高層階からの眺めは仕事に集中していた神経を癒すにはうってつけだ。都内でも一番の広さを持つ公園を見下ろすことのできるこの場所からは、夏にはこんもりと連なる濃い緑が目を休ませ秋には所々に見える銀杏や楓などの色づいた葉が気持ちを落ち着かせてくれる。
 さすが冬になると公園の大部分から色は失われるが、その代わり高く透明に澄んだ青空の向こうにくっきりと美しい富士を臨むことができた。そして暖かくなる頃には配色を考慮してデザインされた花壇から遠目にも白や黄色の花が咲き乱れている様子を眺めることができ、もうすぐ春がくるのだと教えてくれる。
 しかしここにオフィスを構えたばかりの頃はさすがの御堂も毎日の忙しさに振り回されとてもそんな四季の移り変わりを感じる余裕などなかったものだった。佐伯が会社を興してから一年と少し、考えていた以上に仕事は順調に進み休日返上で企画書と格闘することなど当たり前の状況になっていた。
 そうしていよいよ新しい社員を入れないと業務に支障をきたすギリギリのところまできて、やっと二人は転職サイトに募集要項を載せることを決めたのだ。正直なところ、募集から採用までの作業にかける時間さえ捻出するのが大変なくらいの忙しさではあったのだが。
 それからいくつかの手順を経て新たに二人の社員を迎えたのが二週間前のことだった。大々的な募集をかけたわけでもないのに似たような業種のせいだろうか、元MGNの御堂と佐伯という名前は意外に広く知られていたようで記事掲載の日から多くの応募メールが舞い込んできた。
 その中から佐伯と御堂の目にかなった二人は思った以上に優秀で、営業をメインとして入った松岡は既に小規模企画においてはその責任を基本的に任されるようになっていた。その彼は今日は佐伯と一緒に顔合わせを兼ねて国内でも大手の製薬会社へと出向いている。
 午後の陽射しもまだ高い三時過ぎ、オフィスにいる御堂と主にデスクワーク担当として入った早川はコーヒーを手に一息ついているところだった。
「すごいですよね、この眺め。花霞って感じで……」
 ぽつりと呟かれた言葉にコーヒーを口にしかけた御堂は誘われるように窓際まで行き、そこからの眺めに見入っている彼の視線を追ってみた。公園のあちこちに見られる桜は今が満開なのだろう、言われてみれば確かに桜の周囲がほんのりと霞のように淡く染まっているように見える。
「ほう……」
 その光景に思わず御堂の口から感嘆のため息が零れた。と同時に小さな苦笑も漏れてくる。
 桜の花が咲いていることは去年の今頃だって気づいていたはずなのに、なぜかこんなふうに賞賛の目を向けた覚えはない。それだけあの頃の自分には余裕がなかったのだろうかと今さらながらに自覚してしまい苦笑する。L&Bに移ったときでさえそれなりに周囲を気にかけるくらいの余裕はあったはずなのに。
 ―― それもこれも全部あいつのせいだ。
 確かに優秀なことは認める。営業スマイルを浮かべ穏やかな声で挨拶をする佐伯はどこから見ても好青年で、それを向けられれば大抵の人間は彼に良い印象を持ってしまうだろう。
 かと思えばプレゼンでは相手に反論の余地を与えないほどの強気な発言をして、その後責任者の性格によっては半ば強引に決着をつけてしまうこともある。それはかつて御堂自身もやられたことだから痛いところを突かれて反論できないでいる相手の胸の内も容易に察することができた。が、実際のところ佐伯の発言の中には多少のはったりが混じっていたりすることがあるものだから隣にいてひやひやしてしまうこともあったりした。
 いつかのワインバーでの会話でてっきり佐伯もワインのことに詳しいのかと思いきや、実は全くの素人だと知ったときは驚きを通り越して呆れてしまったものだ。しかしタイミングよくそんな情報を入手してしまう運もそれを瞬時に思い出して活用してしまうのも全ては彼の才能なのだと認めざるをえない。それらを考えてみると、これまでの余裕のなさの原因が佐伯へのフォローにあったのではないかと思えて少し癪に障るのだった。
 思わずついた呆れた色の溜息に側にいた早川が気まずそうに御堂の顔色を窺ってきた。のんびりと景色を眺めていた自分に御堂が呆れたらしいと感じたのだろう。そんな視線に軽く手を振って 「そのコーヒーを飲んだら資料を揃えておけ」 と言って御堂は自分のデスクに足を向ける。
 そうして 「はい」 と答える声を背中に受けながら、これまでどうして気づかなかったのだろうかと今見たばかりの景色の美しさを胸の奥に刻んで読みかけになっていた資料の続きに目を通し始めた。
 佐伯が営業先から戻ってきたのはそれから一時間ほどしてからだった。すぐにミーティングを始められるよう資料片手に席を立った早川をよそに佐伯は「加賀製薬の提案書を練り直す」と言ってファイルキャビネットからいくつかのバインダを取り出した。
「なんだ、いきなり」
 珍しく苛ついた声音に御堂が眉を顰める。と、同時に一緒に戻ってきた松岡が「すいません!」と頭を下げたのだ。一瞬不思議そうにその様子を見つめた留守番組の二人だったが、佐伯の不機嫌さと合わせてみれば彼が何かやらかしたのは明白だ。
「どうした?」
 キャビネットの側の空いているデスクにばさばさと資料を積み上げ始めた佐伯に御堂が声をかける。が、余程気持ちに余裕がないらしく苛々としては手荒くページを捲る姿にとりあえずコーヒーを淹れてやることにした。
「おい、手伝え」
 所在なげに入り口で立ち尽くしている松岡に声をかけながらオフィスの一角にある休憩コーナーへ連れて行く。そうして二人分のカップを用意しながら佐伯の不機嫌の理由を訊ねてみた。
 さすがにあれほど不機嫌になるだけの一体どんなことをしでかしたのかひどく気になったのだが、実際聞いてみればなんということはない。打ち合わせ終了後、相手のちょっとした冗談に合わせていたところいわゆる地雷を踏んでしまったらしいのだ。そこから話が大きくなり相手への気遣いができないような者に大事な企画など任せられないと始まり、さらに新たな資料を提示してきた競合相手の販促プランの方が数段いいとまで言い出したのだ。
 しかし、詳しい話を聞いてみれば会話の内容もそれほど相手を怒らせるようなものではない。松岡の様子を見ても何か隠していることがあるとも思えず、御堂は遠目にファイル片手にノートパソコンの画面を睨みつけている佐伯を見やった。
「過ぎたことは仕方ない。あとで社長の話も聞いておくから、お前は明日の準備をしっかりしておけ」
 そう言い残してカップを手に佐伯のいるデスクに向かった。
「少し落ち着け」
 目の前に湯気の立つカップを差し出すと佐伯は画面から目を上げて無言でそれを受け取った。そうしてなぜかそのままじっと御堂を見上げてくる。
「なんだ?」
「……いや」
 そう呟いて小さい吐息とともにカップに口をつける。
「何がどうなっているんだ。話を聞いたがそれほど問題になるようなことはなかったようだが?」
「あいつに問題はない、上手く相手の会話に合わせていたからな」
「だったら、なぜ……」
「個人的怨恨だ」
「は?」
「少し出よう」
 言うが早いか、佐伯はカップを置いて資料もパソコンもそのままに席を立ってドアの方へと向かっていく。
「お前たちもきりのいいところで帰れ。それから松岡」
「はい!」
 慌てたようにガタリと椅子から立ち上がる彼を見て佐伯はふっと口元に笑みを浮かべる。
「お前に非はない、気にするな。あんなものどうとでもなるからな」
 そうして「はい」と小さく頷く部下の声を聞きもしないで佐伯はオフィスから出ていってしまった。御堂も二人に同じように声をかけて、何がなんだか分らないままに佐伯の後を追う。廊下に出てみれば、彼の背中は随分と先を早足で歩いていた。
 小走りで追いつく頃には既にエレベーターの前まで来ていて、佐伯の押したボタンを見ればそれは居住階への直通エレベーターのものだった。
「どうしたんだ」
 唐突な行動に疑問を呈するも佐伯はそれに答えるつもりはないらしい。こうなっては聞くだけ無駄なことは既に分かっている。仕方なく御堂は大人しく佐伯の後についてやってきたエレベーターに乗り込んだ。

 そうして佐伯の部屋に入った突端、御堂は壁に押し付けられ唇を塞がれた。突然のことに抵抗する間もなく膝を足の間に入れられ舌を差し込まれる。僅かの後に気づいた御堂が唇を離そうともがいてみるが首の後ろをしっかりと押さえられていてはどうにもならない。
「んっ、なに……」
 僅かな隙をついて反抗しようと試みても体力差では勝ち目がない。仕方なくしばらく大人しくして多少なりとも落ち着くのを待ってみようとしたのだが、佐伯は落ち着くどころか御堂の上着やネクタイを外しベルトにまで手をかけてこようとする。
「ちょっと待て、佐伯! どうしたんだ!」
「今すぐ欲しい。……駄目か?」
「駄目も何も、今は仕事中だろう」
「あいつらにはきりを見て帰っていいと言ってあるんだ。気にするな」
 まったく……、と小さく呟いて御堂は突っぱねるように佐伯の肩に置いていた手から力を抜く。こうなってしまってはいくら何を言っても無駄であろうことは分かっているし、御堂自身、本気で嫌がっているわけでもなかったのだ。

 

「で、怨恨てなんのことだ?」
「ん?」
 気だるそうにうつ伏せになって枕を抱きかかえている佐伯に訊ねてみれば今にも寝入りそうな声になっている。
「さっき言っただろう、個人的怨恨だと」
「ああ……」
 そのことか、と呟いた佐伯はひとつ吐息をついて起き上がり煙草を取り出した。それを深く吸い込んで紫煙を吐き出すと 「片瀬、って覚えてるか?」 と切り出した。
「片瀬……」
「MGNにいたはずだ」
「片瀬……片瀬省三?」
「ああ」
「確かに一時期、企画三室にいたな。で、彼がなんだ?」
「加賀製薬の企画部部長だ、三日前からな」
「……そうか」
 それだけで納得した御堂は大きく溜息をついて 「まったく」 と舌打ちをした。
「気にするな、正当な理由がないただの私怨だ。すぐにうちのが一番優れていると認めさせてやるさ」
「ああ……」
 佐伯の言葉に返事をしつつも、御堂はゆっくりと流れていく紫煙を目で追いながらもう一度呟いた。
「まったく、やっかいだな」

 片瀬省三は御堂が企画開発部第一室室長になって間もない頃、他社から引き抜かれてきた人物だった。噂で聞いたところによると、彼が言うには自分は一室室長の待遇で移籍したはずなのに約束が違うと憤っていたらしい。
 無論、御堂はそんなことなど気にするふうもなく仕事を進めていたのだが、何かにつけちらちらと御堂に関しての嫌な噂がばらまかれるようになり挙句は裏で金銭の絡んだ取引をしているなどといったことまで流れ始める始末となった。当然、上司である大隈からも厳しく問いただされる事態にまで陥り馬鹿らしい濡れ衣に酷く迷惑をしたこともある。
 そんな話を聞くようになったのと片瀬の入社との時期がほぼ同じこと、そして顔を合わせれば敵視のうえ嫌味を言わずにはいられないらしい彼の性格を考えれば噂の出所など一目瞭然といえた。
 が、御堂の金銭取引の噂を誰も立証できないように、迷惑なブラフを流しているのが片瀬だという証拠も掴むことはできなかった。といっても御堂自身は身に覚えがないことだからと平然としていたのだが、部下達の方が躍起になって犯人捜しをしていたのだ。
 結局、一室室長の椅子を狙い続けた片瀬は念願叶わず数年後にはMGNを辞めて再び他の会社に移っていった。たが、しばらくして何かのパーティーで顔を合わせたときは盛大に嫌味を言われたものだ。御堂から見れば一人で仕掛けて自沈したような男など気にも止めたくはなかったが、どうやら片瀬はそれ以来御堂を目の敵にしていたらしい。
 その片瀬が今度の取引先の企画責任者ともなれば邪魔をしてくるというのも頷けることではある。
 ―― まさに私怨だな。
 佐伯がそう言うからにはMGNでの一件に関しても御堂は話したことはないが内部では有名な話らしいから聞き知っていたのだろう。佐伯がなんとかするとは言っていたがそれでは他人に自分の尻拭いをさせるようでどうにも落ち着かない。
 それでなくても会社を興してからの佐伯の手腕には目をみはるものがある。明らかに自分がその年齢の頃よりも優秀に違いない。
『あんたに憧れていたんだ』
 その言葉と声音は今でもはっきりと覚えている。まるで砂に水が染み込むようにするりと入って心の奥に溜まりこんでいた。それが今は時々御堂の胸の奥を突いては焦らせる。
 会社を立ち上げた活動力と経済力、次々に顧客を獲得してくる営業手腕、どれをとっても自分より上をいっているとしか思えない。だとしたら自分がここにいる意味はなんだ?
 少し前に煙草を吸い終えた佐伯は既に寝入っているらしく頭半分ほどまで被った毛布がゆっくりと上下している。御堂は小さく溜息をついて柔らかいオレンジ色に照らされている彼を見つめていた。

 

 

「片瀬とのアポが取れた。これから行ってくる」
 翌々日、それだけ告げて鞄を手にドアに向かう御堂に佐伯が慌てて声をかけた。
「待て、だったら俺も行く」
 言いながら席を立ちかけた佐伯を御堂は 「必要ない」とはっきりと遮った。その言葉に佐伯が眉を顰める。
「提案書を作ったのは私だ。不満があるなら直接聞きたい。その方が効率的だ」
 ―― それにこの問題は自分で解決したい。
 そうしてなおも何か言ってくる佐伯を置き去りにして御堂はオフィスを後に地下駐車場へと向かった。
 一時間後、加賀製薬企画部オフィスの応接コーナーに案内された御堂をまるで格下の挑戦相手を見るような顔で片瀬が出迎えた。口元に笑みを浮かべてはいるもののその握手はひどくぞんざいだ。
「お久しぶりですね、御堂さん」
 柔らかな口調だったが御堂は昔話に付き合うつもりはなくいきなり提案書を取り出して本題を突きつけた。
「まずはこの提案書の問題点をお聞きしたい」
 そう言ってテーブルの上に広げた書類を相手の方に心持ち押しやる。自分の見せた好意を無視されたことが癪に障ったのか、片瀬は眉根を顰めつつも差し出されたそれを手に取り数ページ捲って一つ吐息をついた。
「これは先日拝見したのとの同じもののようですが」
「そうです、あれから手直しはしていません。どこにご不満があるのか直接お聞きしたい」
「おたくの社長は……」
 片瀬が書類をテーブルに置く。
「うちからのメールを見てないんですか?」
「いつ送られたものですか?」
「一昨日の夕方頃だったはずですが」
「内容は?」
「今回の企画について少々変更がありましてね。それに合わせて提案を練り直していただきたいと」
「再提出の期限は?」
「明日です」
「すぐに確認させましょう。ちょっと失礼」
 席を立った御堂は廊下に出て佐伯に連絡を入れる。がメールを見たかどうなかど聞くまでもないことだ。佐伯がそんな重要なものを見逃すはずはない。確認したかったのは企画変更についての話が前回の訪問のときに出たかどうかだった。
 案の定変更についての話は一切なく、もちろんメールなど届いていない。が、そのことに関して御堂が片瀬に文句を言える立場でもなかった。アンフェアではあるが決定権を持っているのは向こうなのだ。むしろこの時点で企画変更を知ることができたのだからよしとすべきかもしれない。 「メールは確認できなかったようです。何かトラブルでもあったのでしょう」
「それは申し訳ないことをしました」
「いえ。ではこの提案書は一旦下げさせていただいて、改めて変更点についてお伺いいたしましょう」
「でしたら再度メールをお送りしますよ」
「いえ、また何かトラブルがあっても困りますし、戻ってメールを確認してからお聞きしたいことが出てくるかもしれません。提出まで時間がありませんからね、お互いに二度手間になるようなことは避けたいと思いませんか?」
「……そうですね」
 渋々といった表情で席を立った片瀬は一冊のファイルを手に戻ってくるとそれを御堂に差し出した。
「拝見します」
 資料にさほどの厚さがないのは変更点のみを取り上げた内容だからだった。できることなら元の資料も比較対象として見たいところだったが片瀬にそれを頼むのも癪だった。どうせこれも嫌がらせのうちなのだろう。
 ページを捲りながら最初の企画方針を思い出していく。大した変更ではないから提案書に関しての大幅な変更は必要ないもののさすがに明日までというのは少しキツい。
「では三点ほどお聞きしたいのですが……」
 それでもやらなければならないと不要になった提案書にメモを取りながら質問を重ねていく。それに対して意外なほど丁寧に答えていく片瀬を視界の端に捉えながら御堂は内心で小さな舌打ちをしていた。
 が、順調に続いていた話し合いがふいに途切れる。
「それは……」
 後の言葉を継げない片瀬に御堂は眉を顰めた。
「片瀬さん?」
「……ちょっと資料を確認します」
 そう言って席を立った彼は近くのデスクにいた社員を呼んで何かを小声で伝える。それから二人で手近なパソコンに向かい何か操作を始めた。
「……ん?」
 片瀬の隣でマウスを動かしている若い社員に御堂は見覚えがあった。話をしたことはないが確かにMGNにいた顔だ。
「お待たせしました」
 確か同じフロアにいたはずだと記憶を手繰っている所に片瀬がプリントアウトした資料を手に戻ってきた。
「彼は……」
「はい?」
 御堂の視線につられるように片瀬も背後を振り返る。
「見た顔ですね。彼もMGNにいませんでしたか?」
「ああ……そうらしいですね。それよりこれを」
 たいして興味もなさそうに視線を資料に戻した片瀬は話の続きを促してくる。御堂もそれ以上のことは聞くつもりもなく目の前のテーブルに視線を落とした。

「どうだ?」
 佐伯がコーヒーを片手に御堂の傍に立ちその手元を覗き込んでくる。社員たちは既に帰宅しオフィスには二人だけだ。持ってきたコーヒーをデスクの邪魔にならない場所に置いたのを視界の端に入れながら、御堂は 「ああ」 とパソコンに向かったまま相槌のような返事を返してくる。
「仕上がりそうか?」
「ああ、大丈夫だ。明日の午後までなら問題ない」
「明日は俺も行くからな」
「いや、私一人で十分だ」
 モニタから目を離すことなく答える御堂に佐伯は隣のデスクから椅子を引っ張ってきて腰掛けた。
「プレゼンに関しては俺の方が上だと思うが?」
「そうかもな」
「だったら……」
「佐伯」
 やっと視線を合せてきた御堂は一瞬佐伯の顔を見つめたかと思うとふっと一つ息をついて背後の夜景に目を向けた。そうしてしばらく目を休めるように眉間に指を押し当てる。
「これに関しては任せてもらいたい」
「どうして」
「私の個人的な事情だ」
「個人的じゃないだろう。この会社の仕事だ」
「しかしこうなったのは過去の個人的な事情からだ。それに明日だって君には別の行き先があるだろう」
 そう言って再びモニタに向かった御堂は黙り込みその様子を佐伯はじっと見つめてくる。静かなオフィスにはパソコンを操作する無機質な音だけが響き渡った。
「頼む」
 佐伯の無言のプレッシャーにやがて御堂が口を開く。
「これだけは自分でなんとかしたいんだ」
「御堂、何をむきになってる」
「むきになど……、なっているかもしれないな」
 自分の尻拭いくらい自分でしたい。ここで佐伯をあてにしてしまうようでは、彼にとっての自分の存在がどんどん薄れていってしまうような気がしていた。が、そんなことを正直に言うつもりもない。
「プライドだ」
「ん?」
「過去の個人的感情でこんな嫌がらせを受けるなど我慢ならないからな」
 それもまた理由の一つではある。
「……そうか」
 しばらくの沈黙の後、佐伯はようやく納得したのか席を立つ。そうして帰り支度を済ませると再び御堂の傍にやってきてやや強引に唇を塞いだ。
「ん……っ!」
 顔が近づく気配を察しはしたが気がつけば既に首の後ろを抑えられ逃げられなくなっていた。結局は無抵抗のまましばらく唇を合わせる。
「どうせ遅くなるんだろう? 今夜はうちに来い」
 ほんの少しだけ離した口付けの間から佐伯の低い囁きが零れ軽く唇を噛んでくる。濡れてやや敏感になった唇への愛撫はそれだけで身体の奥を疼かせるには充分で、ぴくりと肩を震わせる御堂に気をよくした佐伯はにっと口元に笑みを浮かべた。
「待ってるぞ」
 身体を離す間際、耳朶をぺろりと舐めてくる佐伯に御堂も苦笑を洩らす。
「努力しよう」
「そうしてくれ。じゃ、お先」
「ああ、お疲れ」
 軽く片手を上げて帰っていく後姿を見送って御堂は佐伯の淹れてくれたコーヒーを一口含む。それは長時間同じ姿勢を取り続けていた御堂の身体をほぐすように、ほんのりと甘く口内に広がっていった。
 片瀬から受け取った資料に疑問点が出てきたのはそれから三十分ほどしてからだった。時計を確認すればそろそろ八時を回る時間だ。できれば今日中にそこの確認をしたいと思いつつ受話器を手に取る。が、少しの時間差で片瀬は既に帰宅した後だった。
「あの……、今日お渡しした資料のことですか?」
 諦めて電話を切ろうとしたところで相手の声がそれを止めた。
「はい、一か所だけお聞きたいところがありまして」
「私でよろしければお伺いいたします。どういったことでしょうか?」
 ふいに御堂の脳裏に昼間、片瀬に呼ばれた若い社員の姿が思い浮かんだ。
「助かります。では……」
 問題だった一か所以外にもいくつか質問をして御堂は受話器を置いた。
そうしてそのまましばらく窓からの夜景を眺め、今度は携帯を取り出して電話をかける。
「御堂だ。こんな時間にすまない。……ああ、なんとかな。……ああ、それが急で申し訳ないんだが……」
 とりあえず要件だけ伝えてから少しの雑談に付き合う。しかしその間にも片手でパソコンを操作しながら御堂は提案書の作成を進めていった。
 やがて全てのチェックを終えて文書をファイリングしたところでプリンタからファックスの届く音がした。待ちかねたようにそれを手にして目を通す。
 御堂は 「ふぅん」 と可笑しそうに鼻をならして時間を忘れたように次々と送られてくるファックスを読み進めていった。やがて送信が終わると今度はパソコンのメールをチェックして新着メールに添付されていた資料を開き中身を確認する。
 そうして呆れたように溜息をついた御堂はファックスと添付ファイルを交互に見て 「まったく……」 と呟き眉を顰めた。
「どうしてやろうか」
 深い溜息とは裏腹に御堂の口元にはにやりとした笑みが浮かんでいた。

 

「おい、御堂」
 翌日、片瀬に提案書を届けてオフィスに戻った御堂は佐伯の少し不機嫌そうな声に迎えられた。鞄をデスクに置いて佐伯の元に向かう。
「どうした? 提案書はちゃんと渡してきたぞ」
「さっき片瀬から電話がきた」
「ほう?」
「あんた、何をしてきたんだ?」
「提案書を渡してきただけだ」
 しれっと、しかし面白そうな笑みを口の端に浮かべている御堂に佐伯が僅かに顔をしかめる。
「だったらどうしてあんな馬鹿丁寧な電話がかかってくるんだ」
「なんと言っていた?」
「この前お越しいただきましたときは大人げない振る舞いをしてしまい誠に申し訳ございませんでした。またメールが届いていなかった不備もどうかご容赦ください」
 電話の言葉を真似ている佐伯がどこか拗ねている表情をしているのが可笑しくて、御堂は思わず込み上げそうになった笑いを呑み込んだ。
「本日拝見しました提案書も大変素晴らしいものでした。どうぞこれからも弊社の商品販促に貴社のお力添えを……」
「く……っ」
 しかし結局笑いを堪えられなかった御堂は佐伯の言葉を遮ってしまうことになった。くつくつとしたそれは決して派手なものではないが、そこまで笑うのを初めて見た二人の社員は唖然とした顔で御堂の姿を見つめていた。
「まさに即効だな」
 なんとか笑いを抑えようと御堂は一つ大きく深呼吸をして態勢を整える。
「本当に何をしてきたんだ」
 訳が分からずますます不機嫌になりそうな佐伯に「ああ」と答えて御堂はことの成り行きを話し始めた。

 最初に違和感を感じたのは昨日、御堂が提案書を持って出向き片瀬に変更点についての質問をしていたときだった。最後の質問に相手が答えられなかったことが御堂の不審感を刺激した。
 もともと片瀬は気に入らない相手だった。MGNでも親しくしたことはなかったが、何度か話をしたり彼の仕事の進め方を見たりはしていたからある程度の性格は分かっているつもりでいた。
 正直なところ、それほど有能だとも思えなかったが、彼の作成する企画書は非常によくできていた。必ずとは言えないがああいった物には作り手の能力はもちろんだが性格が反映することも多い。これまで数多くの企画書に目を通してきた御堂にはそれがなんとなく理解できる。
 その中で片瀬ほどその性格と作り出される物のイメージが異なるのは珍しかったのだ。そこがまた御堂の気に入らない点でもあったのだが。
 あのとき、最後にした質問は企画を発案し練ってきた者であれば答えられて当然のものだった。なのに片瀬はそれに戸惑い資料を確認するとまで言い出した。
 それにもう一つのイマジネーションが湧いたのがその夜、電話で問題点の確認をしたときだった。片瀬は帰宅して不在だったものの、彼に代って御堂の問いに答えた石川と名乗る社員。いくつかの質問に対してのその説明の仕方は御堂の聞きたいことの先を読んでいるかのように流麗で的を得ているものだった。
 御堂にしても今回の仕事はどうしても取りたいものであったから渡された企画書もかなり読み込んでその背景についてもしっかりと理解していたつもりだった。そんな御堂の質問に企画者本人の片瀬が戸惑い部下の方は嬉々として答えていた。
 電話越しとはいえ、その嬉しそうな声が御堂の持っていた違和感の原因を照らし出したのだ。
 それから御堂はMGNでのかつての部下に石川の名を告げ多少の無理をさせることは分かっていたものの、その在籍期間と在籍中に彼が作成した企画書を探してもらうよう頼んだ。
 案の定、送られてきたファックスとメール添付での資料は今回渡された企画書の構成とかなり似通ったものになっていた。類似点が分かりやすいように扱う商品も同じようなものを送ってもらったせいもあっただろう。それはほぼ同じフォーマットと言ってもいいくらいだった。
 あの企画書は片瀬が作ったものではない。
 そう確信が持てたと同時に御堂の中にこれまでにないほどの苛立ちが込み上げてきた。常に自分の仕事にはプライドを持ってやってきた御堂だけに、その自分に人のものを横取りして勝負を挑んでくるなど呆れるを通り越して怒りさえ覚えてしまう。
 あの青年にしても、おそらくはかなり以前からゴーストライターのようなことをさせられていたのだろう。能力はあるのだから他の会社でも十分やっていけるだろうに、それをせずに片瀬についているということは何か弱みでもあるのだろうか。そんなことを考えると余計に片瀬への嫌悪が募るばかりだった。
 そして翌日、御堂は作り直した販促提案書と友人からのファックスを携えて加賀製薬へと乗り込んだのだ。
 そこで御堂の書類に目を通した片瀬はしばらく無言でそれを見つめ「いいと思いますよ」と呟いただけだった。
 ―― 当然だ。
 その言葉に内心で御堂は舌打ちをする。昨夜、石川と電話で話していて分ったことだが、渡された資料には販促計画を立てる上で必要な情報がいくつか漏れていたのだ。それが御堂に対する故意でのことなのか他の競合相手にも同じものを送っていたのかは分からない。が、どちらにしてもその穴を埋めた御堂の提案書に片瀬が付け入る隙など皆無だった。
「この項目についてはまだお知らせしていなかったと思いますが?」
「ええ、ですがターゲットの年齢層が若干広がったことを考えれば自ずと出てくる問題かと思いましたので。差し出がましいようですがこちらで勝手に付け加えさせていただきました」
 そこは石川との電話の後、急遽盛り込んだ内容だった。口をヘの字に曲げていかにも不機嫌そうな片瀬の表情が可笑しくて堪らない。
 結局、内容については何一つ口を出されることなくその提案書は片瀬の手に委ねられた。そうして早く帰ってくれと言わんばかりにその場を去ろうとした片瀬に御堂が 「もう一つだけお話が」 と引き留めたのだ。
「なんでしょう?」
「ここではなんですので、少し場所を変えた方がいいと思いますよ」
「なぜですか?」
 苛立って眉根を寄せる片瀬に御堂は鞄の中から幾枚かのファックスを取り出して見せる。差し出されたそれを手にした片瀬は、しかしそれが何なのか分らないようで訝しげな視線を御堂に送ってきた。
「あなたの部下の石川さんがMGNで作成した企画書ですよ。本当に優秀な部下を持って幸せですね、片瀬さん?」
「何を言ってる……」
 薄々御堂の言いたいことが分ったのだろうか、手にしていたファックスをくしゃっと握りしめぎょろりとした目で御堂を睨みつけてくる。しかしそんな視線を軽く流した御堂は 「そのファックスについて少しお聞きしたいことがありましてね」 と口の端に笑みを浮かべながら軽蔑を込めた眼差しを向けたのだった。

 

「脅しをかけたのか?」
「まさか。そんな卑怯な真似、私がするはずないだろう」
 半ば呆れたような口調の佐伯に御堂は平然と答える。そうして運ばれてきたコーヒーを一口含んだところで佐伯の表情がふっと緩んだ。
「どっちにしろ、これでこの仕事は貰ったな」
「確実とは言えないが、まあ大丈夫だろう」
「あんたの作ったもので通らなかったものはないからな」
 ことの顛末を聞いて機嫌が良くなったのか、佐伯は椅子から立ち上がり背後に広がる景色を眺めて薄らと笑みを浮かべた。その様子を見ながら御堂は帰りがけに呼び止めた石川から聞いた話を思い出していた。

『佐伯社長は本当に部下思いの方ですね』
『ん?』
『この前、社長と若い方がいらっしゃったときのことは聞いておられますか?』
『ああ、そういえば何かうちのが怒らせるようなことを言ったらしいが』 『いえ、それは片瀬のあげ足取りのようなものですからお気になさらないで下さい。ただそのとき片瀬が、その……、御堂さんの悪口のようなことを言ったんです』
『私の?』
『ええ。その途端佐伯社長の態度が変わってしまって……、私の大事なパートナーを侮辱するなと』
『…………』
『それからその場の雰囲気が悪くなってしまって』
『まったく……』
『それでも一緒にいらした松岡さんのこともしっかりフォローしていらして。……羨ましかったです』

 その話を聞いて、あのとき急に自分を求めた理由も佐伯の思考回路を考えると納得できるような気がした。世当たりの上手さや仕事の処理能力の高さとは裏腹にどこか子どものようなところがある佐伯のことだ。先走る感情を抑えきれずああいった行動に出てしまったのだろう。
 ―― 大事なパートナー、か。
 パートナーなどと、今までそんなことを言われたことはあっただろうか。優秀な部下、できる上司、褒め言葉はいくらでも貰ったことがあるものの、これほど心がほっとして温まる言葉は初めてだった。視線の先にある霞んだ桜の薄桃色が心の中に流れ込んでくるような心地になる。
「どうした?」
 少しからかい気味の声に顔を向けてみれば佐伯がこちらを向いて口の端を僅かに上げた小さな笑みを浮かべていた。
「何をにやにやしている」
「そんなことはない」
 そう言いつつ、自分でも自覚できるほどに緩んだ口元を締めて再び視線を眼下の桜に移す。
「ただ、この景色が素晴らしいと思っていただけだ」
「そうだな」
 そうしてしばらく二人は無言のまま立ちつくしていた。空調が効いて一年中快適な温度に保たれているオフィスにあっても、ここからの眺めはガラスを通り抜けて外気の暖かさを感じさせてくれる。
 背後でキーボードを打つ音や書類を捲る音がやんでいるのは部下たちも上司につられて外の景色に目を奪われているせいだろう。
 妙に心が騒いで浮き足だってくるように感じるのは、やはり春だからなのだろうか。
「花見でもするか」
 まるで独り言のようにぽつりと零した御堂の言葉に他の者たちの視線が一気に集まる。
「あんたがそんなことを言うのは珍しいな」
「ん?」
 そう言われて、御堂は初めて周囲の自分に向けられている視線に気がついた。
「たまにはそういうのもいいだろう。彼らの歓迎会らしきこともしてなかったしな」
 初めて見ると言ってもいいほどの御堂の機嫌良さげな表情に部下たちの顔がぱっと輝く。
「そうだな。あんたと夜桜見物というのも悪くない」
「夜桜? 夜に花見をするのか?」
 ぽつりと呟いた佐伯の言葉に御堂が真面目に返事をする。それが可笑しいらしい佐伯は僅かに口元を綻ばせた。
「ああ、いいんじゃないか、夜桜も。きっとあんたに似合う」
 少し悪戯っぽく、佐伯は唇の端を小さく上げてちらりと舌なめずりをする。
「はぁ? ……意味が分らんな」
 分らないと言いつつ、ほんの少し視線をずらしたのは御堂なりの照れ隠しだった。
「それより佐伯」
「ん?」
「一人、ここに連れてきたい者がいる」
「新入社員、ということか?」
「ああ、今度会ってみてくれ」
「あんたが推薦するのなら問題ないだろう。履歴書だけ提出するように言っておいてくれ」
「おい、社長なら面接くらい面倒くさがるな」
「面倒くさがってるわけじゃない。必要ないと言っているんだ」
「……まったく」
 互いに視線を交えることなく窓の外を見つめながらの会話は御堂の溜息で途切れてしまった。そうして訪れた静寂に御堂はほんの少しだけ首を回して佐伯を視界の端に捉える。
 仕事中においては一分の隙も見せないその姿に、御堂は今さらながら自分が彼に惹かれているのだと認識させられる。年下で危なっかしいほどに強引で外からは反感をかうこと請け合いの強気な彼に、明らかな憧憬を抱いていた。
 そんな御堂の視線に気づいたのか、佐伯がまたにっと口の端を持ち上げるような悪戯な笑みを浮かべながら見つめてきた。それを受けて同じような笑みを見せた御堂は、しかしすぐに外の景色に目を移し満開の桜を眺めた。
 来年も再来年もその次も、きっと自分はここに立って同じ桜を見ているのだろう。例え周囲が大きく変化したとしても、ここにいる自分と佐伯だけは変わらない。
 そういう未来であってほしい。
 不思議と心の浮き立つ新しい季節に、御堂はそんなことを願いながら眼下に霞む桜を見つめていた。

 


2008年5月発行/眼鏡×御堂小説アンソロ「MEGAMIDO FREAKS」掲載
2009/08/03 Web 再録
 

 

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