その唇にキスしたい
 

 

 ―― 絶対におかしい。

ここ数日の菊池の様子がいつもと違っているような気がして尾栗はどうにも落ち着かない。
ふざけてじゃれついたりすると妙に冷たくあしらわれる。
今までだって呆れたような溜息をつかれはしたものの、あんなふうに睨まれたりすることはなかった。
昨日などはかなりの力で突き飛ばされる始末だ。

 ―― やっぱ、あれだよなぁ……。

この前の日曜日、菊池が下宿で熱を出した夜。
自分の中に起こった衝動を抑えきれず、尾栗は菊池にキスをしようとした。
あのとき菊池は起きていた。
僅かに見開かれた目が脳裏に焼きついている。
結局、寸前で唇を止め額を合わせて熱を確かめるフリをしたが……。

 ―― 大の男がやんねぇよ、そんなこと!

自分で自分につっこんで溜息をついた。
変態と思われて嫌われたか、もう触られるのも嫌だと思われたか。

尾栗にしてもあれから菊池を見る目が変わっているのに気づいていた。
なんの気なしに視界に入る菊池の動作に心が揺れる。
耳元に持っていった指先の仕草や喋っている時の口元や目の動き。
今朝、角松に呼ばれて何気に振り返った菊池の表情などはやけに可愛かった。
そう、菊池は眉を顰めたり睨んだりしていなければとても端正な顔つきになる。
それが僅かに笑みを浮かべたり無防備に薄く唇を開いていたりすれば、女だけじゃなく男だって見とれてしまうだろう。
……と尾栗は思うのだが。

ここ数日は気がつけばこうやってぼんやりと菊池のことを考えている。

「ったく……」
尾栗は派手な音を出して椅子を押しやり立ち上がった。
そのままドアに向かおうとすると、
「あ、どっか行くの?」
と同じように机に向かっていた同室のヤツが声をかけてきた。
「んー、気晴らしに売店でも行ってこようかなぁーって」
「あ、じゃあさ、ついでにこれ佐伯に渡してきてくれる?」
差し出されたのはノートだ。
「おう」
気前良く答えてそれを受け取り部屋を出たものの、考えてみればその佐伯の部屋は……。

「雅行のとこじゃん」

気分を変えようとしているのにまた菊池のことが頭を過ぎってしまった。
しかし午前中に角松と菊池は外出したはずだから今はいないだろう。
それを少しホっとして少し残念に思いながら、ついでに一緒に出かけた角松に羨ましさを感じながら、尾栗は目的のドアの前で足を止めた。

 

 

ドアをノックすると「はい」という聞きなれた声が返事をしてくる。
あれ? と思いドアを開けると、部屋にいたのはやっぱり菊池だった。
「どうした?」
「どうしたって、お前こそ出かけたんじゃねぇの?」
「ああ、さっき帰ってきた」
「ふーん……」
「で?」
「あ? ああ、これ。佐伯に渡してくれって頼まれたから」
「……そうか」
菊池はノートを受け取るとそれを奥の机の上に丁寧に置いた。
しかし置いた位置が曲がっていたのか、ノートの下の方に指を添えるとちょいと直してまっすぐにする。
そんな様子を見ながら、ああいう几帳面で細かいところが雅行なんだよなぁ……などと思っていると机から離れた菊池と目が合った。
「あ……っと、じゃあな」
「ああ」
「それ、確かに渡したから」
「ああ、伝えておく」
「ん、……じゃな」
「ああ……、あの、康平っ」
「な、何?」
「あの……、課題、終わったのか?」
「あぁー、まあ、ぼちぼち」
「そうか。ちゃんと、やっとけよ」
「ああ、分かってるよ。……じゃ」
「うん」

何かしらすっきりしないものを心に残して尾栗はドアをぱたりと閉めた。
調子っぱずれとはまさにこのことか、といった気分になってくる。
誰もいない廊下で立ち止まり大きく溜息をつく。
なんとなく後ろを振り返って今出てきたばかりのドアを見つめた。

「性分じゃねぇ」
ちっ、と舌打ちして踵を返すと手荒くノックをして、
「雅行っ!」
とドアを開けた。
まだドアの近くにいた菊池が驚いたように振り返り、
「な……っ、どうした?」
転がり込んでくるような尾栗の様子に唖然とした表情をした。
「雅行」
尾栗の後ろでドアが派手な音を立てて閉まる。
「あのさっ、なんていうか……、俺、こうはっきりしないの苦手なんだよ」
真正面に菊池を捕らえてじっと見つめてくるその顔つきはひどく真剣で、きっと菊池も言いたいことは分かっているのだろう。
尾栗の視線を受け止めたかと思うと、困ったように少し俯いてしまった。

「なあ、雅行。その……、なんか言いたいことあるなら言わねぇ?」
「…………」
「なんかさ、ここんとこ俺に何か怒ってる?」
「怒ってはいないよ」
「そっか……。でも、なんかこう……」
「康平こそ、俺に何か言いたいんじゃないのか?」
「え? 俺?」
伏せられていた菊池の視線が上げられて尾栗に注がれる。
しかしそこにいつもの光はなく、どことなくおどおどしているようにさえ見えた。
「俺が、何?」
「何って、俺のこと睨んでるかと思うとボーっと見てたり、俺が話してるのに全然聞いてなかったりするし」
「それは……」
 ―― それはお前に目がいっちゃうからだよ。
なんてことが言えるはずもなく……。

「別に……、睨んでるつもりもねぇし、無視してるんでもねぇし」
「俺の気のせいか?」
「…………」
「…………」
お互いに視線を合わせることができず、そっぽを向いたまま無言で相手の出方を待っているような状況。
多くの学生が外出してしまっているせいだろう。
部屋の外から聞こえてくる音はなく、その静寂が余計にいたたまれなさを煽ってくる。

「間違ってたら、悪りぃんだけど……」
「ん?」
「この前、熱出したじゃん? そのときにさ……」
言いよどんでちらりと菊池の表情を見遣った。
眉根を僅かに顰め、ばつの悪そうな顔をしているのは尾栗の考えがぴたりと当たっているからだろう。
 ―― どうすっかなぁ……。
尾栗はぼりぼりと頭を掻きながら大きく溜息をつく。
そんな気配に菊池は顔を上げた。
「なんだ?」
「いや……」
「途中で話をやめるな」
「んー、だから……。おでこ、くっつけたこと怒ってんのかなぁって」
「…………」
「当たり?」
菊池の顔色を窺うような格好をして、尾栗は少しだけ上目遣いになる。
困ったような菊池の顔も、それはそれで可愛いよなあなどと思いながら。

「怒ってるんじゃないけど、普通やらないだろ」
「まあ、確かに」
「ああいうときにふざけるのはやめておけよ」
「別にふざけてなんかないよっ」
思わず口調が強くなってしまったことに尾栗本人が驚いた。
しかし、あのときのことを「ふざける」の一言で片付けられたくなかった。

「雅行ってさ、人に触られるの実は嫌いだった?」
「別にそういうことは……。好きでも嫌いでもないし生理的に嫌悪感を感じるってこともない」
「でも最近俺がくっついたりすると嫌そうな顔するじゃん」
「そんなつもりはないけど」
「ホント? 迷惑だったらはっきり言ってくれればさ……」
 ―― ああ、違う。俺こんなこと言いたいんじゃないのに。
本当はくっついてるのが楽しいんだよ、もっとじゃれつきたいんだよというのが尾栗の本音だ。
 ―― こういうのってこいつには分かんねぇだろうなぁ。
「気にしなくていい」
「は?」
「迷惑なんかじゃないから、お前が無理することもないよ」
「そうなの?」
「ああ」
「ホントに? そっちこそ無理してない?」
「してない」
そうして僅かな笑みを口元に浮かべる菊池に、尾栗はなんだか無性に抱きつきたい気分になってくる。
狭い布団の中で抱きしめていた温もりを思い出してしまう。
今すぐ、菊池にぎゅっと腕を回したかった。

「康平?」
「ん?」
「どうした? なんか……、ヘンな顔してるぞ」
 ―― 分かってるよ。柄にもなく胸の奥が切ない感じで仕方ないんだよ。

「ヤローばっかの中にいるとヘンになっちゃうのかもな」
「え? 何?」
小さく呟かれた言葉が聞き取れなかったのか、菊池が聞きなおそうとしたときにはもう尾栗の腕が菊池の身体を静かに捉えていた。
「康平?」
「ちょっと、ごめん」
菊池の首に両腕を回してその肩口に顔を埋めている尾栗の声は酷くくぐもってしまい自分の耳にもはっきりと聞こえてこない。
今にもふざけるなと突き飛ばされるかと思っていたが、意外に菊池はじっとしていた。
もしかして驚きすぎて動けないのかもしれない。

「俺んちさ、小さい頃から親と一緒にいる時間少なかったから、妹が小学生のときなんかけっこう俺にくっついてきててさ。
でも、そうすると俺までなんだか安心してきちゃって……。その癖が今も抜けないのかもしれない」
「……ん」
僅かに小さく菊池が頷いた。

 ―― ああ、俺って卑怯だ。こんな話されたらきっとこいつは冷たくあしらったりできなくなるよな。ごめん、雅行。

心の中で謝って、尾栗は回した腕に少し力を込めた。
そのまま突き飛ばされることもなく、しばらくすると気のせいかもしれないが薄いシャツ越しに菊池の体温が伝わってくるような気がした。
きっと困っているだろうなと思うものの、とても自分から離れることなどできない。
こうしてぴたりとくっついていると、呼吸に合わせて菊池の胸が上下するのがよく分かった。
耳の側にある唇から息が吐き出される気配まで分かってしまう。

「えっと……、康平?」
「分かってる、ごめん」
「いや……」
「やっぱ、ヤローの中にいるとヘンになるんだな」

抱きしめた感触や息遣いに意識が行っているうちに尾栗の身体が意識の外で反応しはじめていた。
その微妙な変化に菊池も気づいたらしい。
 ―― もう、最悪。
情けなくて仕方なかった。

「大丈夫か?」
 ―― だから、そう優しい声出すなっての。

「ごめん。しばらくこういうのご無沙汰だったから」
「あ、ああ……。男だから、……仕方ないだろ」

嘘だった。
確かに女の子とのエッチなんてご無沙汰だったが、それなりに一人での息抜きはしていた。
女の子ならまだしも、男相手でこんなふうになるはずはない。

菊池だから。

と、ふいに肩に何かが触れて、思わず尾栗は小さく肩を震わせた。
何かじゃない、すぐにそれが菊池の掌だと分かって尾栗の胸に不安と虚しさと羞恥が広がる。
このまま引き離されてしまうのかと思うと自分がますます情けなくなった。
しかし肩に置かれた菊池の掌には僅かに力が篭ったものの、尾栗の身体を引き離そうとはしなかった。
「少し落ち着け」
そうやって低く、諭すような声が耳元を掠めていく。
掌はまるで子どもを宥めるようにぽんぽんと幾度か尾栗の肩を軽く叩いた。

 ―― 雅行ぃ……。優しすぎ、反則。

「雅行、ごめん」
尾栗は肩口に埋めていた顔を離すと、一瞬菊池の顔を見つめて唇を合わせた。
目を閉じる直前に見たのは半分唇を開いたぽかんとした表情で、今はじっとその感触だけに全ての意識を集めていた。
ただ触れ合わせるだけの軽いキスで、きっとそれだって瞬間のことだったはずだ。
そうしてもう一度菊池の肩口に顔を埋めて、ほっと小さく息を吐いた。
鼓動が酷くどきどきしている。
鳥肌が立つようにぞくりとして鳩尾のあたりが締め付けられるように痛かった。
「ごめん」
ぽつりと謝ってみるものの、菊池には何の反応もない。
突き飛ばされるわけでもなく罵られるわけでもなく、ただじっと自分に抱きしめられているだけだった。
次の行動のきっかけがつかめずに、どうやってもどきどきが収められない尾栗は動くに動けなくなっていた。

「今のは……、ふざけたのか?」
しばらくの後、菊池が呟いた。
尾栗は無言で首をふる。
「じゃ、何?」
「……分かんね」
「…………」
「嘘、分かってる。そうしたかったから」
「どうして?」
「いや、どうしてって……」

菊池を見てるのが楽しくて嬉しくて、説教されるのだって顔ではむくれて見せても実はまんざらでもなくて、周囲から一目置かれている優等生にじゃれつけるくらい側にいられることに鼻が高くて。
抱きしめて眠ったときの温かさが忘れられなくて、熱の浮かんだ瞳が僅かに見開かれた表情がしょっちゅう頭を過ぎっていて。

「初めて下宿行ったとき、一緒に寝たじゃん? あれからなんか、……こんなふうにできたらいいなあ、なんて」
「康平って、そういう性癖だったのか?」
そんな言葉に尾栗は菊池の肩口でぶんぶんと首を振った。
「俺だってエッチするなら女の方がいいと思うけど、お前は……違う、のかな」
「そういう対象ってことか?」
「そういうっていうか、……あんまり深く考えてないかも」
「…………」
「ただ、こうしてられるのが嬉しいなって」
「…………」
「お前こそ、やじゃないの? なんか、じっとしてるじゃん」
「…………」
「雅行?」
「…………」
「なんか言えよ。俺ばっかしに喋らせるな」
「…………」
「やじゃ、ないの?」
「…………べつに」
尾栗ははっとして少し身体を離すと「え?」とニ、三度瞬きをして菊池を見つめた。
すると今度は菊池がその視線に耐えられないかのように顔を俯けてしまう。

「やじゃ、ないの?」
再度の問いかけに菊池は何か答えたらしいのだが僅かに唇が動いただけで言葉が聞き取れない。
「雅行?」
「一回で聞き分けろ」
あまりの早口と低い声だった。
俯いてそっぽを向いているせいで表情がよく見えない。
それでも菊池に突き飛ばされるようなことはないと分かった尾栗は、そっと両手を頬に添えると僅かに力をこめてその視線を自分に向けさせようとした。
しかし菊池は視線だけは合わせようとしない。
尾栗はゆっくりと菊池の額に自分の額をこつりと合わせた。
自然と鼻の頭もくっついてくる。

しばらくそのままでじっとしていると、菊池がぼそりと呟いた。
「熱はないぞ」
「黙ってろ」

そうして尾栗は何かを言いかけた唇を塞いだ。

胸の鼓動が痛いほど大きくなって、それが自分の耳にまで届いてくる。
感触を確かめるように何度も何度も触れ合わせた。

「ん……」
長いキスに苦しくなったのか、菊池が小さく呻いた。
唇を離した尾栗が顔を覗きこむ。
「慣れてないのか、こういうの?」
「ばっ……!」
「ああ、嘘、嘘。冗談です」
尾栗は慌てて菊池を抱き込んでその苦情を呑み込ませた。
しかし今度ばかりは菊池もそれをつっぱねて尾栗の腕から抜け出す。
「雅行ってば」
自分の机の方へ行きかけた菊池を尾栗は後ろからもう一度抱きとめた。
「ごめん、謝る」
「…………」
「雅行?」
「あんまり、調子に乗るなよ」
「うん」
「それから!」
「ん?」
「その……、当たってるの、なんとかしろっ!」
「あ? あ、はは……」
尾栗は少しばかり腰を引いてなんとか誤魔化そうとしたものの、熱を持ってしまったそれは隠しようがない。
「水でも浴びるか外走ってこいっ」
しかしそんな言葉に尾栗は嬉しそうに笑うと少し強引に菊池を振り向かせてもう一度軽く唇を触れさせた。
菊池は睨んでいるつもりなのだろうが、今一つその瞳には迫力が欠けている。

「いやじゃ、ないよな?」

改めて確認すると、菊池はふんと小さく鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。

 

 

「おかえりー」
「おー、高野ぉ! ありがとなあ、ほっんと感謝するよっ!」
「はぁ? うわっ、なっ、やめ……っ!」
ノートを託した高野は後ろから尾栗に抱きつかれて悲鳴を上げた。
「お前のおかげだよ。ほんとサンキューなぁ」
がしがしと頭を撫でられても訳が分からない。
「なんだよ?」
呆然とする彼を置いて尾栗は自分の机に突っ伏して、しばらく震えていたかと思うといきなり起き上がって笑い出した。

 

そんな尾栗の奇態が菊池の耳に届いたのはその日の夜で、原因を充分に把握している菊池は溜息をつくとともにほんの僅かに苦笑した。

 

(5.27.2005)
 

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栗菊6作目です。
ファンタジーばんざいっ!
書いてる私が一番楽しくて嬉しくて幸せでした……(笑)。