「雅行、その腕どうした?」
風呂から出たばかりでタオルを頭から被っている菊池が横を通り抜けようとした時、いつもと違うその腕の様子が角松の目に入ってきた。
ん? とその視線に気づいたのか、菊池は右腕を少し持ち上げながら「ああ、これ?」と少しばつの悪そうな表情を浮かべた。
「湿疹みたいなものかな。気にするな、すぐに治る」
「でも、随分と赤くなってる」
角松はそう言いながら菊池の手首を掴むと腕の内側を自分の方に晒させた。
手首から肘にかけての内側部分が赤くなり、所々にぽつぽつと更に赤い湿疹のようなものができている。
菊池は小さく溜息をつくと、
「ほら、こっちもだ」
と左腕を出して見せた。
「え、両方?」
驚いたように角松が差し出された左腕を凝視する。
と、そこに派手な音をさせて尾栗がドアを開けて入ってきた。
「ただい……まーって、……何してんの?」
上半身裸の菊池の腕を取っている角松。
しかも二人の距離がひどく近い様子に尾栗が不思議そうな顔をした。
「ああ、お帰り。見ろよ、この腕」
角松が少しだけ菊池の腕を尾栗の方へ向けてやる。
靴を脱ぎながら「何、何?」と部屋に上がった尾栗もその腕の様子を見た途端、
「えー! 何、これ!?」
と驚いた声を上げた。
「どうしたんだよ、雅行。うわっ、こっちもじゃん」
今度は尾栗が左手首を掴んで目を凝らす。
二人に手を取られた菊池は少し腕を動かして手を離すように促しながら「大丈夫だよ」と苦笑した。
「毎年のことだ。この時期になるといつもこうなる」
「「毎年?」」
声の揃った二人の様子が可笑しいのか、菊池は苦笑をそのままに隣の居間に入っていった。
角松と尾栗もなんとなくその後についていく。
「なんでそんなんなっちゃうの?」
尾栗が心配そうに腕を覗き込みながら聞いてきた。
「多分、紫外線。中学くらいからずっとこうなんだ、ちょうど薄着になる頃にね。ずっと隠れてた場所が紫外線に当たってかぶれるんじゃないかな」
「え、じゃあ去年もこんなだったの?」
「ああ」
去年の今頃といえば、みんな自分のことで一杯でとても他の学生のことなど気にしていられる状態ではなかった。
この三人にしてもお互いの顔は見知ってはいたものの、まともに話などしてはいなかっただろう。
「薬は?」
「医務官には診せたのか?」
眉を顰めながら角松と尾栗が聞いてくる。
「薬は何も。本当にすぐ治るから、わざわざ医務室なんか行かなくても大丈夫だ」
安心させるような穏やかな声で言うものの、それでも二人は納得できないように顔を見合わせてもう一度菊池の腕に視線を走らせた。
その夜、一旦は眠った尾栗だったが、何やらがさがさとする物音や小さな話し声に気がついて薄っすらを目を開けた。
それでもしばらくは意識がはっきりしないせいか身体を動かすことができない。
その間にも低い話し声は続き、次第に目が覚めてくる頃にはドアの開閉する音が聞こえてきた。
「ん……?」
尾栗がやっと半身を起こして部屋の様子を見てみる。
菊池の向こう、角松の布団が空っぽになっていた。
とすると、さっき出て行ったのは角松だろう。
ヤロウ、腹でも減ったのか? などと思ったとき、
「起こしちゃったな」
眠っていると思っていた菊池の掠れたような声が聞こえてきた。
「いや、別にいいよ。何、あいつどこ行ったの?」
「コンビニ」
「腹でも減ったって?」
「いや……、飲み物、買いに」
「え、冷蔵庫にあるのに?」
「アルカリ飲料……。それと、ひんやりシート」
「ひんやり……? って、え?」
その二つの意味するところを悟ったのか、尾栗が菊池の額にそっと手を当てた。
「熱?」
「ああ……」
酷いということはないが、掌に感じる熱は確かに普通よりも高い。
「大丈夫かよ? 薬……はないよな、コンビニじゃ」
「いや、解熱剤は俺が持ってるから」
「飲んだの?」
「洋介がヨーグルト買ってくるからって。それから飲む」
「そっか……」
いつから具合が悪かったんだとか何かできることはないかとか、いろいろ聞きたいと思ったもののじっと目を閉じている菊池に声をかけることはできなかった。
それでも何かせずにはいられない尾栗は、できるだけそっと布団を出ると隣のキッチンに行って冷凍庫から氷を出した。
それを洗面器に入れて水を張る。
―― タオル、タオル……。
風呂場からまだ使っていないフェイスタオルを持ってきて水に浸す。
それらを全て、できるだけ音をたてないようにこなすと冷たくなったタオルを手に居間に戻った。
起きているのか眠ってしまったのか分からない菊池の顔をじっと覗き込んでからそっとタオルを額に乗せてやる。
途端に菊池の眉根が動いてゆっくりと目を開けた。
「ごめん、少しでも冷やしておいた方がいいかと思って」
すまなそうな尾栗の声に菊池が僅かに笑みを見せた。
「ありがとう。気持ちいい……」
そうしてすぐに目を閉じてしまう。
「何か飲むか? 喉乾いてない?」
「ああ、そうだな……」
「待ってろ」
そう言うと尾栗は冷蔵庫にあった麦茶をコップに移して持ってきた。
その間に起き上がった菊池にそれを渡して、額から落ちてしまったタオルを拾ってやる。
額に当たっていた部分はもう暖かくなっていた。
「ありがとう」
尾栗にコップを返すと菊池は再び横になる。
それをキッチンに戻すついでに、もう一度タオルを冷たくして額に乗せてやった。
「康平」
「ん?」
「大丈夫だから、寝てろよ」
「ばーか、寝てなきゃいけないのはお前の方だろ。寝てろ」
「お前がじっと見てるから気になって眠れない」
「あ……」
尾栗はどうしようかと考えたものの、菊池に気を遣わせてはいけないだろうと仕方なく布団に入って横になった。
何もできない時間がひどくもどかしい。
―― 洋介、早く帰って来いよ。
ここからコンビニまでは多少の距離がある。
走ったとしてもまだ帰ってくるまでには少し時間がかかるだろう。
できるだけ気配を悟られないように隣を見ると、菊池は眠ってしまったのか掛け布団が規則正しく上下していた。
こんなふうに目を閉じている菊池は、いつも校内でクールな表情を保っている時よりよほど端正で目を引きつけられる。
先ほど飲んだ麦茶が唇に残っていて僅かに光を添えていた。
それをじっと見つめていると、ふいに菊池を抱いたまま眠っていたことを思い出した。
あのときは寝惚け半分だったのと菊池の体温が心地よかったこともあり、そのまま朝まで抱きしめた格好で眠ってしまったのだ。
その時、ふと菊池の口元が動いたかと思うと僅かに覗いた舌先が唇に残っていた水分を舐め取るような動きをした。
その些細な動作が驚くほど尾栗の心を捉えてしまった。
身体の奥がドキドキとして、鳩尾のあたりがキュっと痛む。
―― なん、だよ……。マジ?
落ち着こうと深呼吸をするものの、それが余計に焦りを与えてしまった。
どうしても抗えない何かに押されるように、尾栗はそっと手を伸ばして僅かに開かれた唇に触れようとした。
が、どうしてもあと少しの距離を縮められずに指先は止まってしまう。
触れたら起こしてしまいそうで怖かった。
―― 雅行。
声には出さずに心の中で呼んでみる。
「雅行」
耳鳴りがしそうなほど静かな部屋で、今度は小さく声に出してみた。
それが聞こえたのかそれとも偶然なのか、菊池の睫が揺れたかと思うと薄っすらと瞼が上がった。
焦点が合っていないかのような瞳が天井を見つめて、それから尾栗の方に視線を移してくる。
少し横を向いたせいか、額のタオルがはたりと落ちた。
どこを見ているのか分からない瞳は酷く艶かしい。
菊池はゆっくりと数回瞬きをして、何かを言おうとしたのか唇が僅かに動いた。
尾栗は肘で上体を支えるようにして菊池ににじり寄ると少しずつ顔を寄せていった。
鼻先が触れるか触れないかのところでふっと止める。
目の前に迫った菊池の目が少し見開かれたような気がした。
お互いの鼻が触れる。
尾栗は一旦目を閉じると、額をこつりと合わせて身体を引いた。
「こ……へい?」
「そうすぐには、熱、下がらないな」
尾栗はへへ……と軽く笑うと落ちたタオルを持って立ち上がった。
氷が小さくなってしまった水の中にタオルと自分の手をつけて、はぁっと大きな溜息をついた。
鼓動が痛いほどに大きく感じる。
キスをしたいと思った。
熱で熱くなっているかもしれない唇に自分の唇を触れさせたかった。
濡れたままの冷たい手を顔に当てる。
自分の頬も随分と熱いような気がした。
もう一度手を水に浸して顔に当てる。
そんなことをしていると窓の外に足音が聞こえて、すぐに開けられたドアから角松が入ってきた。
「康平?」
「おう、お疲れ」
「雅行は?」
「あ? ああ、寝てる……かな?」
角松は居間を覗いて「寝てるみたいだな」と小声で言うと、コンビニの袋からペットボトルやヨーグルトを出して冷蔵庫に入れ始めた。
「寝てるんならわざわざ起こすこともないか」
そう言いながらも角松は熱吸収シートの箱から一枚だけ中味を取り出した。
「あいつ、いつから具合悪かったんだ?」
「寝る直前くらいからダルそうだったな」
「え、そうか?」
「康平は先に寝てたから。湿疹が出てくると熱も出るかもって言ってた」
「ふーん……」
菊池の腕の湿疹を知ったのは同時だったのにと、なんとなく面白くなかった。
「朝まで起きないかな」
角松は手にしたシートを見つめる。
「でも、それは貼ってやった方がいいんじゃないか?」
「ああ」
角松は菊池の側に膝をつくとゆっくりと額にシートを乗せた。
冷たいタオルを乗せたときと同じように僅かに眉根が顰められたものの、今度は目を開けることもなく規則正しい呼吸が続いた。
「夜中に一人で目が覚めちゃったら辛いよな」
「少し様子を見てるか」
「ああ、俺が見てる。お前は買い物行ってくれたから、今度は俺の番ってね」
「すぐに寝てそうだな」
「へーきだよっ」
尾栗はわざと鼻の頭に皺を作って、いーっと顔をしかめて見せた。
窓際の壁に寄りかかって膝を抱えながら菊池の寝顔を見つめる。
しかしどんなにじっと見つめてもさっきのような衝動は湧いてこない。
―― なんだかなぁ。
膝の上に顎を乗せながら溜息をつくと、角松が何度目かの寝返りをうった。
あとはよろしく、と横になったものの、もしかしたら寝付けずにまだ起きているのかもしれない。
それでも、尾栗はこの役を角松に譲るつもりはなかった。
菊池が目を覚ましたのは明け方近くだった。
半分眠っていた尾栗がその気配に気づいて温くなってしまった額のシートを変えてやる。
アルカリ飲料のペットボトルを渡して「ヨーグルト、食う?」と聞くと、菊池はまだ寝起きでぼーっとしているのか子どものように無言でこくりと頷いた。
―― なんかこいつ、可愛いっ!?
まるで無防備ともいえるあどけない表情に、尾栗はまた昨夜と同じく鼓動が高鳴り始めるのを感じた。
と、視界の隅に角松の布団が少し動いたのを捉える。
―― 起きるなよ、絶対ぇに起きてくるなよ。
目の前の菊池を独り占めしたい尾栗は心の中でそう念じながら、それでもわざと無造作な態度で「ほら」とヨーグルトを手渡してやるのだった。
(5.20.2005)
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