御堂がデスクの上に広げていた資料をキャビネットに収めパソコンの電源を落としたのは午後10時を過ぎた頃だった。
社員たちは既に帰宅しておりオフィスの電気も半分は消されている。
佐伯は何か用事があるとかで1時間ほど前に出て行ったきりだった。
やがてパソコンが完全にシャットダウンしてしまうと、普段は全く意識することのない空調のほんの微かな音が低く耳に触れてくる。
そんな無機質な静けさの中、御堂はふうと小さく息をついて窓の外を眺めた。
既に見慣れてもいいくらいの時間をここで過ごしているはずなのに、それでもやはりこの夜景には見入ってしまう。
そうして何故か目を惹かれるのは輝く中にぽっかりと、まるで何かの入り口でもあるかのように暗闇を抱えている一帯だった。
昼間は濃淡さまざまな緑に彩られている巨大なその公園も、夜は全くの黒一色に沈んでしまう。

少し前までは桜の花が満開になっていたのだが、その後降った雨のせいで花はすぐに散ってしまい今ではすっかり葉桜になっていた。
花散らしの雨は一日で終わったものの、生憎とその日に花見を予定していた社員たちはすっかり落胆し次はどうやって上司たちとの懇親を図ろうかとあれこれ画策しているらしい。
その花見の口火を切ったのは御堂だったが、実のところ中止になって少しほっとしていたのだ。
そもそも毎年ニュースで流れる花見の馬鹿騒ぎには嫌悪を抱いており、それは花見そのものに対する偏見にもなっていた。
なのに花見をしようなどと言い出してしまったのはどういうわけだったのだろうか。
思い出してみればあのとき、確かに広がる満開の桜のように自分の気持ちは浮き立っていた。
仕事を成功させたときの充実感とも仲間と飲んで浮かれているときの楽しさとも違う、もっとふわふわとした温かいもの。
「まったく……」
あのときの自分に苦笑しながらぼんやりと眼下の暗闇に視線を落としていると遠くに小さな靴音が聞こえてきた。
それが次第に近くなり、やがてドアが開いて佐伯が入ってくる。
「きりはついたのか?」
「ああ」
窓辺に立つ御堂を見て佐伯は手にしていた紙袋をちらりと上げて見せ、
「じゃあ、出かけるぞ」
と言うなり踵を返してしまった。
「佐伯? おい!」
いつものこととはいえ突然の言葉に呆気に取られながらも身体は条件反射のように慌てて鞄を手にとりジャケットを掴む。
そうして足早に廊下に出てエレベーターホールに向かえば佐伯はのんびりとしたふうに片手をポケットに突っ込みこちらを見ていた。

既にエレベーターは来ていたのだろう、佐伯がボタンを押すと同時にドアが開く。
「どこへ行くんだ?」
後について乗り込んだエレベーターの中でジャケットに袖を通しながらちらりと視線を向ければ、佐伯は持っていた紙袋を示して「花見」と答えた。
「花見?」
「ああ、雨で中止になったからな」
「……そんなに花見がしたかったのか?」
「いや」
「は?」
「花見と言い出したのはあんただろう?」
「そうだが……。もう桜は散ってしまってるじゃないか」
「そうでもないさ」
佐伯はそれきり黙ってしまったため、御堂も下がっていく階数表示をなんとなしに見つめながらジャケットの釦を留め襟を正した。
御堂がきっちりと身なりを整え終わった頃、エレベーターが1階に着いてドアが開く。
佐伯が向かったのは広々としたエントランスホールとは反対の、ビルの裏手に出る細めの通路だった。
守衛が二人を認め軽く頭を下げる横を通り抜け、佐伯は両側が植え込みになっている細い石畳の道をどんどんと歩いて行く。
3つ分のビルを通り過ぎて足を止めたのは、近代的な建物の隙間にそこだけ取り残されたように佇んでいる小さな鳥居と社だった。
その傍には、これもまた申し訳程度の空き地があり古びたベンチが置いてある。
その足もとが白っぽく見えるのは……。
「桜?」
ベンチの後ろには小振りの枝ながら、満開の花をつけた桜の木が植わっていた。
「こんなところに……」
足もとに散る花びらからゆっくりと視線を上げてみる。
少し離れた道の植え込みに所々置かれているオレンジ色がかった照明が僅かな風に揺れる桜の花をほんのりと照らし出し、ちらちらと穏やかな光の陰影を作り出していた。

「遅咲きの種なのか? 今頃満開になるとは」
「さあな、種類なんか知らなくても花見はできる」
すっかり花に魅せられている御堂の傍で、佐伯はベンチに腰を下ろしてがさがさと紙袋の中身をいじり始めた。
それに興味を惹かれ御堂も隣に腰を下ろす。
最初に取り出したのはワインで、それを御堂に手渡すと今度は白っぽい木箱が出てきた。
既に興味津津の御堂にもったいつけるようにゆっくりと蓋を開ければ、中にはシルクに包まれきっちりと型に収められたワイングラスが並んでいる。
上階の部屋に戻れば未開封のワインもグラスもあるだろうに、このためにわざわざ買いに出るのだから佐伯もかなり凝り性というか、この場合はロマンティストとでも言うべきなのだろうか。
「さっきはこれを買いに行っていたのか?」
「ああ」
「意外だな」
「ん?」
「そんなにお前が花見をしたがっていたとはな」
そう茶化しながら、おそらくソムリエナイフも入っているであろう紙袋を覗き込む。
が。
「桜は好きじゃない」
返ってきた言葉は低くやっと聞き取れるほどに小さなものだった。
御堂が「え?」と振り向いてみれば、取り出した手元のグラスを見下ろす視線はどこにも焦点が定まっていないようにぼんやりとしている。
「だったら……なぜ花見なんか」
「あんたとだったらいいかと思っただけだ」
そう言ってちらりとよこした視線には既にいつもの少し不遜な色が浮かんでいた。
「それに」
すっと佐伯の指が伸びてきて耳元に触れ、つー、と首筋をなぞっていく。
「こうやって薄暗がりにいるあんたには本当にそそられる」
顔を僅かに近づけじっと見つめてくる瞳に御堂はそっと視線を伏せて吐息をついた。
「なんでもかんでもそっちに持っていこうとするな。……まったく」
それでも心地良い感覚が御堂の中に積もっていく。
そうして耳元にちょっかいを出されつつも手にしたナイフでワインの封を開けようとしたときだ。
それまで僅かにそよいでいた風が急に突風に変わり二人に吹き付けてきた。
「……っ」
咄嗟に目を閉じた御堂はしばらくそのままで風をやりすごそうとしたが、それはほんの一瞬吹き抜けて行っただけのビル風のようだった。
そっと目を開ければ視界のあちこちに白いものが映っている。
今の風で地面から吹き上げられた花びらと満開の中から散った花びらがちらちらと二人の周囲に舞い降りていた。
しかしそれもすぐに静まり辺りはもとの景色に戻ってしまう。
と、佐伯が手を伸ばして御堂の頭に触れてきた。
自然と上目遣いになりその手を追ってみれば、やがて一枚の花びらを摘まんだ指先が御堂の目の前にかざされる。
ぱっと指が開かれゆっくりと落ちていく花びらを無意識のうちに目で追っていき、それが膝の上に届く直前、突然視界が揺れて唇を塞がれていた。
思わず離れようとしたものの、いつの間にか首の後ろを掴まれていて動くに動けなくなっている。
「ん……っ」
誰が見ているとも限らない焦りからなんとか離そうとしてみたものの、周囲の気配を察してみれば何の物音も聞こえない。
僅かに頭上の桜が揺れているくらいだ。
ふっと御堂の身体の力が抜けたことに気付いたのか、佐伯も首を掴む手を少し緩めゆっくりとうなじのあたりに指を這わせてくる。
やがて、ちゅ……と小さな音を残して唇が離れたところで御堂は佐伯を睨みつけてみるが、やはりそこにあるのは人をくったような悪戯っぽい笑みだった。

「ワインを落としそうになったぞ」
こんな時にはどんな文句もきかないと分かってはいてもついそんな言葉が口をついて出てしまう。
「そんなによかったか、俺のキスは?」
ああ、いつものペースだと、楽しそうにしている佐伯が少し癪に障る。
人通りの多い道からは離れているし、この場を見下ろすビルの窓もせいぜい階段の明かり取り程度のものだ。
上からの視線は背後に立つ満開の桜が遮ってくれている。
何より……。

佐伯の胸元を掴みぐいと引き寄せ唇を合わせる。
ありったけの想いを込めて舌を捉え嬲り息を奪う。
翻弄されてばかりでは御堂とて我慢ならなかった。

「ほら、グラスをよこせ」
ひとしきりの口付けの後、ワインを開けた御堂に佐伯が手にしていた二つのグラスを差し出す。
「ん?」
ボトルを傾けかけた御堂が手を止めグラスの中に視線を落とした。
中には幾枚かの花びらが落ちている。
さきほどの風に舞い上げられたものが入り込んだのだろう。
御堂は白い花びらをそのままにゆっくりとワインを注ぎ込んだ。
薄暗い照明の中、ほとんど黒く見える液体にのまれてくるくると舞う花びらを佐伯もじっと見つめている。
半分ほどワインが満たされたところで御堂はグラスを掲げ、その液体の向こうに桜の樹を覗き込んだ。
「やっぱり……、あんたとなら花見もけっこういいもんだな」
そんな言葉と佐伯の視線を強く感じながら、御堂はワインを一口含んで目を閉じる。
そのまま心地よい風が頬を撫でていくのに任せているとふいに柔らかい感触が耳に触れ頬を通り唇に落ちてきた。
 ―― ああ、最高だ……。
胸の奥で佐伯の言葉に答える。
そうして甘やかされているように優しい口付けを受けながら、御堂はゆっくりとベンチの背もたれにその身体を預けていくのだった。

 


2008年5月発行/眼鏡×御堂小説アンソロ「MEGAMIDO FREAKS」の企画サイトに載せた購入者限定おまけSS
2009/09/13 サイト再録  

 

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