていたところなのだが。菊池君も一緒にどうかな? 久しぶりに君の射撃の腕を見せてもらいたいと思うのだが」
―― 目的はそれかーっ!
滝は思わず眉根が寄ってしまいそうになるのを目頭を押さえる振りをして隠した。
「明日の土曜、でございますか?」
少し躊躇ったような口調とその後の沈黙に滝は顔を上げて菊池の方に振り返った。
眼鏡越しの、やや冷たい視線が滝をじっと見つめてくる。
「どうした?」
「明日は東の教会の修復状況確認を兼ねた視察が入っております」
「それは日曜だろう」
「日曜は祭に顔を出した後、農園協会の役員たちとの食事会です」
「なんだ、祭って。私はそんなこと聞いていないぞ?」
覚えがないと不思議そうな顔をしている滝の側で草加が小さく笑った。
「そういえば、この前酔った拍子にそんなことを言っていたな。祭に行って領民の生の声を聞きたいとかなんとか……」
「はい。草加様の仰る通りです」
「俺が? そんなこと言ったか?」
「はい。ですから司祭には予定を早めて視察を土曜にしてもらい、農園協会の役員たちには栄一郎様が祭に出席する旨を伝えておきました」
「おい、それは酔った上で言ったことなのだろう?」
「ですが領主たるもの、領地のことで一度口に出したことを酔った上での戯言と撤回してはいかがなものかと。あの場には他に複数の使用人がおりましたから、彼らも栄一郎様の言葉をしっかりと聞いておりますよ?」
菊池の静かな言葉には滝といえども口を挟む余地はない。
「残念だがいたしかたあるまい、滝。では狩りには菊池君と二人で行くことにしようかな」
そう言いながら草加は嬉しそうな笑みを菊池に向けた。
「どこに主を差し置いて執事を狩りに引っ張り出すやつがいるか、まったく」
「あはは、それもそうだな。これは失礼」
分かっているよ、とひらひら手を振って草加は再び手袋をはめた。
「では、邪魔したな。ゆっくり領民と語らってくれたまえ」
そうしてくすくす笑いながら、草加は軽く会釈を残して待たせていた馬車の方へと足を向けた。
「明日はゆっくりできるかと思っていたんだがなぁ」
ぼそりと呟きながら滝は残っていた僅かなスコッチを一気に煽った。
ベッドサイドに立つ菊池に空いたグラスを渡してから、クッション代わりに背中に当てていた枕に身体を押し付ける。
「急病だとかなんとか言って……」
「いい加減にしてください」
「分かっている」
冷たい視線に見下ろされて滝はわざとらしく大きな溜息をついた。
「貴族の義務だからな、ちゃんとこなしてやるさ」
「馬鹿な領主と陰口叩かれたくないのでしたら、例え屋敷内であってもそのようなことは口にされるべきではありませんね。私の執事としての能力まで疑われてしまいます」
「菊池……」
「来週の日曜日でしたら夕方まで空いておりますから、狩りをされたいのであれば用意させますが?」
「そうだな。どうしても行きたいというわけでもないがせっかく解禁になったんだし、どうだ、一緒に?」
「申し訳ございませんが私はシティのフォートハウスの様子を見に参りますので」
「ああ、抜きうちか」
「月末には大事なパーティーがありますから」
「パーティーだ、茶会だと、年々忙しくなるな。このままいったら私の休日はなくなるぞ」
「…………」
「睨むな。お前の前でしかこんなことは言わん」
「そうしていただけると有難いですね。では、他に何もなければ私は下がらせていただきますが」
「ああ」
「では、お休みなさいませ」
一分の隙もない姿が一礼して寝室のドアを閉めると、滝は一度大きく背筋を伸ばしてからベッドに潜り込んだ。
翌週の月曜日は朝から雨が降り続いていた。
陰気な一日を終えてシティから戻る列車の中、滝は昼間よりも更に強まった大粒の雨が窓を叩く様子をじっと見つめていた。
なんとなく陰鬱な気分になるのは雨のせいばかりではない。
毎朝、滝の乗った馬車を見送る菊池の姿が今朝は見られなかったこともその一つの原因だった。
昨日の日曜日。
常に持ち上げられっぱなしの疲れる食事会から帰ってみると、いつも出迎えるはずの菊池の姿がなかった。
理由を聞けば、フォートハウスでのパーティで使うために注文していた食器類が店の手違いのため数が揃わなくなってしまったという。
そのため新しい食器を手配するために、今度こそ間違いがないようにと菊池自身が出向いていったのだそうだ。
普段なら菊池は電話の指示だけで済ませたのだろうが、月末のパーティーは招待をしている顔ぶれが半端ではない。
どんな些細なミスも滝の地位に傷をつけてしまう可能性がある。
結局その日、菊池はシティからの最終列車に間に合わずフォートハウスに泊まるという連絡をよこしてきたのだった。
今日の始発で戻ると言っていた菊池だったが、しかし滝が雨の中を屋敷に戻ってみると筆頭で出迎えるはずのその姿は見られなかった。
「菊池はどうした」
幾分機嫌の悪い滝の声に、菊池の代理で出迎えた従僕頭は思わず首を竦めてしまい、それに代わって年季の入った女中頭が答えねばならなくなった。
「実は……、夕刻過ぎに竜驤が小屋から逃げ出してしまいまして」
「なに? 逃げ出したとはどういうことだ?」
怒気を含んだ声に従僕頭の首が更に縮まる。
そんな様子に女中頭が僅かに眉を顰めるが、彼にしてみればそれも無理のない反応だった。
従僕頭という地位を戴いてはいるものの、彼がいつも従っているのは執事の菊池だ。
こんなふうに直に滝と話をすることなど滅多にない。
この屋敷の中で主である滝と気後れもなく話をできる人間は菊池だけだった。
とにかく湿気を含んでいる服を着替えながら話を聞いていた滝だったが、従僕頭の手際の悪さに余計に苛立ちが募ってしまい、ついには「もう下がっていい」と彼を部屋から追い出してしまった。
菊池がいないだけでこうも着替えが鬱陶しいものになるのかと心の中で苦笑しながら、服を替えた滝は使用人たちが止めるのを振り切って、雨の中、屋敷を出て馬小屋に向かった。
重い木戸を開けてランプを点けると、確かに竜驤の馬房は空になっている。
さらにその隣、みらいの馬房も柵が外されており、あるべき葦毛馬の姿がなかった。
後から慌てて追いかけてきた馬丁に準備をさせて雨の中に幾分乗りなれた馬を引っ張り出す。
入れ違うようにやってきた使用人たちに自分とは反対の方を探すようにと指示を出し、滝は馬を駆って走り出した。
女中頭の話によれば、事の発端は最近屋敷にやってきた庭師見習いの青年だった。
雨脚が強くなってきたため屋敷付近の主要な用水路の様子を見て回っていたのだが、その途中で雷鳴を聞いた青年は一時しのぎにと馬小屋の中に避難をしたらしい。
だが中の馬たちは雷鳴と突然の侵入者に警戒し、かなり気を立ててしまった。
そこで青年は馬たちを落ち着かせようと、一番近くにいた竜驤の鼻先に手を伸ばしたのだ。
だが滝の愛馬である竜驤はかなり気難しい馬で、自分が認めた人間以外が近づくと入れ込んでしまう癖があった。
青年の行動は竜驤を落ち着かせるどころか逆にパニックを起こさせてしまったらしい。
雨の中、肩を抑えた青年が庭師の元に行き、庭師が従僕頭に伝え、従僕頭から菊池の耳に竜驤逃走の知らせがもたらされた。
それを聞いた菊池の行動は滝のそれと全く同じで、周囲が止めるのも聞かず馬小屋に向かい、みらいの手綱を取って駆け出して行ったということだった。
滝は暗闇に目が慣れたこともあり、僅かに見える草地の凹凸をうまく避けながら馬を進めた。
雨は小降りになっているものの、わりと近いところで雷鳴が轟いてくる。
暗くてもある程度の方向や地形の感覚を持っている滝は、絶対の確信があるというわけではなかったがある程度の見当をつけてある場所を目指していた。
息抜きをしたいとき、滝はいつも同じコースを通って竜驤を走らせている。
だから竜驤が逃げたと聞いたときも、咄嗟にその行き先が頭に浮かんできたのだ。
それなのに使用人を別の場所に向かわせたのは、万が一自分の考えが間違っていたときのためと、菊池と竜驤を真っ先に見つけるのは自分でありたいという妙な我侭からだった。
凹凸が複雑になってきたため、滝は馬の速度を緩めて慎重に手綱を取る。
しばらく行くと黒い茂みの向こうに僅かな明かりを反射している湖が見えてきた。
細かい雨が水面を叩き、無数の波紋を作り出している。
突然、稲妻が光り湖を煌かせたかと思うと、腹に響いてくる雷鳴とそれに混じって馬のいななく声が聞こえてきた。
僅かに頬を緩めた滝は逸る気持ちを抑えて手綱を握り直した。
大分弱まってきた雨の中、やがて黒いシルエットを見せているボートハウスの側までやってくる。
建物まではまだ少し離れてはいるものの、張り出している庇の下に白っぽい葦毛馬の姿が見えた。
さらにハウスに近づいて行くにつれ、その隣に黒鹿毛・竜驤がいるのも見て取れるようになった。
低く雷鳴が轟く中、竜驤はときどき首を大きく上下に振ったりしてはいるものの今はかなり落ち着いているようだ。
滝が近づくとその気配を感じたのか、一瞬動きを止めてじっと見つめてくる。
が、すぐに主だと判断したのだろう。
甘えるような声を出して首を緩やかに振って見せた。
ここまで乗ってきた馬から降りて手綱を近くの柵に結び、その行動を静かに見ていた竜驤とみらいの首を少し荒く撫でてやった。
それからハウスのドアを開ける。
中を見回すと暖炉の側、薄い絨毯が引かれている床の上に蹲る影が見えた。
「菊池?」
膝に埋めていた顔がゆっくりと上がり、仄かに白い表情を向けてくる。
「この馬鹿者が」
そう呟くと、滝は無言で自分を見上げてくる菊池の隣に腰を下ろし溜息をついた。
「お帰りなさい。こんなところで出迎えることになった失礼を詫びなければいけませんね……」
「まったくだ。今朝の見送りもないし帰ってからの着替えも他人任せにして」
「申し訳ございません」
「だが、竜驤の身を確保してくれたことで帳消しにしてやる」
「助かります」
くすりと小さく笑って菊池は背後の壁に身を預けた。
そのまま目を閉じてほっと息をつく。
「ほら、いつまでも濡れたままでいると風邪をひく。ちょうど雨が弱くなってきているし、今のうちに戻るぞ」
「昔のことを、思い出していました」
「ん?」
「あなたが家庭教師から逃げてここに隠れていたのを、私が見つけました……。あのときも雨がが降っていた」
「あぁ……。そうだったな」
「見つけてくださって、……ありがとう、ござい…ま……」
ふいに言葉が沈んだかと思うと、滝の右腕に菊池の身体が崩れてきた。
「お、おい!?」
突然のことに驚いた滝は慌てて菊池の肩を掴んで起き上がらせようとした。
が、菊池の身体は既に力を失っていてそのまま今度は反対の方に倒れこみそうになる。
「菊池!」
暗がりの中、その顔色までは分からないものの触れた菊池の頬は異様に熱を持っていた。
「おい、菊池!」
滝に軽く揺さぶられて、多少意識のあるらしい菊池は何かを言おうと唇を動かしているのだが、そこから漏れてくるのはただ熱っぽい吐息だけだった。
ドアを開けてテーブルの上にグラスと水差しの乗ったトレイを置くと、そのカチャリという音に菊池が薄っすらと瞼を上げた。
しばらくは焦点が合わないかのように視線を彷徨わせていたが、そのうち滝の気配に気づいてベッドに近づいてくる姿をじっと見つめてくる。
「何を、してるんです?」
やっと聞き取れるくらいの掠れた声だった。
「薬を持ってきてやったんだ。まったく大変だったんだぞ、意識のないお前を担いで馬2頭を連れて帰るのはな」
「竜驤とみらいは無事でしたか?」
「ああ、今朝なんか何事もなかったように飼葉の喰いがいいぞ」
「よかった……」
ほっと安堵したような菊池の表情に、滝はテーブルの水差しとグラスを持ってそれをサイドテーブルに置いた。
「馬のことより自分のことを心配しろ。あっちのハウスではほとんと徹夜だったそうじゃないか。そんな状態で始発列車で帰ってきて一日仕事したあげく雨に打たれるなぞ……」
言いながら滝はグラスに水を移して薬と一緒に菊池に差し出した。
「熱を出して当然だな」
「申し訳ありません」
菊池はゆっくりと上体を起こすと水が半分ほど入ったグラスを受け取った。
「しかしこう言ってはなんですが、これはあなたのするべきことではないでしょう。こんなことは他の者にやらせなさい。だいたい仕事はどうしたんです?」
「この部屋にきたのも久しぶりだな」
「私の話を聞いていますか? 仕事はどうしたんです?」
幾分、声の低くなった菊池に滝はベッドの端に腰を下ろして溜息をついた。
膝を組んで、じっと菊池を見つめてくる。
「体調がおもわしくないと言って休んだ」
「まったく……。トップの人間が嘘をついてどうします」
「誰の体調、とは言っておらん。お前の体調がおもわしくないのも事実だ」
「…………呆れた」
菊池はそれでも何か可笑しそうに小さく笑みを浮かべてから渡された薬を口にした。
僅かに眉を顰めてから一気に水を流し込むと、空になったグラスをサイドテーブルに置いてベッドから起き上がろうとした。
が、それを滝が怪訝そうな顔をして止める。
「病人は寝ていろ、ほら」
滝は幾分強引に菊池の肩を押してベッドに横たえさせた。
「しかし……」
「しかしもなにもない。言うことをきけ、休んでいろ」
そんな滝の命令口調には逆らえるはずもなく、抵抗しても無駄だと諦めたのか菊池は素直に従って身体をベッドに戻した。
「お前がこうして病床にいるなど久しぶりだな」
「そうですね」
「だいたい無理をしすぎなんだ、何でもかんでも一人でやろうとして。何のための従僕頭や女中頭だ?」
滝はサイドテーブルの水差しからグラスに水を注ぎ、それをあおって軽く溜息をついた。
「どちらの屋敷も最終的には私が責任を持って確認しなければなりませんから。それが私の仕事です」
軽く目を閉じて手本のように当然のことを言う菊池に滝の眉根が寄る。
しかし現在の滝の周辺事態を考えれば、菊池が奔走するのも無理はない。
屋敷の主が他界して息子である栄一郎が家督を継ぐことになったのは、滝が大学を卒業して滝家と縁のある銀行に金融の勉強を兼ねて頭取秘書をしていた頃だった。
その後、遠縁にあたる草加家と共同経営をしてきた証券会社の取締役をすることになったのだが、まだ若く経験の浅い滝に周囲の目は決して温かいものではなかった。
滝自身もそれは充分に理解していたから、草加に不器用だと言われながらも必死に同業者や領地の主要な地主たちと渡り合って自分の地位を固めようとしてきたのだ。
そうして5年の月日があっという間に流れ、ここにきてやっと滝の存在が周囲に認められてきたところだった。
経済界や政界の上層の人間にも滝栄一郎という個人を意識してもらえるようになった今、公私ともにここで何かミスをしてはこれまでの苦労が水の泡になりかねない。
優雅な表情の下に常に相手を追い落とそうとする悪意を隠す貴族の世界では、ほんの小さな失敗が取り返しのつかない事態に発展してしまうのだ。
今は世間に滝栄一郎が認められるか否かの瀬戸際にあるといってもいい。
私的な部分に関して菊池が神経過敏になって無理をしてしまうのも、それは仕方がないことだった。
もちろんそんなことは滝が誰よりも承知している。
しかし頭で理解するのと心が感じることは元来くい違うものだ。
涼しい顔をして、しかし常に滝のために奔走している菊池を見ているのはどこか心落ち着かないものがあった。
「心配は無用です。明日には仕事に戻りますから」
滝が黙って俯いているのをどう受け取ったのか、菊池は安心させるようにそう言った。
「なあ、菊池」
「はい?」
「お前は今の自分の状況をどう思っている?」
「どう、というのは?」
菊池は意図の分からない滝の問いに瞳を開けて見上げてきた。
「お前は知識にしても技術にしても、全てが私を上回るようにと教育されてきたのだろう?」
「はい……。それが先代の意思だったそうですから」
「つまりは私よりも優秀、ということだな?」
「それは……どうでしょう。知識や技術はあっても、それはあなたを補佐するためのものです」
やはり怪訝な表情のままの菊池は、数回瞬きをしてくすりと笑った。
僅かに細められたその瞳の中に宿った色は、滝の胸の奥に小さな嬉しさと痛みをもたらした。
このところ菊池のこんな穏やかな表情を見ていなかったことを思い出す。
こうしてゆっくりと話をするのも久しぶりだった。
「何がおかしい?」
「どうやらあなたの方が疲れているようです」
「そうか?」
「常に自信に溢れているあなたが、私よりも優秀だなんて言葉を……」
「私の質問に答えていないぞ。お前はこの家の執事という立場に満足しているのか?」
菊池の言葉を遮った滝の声音が少し曇っていた。
それを感じた菊池の顔から笑みが消える。
そうして数瞬の間、閉じられた瞳が再び開いたとき、そこに浮かんでいたはずの穏やかな色はなくなっていた。
「それが、私の仕事ですから」
その言葉に滝の口元が歪んだ。
「だったら、この家から解放してやると言ったら……お前はどうする?」
「何を……」
「お前ほど優秀で冷静な人間ならどこの会社だって欲しがるだろう。もちろん紹介状だって書いてやる」
「お断りします」
滝が思わず息を呑んだのは、菊池が間髪を空けずに返答したためだけではなかった。
自分を見上げるその瞳が、今までにないほどに鋭く見つめてくる。
その冷たさに、滝は大きな後悔を感じた。
「私にあなたの補佐として生きるよう示したのはこの屋敷の主たるあながたたです。それを今更何を考えたのかは知りませんが、解放などと偽善的な言葉を使ってほしくないものですね」
「菊池……」
「あなたはご自分のことだけを考えていなさい。今はそれが一番必要なことです」
それだけ言うと、菊池は後は何も語らないとでも言いたげに目を閉じて口を結んでしまった。
少なからずその言葉にショックを受けた滝は、しばらく菊池の無表情を眺めてから静かに腰を上げた。
「先代が亡くなられたときのこと」
滝はベッドから数歩離れたところで、再び菊池の声を耳にして足を止めた。
「……覚えていますか?」
その場に立ち止まり、滝は相変わらず目を閉じたままの菊池を見遣る。
「ああ。覚えている」
「あのとき、先代は私の父の手を取って一言おっしゃったそうです」
午後の日差しが和らいできた頃、医師と看護婦がベッドの足元に待機する中、当時の執事だった菊池の父がその枕元に膝をついていた。
その後ろに菊池、反対側の枕元には滝が立っていた。
全員が無言の中、先代が執事の耳元に何かしら囁いて目を閉じる。
それが最期の言葉となったのだ。
「感謝する、と」
それが父の最期の言葉だったのだと、滝は初めて知った。
「あなたは一体私の何を見ているのですか? 私にだってプライドはあります。執事の仕事を軽く見ないでほしいですね」
やや高圧的な声音に、滝はふっと小さな苦笑をもらした。
「私は、数年で手に入る満足など欲しくありませんから」
それきり、今度こそ菊池の唇は閉じたきりになった。
ただ目を閉じているだけなのか、薬のせいで眠ってしまったのか定かではない。
それでも滝はじっとその表情を見つめ続けて、やがて軽い寝息が聞こえるようになった頃、静かに菊池の部屋を後にした。
乾いた音が辺りに響いたと同時に複数の雉が飛び立った。
獲物が逃げた後には斑のセッターが所在なげにうろうろしている。
「今日の最下位は決まりだな」
草加の声が楽しそうに笑っていた。
滝はそれを横目にちらりと見てふんと鼻を鳴らす。
「トップは菊池だ。お前が偉そうに言うな」
「あはは、確かに。相変わらず見事な腕だな」
「恐れ入ります」
二人の数歩後ろにいた菊池が軽く頭を下げた。
「そういえば先週末は大変だったらしいな。フォートハウスでトラブルの上、こっちでは馬が逃げ出したそうじゃないか」
「なぜ貴様がそんなことを知っている?」
最下位決定で自棄になっているのか、さくさくとわざとらしく草を踏みならしながら歩く滝が更に不機嫌そうな声で問い返した。
「なぁに、情報は武器だよ。しかしトラブルがあったおかげで菊池君が一緒に狩りに来られたんだ。まあ、感謝すべきかな」
「どういうことだ?」
「そうじゃないか。先週のうちにシティでトラブルがあったから今日やるはずだったハウスの点検をついでに済ませてしまったのだろう? でなければ彼は今頃あっちのハウスで苛々していたのではないかな」
な? と振り返った草加の悪戯そうな笑みに菊池は慣れた笑顔を送り返す。
「私と狩りに来ることを楽しみにしていてくれたのかな?」
「それは絶対にないな」
不機嫌な声も顕に滝はずんずんと先に進んでいく。
草加はそんな滝の背中を見てから、肩を竦めて菊池に振り返る。
「菊池、早く来い。陽が落ちる前にもう一度仕切り直すぞ」
「諦めの悪いやつだな。結果は同じに決まっているだろうに」
セッターに足にまとわりつかれながら歩く滝と、派手に溜息をついてみせた草加の後姿を追うように菊池が歩いていく。
ほんの少し力を弱めた日差しの中、ふいに振り返った滝に菊池は思わず頬を緩めた。
と、同時に滝が目を丸くして数度瞬きをする。
「どうした?」
突然立ち止まった滝を促すような口調とともに草加も数歩先で歩を止める。
「なんでもない」
そうして一度は草加と肩を並べて歩き出したものの、滝はほんの僅かだけ菊池の方に振り返り、微妙なほどの笑みを漂わせたのだった。