その日、いつもと変わらない朝。
イアントの異変に気付いたのはやはりジャックだった。
イアントが来たとき、ジャックは既にオフィスで何やら書類をめくっていた。
30分ほどして鼻歌交じりでやってきたオーエンは鞄を放り投げるなり白衣に袖を通して解剖室へと向かい、このところ日付が変わってもなかなか帰ろうとしないトシコはさすがに疲れが顔に出てきている。
グウェンもそろそろ駆け込んでくるに違いない。
彼らが仕事を始めて少し落ち着いた頃合いを見計らって、イアントはまず最初にジャックのオフィスに視線を向ける。
電話はしていないし特に考え込んでいる様子もない、コーヒーを持っていくにはいいタイミングだ。
ジャックのカップをトレーに乗せたところで案の定、ドアの開く重々しい音にサイレンが重なりグウェンが小走りにやってきた。
「おはよう」
元気そうな声に「おはようございます」と返すと笑顔で小さく手を振ってくる。
小さなつむじ風のような彼女もすぐに上着を脱いで仕事にとりかかり、いつもと変わらないハブの様子に視線を巡らしたイアントはジャックのオフィスへと向かった。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
机にコーヒーを置くとジャックが書類から視線を上げてイアントを見つめてくる。
どれだけ見ても見慣れるということがないほどに整った顔立ちがイアントは少し苦手だった。
ただでさえ甘いマスクが自分に向かって笑みを浮かべているとなるととても視線など合わせていられるものではないし、しかも当の本人もそのへんのことをちゃんと分かっていたりするから余計に始末が悪い。
そうやって甘く微笑まれて断りきれず、彼の言う「please」に応じてしまったことが公私ともにどれほどあったことか。
「他に何かご用は?」
襟元のあたりに視線をずらして聞いてみるがしばらくたっても答えは返ってこない。
「ジャック?」
それでも彼は黙ったままじっとイアントを見つめていた。
「あの……何か?」
さすがに居たたまれなくなってくる。
「ジャック?」
「ちょっと耳を貸せ」
「はい?」
「耳」
ちょいちょいと指先でイアントを呼び寄せる。
「はあ……」
トレーを持ったまま言われた通り机越しに腰を屈めジャックに右の耳を向けてみた。
その耳朶にジャックの指がゆっくりと触れてきて、二、三度撫でたかと思うとそのまま掌が降りて首筋に当てられる。
その感触に思わず背筋をぞくりとさせ肩を竦めた。
「な、何ですか?」
上ずりそうな声をなんとか抑えて態勢を元に戻そうとするも、意外に強い力で抑えられていて離れることができない。
「あの……」
まさか朝からそんなつもりもないだろうと瞳を覗いてみれば、そこには予想外にも眉を顰めた心配そうな表情があった。
「具合が悪いのか、少し熱いぞ」
首から離れた手が今度は額に当てられる。
確かに昨夜から少しダルく今朝は喉も痛んでいたから風邪気味ではあるのだろう。
けれどそれほど熱があるとは自分では感じていなかった。
「少し喉が痛い程度ですよ、大丈夫です」
首筋に全神経が集中してしまうも、にっこりと笑ってみせて背筋を伸ばす。
「無理はするなよ」
ジャックもそれほど大事とは捉えていないようですぐに額から手を離してカップを取り上げた。
「悪化するようならオーエンにみてもらえ」
「ええ」
そう答えてオフィスを後にしたイアントはジャックが触れていた首筋のあたりに手を当ててみた。
当然かもしれないが自分で触ってみてもその温度差など分からない。
その代わり彼の指先の感触だけが生々しく思い出され頬が僅かに熱くなるのを感じ、イアントは一つ溜息をついて小さく頭を振るのだった。
昼食時。
忙しい彼らはきちんと食事を取れる状況ではないようで、手軽に食べられるパンやドーナツを差し入れたイアントは一旦ツーリストインフォメーションのオフィスに戻ってきた。
特に誰かのサポートをする必要もないようでしばらくは自分の仕事に集中できそうだ。
コーヒーを一口含んで、紙袋の中に残っているパンに手を伸ばそうとするもどうにも食欲は出てこない。
そのまま袋を閉じてカウンターの上に置き奥の控室に移って腰を下ろした。
―― オーエンに薬をもらった方がいいかもしれない
そっと触れてみた額は今や自分でも分かるくらいに熱くなってきている。
酷くならないうちにとは思うものの、それでもついさっき仕事に没頭しているオーエンの様子を目にしたばかりだ。熱っぽいから何か薬をくれとはとても言える状況ではない。
これくらいなら市販の薬でもいいだろうと腰を上げたときだった。
ハブへ通じるドアが開きジャックが半身をひょいと見せてオフィスの様子を覗きこんでくる。
「イアント?」
「なんでしょう?」
用事があるのかと立ち上がってオフィスに出ようとしたが、その前にジャックがつかつかと歩いてきて両肩を捉えたかと思うとその額をイアントの額にぴたりと合わせてきた。
「熱が上がっただろう」
額をつけたまま囁かれて温かい息が鼻先にかかってくる。
―― だからどうしてこの人は……
イアントは目を閉じて心の奥で小さく溜息をついた。
オフィス下のベッドで抱き合うだけだった頃と違って今は外で食事をしたりイアントのフラットでゆっくり飲んだりと、二人の関係は依然よりずっと近しくなってきているというのにいまだ彼の小さな行為一つにどきりとさせられることがある。
その度にイアントは過剰に構えて緊張してしまうというのに。
今も予想外のジャックの行動にイアントの身体は堅くなり息を詰めていた。
「オーエンにみてもらえ」
額は離したものの、肩に手を置いたままジャックはイアントの顔を覗きこんでくる。
「いえ」
とても目を合わせられず視線を伏せたままイアントは呟いた。
「オーエンは忙しそうですし、それほど酷くはありませんから薬局に行ってこようかと……」
「イアント」
顎に指をかけられ上向かされて否応もなく視線を合わせられる。間近に見つめてくる青い瞳に鼓動が跳ねあがり頭に血が上った。
何か言おうにも言葉は乾いた喉に引っかかって出てこない。
「悪いな、イアント」
何が? と思う間もなくジャックが目を閉じて顔を寄せてくる。重なった唇が何度か小さく啄ばむようにしてイアントの唇を湿らせた。
「ジャ……んっ」
抗議する前に差し込まれた舌が言葉と吐息を奪っていく。
うなじに添えられた手がゆっくり首筋を撫で、もう片方はジャケットの下に入り込み腰のあたりを彷徨い始めた。
「ん……ふぁ……」
絡む舌が深くなり、その感触と濡れた音が次第に理性を薄れさせていく。ただでさえ熱っぽさを感じていた身体はさらに熱くなり、ジャックのどうしようもないほどに甘い口付けに意識は蕩けてしまいそうだ。
ちゅ、と小さな音を残してやっと唇が離れてみれば、イアントは背後の机に半ば腰を乗せ開いた膝の間にはジャックがちゃっかりと陣取り腰を押しつけていた。
「こんなところで……」
乱れた息をなんとか抑えこもうと幾度かの深呼吸をして、その間にもまた黙らせられないように両手を目の前の胸に押し当て敬遠しながら眉を顰めてみせる。
「だから最初に謝った」
「だからって」
「さっきのイアントの顔、あれはないよ」
魅惑的な笑みを浮かべ、さらに寄って来そうになった身体を押しとどめる。
「何がですか」
「潤んだ目で見つめられたら我慢できなくなる。誘ってた?」
「何を言ってるんですか、そんなこと」
「ああ、分かってる」
胸に当てていた両手首をそっと掴まれる。
「熱のせいだろう? でも気付いてないみたいだけど……」
既に力の抜けた手首を捉えられそこに悪戯のようなキスを落とされた。
「イアントは時々ものすごく誘ってる時があるよ」
「そんなこと、していません」
ちゅ、ちゅと小さな音をたてながら手首の内側で遊んでいる唇に視線は釘づけになり、否定する自分の言葉もどこか遠くに消え失せてしまいそうだ。
「だから気付いてないって言っただろう?」
すっかり隙だらけになったのを見計らったように手首を離れた唇は耳へと移り耳朶をくすぐってくる。
「誰か来たらどうするんですか」
たしなめるにも声が上ずってしまい説得力は全くない。
「オーエンたちは仕事に必死で当分は上がってこないし、そもそも旅行客だってそう寄ってはこないだろ」
「部下が必死で仕事してるのに、ボスがこんなことでいいんですか?」
さすがにそれにはジャックも動きを止める。
それからイアントを見つめ小さく溜息をつき、身体を離したジャックはオフィスへと移動して内線のボタンを押した。
「イアントの具合が悪化してね、これからフラットまで送ってくる。……ああ、よろしく」
「な……」
「具合の悪い部下を送り届けるのもボスの仕事だ」
―― ああ、この人はこういう人だ
心底呆れ、けれど同時に抗いきれない愛しさが湧き上がってくる。
閉じかかっていた膝の間に再びジャックが身体を差しこみ顔を寄せてきた。もう抵抗する気も小言を言うつもりもなくなったイアントは自らジャックの腰を抱き寄せ唇を差し出す。
「風邪がうつりますよ」
「あいにく病気はしないたちでね」
「そうでした」
唇を合わせながら背中を抱いていたジャックの手がイアントのシャツを引きずり出しその下に入り込んできた。
触れる手が少し冷やりとして一瞬身を竦ませるが火照った身体には心地いい。
けれどその手もすぐにイアントの体温に馴染んで温かくなってしまった。
「本当に熱いな」
少しだけ唇を離して見つめてくる瞳が本気で心配しているようで、けれどそれが妙におかしくてつい笑ってしまう。
「あなたがこんなことをしているせいですよ」
「まあ、そうかもな」
「それより送ってくださるんでしょう、うちまで?」
ジャックの瞳が嬉しそうに細められる。
「誘ってる?」
「さあ、どうでしょう」
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