夜が明けたばかりのこの時間、周囲の景色は少し靄がかかっているように白っぽく見えている。
それはもしかしたら自分の頭が眠気に誘われてぼんやりしているせいかもしれないと、眼鏡を少し持ち上げて菊池は軽く目を擦った。
それでも感情だけは妙にはしゃいでいるところがあって、ときどき足をふらつかせながらも尾栗の腕を取ったり取られたりしながら、人気のない朝もやの道を自分たちの部屋に向かって歩いていた。
尾栗が実家から戻ってきたとき、既に菊池は部屋に納まっていつものように本を片手に寛いでいた。
それを尾栗が荷物を置くなり「行くぞー」と言いながら菊池を部屋から引きずり出し、それからずっとゲーセンだ、焼肉だ、カラオケだと一晩中ひっぱりまわしたのだ。
本当は居酒屋に入りたい尾栗だったが、冗談めかしてそれを言ったところ菊池に睨まれて断念。
代わりにファミレスに入って、さっき焼肉食ったばかりだろうに、という菊池の視線を受けながら嬉しそうにチョコレートパフェをつついたりしていた。
「あー、バス停」
いきなり尾栗が目の前のバス停を指差して、何を思ったのかいきなり走り寄って笑いながらコンコンと時刻表の書かれているプレートをノックするように叩いた。
「何してんだ?」
少ししてから追いついた菊池が不思議そうに小首を傾げる。
尾栗はそんな菊池を見て「えへへ」と笑ってバス停にコツンと頭を寄せた。
「昔さ、失恋してヤケになってバス停を一個ずつ次の所に移動させちゃうって悪戯して……」
「お前、そんなことしたのかっ!?」
「違うって、そういう悪戯しちゃうっていう漫画があったの」
「……漫画?」
「そう。バス停をズズって次のバス停まで引きずっていってさ、んで、そこにあったバス停をまた次のバス停まで引きずっていくの」
「…………」
「それをさ、一晩やってだな。夜が明けたところでおしまい。失恋したやつは最後に二つ並んだバス停の側で眠りこけちまうの」
「ひどく迷惑な話だな」
当然の答えをする菊池に、尾栗はまた嬉しそうな笑顔を見せる。
「でもさ、なんか俺、そういうのやってみたいなぁって」
言いながら尾栗は、よっ、と小さく掛け声をかけてバス停を持ち上げようとした。
さすがに本気ではないだろうが、いくらなんでも公共物に悪戯しているところを見られたら立場的に非常に不味いだろうと、菊池はぱしりと尾栗の後ろ頭を軽く叩いた。
「馬鹿やってないで帰るぞ、もう眠いよ」
「あー、俺も眠い〜。雅行ぃ、一緒に寝よ?」
一足先に歩き出した菊池を追いかけるようにしてきた尾栗が背中からがばりと抱きついてくる。
「あぁ、もう、暑苦しい!」
背中のものを振り払うように身体を揺らすものの、尾栗は相変わらず「へへ……」と笑って離れようとはしなかった。
後ろで鼻歌を歌っている尾栗を待たせて菊池が部屋のドアを開けた。
「ほら、開いたぞ」
「おう、サンキュ!」
菊池の肩をぽんぽんと叩いて中に入った尾栗は、そのまま靴を放るように脱ぎ捨てて上がろうとする。
「おい、靴」
「え、やっぱり駄目?」
「駄目」
言い切る菊池の前で尾栗は何やらぶつぶつと言いながら腰をかがめて靴を直す。
普段が厳しいせいか、特に尾栗はこの部屋にやってくると途端にだらしなくなってしまう。
2年目の夏に入って、いい加減にそのだらしない癖も直るかと思っていたのだが尾栗に関しては全くそんな気配はなかった。
尾栗に続き丁寧に靴を脱いで部屋に上がったと同時に、菊池は腕を引っ張られてバランスを崩す。
そうしてそれを受け止めるように、尾栗は菊池の身体を腕の中に納めてしまった。
「おい、ふざけるな」
そうは言うものの菊池は尾栗の腕を振り払うでもなく、ただじっとその場所に留まっている。
尾栗もその腕に少し力を込めた。
「ふざけてないよ?」
「離せ、シャワー浴びたい」
「シャワー? うーん、俺は別に気にしないけど」
それを聞いた菊池の身体に緊張が走る。
部屋に戻る途中で一緒に寝ようと言われたときも、必要以上にその言葉が耳についてしまった。
心の奥がそわそわと落ち着かなくなる。
「汗でべたついて気持ち悪いんだ」
そう言って僅かに身じろぎをすると、意外にも尾栗は素直に腕を離して「はいはい」とばかりに肩をすくめて見せた。
適温にした湯を頭から浴びながら、菊池はただじっと佇んでいた。
首や背中を流れていく湯が気持ち良い。
―― 気にしすぎか?
家から戻って尾栗と顔を合わせてからというもの、尾栗の言葉一言ひとこと、行動の一つひとつに意味を探ってしまう。
できるだけ意識をしないようにはしているつもりだが、もしかしたらそれがかえって自分の行動を不自然に見せているかもしれない。
本音を言ってしまえば、肌の温かさも触れられる快感も想像以上に気持ち良いものだった。
しかし素直にそれを認めようとすると、当然のようにブレーキをかける自分がいた。
尾栗は何も疑問を感じていないのだろうか。
無邪気そうな笑顔と行動を思い起こすと、そこには一点の曇りもないように思える。
どうしてあんな素直にキスをしてほしいとか触りたいとか言えるのか。
そう考えた瞬間、自分もそんな言葉を口にしたがっているのだということに気がついた。
言いたいのだ。
キスしたいと。
触れてほしいと。
どうかしているとは思う。
今まで軽く唇を合わせるだけのキスしかしたことがなかったから、きっとそれ以上のことを経験して、その行為自体に興奮しているだけなのかもしれない。
尾栗にしたって、きっと男ばかりの生活の中で鬱憤を晴らしたいという思いもあるのだろう。
そう考えるとなんとなく納得ができた。
自分たちはすぐに熱くなる身体を持て余しているだけなのだと、あれはそのための単なる排泄行為なのだと、そう思えば上手く収まるような気がした。
尾栗はまだ起きているだろうかと、菊池はシャワーを止めてじっと耳を済ませてみる。
しかし何かが動いているような気配は一向に伝わってこなかった。
ふざけて軽口を叩いていても、さすがに一晩中遊び歩いた後では眠気に勝てないかもしれない。
もちろん眠ってしまったならそれでもいい。
気持ちの半分はそれでほっと息をつける。
だが残りの半分はきっと満足できずに不満を訴えてくるのだろう。
風呂場から出て居間を覗く。
既に布団が2組敷かれていて、尾栗はその片方に大の字になっていた。
菊池はできるだけ音を出さないように自分のカラーボックスから新しいバスタオルを取り出す。
「んー……、出たぁ?」
ふいに背後から間の抜けた声が聞こえてきた。
「ああ」
「んじゃ、俺もいってこよ」
そう言いながら尾栗は身体を起こして一つ大きな伸びをした。
のろのろと風呂に向かう尾栗を見送りながら、菊池はバスタオルを被って濡れた髪を拭いていた。
シャワーのせいか幾分頭がすっきりしたような気がする。
テレビの横に置いてある小さなホワイトボードには
土曜まで学校で合宿
日曜には一度戻る予定
冷蔵庫に土産あるから食べとけ
と、きっちりとした角松の文字が並んでいた。
冷蔵庫から取り出したペットボトルの緑茶が冷たすぎて、それがゆっくりと喉を通り過ぎていくのが分かる。
閉められたままのカーテンの隙間から既に強くなり始めている陽射しが入り込んできて、布団の上に一筋の線を作り出していた。
部屋の中の温度も少し上がってきているようだった。
窓際に座り込んでぼーっと光の線を眺めていると、それまで聞こえていた派手なシャワーの音がぴたりと止む。
やがて菊池と同じようにバスタオルで髪を拭きながら尾栗が居間に入ってきた。
「すっげえ眠そうな顔」
からかうように笑いながら菊池の隣に腰を下ろして、その手にあったペットボトルを取り上げる。
「でも、さっきよりだいぶすっきりしたよ」
豪快に上下する尾栗の喉元を見つめながら菊池が呟く。
気が済むだけ緑茶を流し込んだ尾栗はペットボトルを横に置くと「そ?」と言いながらゆっくりと顔を近づけてきた。
胸から指先にまで電気が流れたようにぴりりと僅かな痛みが流れて鳩尾がきゅっと締め付けられる。
目を閉じると同時に唇が触れて、そしてすぐに離れていった。
少し顔を離して目を開けてみると尾栗が嬉しそうに笑っている。
それは悶々と考えていたものをさーっと洗い流してしまう、そして思わずつられて頬を緩めてしまうような笑顔だった。
その刹那、菊池の心がふっと軽くなる。
どんなに複雑に思われることでも、絡まった周囲の糸を解いていけばその中心にあるのは小さな一つの真実だ。
そして、疲れた身体は既に考えることを放棄したがっていた。
菊池はもう一度顔を近づけるとそっと唇を触れ合わせる。
シャワーを浴びたばかりの尾栗の唇はまだ少し湿っていて、それが心地よくて何度も何度もキスを繰り返した。
やがて尾栗が唇を離したかと思うとそのまま首筋あたりに顔を埋めてくる。
柔らかい部分に唇と吐息が当たってくすぐったかった。
―― こんなの、きっと普通じゃない。
耳や首に唇の愛撫を受けながら、菊池はじっと目を閉じて尾栗の背中に腕を回した。
肌の上を暖かい掌が彷徨い始めるのを感じて一瞬身体を緊張させたものの、ゆっくりと呼吸をしてそれを解す。
ものごとは単純なのだと、そう思えば全てを受け入れられそうな気がした。
「好きだ」
ぽつりと耳元で呟かれた言葉に菊池は目を見開いた。
すきだ。
それは違和感なく心に流れ込んできて、あっという間に全ての隙間を満たしてしまう。
今の気持ちを表すのに、ぴったりの言葉だった。
どちらからともなく身体を横たえる。
と、尾栗の側に置いてあったペットボトルが倒れて、中でぱしゃりと水の跳ねる音がした。
二人同時にそこに視線を向けて、それから互いに目を合わせる。
何が可笑しいのか分からないものの、なんとなく可笑しくて小さく笑ってしまった。
額をこつりと合わせてくすくす笑う。
ただ触れるだけのキスがひどく気持ち良くて嬉しくて、思いきり寝不足の頭と身体は宙に漂っているようにふわふわとしていた。
夢の中にいるのだと言われれば納得してしまいそうなほどに現実味がない。
触れ合っている部分の感覚だけが目を覚ましているようだった。
―― 何がいけないんだろう。こんなに気持ちがいいのに。
互いの唇があちこちに触れていくたびに身体の奥から悦びが湧き上がってくる。
もう何も考える必要はないだろう。
ものごとは全て単純な一つの真実から始まるのだから。
何度も何度も繰り返すキスの中で、菊池はゆっくりと高まってくる熱にその身体を浸していった。
(9.12.2005)
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