上も下も、前も後ろも分からないくらいの深い闇というものが存在することを初めて知ったような気がした。
新月の夜、懐中電灯がなくてもここまで暗くはないだろう。
夜中に目を閉じたってこんなに暗いとは思えない。
天井も奈落もない闇。
闇なら静かであればいいのに、がんがんと何かを打ち鳴らすような嫌な雑音が頭の中に響き渡っていた
総員退艦の後、草加の言葉通り乗員たちは「陸上施設」に監視付きの入舎となった。
幹部士官は一人、もしくは二人の営舎を当てがわれ、それ以外の者は数十人単位でまとめられた。
空調のない室内は酷い暑さで、さすがの体力自慢の自衛官でも音を上げたくなる。
しかも何をするあてもなく何日もそんなところに放り込まれては苛立ちも募る一方だ。
午前と午後に一回ずつ、外に出ることを許されてはいるがそこには当然小銃を構えた監視隊員が目を光らせている。
最初のうちは怒りに任せた言葉を吐いていた者も、日が経つにつれ無口になり施設内には次第に怠惰な空気が漂うようになっていった。
厳しい規律や訓練に耐えられるよう教育はされていても、何もない虚無の時間に耐える術は誰も教えてくれなかった。
いつまで続くともしれない軟禁状態に乗員の心は疲れ果て、その表情からは生気さえ失せていく。
そんな頃を見計らって乗員たちの「個別面談」が始まった。
といっても海軍の中で彼らの本当の身上を知る者は限られている。
全ての乗員を呼び出して話を聞き終わるにはかなりの時間を要することとなった。
その間にも彼らの間にはさまざまな噂が飛び交う。
「面談」で聞かれた内容から、再び「みらい」を動かすためのクルーを選別しているんだとか、海軍軍人として割り当てるための準備だとか。
何もない水面に投げられた小さな小石が波紋を作っていくように、あちこちで根拠のない噂話が広がっていった。
幹部たちの「面談」を担当したのは滝と草加だった。
最初に作成された名簿の順に従って、桐野が案内された部屋には草加が待っていた。
強い日差しの差し込む窓の側に立ってのんびりとした風情で腕を組みながら外の景色を見ている。
案内してきた兵士が敬礼を残して部屋を出ると、そこで初めて桐野に気づいたように顔を向けてきた。
ここに草加がいることが偶然なのか、故意なのか。
ふと考えた桐野ではあったが、既にそんなことはどうでもいいと疲労の色濃く出た表情を俯けて小さく溜息を吐いた。
聞かれた内容は噂の通りで名前や生年月日、「みらい」における階級や職種についてだった。
もしかしたら個人によっては違う質問もされたのかもしれないが、桐野のされた質問はまるで履歴書を作るための形式的なものばかりで個人的感情に及ぶものは一切なかった。
20分ほどで「面談」は終わり、再び現れた兵士に促されて部屋を出ようとしたとき、桐野はふと振り返ってぽつりと呟いた。
「菊池三佐に会わせてほしい」
じっと見つめてくるその瞳には、今までで一番強い光が込められていた。
「わかった。監視付きになるが、それでもいいかな?」
その言葉に桐野の口元が僅かに綻ぶ。
小さく頷いて了承すると、その表情はまた生気のない疲れたそれに戻ってしまった。
翌日のそろそろ夕方になろうかという時刻に、草加の差し向けた兵士が桐野を連れ出した。
再び彼だけが呼ばれたことに同室の柏原は一瞬怪訝な顔を見せたが、すぐにごろりと横になって無関心を装った。
そのまま車に乗せられ、5分ほど走ったところにその建物はあった。
目立つように赤十字の旗が掲げられ、敷地内には身体のあちこちに薄汚れた包帯をした者や看護婦たちの姿が見られる。
さすがに小銃をつきつけられてはいなかったが、ぴたりと側に寄り添われたまま桐野はその建物の中に足を踏み込んだ。
いくつもベッドが並ぶ中をゆっくり歩き、車の中で聞いた場所へと向かう。
入り口に立ったときから目的の病床は分かっていたし目にも入っていた。
そこで半身を起こして本か何かに目を落としている人物の姿も。
だが進める足が異様に重く感じてなかなか近づけない。
近づけば近づくほど身体が重くなり吐き気にも似た悪寒に肌が粟立った。
それでも確実に病床への距離が詰まっていく。
あと数歩で傍らに辿りつくというところで、彼が目を上げた。
「桐野」
それ以上近づけなかった。
凍るような冷たい視線と罵倒の声を覚悟していた。
もしくはお前の顔など見たくもないと、一切相手にされないかもしれないと思っていた。
が、久しぶりに見たその表情に浮かんでいたのは笑みだった。
艦の中にあっては滅多に見ることのできなかった菊池の柔らかい表情に、しかし桐野はそこにある寂しげな色を読み取って息を詰めた。
「砲雷長……」
思わず呟いた言葉に桐野は自分で驚いた。
何を伝えたいのか、そもそも自分には何も弁解の余地などないことは充分に分かっている。
それでも菊池に一目でもいいから会いたかった。
その願いさえ叶えば、もう全てが終わってもいいとさえ思っていた。
それきり立ち尽くすだけの部下の姿に、菊池は膝の上に開いていた本を閉じて枕元に置くと、
「少し出よう」
と言ってベッドから足を下ろした。
菊池の回復ぶりがどの程度なのか分からない桐野は慌ててそれを制しようとしたが、当の本人は涼しい顔をしている。
近くを通りかかった看護婦が慌てて車椅子を用意させた。
夕方になっても昼間の熱気が冷めることはなく、むっとした独特の匂いが立ち込めている。
それまで桐野の側にぴたりと張り付いていた兵士は、もしかしたら草加に何か言われていたのかもしれない。
菊池と二人になった途端、数メートルの距離を保ってついてくるようになった。
ゆっくりと車椅子を押しながら、菊池に言われるままに建物の裏手の広い場所に移動する。
そこは洗濯物を干す場所になっているのだろう。
所々に竿が立てられロープが張られている。
適当な場所で足を止めて、しかし桐野には何も言うべき言葉がなかった。
風がざわざわと低い音を立てさせるのを聞きながら、二人はしばらく無言で揺れる草木を見つめていた。
「私は……」
桐野にとっては気まずい空気が流れていき、それに耐えられなくなって口を開く。
しかし、続く言葉はやはり出てこなかった。
「食事はきちんと取っているのか?」
「は?」
「随分とやつれたな」
「そう、ですか?」
思わず確かめるように自分の頬に手を当ててみる。
「他の者たちはどうしている?」
「私は柏原一尉と同じ部屋なので、彼以外の乗員に関しては何も……」
「そうか」
菊池は自分の足元を、桐野は菊池の襟足あたりに視線を落としながらぽつりぽつりと言葉を紡ぎだす。
艦にいたときは冷たいとも感じられた冷静で静かな菊池の声が、今は不思議と心に染み入って身体の奥を暖めてくれるようだった。
それが心地よくて、桐野は目を閉じてその声を頭の中にこだまさせようとする。
が、ふと思いなおした。
自分はこんなところで気を緩めてはいけないのだと。
そんな資格など既にないのだ。
今は菊池の回復している姿を見られただけで満足だった。
本当はそれさえ許されることではないと思っていたのだから。
もうこれで充分だと、自分に言い聞かせて病室に戻ろうと口を開きかけた桐野だったが、ほんの僅かの差で先に口を開いた菊池にそれを制されてしまった。
「私たちは、自衛官としても軍人としてもしてはならないことをしてしまったな」
その言葉に桐野は身体を固くしてぎゅっと車椅子の取っ手を握り締めた。
草加の「裏切り者」という言葉が脳裏に浮かんでくる。
それは昼夜を問わず自分を苦しめている言葉だった。
「……い……ます」
喉の奥から絞り出したような声だった。
「ん?」
「違います、砲雷長」
柏原には散々罵られた。
『馬鹿野郎!』
『何を考えてやがる』
『「みらい」は俺達の国だということを忘れたのか』
『砲雷長がそんなこと望んだと思ってるのか』
「違います。砲雷長がなさったことと自分のしたことは、……違います」
「いや、武力を使って艦を制圧したんだ。背後に誰がついていたかが問題じゃない。行為そのものが問題なんだ」
「…………」
違う、違う、違う!
桐野はきっと唇を噛んで心の中で何度も繰り返した。
が、それを言葉に乗せることができない。
菊池の声があまりに静かで穏やかだったから。
「草加は君に裏切り者と言ったそうだな」
「……はい」
菊池の口から出たその言葉は、草加の言葉以上に桐野の心を貫いた。
身体中が震えて逃げ出したくなる。
これ以上菊池の目に自分の姿を晒しているのが辛かった。
いっそ柏原と同じように罵ってくれた方がはるかに気が楽だと思った。
「己の信を曲げないこと。それを裏切りとは言わない」
「……砲雷長?」
「滝中佐が私に言った言葉だ」
「はい」
「海軍の連中が「みらい」に踏み込んだとき、君は何を考えていた?」
「それは……」
角松の手に「みらい」が握られそうになっていると思っていた。
艦長は俺だと言い残して一度は下艦した彼が再び戻ってきたとき、艦内の空気が一変したように感じた。
それでも菊池がいるうちはまだよかった。
迷いを持ちながらも乗員たちは菊池に従っていたのだから。
しかしそんな状況で菊池が艦を離れるとなったとき、桐野の背中に冷たいものが這うようになった。
奪われる。
いや、既に奪われかけている。
桐野にとって耐えがたかったのは、菊池の居場所がなくなることだった。
菊池のために艦を取り戻したかった。
菊池が戻ってきたときに、今まで通りの場所を確保しておかなければと思っていた。
何より、菊池と同じものを目指して行動したかった。
裏切り者と言われたとしても、それがその時の桐野の本当の思いだった。
だが、それを「己の信」と言えるのだろうか。
そんな思いを一気に吐き出したい衝動に駆られる。
だがそんなことをしてしまえば菊池を苦しめるだけだということは桐野が一番よく分かっていた。
菊池のために。
例えそれが本心だったとしても、今となっては責任転嫁となってしまうような気がした。
「桐野一尉」
「はい」
「私は、指揮官としてはまだまだだな」
「そんなことはありません!」
菊池の言いたいことがひしひしと伝わってくる。
自分のいない間に艦を奪われるなど、指揮官としては失格だ。
もう何を言っていいのか分からなくなっていた。
どんな言葉も菊池を傷つけてしまうのではないか。
そして見下ろす後姿は、全ての責任が自分にあるのだと言っているように思えた。
「戻りましょう。そろそろ日が落ちます」
それが、今の桐野に言える精一杯だった。
「そうだな」
小さくそう答えた菊池が、ふいに車椅子を方向転換させて見上げてきた。
その表情に桐野の胸が詰まる。
艦で指揮を執っていたときと同じ、強い瞳と意志を持った口元。
傷を負って病院で療養しているというのに、目の前の菊池は相変わらず凛とした光を持ってそこに存在していた。
「現実として、角松二佐の意志も私の意志も今は海軍の手に握られてしまっている」
「……はい」
「だがな、桐野一尉。「みらい」が陸に繋がれたまま朽ち果てるなど私には想像できないのだ」
桐野の脳裏に最後に見た「みらい」の姿が蘇る。
海軍に囲まれ燃料を抜かれ、本来のクルーが誰一人として乗艦していない自分達の艦。
自室も士官食堂も、そして菊池と共に立っていたCICでさえ海軍の靴に汚されてしまった。
こうしている今でさえ「みらい」は港に置き去りにされ、なす術もなくその船体を波に揺らしているのだ。
ふつふつと心の奥から怒りが込み上げてくる。
誰かへの怒りではない。
全ては自分に向けられたものだった。
「なんとしても艦は海に帰したい。今の私に何ができるか、何をするべきか、ずっとそれを考えていた」
眼鏡の奥の力強い瞳が桐野を捉えて離さなかった。
桐野はただ頷くことしかできない。
「次に「みらい」が出港するとき、そこに私がいるかどうかも分からない」
「そんなことは……っ」
「だが、もしも」
思わず高くなった桐野の言葉を菊池の静かな声が抑えた。
少しの間を置いて、再び言葉が続く。
「もしも私が乗艦しているのなら、いや、仮に私が乗艦していなかったとしてもだ。桐野一尉、君は「みらい」にいなければならない人間だ」
「砲雷長……?」
「君だけではない。「みらい」の乗員は全て、だ。もう誰も欠けるようなことがあってはならない。そうだろう?」
見上げてくる瞳に桐野は無言で頷いた。
菊池の表情が僅かに緩んだ気がする。
「誰も欠けてはいけないのであれば、砲雷長? 砲雷長も戻らなければいけないということです」
「そうだな」
気のせいではなく、明らかに菊池の口元が笑んでいた。
それにつられてつい桐野も頬を緩めそうになったが、すぐに現状を思い起こして表情を引き締めた。
自分を戒めるように小さく唇を噛んだ様子にそれを感じ取ったのだろう、菊池の顔もすぐに厳しいものになった。
しかしそれは桐野にとっては見慣れている「みらい」幹部としての菊池の表情だ。
『なんとしても艦は海に帰したい』
その言葉を胸の中で繰り返して、桐野はもう一度深く頷いた。
「戻ろうか」
「はい」
車椅子の後ろに回って取っ手を握る。
そのまま数歩行ったところで菊池が小さく呟いた。
「「みらい」が見たいな」
その言葉の深さに桐野の胸が痛み出す。
だがそこから目を逸らすことはできなかった。
「さあ、桐野一尉。両舷前進」
「は……?」
間の抜けた桐野の声に菊池が振り返って一瞬悪戯そうな笑みを見せた。
「聞こえなかったか? 両舷前進、半速だ」
「アイサー」
その一瞬の笑みを心に刻んで、桐野は車椅子を押した。
向かう先はまだ見えないが、それでも自分達はなんとか進んでいかなければならない。
「みらい」の出現がこの歴史を変えてしまったのなら、まだ「みらい」にはやるべきことが残されているはずだ。
今は闇の中で考えるしかできないかもしれない。
それでも……。
病棟に向かう二人の頬を撫でる風は、ほんの少しだけ涼しくなっていた。
(10.6.2005)
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