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「克哉」
ぼんやりとした意識の向こうから囁く声が聞こえた。
「ん……」
冷たいものが額に当たっているのが気持ちいい。
「克哉」
もう一度、今度はさっきよりももう少し大きな声で呼ばれたような気がして薄っすらと目を開ける。
目の前には眉根を寄せて見つめてくる御堂の不安そうな瞳があった。
「あ……、おはよう…ございます」
「気分は?」
「え、っと……」
「熱は下がってきているようだが、食欲は?」
「…………今は、そんなには」
「そうか」
御堂は克哉が寝ているベッドの端に腰を下ろしそっと頬に手を添えてくる。
「私はもう出かけるが、一人で大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。……すいません、資料の提出も急がないといけないのに」
「それは気にするな。前倒しで進めていたおかげで充分余裕はある」
「……はい」
「とにかく仕事は気にしないで、もう一日ゆっくりと休め」
「すいません……」
目を伏せて何度も謝る克哉を御堂はじっと見つめていた。
頬に触れた指先が僅かに動いて、まだ少し熱を持っている肌を軽く優しく撫でている。
「あの……、御堂、さん?」
「なんだ?」
「そろそろ、行かないと」
「ああ、そうだな」
それでも克哉から視線を逸らさずに、御堂はゆっくりと立ち上がって小さく息をついた。
「食べられるようならお粥があるから、少しでも食べるといい」
「はい」
「具合が悪くなったらすぐに連絡を入れるように」
ふいに克哉が小さく笑った。
「なんだ?」
「いえ、ごめんなさい」
そう言いながらも口元が緩むのを克哉は抑えられない。
「大丈夫ですよ、子どもじゃないんですから」
「子どもはみんなそう言うんじゃないか?」
「そんなことありません。本当に大丈夫です」
そうして克哉はゆっくりと起き上がりベッドから降りようとした。
「まだ寝ていろ」
慌てて抑えようと手を伸ばす御堂に「大丈夫ですってば」とにこりと笑みを見せる。
「玄関まで見送ります」
「だから無理は……」
「無理なんかしてません。ね?」
「…………」
全く、と溜息をついて御堂は苦笑した。
「いいか、薬は食後30分以内で……」
「分かってます、大丈夫ですよ」
「具合が急変したら……」
「御堂さん、遅れちゃいますよ?」
「………………じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
そう言った瞬間、克哉の心にふわりと暖かいものが広がった。
―― 行ってらっしゃい
そのたった一言が不思議なほどの幸福感をもたらしてくる。
いつも先に部屋を出るのは電車を使っている克哉の方だから、御堂に対してそんなことを言うのは初めてだった。
「どうした? やっぱり具合が……」
「あ、いえ。違います」
にこりと笑みを浮かべる克哉を御堂が見つめる。
「行ってらっしゃい。……早く帰ってきてくださいね」
「…………」
ふいに軽い衝撃を受けたと思ったら、次の瞬間、克哉は御堂の腕の中にいた。
「み、どう……さん?」
「今日は必ず定時で帰る」
「……はい」
僅かに身体を離した御堂がゆっくりと顔を近づけてくる。
もう少しで唇が触れ合う、その瞬間。
克哉の手が御堂の唇を抑えた。
「うつるから駄目です」
昨日から何度もキスをしようとする御堂に、克哉は何度も同じことを繰り返していた。
「……君がそう言うなら仕方ないな」
残念そうな声を出して、しかし御堂は無理やり克哉の手をどけてその鼻先に小さなキスを残した。
「御堂さんっ」
「唇でなければ問題ないだろう?」
悪戯っぽい笑みに克哉も笑顔で応える。
「じゃ、行ってくる」
今度こそ、克哉から離れて御堂はドアノブに手をかけた。
「行ってらっしゃい」
まるで魔法がかかったように心が浮き上がる。
熱のせいで少しだけ目を潤ませた克哉をもう一度見つめてから、御堂はゆっくりとドアを閉めて二人の部屋を後にした。
それから数分後。
克哉の携帯が着信を告げる。
ディスプレイには「御堂孝典」の文字。
「御堂さん? 忘れ物ですか?」
『いや、違う。ちゃんとベッドに入ったか?』
「…………」
『克哉?』
「はい、今入りました」
『よろしい。ゆっくり休め』
そうして通話は一方的にぷつりと切れた。
それでも克哉は携帯を耳に当てたまま小さく呟く。
「行ってらっしゃい、御堂さん」
2007/08/30
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