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「航海長」
作業途中の桃井一尉が顔を上げた。
その眉根は僅かに寄っていて、いつもの姐御然とした大らかで少し強気な表情には程遠い。
その手にタオルを持っているところを見ると雅行の身体を拭いてでもいたのだろうか。
「今は眠っています。どうぞ」
そう言われて俺は音を立てないように扉を閉めて、そうして足音もできるだけ立てないようにそっと雅行の横たわるベッドの方へ近づいていった。
「正直に申し上げて、やはり予断は許さない状況です。さっきまで意識はあったんですけど……」
「そうか」
見下ろす雅行は浅い呼吸を繰り返し、額や首には薄っすらと汗が滲んでいた。
青白い顔に色を失った唇は弱々しく生気を感じることができない。
―― お前、本当に雅行かよ……。
長い付き合いの中で、こんな彼を見たことはなかった。
学生時代は小さな怪我などしょっちゅうだった。
風邪をひいたといっては熱を出したりしたこともあった。
だがそれは「傷なんか舐めときゃ治る」程度のものだ。
任官してからだって、思い起こしてみれば病気と一番縁遠かったのは雅行だっただろう。
それは自分の身体をきっちりと管理できる意思の強さをこいつが持っていたからだ。
「この馬鹿が」
何やってんだよ。
仮にも武力で無理やり艦の指揮権を奪い取ったヤツが、こんなときにこんなことになって、全く何やってんだよ。
胸の奥から湧いてくるこの感情は何だ。
怒り、憤り、焦燥……。
どれを取っても嫌なものばかりだ。
こんなに胸を締め付けられるように痛いのに、目の前に横たわる雅行の姿だけが現実味を帯びていないのは何故だろう。
ふいに水の音がして、その方を見ると桃井一尉が手にしていたタオルを洗面器に浸したところだった。
そうして一旦水に浸したタオルを絞っている。
「それ、汗拭くの?」
「ええ。発熱も続いているので……」
「俺にやらせてくれない?」
「え、しかし……。航海長もお休みになった方が……」
「大丈夫、これでも航海長よ? 休むときにはちゃんと休むから、今だけ。ね?」
両手を合わせて上目遣いに桃井一尉にお願いのポーズをすると、その顔にふっと笑みが浮かんで溜息をついた。
「では少しだけですからね」
まったく仕方ないわね、といった見本のような表情を見せて俺に冷たいタオルを渡してくれる。
そんな彼女に俺も自然と笑みが浮かんだ。
若い曹士だけでなく、尉官や先任からも「みらい」の姐御と慕われるようになった包容力は伊達じゃない。
ほんの少しだけ、俺の心も軽くなったような気がした。
「少しでも容態が変化したら呼んでくださいね」
機器類のチェックをしてからそう言って、桃井一尉は医務室に通じている隣の部屋へと入っていった。
もしかして、気を遣ってくれた?
「眼鏡、ちょっと外すぞ」
一応断りを入れておく。
『眼鏡を外したがらないんだ』
洋介がそう言っていた。
医務室に運ばれて治療を受ける際も、僅かにあった意識の下で雅行は眼鏡を外したくないと言ったらしい。
それを聞いたとき、俺は遣りきれない気持ちになった。
眼鏡のなくなった雅行は余計に儚く見えた。
額にタオルを当てても何の反応も示さない。
綺麗好きで風呂好きの雅行だから、こんなに汗をかいているのにシャワーを使えないなんて気持ち悪くて嫌だよな。
できるだけ丁寧に、肌の出ているところ全てにタオルを当ててやった。
首や腕、手の甲や指先、それから裸足になっている爪先。
そういえば、こんなにじっくりとこいつの足の指を見るのって久しぶりじゃね?
『くすぐったいって』
雅行の少し甘えた声が聞こえたような気がした。
肌を合わせるようになって、初めて足の指を舐めてやったときにそんなことを言っていた。
『それって感じてるんじゃないの?』
『違うよ、くすぐったいっていうか……、ヘンな感じ』
『そのうち感じるようになったりして?』
『なるか、こんなところ』
タオルを絞り直して足の甲やつま先を拭いていると、自然とそんなことを思い出した。
一つずつ指を拭いて、全て終わってからその爪先に唇を寄せた。
『くすぐったいって』
また声が響いてくる。
しかし、くすぐったさに耐えかねた雅行が足を引っ込めることはなかった。
タオルを洗面器に戻して眼鏡をかけ直してやる。
「これでいいか?」
目が覚めたとき、こんな状態で視界がはっきりしてないのが不安だったんだろう?
な、雅行?
眼鏡が少し曲がっているような気がしてもう一度位置を調節した。
こうして雅行の顔を覗き込んでいても、視界の端には血の滲んだ白い包帯が入ってくる。
これが現実なのだと見せつけられているようだ。
力なく中途半端に開かれている掌をそっと握ってみた。
もちろん握り返してくることはない。
こんなことが今までにあったか?
ふざけてじゃれついたときは迷惑顔で、ベッドで触れたときには困惑気味に、しかし時には大胆に応えてくれていたのに。
ふいに何かが込み上げてきて胸が詰まった。
「なんでだよ、雅行。なんで……」
なんでこんなことになったんだよ。
なんで俺たち、こんな所にいんだよ。
小原台、江田島、遠洋練習航海……。
この現実にあっては、確かに自分たちの過去であったそれらのことさえ遠い夢のように思えてしまう。
「……っ」
自覚したときには既に遅かった。
鼻の奥がツンとなって目頭が急に熱くなる。
喉から嗚咽が漏れそうになった。
幾度か瞬きをして涙が零れるのを寸でのところで留める。
天井を仰いで大きく深呼吸をした。
それでも視界が揺らぐのは止まらず、作業服の袖をぎゅっと目に押し当てた。
何やってんだよ、ほんとに。
「雅行、そろそろ行くよ」
隣の部屋に桃井一尉がいることは分かっているが、二度、三度と軽く唇を合わせた。
それからもう一度雅行の顔を覗き込む。
と、僅かに睫が揺れているように見えた。
もしかしてと、僅かな期待を込めてじっと雅行の瞼を見つめる。
しばらくしてから、それはゆっくりと動いて黒い瞳を覗かせた。
しかしガラスの向こうの瞳は動くことはなく、その視線はまるで焦点が合っていないかのようにぼんやりと宙を漂っている。
「雅行?」
恐る恐る、小さく声をかけてみる。
俺の声が聞こえたのだろうか。
一度瞬きをして開いた瞳は、ちゃんと俺の方を見ていた。
「眠り姫のお目覚めだな」
「…………」
「ん?」
唇だけが小さく動いて掠れたような吐息が漏れてくる。
それでも分かった。
『康平』と呼んでくれたのだと。
「心配すんなって、ちゃんとやってっから」
既に汗の浮き始めた額に指をやってそっと撫でてやる。
俺の言葉を理解したのかしないのか、それでも口元を僅かに緩めて雅行はまた瞼を閉じてしまった。
もう一度だけ唇を合わせる。
それから隣の部屋の桃井一尉に声をかけた。
「俺、ちょっと寝てくっからさ。雅行よろしく」
ドアの向こうで人の動く気配がしたのを確認して俺は急いで医務室を出た。
まだ少し視界が霞んでいる。
こんなところ、桃井一尉に見せるわけにはいかないだろ。
そう。
こんな顔見せられるのは雅行と洋介だけだからな。
(9.22.2005)
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