ベッドサイドの小さな灯りが汗ばんだ御堂の肌を優しいオレンジ色に染め上げる中、佐伯は背後からその腰を捉えて自身をゆっくりと熱い襞の中に沈めていった。
充分に潤わされたそこは容易に佐伯を呑み込み上ずる声と同調するようにぎゅっと締めつけてくる。
「御堂、……少し、力を抜け」
目の前でしなる背筋や肩甲骨に唇を寄せて宥めるように口づけを落すものの御堂にとってはそれさえも快感を煽る行為になってしまうようで、小さく呻いてはさらに身体を緊張させて熱を上げてしまう。
そんな御堂にゆっくりと動きながら佐伯は腰を支えていた手を片方前に回しその欲を捉えた。
ゆるゆると扱いていけばやや力を失っていたものも再び反応を始め、その甘い感覚に耐えられないかのように御堂は頬を枕に押し付けて唇を噛みしめる。
こうして幾度も繰り返してきた行為なのに、それでもまだまだ足りないと佐伯は思う。
もっともっと御堂を感じさせてやりたい、乱れさせたい、何も分らなくなるほどの快楽の中に落としめて自分だけを感じていられるようにしたい。
仕事をしているときの冷静で落ち着き払った態度からは全く想像できない痴態を晒させてもっと佐伯が欲しいのだと強請らせたい。
優しく激しく責めて、ときには羞恥を感じるような言動を交えてやれば御堂は驚くほど淫らになって佐伯の腕に堕ちてくる。
そんな姿を見ることが佐伯の興奮をさらに煽り、いっそこのまま抜け出すことのできない奈落で永遠に二人で這いずり回りたいとさえ思わせるのだ。
「んぁ、くっ……!」
震える背中を抱きしめながら、手の中の熱をまさぐり御堂の感じる部分を突いていく。
どこをどうすればいいのかは既に身体が覚えていた。
御堂が達するのもそれを制限させてしまうのも、全て佐伯の采配ひとつに委ねられているのだ。
けれど、そんな状況が変ってきたのはここ数週間ほどのことだろうか。
これまでは手に取るように分かっていたはずの御堂の反応がときおり佐伯を戸惑わせるようになっていた。
もう充分だろうと吐精に導いてやったつもりでも御堂はそこで達することができず、ただひたすら与えられる快感に身体を震わせていることが多くなった。
どれほど手や口で嬲って襞の中を掻き回してもそれは変らない。
快感に打ち震えるばかりでその先がないのだ。
御堂自身も当然その変化を感じているのだろう。
ときにはどうにもならない快感を持て余し、荒い息の下で掠れるように自分のことはいいからと、佐伯にだけ解放を促すような言葉を口にすることもあった。
仕事で疲れているせいだろうかと会社を興してから今日までのことを思い返してみる。
それでも最近は社員を雇ったこともあり以前のような分刻みでの奔走はあまりなくなってきていた。
が、考えようによっては落ち着いたことにより張り詰めていた気が多少緩んできたのかもしれない。
きっと精神的なものなのだろうと、だったら最後までの行為に拘らなくてもただ抱き合って眠るだけの夜があってもいいだろうと思うのだ。
そうやって御堂の身体と気持ちが落ち着くのを待とうとしたにも関わらず、これまでとは逆に当の御堂が佐伯の身体に手を伸ばしては口付けを繰り返し熱を煽りそれが欲しいのだと強請ってくる。
佐伯にしてもそこまでされれば流される以外に術はなく、結局は身体を繋げ御堂を疲労困憊させる行為に至ってしまうのだった。
それは今夜も同じことだった。
自分は今まで以上に御堂の身体を愛し言葉と口付けで気持ちを伝えているつもりなのに、やはり決定的なものを得られないらしい御堂は欲を吐き出すことができずにいる。
それでも感じていることは間違いないようで、ただ嬌声を零し全身を震わせながら枕に顔を埋めていた。
「も、さえ……きっ、あ、ぁ……っ!」
「いきそうか?」
しかし御堂は二三度首を振ると荒い息の下から懇願してくるのだ。
「も、い……から、お前がいけ……」
「御堂……」
「苦し……んっ、お前がいけば、いいから……」
柔らかいオレンジ色に照らされてはいるものの、シーツをぎゅっと掴んでいる御堂の指はきっと真っ白になっているのだろう。
目尻に溜まっていた涙はすっと流れて枕に吸い込まれた。
「も、たすけ……て、さえきっ!」
「……っ」
くっ、と喉を鳴らした佐伯は両手でしっかりと御堂の腰を捉えそこに思いきり自分の欲望を叩きつけた。
「あぁっ! あ、あっ……さえ……っ!」
突然激しくなった動きについていけず懇願は悲鳴へと変り閉じた睫毛の間から再び涙が零れていく。
自分の欲を満たすためだけの動きは次第に佐伯を追い詰め、ぎりぎりまで張り詰めた熱はほどなくして御堂の中に放たれた。
小刻みに震える身体を目の前の背中に凭れさせしっとりと汗ばんだ肌に頬を寄せる。
達した後の余韻に浸る間もなく、佐伯の心は自己嫌悪に満たされ始めた。
御堂は相変わらず枕に顔を半分ほど埋めているが、さっきまで浮かんでいた眉間の皺は和らぎきつく閉じられていた瞼からも力が抜けているようだった。
「御堂」
僅かに半身を起こしその表情を覗き込む。
と、御堂もそれに応えるように瞳を開けたのだがすぐに視線を逸らせて唇を噛みしめた。
きっと彼もまたやり場のない思いに苛まれているに違いない。
かける言葉のないままに、佐伯は肩や首筋に唇を落としていった。
そっと触れるだけの口付けを繰り返す中、御堂がぽつりと「すまない」と呟く。
どう答えていいのか分からないまま、しかし無言でいることはさらに御堂を不安にさせるに違いない。
そう思った佐伯は少し強引に御堂を上向かせて唇を合わせた。
謝る必要などない、自分はどんなことになっても貴方が好きなのだと、そんな想いを込めたつもりの口付けだった。
啄ばむように幾度も重ね、ときおり頬や鼻に移してはまた唇に戻して柔らかく触れていく。
それを大人しく受けながらも、佐伯の肩に置かれた御堂の指は痛いほどにその肌に喰い込んでいた。
そうして続ける口付けの中、いつしか御堂の腕から力が抜けてぱたりとシーツの上に投げ出される。
吐き出すことのできない快感に苛まれ続け疲れてしまったのだろうか。
薄く開いた唇からは静かな寝息が漏れている。
そっと下半身に手を伸ばしてみれば、熱くなっていたはずの欲もすっかり萎えて力を失っていた。
「御堂……」
目尻に残る涙の跡に唇を当て、佐伯は小さく呟きながらくたりとしている身体を抱きしめた。
翌朝、目が覚めてみれば御堂の姿は消えていた。
シャワーでも浴びているのだろうかと思ったが、昨夜の様子を考えてみればその可能性はあまりないかもしれない。
案の定、部屋のどこにも御堂の気配はなく最後に玄関を見てみればやはり彼の靴はなくなっていた。
御堂がこの部屋に泊まるのはしょっちゅうで、だからここから直接仕事に行っても差し支えないように着替えなどは一揃い置いてある。
実際、御堂がここに泊まった翌日はいつもそのまま身支度を整え階下にあるオフィスに直行していた。
―― 顔を会わせづらい、か……。
今朝に限って自分の部屋に戻ったらしい行動の原因はそれしか思いつかない。
もしかして既にオフィスにいるのだろうかと携帯を手に取ってみたがすぐに思いなおしてそれをソファに放り投げた。
「御堂」
意味もなく呟いてみて改めて今自分がどれだけ御堂に会いたいと思っているのか思い知る。
時計を見ればそろそろ6時になろうとしていた。
もちろん出社するにはまだ早い時間ではあるものの、じっとしていられない佐伯は羽織っていたシャツを脱ぎ捨ててバスルームへと向かった。
落ち着かない気持ちのままに階下のオフィスへと向かう佐伯の足は知らずしらずのうちに早足になり、静かな廊下にカツカツと硬い靴音を響かせていた。
オフィスのドアを開ける頃には少し息が上がり、速くなった鼓動が余計に佐伯の心を煽ってくる。
しかし勢い余って開けたドアの先に待っていたのはひんやりとした空気だけだった。
はあはあと抑えきれない息遣いが妙に虚しく感じられ思わず苦笑する。
深呼吸で息を整えながら自分のデスクに鞄を置いて、佐伯は高層階からの眺めに視線を移した。
早朝の街並みは少しくすんでいてまだ車の通りも少ない。
左手の少し先に見える緑がこんもりと集まった公園に行けばきっと清々しい気分になれそうな天気だった。
こんな高層階のオフィスにあってはどんな外気にも喧騒にも触れることはできないが、早朝の独特な静けさが耳の奥に蘇りほんの少し佐伯の心を解きほぐす。
ふと息を抜いたときやデスクから立ち上がったとき、こうして眼下の街を眺めるのがいつの間にか佐伯の癖になっていた。
御堂の様子に違和感を感じるようになったのはそれからしばらくしてからだった。
仕事での必要な接触以外ではどことなく佐伯を避けるような素振りを見せ、プライベートでも部屋にくることはなくなった。
佐伯にしてもそんな御堂の行動に苛つくところはあったものの、その原因と彼のプライドを考えてみればさすがに黙って待つしかないように思われた。
御堂の状態は素人考えにもEDという言葉を思い出させる。
今では世間に広く認知されてはいるものの男にとってそれは恥以外のなにものでもなく、ましてや御堂がそのことを素直に佐伯に相談するとも思えなかった。
本来なら二人で解決する問題なのだろうが、あまり焦っては逆にプレッシャーを与えかねない。
焦る気持ちはあったもののあえて無理な接触を計ろうとはせず、仕事もできるだけ御堂の負担にならないよう他の社員たちに任せる指示を出していった。
以前に比べれば社員も増え仕事も落ち着いて会社としての動きは安定した波に乗ってきているのだから、そうしているうちに自然と前の状態に戻るかもしれないという期待を抱いてのことだった。
しかしそんな佐伯の前向きな考えとは裏腹に、御堂の様子は日を追うごとにおかしくなっていった。
顔色が冴えず仕事中の口数も極端に減り、佐伯と目が会うといかにも気まずそうに視線を逸らすのだ。
一度、コピー機の前に立つその背後から声をかけたときなど、佐伯の気配に気づいていなかったらしい御堂はこちらが驚くほどびくりと肩を震わせ見開いた目で佐伯を凝視してきた。
そうして「脅かすな!」と上ずった声を残し慌ててその場を離れたのだ。
御堂の中で何かが限界に近づいているのかもしれない、と感じたのはその時だった。
これ以上呑気に構えていると、もしかしたら取り返しのつかないことになるかもしれない。
そう思った佐伯はなんとか御堂と二人になれる機会を作ろうと他の社員たちを外に出す算段を始めた。
大事な話があると私室に呼んでもいいが、おそらく御堂は部屋にくることは拒むだろうと思ったのだ。
そうして各社員の午後の予定を確認しているときだった。
「御堂さん!」
切羽詰まったような声に振り返ってみれば、御堂が頭を抱え込むような格好で自分のデスクの前に膝をついていた。
さきの驚いた声は側にいた社員のものだったのだろう。
佐伯が目を向けたときにはその彼が立ち上がろうとする御堂の肩に手を添えていた。
「御堂!」
慌てて駆け寄り社員を押しのけ俯けられている顔を覗き込む。
コピー機の前ではなんともなさそうだったはずなのに、今その額には薄っすらと汗が浮かんでいた。
思わず掌を当ててみる。
熱いだろうと想像していた体温とは逆に、御堂の額は妙にひんやりとしていた。
「今、救急車を呼びます」
「いや」
立ち上がり電話に向かおうとした社員を制して、佐伯は御堂の脇に肩を入れなんとか立ち上がらせた。
「俺の部屋で少し様子を見る。何かあったら携帯に連絡を」
そうして「一人で大丈夫ですか」「手伝います」と心配げな顔を見せる社員たちに留守番を頼み、佐伯はぐったりとした御堂を支えながらオフィスを後にした。
陽の射し込む明るい廊下を二人でもつれるように歩きながらワンフロアを借りていることに初めて安堵する。
こんな姿を見られるのは御堂も本位ではないだろうし、周囲では起業していきなりこのオフィスビル内に居を構えた彼らに興味津々の者達も大勢いたのだ。
そんな彼らにトップの弱った姿など見せられるはずもない。
「大丈夫か、御堂? もうすぐエレベーターが来るから」
壁に寄りかからせるようにして身体を支えていると、耳元で御堂が何かを小さく呟き始めた。
が、一体何を言っているのか分からない。
大丈夫だから仕事に戻る、とでも言出だしそうな性分だなと思いつつやっと到着したエレベータに御堂を押し込んで部屋の階のボタンを押す。
額や頬は相変わらず冷たく、脈を取ろうと首筋に指を当ててみればそこも油じみた嫌な汗で湿っていた。
性的な不調とこのことも無関係ではないのだろう。
一度ちゃんと病院で見てもらった方がいいなと思いながら、佐伯は次第に上がっていくエレベーターの階数表示を見つめていた。
部屋のドアを開ける頃には御堂の意識も多少はっきりとしてきたらしく、肩にかかってくる体重も軽くなってきていた。
それでも支えなしには立っていられない彼を寝室まで引きずっていきベッドに静かに横たえる。
そうして上着を脱がせようとすると低く呻いた御堂が薄っすらと目を開き佐伯の手をさえぎってきた。
さらにまた何か口の奥で呟きながら肘をついて起き上がろうとしてくる。
「駄目だ、少し寝ていろ」
少し肩を押してやれば呆気なくベッドに沈み込んでしまうのだから余程力が入らないのだろう。
それでも抵抗するように首を振り「やめろ」と今度ははっきりとした言葉を零し始めた。
「やめ……」
「心配するな、何もしないさ。上着とネクタイだけでも外した方がいいだろう」
「や……」
弱々しく駄々っ子のように身じろぎをして佐伯の腕を掴んでくるが、いちいちそんなことを聞いていられる状況ではない。
多少無理やりに上着を脱がせネクタイを外しシャツのボタンを二つほど緩めたときだった。
佐伯の目に小さな赤黒い傷跡のようなものが飛び込んできた。
鎖骨の少し下にある斜めに長いそれは引っかき傷というよりはもっと鋭い何かでつけられたものだ。
恐らくは小さな刃物……。
どきりと胸が鳴り痺れるような痛みが指の先まで広がっていく。
胸元を開かれたことに気づいたのだろう、御堂は掻き抱くように襟元を合わせそのまま佐伯に背を向けて蹲った。
「……すまない」
ふいにそんな言葉が口をついて出た。
見られたくないものを見てしまったことへの謝罪と、なぜかその傷が自分とは全く無関係だと思えない直感的な罪悪感。
背中を丸め小さく震えている御堂に毛布を掛けてやる。
「とにかく少し眠れ」
シャツを取り払いその傷のことを問い詰めたいのを堪えながら佐伯は囁くように言って毛布の上からぽんと肩に手を置いた。
「リビングにいるから。何かあったら呼べ」
そうしてレースだけになっていた窓に遮光カーテンを引く。
薄暗くなった寝室の中、毛布の端から僅かに見える御堂の白いシャツを見つめながら佐伯は静かにドアを閉めた。
リビングに移った佐伯はオフィスに電話を入れしばらく御堂の様子を見ていることを伝えた。
どうせ部屋とオフィスは目と鼻の先だし、幸い今は自分たちが出て行くほどの重要案件を抱えてもいない。
今日、明日くらいなら彼らだけに仕事を任せても大丈夫だろうと思えた。
とりあえず上着を脱ぎネクタイを緩めソファに腰を下ろす。
大きく息をついて天井を見上げ身体をソファにあずけた。
目を閉じると鮮やかに浮かんでくる傷跡が佐伯の全身を薄ら寒いもので包んでいく。
この前抱いた時にはなかったものだ。
だとしたら、あのときから今日までの間に何があったのだろう。
何か面倒なことに巻き込まれているのだろうかと、考えたくもない想像があれこれと巡り神経を刺激してくる。
ソファに凭れたまま視線を寝室の方に移しベッドで丸くなっている御堂の姿を思い浮かべた。
何がどうなっているのか全く分からない。
けれど御堂の変調から始まる全てが自分に繋がっているように思えて、佐伯は重い気持ちを少しでも吐き出すように大きく息をついて目を閉じた。
しかしそうやってじっとしていると余計に気が急いて苛立ちを覚えてしまう。
結局リビングにPCを持ち込んで、それほど急ぎでもないからと後回しにしていた案件の資料を引っ張り出した。
それでもあれこれと不安が過ぎっていくのを無理やり押し込め、佐伯はじっと画面を見つめながら神経を仕事に集中させていった。
やがて窓の外が次第に暗くなり始めた頃、佐伯は静かに寝室のドアを開け中を覗き込んだ。
当たり前ではあるが、暗い室内でベッドの中に御堂の存在を確認してほっと安堵する。
そうして音を立てないようにドアを閉めるとベッドサイドの灯りを最弱に調節してスイッチを入れた。
ほんのりと淡い光の中、音もなく御堂の丸まった背中が上下している。
そっと額に手を当ててみれば、多少汗は浮かんでいるものの体温は普通の温もりを取り戻していた。
軽く閉じられた瞼にこくりと唾を呑み、御堂を起こさないようにできるだけゆっくりとその身体を上向けて掛けられていた毛布をそっと剥ぎ取った。
途中まで肌蹴ていたシャツのボタンを最後まで外しゆっくりと左右に開いてみる。
「……っ」
その光景に佐伯は思わず眉を顰め息を止めた。
一度目を閉じ、再びゆっくりとそれを見つめる。
オレンジ色に照らされた肌のあちこちには黒っぽい痣や傷跡が浮かんでいた。
その中には既にかさぶたができているものもあれば新しく生々しいものもある。
「御堂……」
溜息とも掠れ声ともつかない言葉を零して佐伯は開いたシャツの端をぎゅっと握り締めた。
―― どうして……
声にならない声で問いかけながら痣や傷の上に指を伸ばす。
ズボンのウェスト下にも傷が走っているところを見ると、恐らく下半身も同じような状態なのだろう。
いてもたってもいられずそれを確かめようと、ベルトを外しファスナーを下ろそうとしたところで御堂の呻くような小さな声が響いた。
手を止めてじっと様子を窺っていると身じろぎと同時にゆっくりとその瞳が開かれていく。
数回の瞬きの後、佐伯の視線と交わった目ははっきりと見開かれ自分の置かれている状況を理解したらしい。
息を呑む気配とともに肌蹴ていたシャツの前を合わせ、今まさに晒されそうになっていた下半身をかばうようにベッドの上方にずり上がった。
「御堂」
取り合えず落ち着かせようと声を掛けてみるが御堂は俯いたままぎゅっとシャツの合わせ目を掴んだきり固まってしまった。
「何か飲むか? 喉、渇いてるだろう」
そう言い残してキッチンに行きミネラルウォーターのペットボトルを持ってくる。
それを手渡しながら、
「まだ休みたいならゆっくり寝ていろ。それからでもいい、もし……」
受け取った御堂から視線を逸らせて言った。
「話す気があるなら、リビングにいるから」
何の返答もしない御堂を一瞬見つめる。
まるであのときに戻ってしまったかのような虚ろな表情はただじっと手元の毛布に視線を落としているだけだった。
それから一時間ほど、佐伯は敢えて何も考えないようにしようと食事の支度をしていた。
といってもとくに買い物などしていないから簡単なサラダやアルコールを用意するだけで、御堂が食べられるようであれば何か出来合いのものを買ってくればいいという程度だった。
やがて、かちゃりと小さな音がして御堂が寝室から出てきた。
もう身体を隠すつもりはないのだろう、肌蹴たシャツをそのままにじっとドアの前で佇んでいる。
薄暗い寝室では黒ずんで見えた傷跡は思いのほか紅く、白い御堂の肌の上にあってくっきりとその存在感を見せつけていた。
「食べられそうか?」
「いや、いい。それより……」
掠れる声で答えた御堂は視線を俯かせたまま呟いた。
「こっちに来てくれないか」
そう言い残してさっさと寝室に戻ってしまった。
佐伯も野菜を千切って濡れていた手をさっとふいてそのあとに続く。
「ドアを閉めてくれ」
ベッドの前に立ち背を向けている御堂に言われるまま後ろ手にドアを閉める。
と、御堂は羽織っていただけのシャツから袖を抜きそれを床に落とした。
胸や腹とは違い、背中は傷一つなく綺麗なままだった。
さらにズボンを下ろし下着も脱ぎ捨てる。
こうして後姿を見る限りは以前のままだ。
薄々、御堂が望んでいることを感じ取った佐伯はゆっくりと近づきその両肩に手を置く。
触れた途端ぴくりと震えた身体は、しかしすぐに深呼吸とともに緊張の力を抜いた。
数回、肩から二の腕をさすりそっとうなじに唇を寄せる。
暖かく乾いた肌を湿らせるように舌を這わせ両手はそろそろと腰の辺りを躊躇うように行き来していた。
傷に触れてしまうかと思うとなかなか手を前に回せずにいたのだが、それを察したらしい御堂が佐伯の手を取り片方を胸にもう片方をまだ力のない自身に触れさせた。
そうして導いた手の上に自分の手を重ねゆっくりと動かし自らの感覚を高めていく。
次第に上がる息の中、ときおり低く喉を引きつらせては掴んだ佐伯の手をぎゅっと握り締めた。
緩く扱いていくうちに御堂の欲も硬さを増し弄っていた胸の頂もぷくりとふくれてくる。
「佐伯……」
濡れた声で名を呼び、口付けを強請っているのか首を逸らせ佐伯の後頭部に手を添えてきた。
「ん、……んっ、……ふぁ」
望まれるままに触れさせれば貪るように吸い付いて舌を差し入れてくる。
それを絡め互いの息を飲み込むように唇を交わしながら佐伯は相変わらずゆっくりと御堂の欲を弄び続けた。
やがてその少し無理な体勢に苦痛を感じ始めたのか、御堂は佐伯の腕を引いてベッドに倒れ込んだ。
そのまま間を置かず背中に腕を回し唇を求めてくる。
「さ、えき……」
「ん?」
唇を触れさせたまま紡がれる熱い吐息交じりの声に抱きしめられた背筋がぞくりとする。
「欲しい、はやく……」
自ら足を開いてそこを晒し、御堂は既に張り詰めてきている佐伯の熱を捉えてあてがった。
「いきなりは辛いだろう」
そう言ってベッドサイドの引き出しに手を伸ばしかけた佐伯を制して御堂は首を振った。
「構わない。……いや、そうだな。君も辛いな」
ふと視線を伏せて手を離した御堂に、佐伯は一つ息を吸い込むと一気に自分の欲望を突き入れた。
「あぁっ! ……っ!」
引き絞るような悲鳴が上がり御堂の全身が緊張に震えた。
「さえきっ、あっ、あ……っ」
まともに濡れてもいない皮膚とまだ硬い襞が擦れ合うたびにひりつく痛みが這い登ってくる。
それでも佐伯は動きを止めることなく御堂に身体を叩きつけた。
御堂にしてもかなりの痛みを感じているに違いないのに自ら腰を揺らして佐伯を呑み込もうとしてくる。
そのうちするりと滑りがよくなってきたのは、御堂のどこかが傷ついて出血したせいなのだろう。
苦しそうに眉を顰め唇を噛み、それでも中心にある欲望の形は佐伯の手淫もないのに硬く張り詰め先端から熱い蜜を流し始めていた。
それを見てはっきりと覚る。
これが御堂の求めていたものなのかと……。
心ではなく、きっと身体が勝手に求めてしまうのだろう。
揺れる御堂の身体を押さえつけ充血している胸の先端をきゅっと力を込めて摘んでやる。
「いっ……!」
びくりと跳ねると同時に佐伯を食んでいた襞が反応し、その刺激に思わず引きずりこまれそうになるのをなんとかやり過ごす。
一度、過ぎる快感を逃すように深呼吸をしてさらに摘んだ指に力を入れながら律動の間を狭くしていった。
すっかり勃ちあがった御堂の熱は佐伯の動きに合わせて淫らに揺れ、決定的な刺激を求めてぬらりとした熱を見せつけている。
それでも一向にそこに手を伸ばされないことに焦れたのか、御堂が躊躇いもなく自分の指を絡めていった。
優しい愛撫や気遣いだけでは足りなかったのだ。
一度はそれで満足しても、身体の奥深くに刻まれた記憶が蠢き求め始めたのだろう。
それを理解した佐伯は指の絡められたその根元をさらに自分の指で締め付けた。
「な……っ、やめ……!」
今にも吐き出しそうになっていたのだろうか、その出口を塞がれて抗議の視線を向けてくる御堂に薄ら笑いを浮かべて見せる。
「自分だけいこうなんて、勝手すぎやしないか?」
指先を食い込ませるほどに締めてやると途端に御堂の顔が苦痛に歪んだ。
しかしその苦痛と連動するように張り詰めた欲望がどくりと波打ち快感を訴えてくる。
そんな反応が佐伯の胸に苦しみと後悔の念を浮き上がらせたが、今は侮蔑の言葉と蔑むような視線を送ることしかできなかった。
「欲しくて一人でしてたのか。本当に淫乱な人だな、あんた」
言いたくもない言葉に自分自身が傷つけられる思いだった。
痛みを与えれば与えただけそれが自分に返ってくるのに、比例するように御堂の快感は増していくらしい。
「も……っ、さえ、き! 苦し……」
「でも、あんたはこれが……いいんだろっ? ほらっ」
ぐいぐいと腰を押し付け、同時に両方の指に力を込める。
「あぁっ! や……ぁ、んっ!」
佐伯の指に元を締め付けられているのが分かっているのに、それでもなお御堂は自分の手で昂ぶる自身を扱き続けた。
腰を揺らしもっともっとと求めてくる。
一体どこまでのことを望んでいるのか分からず、しかし佐伯にしても既に我慢の限界にきていた。
あまりに激しい御堂の熱に浮かされ、もうどうすることもできないほどになっている。
「みど……っ、く……ぁっ!」
全身が緊張に硬くなり、直後、眩暈がするほどの快感が広がっていった。
同時に指を離せば御堂も同じように悲鳴を上げて身体を強張らせる。
「はぁ……んっ! あ、あ、ぁ……」
いつまでも止まらない熱が佐伯の腹や胸を汚していく。
佐伯の放ったものも御堂の中に注がれ、びくびくと動く襞がそれを搾り取るかのように蠢いて離れなかった。
強烈な余韻を残す快感とだるさに抗えず佐伯は御堂の上にぐたりと上体を預けて荒い息をついていた。
頬を当てている御堂の胸も大きく上下し頭上からはまだ甘い声が零れてくる。
そんな中、御堂の腕が背中に回されもう片方の手が頭に乗せられた。
ゆっくりと背中をさすり指先が髪を梳いてくる。
「みどう……」
久しぶりに味わう事後の快感と幸福感に満ちた余韻。
しかしそこに至るまでの経過は二人にとってあまりにも辛いものだった。
不意に意識が浮き上がるように目が覚めた。
視線を巡らせるとすぐ横に御堂の顔がある。
寝乱れて額に落ちた前髪や薄く開いた唇が無防備にあどけなくて、そんな姿を見るだけで佐伯の胸はほんのりと暖かくなった。
が、すぐに彼の置かれている状況に思い至り暗澹たる気持ちに覆われていく。
御堂の身体の傷は主に左半身に見られ、とくに痣は左足の太ももに集中していた。
その痣は細長い跡を残しており、佐伯もよく見知っている鞭を打ち据えたときにできるものに違いないと確信できた。
しかも背中には一切の跡がないところを見れば、どうしたって御堂が自分でつけた傷跡であるとしか考えられなかった。
どれだけ丹念に愛撫を施しても達することができず、苦しそうに眉根を寄せそれでいて切なく視線を伏せた表情が脳裏を過ぎる。
恐らく自分でも戸惑っていたのだろう。
まさか自ら痛みや侮蔑の言葉を求めるようになるなど思ってもいなかったに違いない。
瞼にかかっている髪を指先でよけてやる。
と、その瞼がぱちりと開いて佐伯を見つめてきた。
目が覚めたばかりとは思えないしっかりとした視線に思わず苦笑が漏れる。
「起きてたのか?」
「……ああ」
互いにゆっくりと唇を近づけて抱きしめあう。
満たされるという言葉がぴったりの穏やかで温かい空気は、しかし御堂の呟きによってほんの少しだけ壊された。
「私を……軽蔑、するか?」
「いや」
髪に口付けを落としながらぎゅっと抱きしめる。
間を置かない佐伯の返答に御堂もその首筋へと甘えるように頬を埋めた。
そのまましばらく髪をいじりながらときおり首に触れてくる柔らかい感触を楽しむ。
今この時間だけが現実であったならと、そう考えると余計に腕の中の御堂が愛しく大切な存在だったのだと思い知らされる。
しかし昨夜のこともまた逃れることのできない現実だった。
「御堂」
「ん?」
「この傷は、あんたが自分で?」
「……ああ」
もう一度抱きしめる腕に力を込め、傷のない背中をゆっくりとさすってやる。
それがくすぐったいのか、御堂は僅かに肩をすくめて身を震わせた。
「どうしようもなかった」
そうしてぽつりぽつりと呟く。
「少し前から気づいてはいたんだ。しかし……どうしていいか……」
どれだけ優しくされても激しくされても、痛みと羞恥が伴わなければ興奮できなくなっていた。
しばらく佐伯から離れていれば何か変るかもしれないと思ったが実はそれは逆効果で、毎晩毎晩佐伯が欲しくて堪らなかった。
そうして思い出すのは監禁されていたあの頃のことで、そのときのことを考えると異様に興奮してしまうのだ。
心ではこんなことはおかしいと、絶対にあり得ないことなのだと思いながらも身体は苦痛を求めていた。
「まさに想定外だな」
ふっと笑んだ声音には自嘲の色が浮かんでいる。
「御堂、お前しばらくここから通え」
「は?」
「ここから仕事に行けと言っているんだ」
「なんだ、急に……」
「あんたが欲しいならなんだってしてやる。だから……」
「…………」
「俺のいない所で自分を傷つけたりするな」
思わず目頭が熱くなり喉が震えた。
声が詰まりそうになってそれをやり過ごすためにゆっくりと息を吸い込む。
「ここに、いろ」
それでもやはり声は掠れてしまった。
しかし腕の中の御堂は何も答えず、ただじっと息さえも潜めるようにして動かない。
佐伯も無理に答えを要求することなくゆっくりと小さく背中をさすり続ける。
そうして再び静かな時間が訪れ互いの温もりに浸る中、御堂が僅かにこくりと頷くのを佐伯は感じ取っていた。
「あ、御堂さん!」
「おはようございます、もう大丈夫なんですか?」
佐伯にむりやりのように一日休まされて出社した御堂に社員たちの視線が一気に集まった。
「心配をかけてすまなかったな。もう大丈夫だ」
いつものように冷静で有能な上司の顔を見せる御堂に彼らもホっとした笑みを見せる。
そんな彼らをパソコンのモニタ越しに見ていた佐伯は、ほんのさっきまで部屋でゴネていた御堂の姿を思い出してふっと口の端で笑ってしまった。
しばらくは佐伯の部屋から通うことにした御堂は体調のせいもありあれから一度も自分の部屋に戻っていない。
本人は着替えだけでも取りにいきたいと言ったのだが佐伯がそれを許さなかったのだ。
佐伯にしても今御堂を自分の目の届かないところに行かせるのは嫌だったし、だったら一緒についていこうかとも考えたのだが御堂が自分自身を傷つけていたその部屋に再び彼を行かせることは不安だった。
結局、じゃあ着替えはどうするんだと言う御堂に無理やり自分のスーツを着せたのが1時間ほど前のことだ。
サイズは似ているがどうにも人のものは落ち着かないとごねる御堂を一日くらい我慢しろと宥めたのだが、その目元にほんのりと恥じらいの色を浮かべているのを佐伯は見逃さなかった。
数日前の張り詰めた神経とその後の苦痛を伴う行為を知っているだけに、御堂の今朝の穏やかな姿は佐伯の気持ちをやんわりと解してくれる。
しかしこうして笑顔の社員に囲まれていつものようにてきぱきと指示を出す御堂ではあるが、その奥にある暗い影が消えたとは到底思えないのだ。
自分のしたことに原因があるのは明らかで、なんでも望む通りにするとは言ったものの先のことを考えるとどうすることが一番いいことなのかがさっぱり分からない。
渡されたコーヒーカップを手に自分のデスクに戻る御堂を横目で追いながら、佐伯は小さく息をついて目の前のモニタに視線を戻した。
それからいつものように進む時間の中、営業社員が外に出てしまい事務として残っていた一人も金融機関に行ってくると伝えて出かけてしまった後。
そうしてオフィスに誰もいなくなるのを待ち構えていたように御堂が佐伯の側にやってきた。
「午後のベルフーズとの打ち合わせが終わったらそのまま一度部屋に戻ってこようと思う」
ん? と資料から目を上げた佐伯を御堂が真っ直ぐに見下ろしてくる。
しかし佐伯はそれをあっさりと「駄目だ」と却下してしまった。
「着替えがないだろう、どうにも人の服は落ち着かないんだ」
「だったら俺が取ってきてやる」
「なぜ? 体調だって一日休んで戻っている。それに人にクローゼットを漁られるなど……」
「駄目だ」
「何がいけないんだ。ただ服を取ってくるだけだぞ?」
たん、と御堂はデスクに手をついて表情を覗き込んでこようとするが佐伯はそれを無視して書類に視線を戻してしまった。
「まったく……」
それ以上は交渉しても無駄と思ったのか、御堂は溜息をついてその場を離れようとした。
途端、がたりと椅子から立ち上がった佐伯が御堂の腕を捉えて引き寄せる。
驚いて言葉を発する前に、佐伯はその開かれた唇に舌を差し入れて黙らせる。
「ん……っ」
最初の一瞬は大人しかったものの、すぐに御堂は抵抗を始めて身体を離そうとしたが首をしっかりと押さえているため唇だけは離すことができない。
「ふぁ……ん……」
しばらく続いた抵抗がやや収まりかけたところで佐伯がふいに唇を離す。
「あ……」
思わず舌を追いかけてしまった御堂が気まずそうに声を漏らした。
それを聞いた佐伯の口角が僅かに上がる。
「あんたの望むようにしてやる、その代わりここにいろと言ったはずだ」
「しかし……」
「今だって、内心では打ち合わせの帰りに勝手に行こうとか思っているんだろう」
「…………」
小さく呻いたのはそれが図星だったからだろう。
唇を離したとはいえ、まだ間近にある瞳で見つめると御堂はばつが悪そうに視線を外した。
「とにかく服は俺が取りに行く。それで我慢しろ」
「だったら私も一緒に行く。何を気にしてくれているのか知らないが、いくらお前でも勝手に部屋をいじられるのはいい気がしない」
「わかった」
とりあえずそう了承しておいて佐伯はもう一度小さくちゅ、と口付けをする。
「ほら、続きは後でしてやるから今は仕事に戻れ」
「な……っ、それは君が……」
しかしあっさりと御堂を離した佐伯はさっさと席に戻りキーボードに指を走らせ始めた。
これ以上言っても無駄だと思ったのか自分が部屋に同行することに納得したのか、御堂も「まったく」と小さく呟いて自席へと戻っていった。
事務担当が戻ってきたのはそれからすぐで、昼近いオフィスは3人のキーボードを叩く音や書類を捲る音だけが静かな音を響かせていた。
御堂が同行することを了承はしてみせた佐伯だったが、実際に彼を部屋に連れて行く気など毛頭なかった。
午後になって御堂が打ち合わせに出たところを見計らって適当に考えた言い訳を残してオフィスを出る。
必ず一度部屋に戻ると言い出すに違いないと思ったからスーツのポケットからカードキーは抜いておいた。
佐伯のスーツを借りるくらいなら昨日と同じ服でいいと言う彼に無理やり自分のスーツを押し付けたのもキーを抜いたことを悟られないためだった。
昼間でも比較的混雑している道をたまに横道に逸れながら御堂の部屋へと急ぐ。
やはり多少なりとも後ろめたさはあったから、できるだけ早くこんな用事など済ませてしまいたかった。
そのせいか、多少苛つく気持ちを抑えてやっと部屋に到着したときには予想以上の時間が過ぎていた。
キーを使い部屋に入ると乱暴に靴を脱ぎ捨て寝室まで行き、クローゼットに並んでいるスーツを次々とベッドの上に放り投げていく。
そうしてシャツや私服などを適当に選び取っていくうちに衣類や移動式の棚の奥に小振りの箱が置かれているのが目に入ってきた。
横にはネットでも有名な通販サイトのロゴが印刷されている。
薄暗がりに置かれているただの箱なのに、佐伯にとってはなんとなく嫌な感じを受けるものだった。
とうてい服が入っているとは思えないそれを開けてみる。
薄っすらと想像していたものがそのまま入っていたことに一つ息をついて目を閉じた。
そこにあったのいくつかの淫具と鞭だった。
途端に過去の記憶が蘇って、佐伯は箱の蓋を閉じて記憶ごとぐいとそれを奥へ押しやる。
そうしてある程度の着替えをベッドの上に乗せてさすがに一度には持っていけないと車までの往復を考えていた時、開け放した寝室のドアの向こうで派手にガチャリという音がした。
その直後、
「佐伯!」
という怒鳴り声が聞こえてくる。
この誤魔化しようのない状況に、ちっ、と軽く舌打ちをして佐伯は開き直ったようにドアの方に身体を向けた。
「佐伯!」
声と同時に御堂がドアの向こうに姿を現した。
はあはあと肩で息をしているのはエレベーターを降りて部屋まで走ってきたせいだろう。
ドアに手をかけてじっと佐伯を睨みつけてくる。
「どうした?」
平然と言い放つ佐伯に御堂はあっという間に距離を詰めてベッドサイドまでやってきた。
「どういうことだ、これは?」
「言っただろう、代わりに取ってきてやると」
「私も一緒にと言っただろう!」
「ちょうど時間が空いたんだ。あんたが戻ってくるのを待っているのは時間の無駄だ」
「きさまは……」
ぎりぎりと歯を噛みしめながら零れた声は僅かに震えている。
が、それからほんの少し佐伯を睨みつけてから、ふっと力が抜けたようにベッドの端に腰を下ろした。
「どうしてだ、ただ服を取りに戻るだけだろう。一体何を気にしているんだ」
それまでとは全く違う静かで落ち着いた声で問いかけてくる。
肘を膝につけるように背中を丸めて、御堂は組んだ手の上に顎を乗せながらじっと床を見つめたままだ。
しかし佐伯はそれを無視してクローゼットを閉めるとベッドに放られたスーツを一着二着と手に取り始めた。
「どうせ来たのなら手伝え」
まだ残っているスーツや私服を視線で示してそう言うと佐伯はさっさと寝室を後にしようとした。
「待て、佐伯!」
追いかけてきた御堂が佐伯の腕を掴んで振り向かせる。
そうして両肩にしっかりと手を置いて何を考えているのかと瞬きもせずにじっと佐伯の目を覗き込んできた。
「佐伯」
僅かに顔を寄せ、見つめる瞳が語るものを読もうとするかのように目をすがめる。
「私は大丈夫だ、もう無茶なことはしない。しばらくは君のところにいる。……一体何を心配している?」
むしろ自分の方が心配をしているかのような顰めた声に佐伯は一瞬眉を寄せて、手にしていたスーツをばさりと床に落とし肩に添えられた手をぐいと剥ぎ取った。
そのまま御堂を引っ張ってキッチンまで行くといきなりスーツの上着を脱ぎ捨てワイシャツの袖を捲くり始めた。
訳も分からず無言でその様子を見ている御堂にちらりと視線を向けて小物用の引き出しから果物ナイフを取り出す。
佐伯はそれを躊躇いもなく袖を捲り上げた腕の中ほどに滑らせた。
「佐伯っ!」
御堂が叫んだときにはもうナイフは皮膚を浅くではあるが切り裂き、そこから薄っすらとした血が滲み始めていた。
唖然として声も出せずにいる御堂の目の前で、佐伯は腕を視線の高さまで上げてぎゅっと拳を握り締める。
滲んでいた血の色が濃くなり溢れ、肘を伝って一滴がぱたりと滴り落ちた。
「なにをしてるんだ!」
我に返ったように慌てた御堂はバスルームに走り込んだ。
タオルを手に戻ってくるとそれを佐伯の腕にぎゅっと押し当てて睨みつける。
「どういうつもりだ、こんなこと……」
呻くように呟きながらしばらく傷口を押さえ続け、少ししてからタオルを外してみるがまだ血は止まらないらしくすぐにまた傷を押さえる。
そうやって眉を顰めてタオルを見つめ続ける御堂のネクタイを、佐伯はナイフを放り投げた右手で緩めシャツのボタンを一つ二つと外していく。
「おい……」
咎めるような声に構わず襟元を左右に広げて鎖骨の下あたりにある傷を撫で上げた。
「あんただって、同じことをしたんだろう?」
そう言いながら幾度もいくども既にかさぶたになっている傷の上に指を滑らせる。
「この部屋で一人で、こうやって」
押さえられている自分の腕に視線をやりそのまま御堂の瞳をじっと覗きこむ。
しかしその視線を受け止めきれない御堂はふっと視線を逸らせてしまった。
その顎をつかみ強引に唇を合わせる。
乾いた皮膚を舐め回し僅かな隙から舌を忍ばせ絡ませた。
何の抵抗もないどころか御堂もすぐに応えるように佐伯の口付けを迎え入れる。
次第に息が上がり濡れた音が絡む中、御堂は傷を抑えていたタオルを離し佐伯の背中に腕を回した。
言葉に出せない分ぎゅっと抱きしめこれ以上の隙間はないのにそれでももっとくっつきたいのだろう、痛いほどに腕を締め付けてくる。
呻きながら夢中で口付けを交わし互いに腰を擦り合って、佐伯の手は御堂の尻をまさぐりこのままここで欲をぶつけるつもりでいることを伝えていた。
「ん……ぁっ、さえ……もっ……」
御堂は下半身を露にしてシンクに伏せるようにした腕に顔を埋めていた。
もう声など抑えるつもりはなく開いた唇からは絶え間なく激しく苦しげに、しかしこれ以上にないほどの甘い快楽の声が零れ続ける。
身体はもはや意思など失くしたように、ただひたすら与えられる快感をもっと高めようと腰を揺らす。
腕や頬を押し付けられているシンクはすっかり御堂の体温と同化していた。
肌蹴たシャツに半ば隠されている腰に手を添えて佐伯は容赦なく欲望を叩きつけていくものの、熱くなる身体とは裏腹に不安と苛立ちが小さなシミのように点々と心の中に落とされていく。
そして認めたくはないものの、その中にはほんの僅かな蔑みの思いが紛れ込んでいた。
―― なぜこんなにも感じて今にもイきそうになっている?
激しく苛んではいるが痛みを与えているわけでも罵倒や辱めの言葉を与えているわけでもない。
なのに御堂の熱は後ろからの刺激だけで今にも達しそうなほどに張り詰めとろとろに蜜を流している。
佐伯が腕につけた傷を見て、この部屋での自虐行為を思い出しているのだろうか。
こうして快楽の淵に追い詰めているのは自分ではなく記憶の中の行為なのだろうか。
「ぅあっ……ぁっ、やっ!」
なぜ痛みを必要とするのか、その心理的構造など分からない。が、その原因を作ったのは明らかに自分だ。
そんな自分への自己嫌悪と暗い穴にはまりこんでしまった御堂へのあってはならないはずの蔑みの気持ち。
なぜそんなことに感じるのかと……。
「ふ……んっ」
それまでの鮮やかな喘ぎがふいにくぐもった声に変った。
既に自分も限界にきていた佐伯だったがその異変を感じ取り、視界に入っていなかった御堂の口元を覗きこんだ。
ずっと顔を埋めていた手の甲に唇を当て声を抑えようとしているようではあったが、よく見れば唇の端に赤いものがちらりと覗く。
それを目にした途端、心の隅にあったシミが一気に広がり佐伯は御堂の手を取り捻り上げていた。
同時に悲鳴に近い声が上がり御堂が驚いた目を向けてくる。
掴んだ手の甲を見てみれば、そこにはくっきりとした噛み跡に血が滲んでいた。
「俺だけじゃ満足できなわけか」
ゆっくりと傷に舌を這わせて舐め上げれば、それさえも御堂には快感なのかひくりと佐伯自身を締め付けてくる。
「ちが……」
必死に首を振るものの傷を舐められ続けていることに明らかに御堂の欲も襞も反応していた。
「痛いのがいいんだろう、あんたは?」
「ちが、う……ひぁっ!」
前に回した指で乳首を摘みぎゅっと捻り、ぎりりと耳朶に歯を立てた。
引き付けるような悲鳴に肩がびくびくと震え、御堂の唇からは意味をなさない声が零れるばかりだ。
「どうした、イけよ……ほらっ」
「あぁっ!」
深く、これ以上はどうしたって無理だと分かっていても、それでももっと深くと御堂を貫く。
―― 俺だけでイってくれ
自分の与える刺激と言葉だけを快感として受け取ってほしい、それ以外のものなどいらないのだと見せ付けてほしい。
そうでなければ自分はまた……。
苦痛ともとれる悲鳴を聞きながら佐伯はぎゅっと目を閉じて御堂を苛み続けた。
また自分の手を噛まないようにその口に指を差し入れ、もう片方で前の熱い蜜を絡め取り擦り付ける。
目尻に涙を溜め声も掠れる中、御堂が果てたのは何を引き金としていたのか。抑えきれない荒い息をその首筋に埋めながら、佐伯は自分の中にかつての黒い欲望が薄っすらと浮かび上がってくるのを感じ取っていた。
昼間のオフィスでは意見を衝突させることはあるものの佐伯と御堂は誰が見ても息の合ったパートナーだった。
しかし御堂が佐伯の部屋から出勤するようになって、プライベートでの関係は一変してしまった。
同じリビングにいてもそこにはぎこちない空気が漂い、とくに夜も遅い時間となれば御堂は佐伯から逃れるように寝室として使っている部屋に篭ってしまう。
佐伯にしてもそれを敢えてどうこうすることもなく、黙って見送り自分もまた寝室へと引き上げるのだ。
御堂の心の葛藤もあるだろう。
自分では望んでもいないはずなのに身体が勝手に求めてしまうものに戸惑っているに違いない。
あり得ないことではあるが、もしも御堂が認めてそれを佐伯に強請ってくるのであればまだよかったと思う。
一つのプレイとして拘束具でも鞭でも使うことはできるだろう。
が、やはりそれはあり得ない。
何度か寝室に戻ろうとする御堂を捕まえて抱いたときにそれは確信していた。
過去の経験とプライドが決して求めることを許さないのだ。
御堂にとっては達しきれない中途半端な快感の中でどれほどその刺激を欲しがっているのか、ときおり自分の腕に噛み付こうとする彼に代わって佐伯が肩や腕にぎりぎりと歯を立てざるをえないこともしばしばだった。
そのたびに、御堂は小さな小さな声で「すまない」と謝るのだ。
―― どうしてっ!?
謝るべきは自分だ。
御堂は佐伯を責めることはあっても謝る必要などない、全ては自分の行為に端を発しているのだから。
「謝るな……っ」
腕の中で苦しげに眉を寄せる御堂に佐伯もまた苦しい息の下から言葉を吐き出す。
「どうして、ほしい? ……言って、みろ……っ」
もっと辱めと痛みが欲しいのなら望む通りにしてやるつもりだった。が、御堂がそれを口にしない限りできるはずもない。
佐伯にとってもかつての行為は自分に対する嫌悪と憎悪、そして今も残る呵責以外のなにものでもないのだ。
そうして僅かに感じる苛立ちが、もしも御堂の望むことを実行したときにどう自分に作用するのかが怖かった。
御堂の口から漏れるのは残酷な快感への喘ぎばかりで佐伯の望む言葉は出てこない。
それでも佐伯は御堂を抱きたくて抱きたくて、その欲望を抑えることはできないのだ。
互いに互いの気持ちは感じ取っていた。
御堂は陵辱と痛みを求めつつもそれを認められず、そんな自分を見られることを恥としている。
口にすることはできるかもしれないが、その行為を強請ることは佐伯にもまた痛みを与えることなのだ。
歪みから始まった関係はやはりどこかが歪んだままなのだろうか。
想いを繋げて全てはまるく収まったと思っていても、いつかはその歪みが顔を覗かせてしまうことは必然だったのかもしれない。
今は穏やかな表情で眠り込んでいる御堂を見つめながら、佐伯もまた引きずり込まれそうな眠気の中で額に張り付いた彼の前髪をよけてやった。
薄く開かれた唇をそっと吸い上げると無意識のうちにも僅かに反応を返してくるが、それもすぐになくなり小さな寝息だけが残される。
「あんたは、本当に……」
―― それを望んでいるのか?
唇だけで呟いて佐伯はもう一度口付けをして目を閉じた。
こうしていれば切ないほどに穏やかで暖かい想いに包まれるのに、御堂が目を開けてしまえばまたぎこちない空気が漂うのだろう。
いつまでこの状況が続くのか、この状態を保っていられるのか、もしかして踏み切ってみれば案外なんでもないことなのかもしれない。
それでも。
佐伯はもう二度と御堂に傷を与えることなどしたくはなかった。
そんな生活がそろそろ一ヶ月になろうとする頃。
御堂がここに来た当初より二人の空気は穏やかになっていた。
身体を重ねる回数はかなり減ってはいたものの御堂は寝室に篭ることも少なくなり、リビングで話をしたり一緒に映画を見たりすることが当たり前のように振舞っていた。
行為に痛みを欲しがるのは相変わらずだが、それでもどうすれば御堂がきっかけを掴めるのかが分かってきて、以前と比べれば比較的スムーズに快感を極めることができるようになっていた。
もしかしたらこのまま時間が過ぎて半年、一年と経てばなんでもないことになっているかもしれない。
なんの不安も苛立ちもなく毎晩のように御堂と抱き合っていたりするのかもしれない。
そんな僅かな希望を見出しそうになっていた佐伯だったが、それはやはり儚いものでしかなかった。
しばらくして御堂の腕につけた噛み跡がさらに紅く、そして僅かに広がっているのに気づいたのだ。
そんな几帳面に跡が重なるように噛んだ覚えもないし偶然にしてもそこまで綺麗に同じ場所に歯を立てられるとは思えない。
「これは……あんたが?」
腕を取ってベッドサイドの灯りに晒して問うと御堂は小さく唇を噛んで視線を逸らせた。
―― 結局、こうなるのか?
「自分で噛んだのか?」
ぎゅっと手首を掴む手に力を込める。
「ここを噛みながら自分でしてたのか?」
きっと御堂自身にも抑えられない衝動だったであろうことは分かっていた。
だから追い詰めるつもりはないのだと、本当は荒げてしまいたい声を懸命に抑えて御堂を見つめる。
「……すまない」
そう答えて目を閉じた御堂の睫毛が小さく震えていた。
感じてはいけないはずの哀れみと苛立ち、けれどそれを凌いでしまうほどの愛しさ。
互いに相手を求めているのは間違いないのだ。
掴んでいた腕を解きぎゅっと御堂を抱きしめる。
「いいんだ、謝るな。……あんたは悪くない」
けれど御堂は「すまない」ともう一度呟いてそれきり黙り込んでしまった。
つくづく強くてプライドの高い人だと思う。
そんな彼が恥ずかしいと感じている自分の行為をすまないと認めるなど、どれほど辛いことだろう。
抱きしめる腕に力を込めて佐伯は御堂の首筋に唇を埋めた。
どうしようもないほどの想いが込み上げて胸の奥が痛くなる。
「御堂……」
今はただ抱きしめて名前を呼ぶことしかできなくて、どうしていいか分からないけれど御堂を手放したくないことだけは確かで。
腕の中で黙り込んでいる御堂を感じながら、佐伯はわけも分からず叫び出したくなっていた。
御堂が持ち込んだであろうそのダンボールの箱には見覚えがあった。
一人で御堂の着替えを取りに行ったとき、クローゼットの隅にひっそりと置かれていたものだ。
それが佐伯の寝室のベッド脇に置かれていた。
どうしても口にすることのできない御堂の意思表示なのだろう。
そうすることで何かが動き出すだろうかと、とても期待とはいえない思いを抱きながら佐伯はその場に立ち尽くした。
その箱を開けたのは翌晩で、御堂は自ら佐伯の寝室を訪れ手首を差し出した。
薄暗いオレンジ色の灯りの下で俯く表情は見て取れないものの、薄っすらと筋の浮いた手首は僅かに震えていた。
そこに冷たい拘束具を嵌めベッドの脚に固定する。
無言のうちに静かに行われるそれはまるで何かの儀式のようで、大人しくされるがままになっている御堂は覚悟を決めた生贄のようだった。
俯く顔を上げさせ唇を合わせる。
先に舌を差し入れてきたのは御堂だった。
それがひどく哀しく辛く、けれどそんな口付けに煽られて身体は次第に熱くなっていく。
こうして感じているのは愛しているからなのだと思いたかった。
どうか明日になってもこの気持ちが変らないように、心の奥にあるかつての身勝手な自分が暴れ出さないように、そう願いながら御堂のシャツのボタンを外していく。
鎖骨の下、初めて見つけた傷は既に消えてなくなっていた。
その見えない跡に舌を這わせると耳の傍で小さく息を呑む気配が感じられる。
暖かい素肌に触れていけばまるで条件反射のように胸が高鳴り下肢に血が集まっていくのが感じられるのに、これから愛しい者を抱こうという佐伯の心を占めているのは恐れだった。
けれどそれを払拭するように舌を這わせ指を滑らせる。
やがて静かな寝室は甘い色を含んだ吐息と淫らな音に満たされていった。
翌朝。
佐伯が目を覚ました時、隣に寝ていたはずの御堂はいなかった。
無意識に手を伸ばして彼がいた場所を探ってみたが返ってくるのは冷えたシーツの虚しさだけだ。
「御堂……」
ベッドから降りようと半身を起こしてみれば毛布が捲れて自然その下の様子が目に入る。
ところどころに掠れてついた赤黒い血の跡。
佐伯は思わず目を閉じ拳をぎゅっと握り締めた。
鞭の先端が肉体に当たる瞬間の僅かな弾力を含んだ感触がまざまざと蘇ってくる。
思い出しても吐き気が込み上げそうなその記憶に、けれど佐伯はほっと胸をなでおろしていた。
―― 愛してる。
鞭を受けて震えている姿も、そんな痛みの中で貫かれ善がっている姿も全てまるごと愛していた。
「御堂」
とりあえず、嫌がるかもしれないが傷の手当てをしよう。
それからコーヒーを淹れて朝食をとって、休日の一日をのんびりと過ごそう。
「御堂」
けれどその姿はどこにも見当たらない。
「御堂?」
バスルームにも御堂が寝室に使っていた部屋にもトイレにもいなくて、こんなこと前にもあったなと思い出しながら佐伯は玄関に向かった。
やはりそこに御堂の靴はない。
「まったく……」
血の滲んだ跡はシャツが擦れるだけでも痛むに違いない。
そんな状態でどこに行ったのかと溜息をつくが、佐伯はそれほど不安を感じてはいなかった。
それでも軽くシャワーを浴びて手早く着替えると足早にオフィスへと向かう。
そうして僅かに息の上がったままドアを開けてオフィスに入り御堂の姿を探した。
が、それはどこにもない。
「御堂」
静かな室内はほんの僅かその声を反響させてくる。
「……ったく」
小さく舌打ちして、当ての外れた佐伯はとりあえず部屋に戻ろうとしたものの、ふいに視界の端に入り込んだものに引き付けられて足を止めた。
佐伯のデスクの上に置かれているのは封筒だろうか。
それを凝視しながら近づき手に取ってみる。
『休職届』
それはただでさえ几帳面な御堂の、他人行儀すぎる丁寧な字面だった。
御堂の抜けた穴を埋めるのは思った以上の労力を要した。
けれど佐伯は御堂の代わりになるような人材も、また新たな社員を雇用するつもりも全くない。
当然、社員たちもそれまで以上の仕事量をこなすばかりでなく、レベルの高い企画も受け持たなければならなくなる。
それでも佐伯や御堂に憧れて入社してきた彼らは不平ひとつこぼすことなく、むしろその状況に挑む勢いで自分たちのノルマをこなしていった。
御堂が残していった封筒は、そのまま封も切らずデスクの中にしまわれている。
封を切る必要はなかった。
その手触りから中には何も入っていないことなど容易に分かる。
試しに窓越しの陽射しにそれをかざしてみたが、果たしてそこには何の影も映らなかった。
理由は自分で考えろというのか、それとも分かるに違いないと高をくくっているのか。
どちらにしろ黙ってこんなものを置いて出て行くなどけしからんと、佐伯は御堂が戻ってきたら思いきり社員たちの目の前で説教をしてやるつもりでいつか来るその日をてぐすね引いて待ち構えることにした。
そうして気がつけば季節は夏から秋へ、さらに空気がすっきりと澄み渡る冬へと移り変わっていく。
相変わらず忙しい佐伯の会社も世間並みに年末年始の休みを迎えていた。
それでもオフィスと部屋が目と鼻の先にある佐伯はそんなもの関係なしに誰もいないオフィスに入って一人仕事を続けていた。
しんとした静けさの中、こうしていると聞きなれた足音がして今にも御堂がそこのドアから入ってきそうな気がする。
たった二人で仕事をこなしていた日々がついこの間のように思えた。
まるでいつもの平日のように仕事をこなし窓からの夜景を望める時間になる頃、佐伯は固まった肩を解すように背筋を伸ばして席を立った。
つい癖で窓辺に歩み寄ってみれば、眼下にあるイルミネーションは今夜も繊細に輝き疲れた佐伯の目に映り込んでくる。
あと数時間で新年を迎えようとしている街は今年も相当な賑わいを見せているのだろう。
けれどその喧騒はここにまでは届かない。
しばらく静かに煌めく光を見つめて、佐伯は慣れた手つきでブラインドを下ろした。
オフィスの戸締りをして部屋に戻ったらすぐにシャワーを浴びようと思っていた佐伯だったが、部屋に入る直前で足を止めたままじっとドアノブを見つめるはめに陥った。
ノブには白い高級そうな艶の加工を施した紙袋が下げられている。
ちょっと中を覗いてみれば、そこにあるのは青いリボンを掛けられた細長い箱だった。
そして一枚のカード。
『Happy Birthday』
そんな手書きのメッセージがあるだけの真っ白なカードだった。
慌ててリボンを解き箱の蓋を開けてみる。
想像通りのものが入っているのを確認すると、佐伯はそれを手にしたままエレベーターに向かって走り出した。
苛々しながら1階に着くのを待ち、僅かに開いた扉を手でこじ開けるようにして外に出る。
そうして輝くイルミネーションとざわめく人ごみの中、記憶に刻まれている後姿を捜そうと視線をあちこちに彷徨わせた。
もちろんそんなことは無駄だと分かっている。
それでも捜さずにはいられなかった。
捜して動き回る以外、今はどうしていいのか分からないほどの衝動に駆られうろうろとオフィスビルの周囲を歩き回る。
薄着のまま出てきてしまった身体を冷たい空気が包み込み一気にその体温を奪っていった。
やがて紙袋を持つ指先の感覚がなくなり始めた頃、佐伯は植え込みの傍にあるベンチに座り込んで溜息をつく。
―― 御堂……。
ぎゅっと拳を握って震える佐伯の目の前をイルミネーションを楽しむ人々がゆっくりと通り過ぎる。
その流れにぼんやりと視線を彷徨わせ、佐伯は無意識のうちに彼らの向こうに御堂の姿を描き上げた。
けして動こうとしないその幻はじっと佐伯の方を見つめて穏やかな表情を浮かべている。
目元に僅かな笑みを乗せてほんの少し視線をずらしたそれは、朝、同じベッドで目が覚めたときによく見せていたものだった。
―― 御堂、何やってるんだ、あんたは?
『君こそ、そんな薄着で……まったく』
―― あんたのせいだろうが
『私の?』
―― あんたがこんなものを置いていくから
『いいワインだろう?』
―― それを俺一人で飲めと?
『そうだな、……あと一年くらい待ってみろ』
―― 待てばどうなる?
『もっと美味く飲めるかもしれないぞ』
―― あてになるのか?
『どうだろうな』
―― ……ったく
溜息をついて苦笑した佐伯は一度紙袋に視線を落として立ち上がる。
人の流れの向こうにいたはずの彼は消えていた。
「……ったく」
小さく舌打ちしてベンチを後にする。
少し落ち着いてみれば凍るような寒さが身に沁みてくるのだが、それでも佐伯は背筋を伸ばし顔を上げて歩き出した。
もしかしたら、まだそこにいて自分を見ているかもしれない幻に情けない姿など晒せない。
数歩進めて、一度だけ後ろを振り返る。
そうしてやはりそこに彼がいないのを確認すると、佐伯は幻を振りきって足早にビルの入り口へ向かった。
手に提げた紙袋が人に当たらないよう腕に抱え込んでちらりと中を覗いてみる。
イルミネーションの輝きを僅かに反射している青いリボンが唯一、今日が佐伯にとって特別な日なのだと伝えていた。
2008/01/10
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