月が空に昇るのを待って重い扉を開いた。
周囲の草木を揺らしているひやりとした風が頬を掠めていくのが心地よく、私はしばらく扉に手をかけたままその感触を楽しむ。
目を閉じて耳を澄ませば風や木々のざわめきに混じって生き物たちの僅かな音があちこちから聞こえてきた。
夜行性の鳥、地中に蠢く虫、木の根元の鼠……。
秋から冬に向けてのこの時期が私は一番好きだ。
春はうるさ過ぎるし冬は静か過ぎる。
生き物の世界が次第に終息に向かうような、毎日少しずつ静かになっていく初冬の夜は私の死に対する憧れを具現化したようなものだった。
一歩、足を踏み出せば青白い月の光が私の肌を照らした。
あまりの眩しさに思わず眼を背け、まるで太陽のようだと思った瞬間胸の奥がつきりと痛む。
望んで受けた命ではなかった。
何度も放棄しようと試みたがそれらは全て無駄に終わり、あまりに長い年月の中、自分の身に降りかかった運命に抗う気持ちは次第に風化していった。
仲間と接触することを避け、ずっと一人で過ごしてきたこの数世紀。
一人でいれば感情などすぐになくなってしまうと思っていたのに、この身は化け物と成り果てても罪悪感という私にとっては一番邪魔になるものだけが残されてしまった。
それさえなければ、もしかしたら新たな命も享楽とともに甘受することができたのだろうか。
僅かに光が弱まったような気がしてゆっくりと目を上げてみれば、薄っすらと灰色の雲が月を覆い隠し始めていた。
月といえども鋭すぎる光は私の肌を刺す。
それでも私はあえて満月の強い光の下に身を晒した。
例え間接的だったとしても月の放つ光は太陽の光なのだと、それを受けることで少しでも人間であった頃の自分を保っていられるのではないかと望んでいたのだ。
この先巡ってくる世紀の中で、私の心が化け物に同化してしまわない保障などこどにもないのだから……。
なんの希望もなくただ一人昼に眠り夜に彷徨う日々に変化が生じたのはこの地に流れてきて十数年が過ぎた頃だった。
それは月の姿も隠してしまうほど厚い雲の垂れ込める夏の夜で、私は城の裏庭に降りる階段に座って夜顔の放つ甘い香りの中に埋もれていた。
その白い花の芳香は肌にまとわりつくような空気と絡んで濃密な感覚を神経に注ぎ込んでくる。
目を閉じてその感覚だけを追っていけば、次第に私の意識は浮き上がり全ての煩わしいことから解放されるような悦楽を味わうことができた。
このままここで永遠に眠ることができたら幸せなのに。
いつだったかそんな考えに捉われ、私はこの場に身を横たえそのまま眠ってしまったことがある。
陽が昇って夜にしか咲くことのできないこの花たちとともに消えることを願っていた。
しかし気がつけば私は城の地下室にいたのだ。
血に流れる本能が死を拒絶し危険を察したのだろう。
そうなることは既に分かりきったことなのに、どうしても捨てきれない望みが湧き上がって抑えられなくなるときがある。
そうしてその度に現実を突きつけられるのだ。
私は死からさえも見放された存在なのだと。
些細な悦楽の中、薄っすらとした光を感じて閉じていた目を開けてみるとさっきまで月を隠していた雲は流されてどこかへと消えていた。
僅かな光を受けて輝く夜顔の花をぼんやりと見つめる。
この花がここに群れ咲いているということが私がこの城を気に入った理由だった。
どんな理由で住人がいなくなり荒れ果てたのかなど関係ない。
夏の夜に白い花が咲き私の心を満たしてくれる、それだけでここに居座る理由は充分だった。
そうして再び目を閉じて甘い香りをゆっくりと吸い込んだときだった。
「……っ」
ここでは感じるはずのない匂いが私の嗅覚を刺激してきた。
思わず身を起こして全ての神経を集中させる。
石畳の上を歩く足音、息遣い、まだ遠いながらもはっきりとした人間の存在感と血の匂い。
男が一人。
また怖いもの知らずを気取ったはねっかえりがやってきたのかとしばらく様子を伺ってみたが、その気配が近づくにつれそうった輩ではないことに気がついた。
鼓動の音がいたって平静なのだ。
得体の知れないものがいると噂の立つ荒城にやって来るものは、いきがっていても恐怖に捉われそれが鼓動を急かして早鐘のように鳴っている。
なのに今ここに近づきつつある男は、まるでお忍びで夜の散歩を楽しんでいるような呑気さだった。
はねっかえりなら蝙蝠の数匹も飛ばしてやれば慄いて逃げるかもしれないが、この男は違う。
―― どんなやつだ
ふいに湧き上がってきた興味に抗えず、私は彼の気ままに付き合うことにした。
その気配は既に城の敷地内に入り込んでいる。
果たしてこの裏庭にまでやってくるのだろうか。
階段に足を投げ出し月を見上げ、私の心はなぜかほんの少し浮き立っていた。
男の気配は表の庭をうろうろとし、やがて正面玄関の扉に向かった。
しかし玄関の扉は閉ざされていて開けることはできない。
扉だけでなく窓もかつての使用人たちの通用口も全て鍵がかけられている。
それで諦めるかとも思ったが、男はそのまま建物の横に回りこみ裏庭へと続く蔦の絡まったアーチをくぐってきた。
そこを通り過ぎれば私のいる階段が目に入るだろう。
弱い風に乗って男の匂いが流れてくる。
それは彼が近づくに従って濃くなり、気配と足音はもう数メートル先まできていた。
そろそろ私の姿に気づいてもいい頃か、そう思った瞬間、彼の鼓動が跳ね上がるのが感じられた。
一際とくんと上がり、しばらくとくとくと続く。
が、それもすぐに静まってきた。
彼は私が腰を下ろしている階段のすぐ上に立っている。
そうして私をじっと見つめているのだろう。
よからぬ噂の立つこんな荒れた城に、しかも夜中に人がいればかなり驚くに違いないと思ったのだが後ろの男からはまったくそんな様子は感じられない。
私も知らないふりを決め込んでじっと月を見上げていた。
「この匂いは花か?」
ふいに問いかけてきた男はゆっくりと階段を降りてきて私の隣に腰を下ろした。
思わずその顔を見つめる。
いきなり隣に座ってきたからではない。
側に来たことで今まで気づかなかった男の別の匂いを感じ取ったからだ。
それは微かな死の匂いだった。
男の顔で最初に目に入ったのは月の光を反射させている眼鏡だ。
そのせいで瞳が見えず彼がどんな表情をしているのかを読み取ることはできなかった。
薄い唇にすっと整った鼻梁。
まだ若い。
青白い肌をしているのは夜と月のせいで病気を患っているようにも見えないが独特な死の匂いは間違いようもなく、どうやら死期が近づいているらしいこの男の問いに私は答えてやった。
「夜顔だ、そこの白い」
「ふぅん……、本当に咽そうなほど甘いな」
「ああ」
そうしてまたしばらく黙り込む。
しかし男は花の香りが気に入ったのか、何度か大きく深呼吸を繰り返していた。
「ここに一人で住んでいるのか?」
続く予想外の問いに私は眉を寄せて男を見てしまった。
こんな荒城に住む人間などいるものか、と。
しかし彼はいたって真面目な顔でさらに言葉を続ける。
「ここは祖父が若い頃人手に渡ったと聞いたが、貴方の家族が買い取ったのか?」
「……君はこの城の家系の者なのか?」
問いに答えず問い返すと男は一度建物を振り返って「ああ」と頷いた。
「俺が生まれたのは外国だがこの城のことは子どもの頃聞いたことがある」
男は建物から今度は夜顔に視線を向ける。
「美しい城だったそうだな。夏の夜になると裏庭に甘い香りのする花が咲くと聞いた。……あれだろう?」
「だろうな」
「名前は?」
「夜顔」
「夜顔、か。この花を見てみたかったんだ」
「そのためにわざわざこんな時間に?」
「夜にしか咲かない花なんだろう? だったら夜に来るしかない」
「……そうだな」
男はこの国の血を引いてはいるが国外で育ったらしく、こうして夜中に何の恐れもなくこの城にまで来たということは来国したばかりなのだろう。
もしかしたら、と私は彼の表情をちらりと盗み見た。
彼は自分の命があと僅かだということを知っているのかもしれない。
だからこそ、子どもの頃に聞いた話を辿って自分の故国に戻ってみたかったのではないか。
しかし彼の横顔は冷たいほどに無表情で何も窺うことはできなかった。
「申し訳ないが」
夜顔を見つめていた男が振り返る。
「今夜はここに泊めてもらえないだろうか」
「ここに?」
つい眉を顰めてしまう。
「迷惑かもしれないが、実は思い立ってなんの準備もなしにこの国に来てしまったんだ。宿もとっていなくて」
見るからに荒れたこの城に違和感を感じないのだろうか。
本当にこんな場所に人が住んでいると思っているのか?
それともはなから噂を知っていて私の命を奪おうとでもしているのかもしれない。
が、彼が何か隠し事をしているのでないことは明らかだった。
口ではいくら嘘を言えても鼓動は正直だ。
彼の鼓動は相変わらずいたって静かに刻まれていた。
「部屋は全く手を入れていない。荒れ放題だ、この庭と同じように」
「構わない」
「世話をする使用人もいないが?」
「全く必要ない」
「そうか……。だったら泊まってくれてかまわない」
「助かる」
そう言って彼はまた夜顔に視線を戻し深く息を吸い込んでいた。
「どこでも適当に使え」
男をつれて裏庭から邸内に戻り、そう言い残して私は彼に背を向けた。
背後から「すまない」という言葉が聞こえてきたがそれに答えるつもりはなく、私は黙ったままこの広い城の中で唯一使用されている地下室に足を向けた。
こんなところに恐れもなく夜中にやってきて泊めてくれなどと、一体どんな人間なのかと思う。
けれどそのおかげでまともな会話ができたことに胸の奥がほんの少し疼いていた。
正直なところ彼から泊めて欲しいと言われたとき、驚いたと同時に喜びの感情が湧き上がった。
一人でいることを望み今ではそれが当然だと思っていたし、何より誰も私に近づいてほしくはなかったはずなのに。
なのに彼はいともあっさりと私の元に入り込んできたのだ。
長い時間の中、私に近づいてきた人間など一人もいなかったというのに。
しかしそれも今夜限りだ。
明日の夜、私が目を覚ます頃には彼もこの城にはいないのだろう。
既に外は夜明けを迎えているらしく、ふいに訪れた眠気の中、満足そうに夜顔を見つめていた彼の横顔が意識の奥を過ぎっていった。
そうだ。
彼がここに来た目的はすでに果たされているのだ。
しかし、事態は私の予想外の方向に進んでいった。
次の夜。
いつものように裏庭に出てみると月明かりの下、階段に腰を下ろしている男の背中が目に入ってきた。
それはまるで昨夜の光景を再現しているかのように寸分の違いもないほどで、呆れた私は思わず溜息をついてしまった。
それでも足は自然と彼の方に向かっていきその隣に腰を下ろす。
どうかしている。
こんな所に留まろうとする彼も、そんな彼を遠ざけようとしない自分も。
そうして次の夜。
大広間のソファに男は寝転んでいた。
昼の間にどこからか見つけたのか、いくつかの燭台をテーブルに置き灯りをともしている。
その横には何冊かの本が投げ出されていた。
「外は雨だ」
私に気づいたのか、彼は面倒くさそうに起き上がり外に向かって顎をしゃくってみせる。
それに促されるまでもなく、私は裏庭を見渡せる窓際に歩みより雨に濡れている景色を眺めた。
雨も悪くない。
夏の雨には珍しいさらさらと流れるような音に聞き入っているとそれが全身に沁み込んでくるようでひどく落ち着いた気分になってくる。
そのまま私は目を閉じて雨の音を感じ、ソファの彼は本を手に取ったらし
く時おりページを捲る音が背後に響き始めた。
結局その夜雨がやむことはなく、私は雨音に耳を傾け彼は読書にふけりながら木々の向こうが薄っすらと白んでくる夜明け前の時間を迎えた。
いつものように急激な眠気に襲われながら振り返ると彼は相変わらず仰向けに寝転んだ姿勢のまま本に目を落としている。
彼も昼間に眠っているのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら広間を後にしようとしたとき、突然彼の鼓動が乱れた。
その音に少なからず驚き振り返ってみたが、本を手にしている姿はそのままで見た目にはまったく変化がない。
が、その鼓動は明らかに苦痛に歪んでいる。
―― ああ、そうか。
死の原因となるものが彼の中で動いたのだ。
やはり何か病に侵されているのだろう。
しかも表情に出さないということは既にその痛みも常習になっているに違いない。
じっと見つめる私の視線に気づいたのか、彼は本から目を上げてこちらを向いた。
「どうした?」
悲鳴を上げ続ける鼓動とは裏腹にその表情はいたって平静で眉一つ動く気配はない。
「いや、なんでもない」
そう言ってそのまま部屋を出てしまえばよかったのに、私の口は勝手に言葉を紡ぎ出していた。
「お前もそろそろ休んだ方がいいんじゃないか」
そんな相手を気遣う言葉が出てしまったことが自分でも意外だった。
最後にそんなことを言ったのはいつだろう。
「そうだな」
私の戸惑いなど知るよしもない彼は素直に本をテーブルに戻して蝋燭の灯りを吹き消した。
地下への階段を降りていくときも地下に据えられた寝台に身を横たえたときも、彼の鼓動は乱れ続けていた。
このままでは彼は眠ることなどできないだろうに……。
そんなことを考えながらも私の意識は眠りの中に引きずり込まれていった。
夜が更けて上に上がってみれば彼はソファにいるか裏庭の階段にいるかのどちらかだった。
ほとんど夜明けまで起きているのだからおそらく昼の間に眠っているのだろうが、テーブルの上にパンや果物が置いてあることから多少は城の出入りもしているのだと分かる。
それは奇妙な日々だった。
一緒にいても別段なにかを語り合うわけでもなく、私はただ夜の景色を眺め彼は本を開いているだけ。
夜顔の花がしおれ城の壁に這っていた蔦が枯れていく季節になっても彼は出て行く気配を見せずそうして広間のソファに寝転んでいた。
私も彼を追い出すつもりは毛頭なく、むしろ二人で過ごす時間に心地よささえ覚え始めていたのだ。
永遠の命を生きているとこんなこともあるのかと、今の状況を楽しんではいたがそれもいつまでも続くものではないことも分かっていた。
彼の死の匂いは以前よりも濃くなっていたのだ。
だからこの奇妙な時間は彼の死によって終わるのだろうと覚悟していたのだが、それを変えたのは私の限界の方だった。
人間の血を摂らなければ生きていけない私は、日がたつにつれ身の内の渇きが酷くなってきていた。
けれど自分が化け物になるその行為に私はどうしても馴染むことができずにいた。
最初にその血とともに私に新たな命を与えたのは年配の男だった。
しばらくは彼の血で命を繋いでいたのだが、あれは初めて彼以外の人間の血を吸ったときのことだ。
自分の意思で行う初めての行為に加減が分からず相手の命までをも奪ってしまった。
まだ少女ともいえるほど幼かった彼女の身体がこの腕の中で次第に冷たくなっていき、瞳から光が消えていくのを私は唖然として見ているしかできなかったのだ。
その光景は脳裏に焼きついて離れず、いまだに私に罪悪感を与え続けている。
それでも人間の血を必要とするこの命を私は呪った。
そうしていつしかこんな身を消してしまいたいと思うようになり、私は血を断つことを決めたのだ。
そうすれば死ねると思っていた。
しかし私にそれは許されなかった。
激しい渇きの中で意識を失い、気がついたときには存分に身体が満たされていたのだ。
口元や掌に乾いて赤黒くなった血がこびりついているのを見て叫ばずにはいられなかった。
結局、私を支配しているのはこの身を流れる血なのだ。
いくら命を絶とうとしてもその度に意識が奪われ、代わりに呪われた血が私を動かし人々の命を奪ってしまう。
何度か同じ過ちを繰り返し、私はどうしても飢えたときだけ街に出て行き必要量の血を吸うことを覚えた。
自分でもおぞましいと思う行為だが、そうでもしなければ私の中の無意識が暴走してしまうのだ。
そんな限界が私に訪れていた。
いつものように広間に上がると灯された蝋燭の灯りの中、彼がソファにもたれて眠っていた。
そういえば眠っている姿は見たことがなかったなと思いその傍らに歩み寄ってみる。
読書の途中だったらしく、胸の上にはページを開いたまま伏せられた本が乗っていた。
なんとなく興味をそそられて寝顔を覗き込んでみる。
いつもは何を考えているのか分からない無表情な瞳は閉じられ、薄く開いている口元がどこかあどけなかった。
なのにときおり揺れる蝋燭の灯りが鼻や額にかかる髪の影をちらちらと煽っているのはどこか扇情的で、私はその寝顔をもっと間近に捉えたくてソファの横に膝をついた。
頬や唇や肌蹴たシャツからのぞく肌が蝋燭の淡いオレンジ色に染め上げられている。
月明かりに照らされた青白い肌よりも生気を漂わせるその色の中に彼の胸が上下し、それに連なるように首に走る筋が僅かにうごめいていた。
その魅力に抗えず、そっと指を伸ばして首筋に触れてみる。
思っていた以上の肌の暖かさと指先に伝わる鼓動、そしてその薄い皮膚の下を流れる熱い血が私を狂おしいほどに誘惑してきた。
思わず喉がごくりと鳴った。
筋に添わせて幾度か指先を滑らせ肌の柔らかさを堪能する。
胸の奥が次第に熱くなってくるのが感じられ、さすがにこのままではまずいと分かっていたのだが私はどうしてもこの場を動くことができなくなっていた。
一気にこの皮膚に歯を立てたい衝動と、なんとしてもそれを抑えようとする意識の葛藤が胸の中に渦巻く。
もちろんその間も私の指先は彼の肌から離れることはできなかった。
それでもなんとか理性を保ち、懸命の意思で指を離そうとしたところで彼の鼓動が一瞬乱れるのを聞いた。
あ、と思ったときは既に遅く、彼の瞼が上がってじっと私を見つめてきたのだ。
ガラスの奥の瞳に蝋燭の灯りがぽつんと映り揺れている。
ついそれに見入ってしまった瞬間、何かがばさりと落ちる音がしたかと思うと私は腕に強い衝撃を受けて半ば彼の上にもたれかかる格好になっていた。
「……なっ」
何かを言おうとしたのだがその前に唇が塞がれる。
柔らかいものが触れ、それが彼の唇なのだと理解できるまでほんの少し時間のずれがあった。
思いもよらない事態に咄嗟に離れようとしたものの、首の後ろを掴まれている上に腕を引っ張った手はいつの間にか背中に回されて抱きしめられている。
離れようにも離れられない。
そうしているうちにも唇は深く合わせられ彼の舌が私の口内に忍んでこようとしていた。
それでもなんとか離れようとしてもがいているうちに彼の喉が小さくなって突然手の力が緩んだのだ。
「つ……っ」
眉根を寄せながら、手の甲で口元を押さえているその姿が目に入った。
そうして確認するように甲を離しそこを見下ろしている。
見れば彼の唇の端が切れて血が滲んでいた。
それは手の甲にも、そして私の唇にもついている。
もがいた拍子に彼の唇を噛んでしまったのだろう。
嫌でも忘れることのできない甘美な味がゆっくりと口の中に広がっていった。
それは口内から神経を通り身体中の髄を刺激していく。
震え始める手を止めようと拳を握るがそんなことではもうどうしようもない。
やがて淡いオレンジ色だった視界が真っ赤に染まっていく。
―― 気づかれる……っ!
「お…まえ……」
驚きに見開かれる彼の目に私は恐れ慄いた。
「その目は……」
その呟きが耳に届くと同時に私は彼に背を向けた。
視線が合った以上、もう気づいているだろう。
赤く染まる瞳と僅かに伸びて鋭くなる犬歯、私が化け物である証だ。
こんな姿など誰にも見られたくないし、ましてやそんな私を恐怖の目で見る彼のことも見たくはなかった。
とにかく彼の視線に晒されていることに耐えられずその場を離れようと立ち上がった。
が、再び腕を掴まれ戻されそうになる。
しかしそれを振りきり足早に広間を出ようとしたところで今度は彼が私の目の前に回りこんできて両肩を押さえ込んできた。
そうしてぐいと顔を寄せて私の瞳を覗き込む。
その強い視線に耐えきれず目を伏せた途端、彼が私の顔をその首筋に抱き寄せたのだ。
唇に触れた柔らかい肌に全身がぞくりと粟立ち、本能が私に口を開かせ歯をつき立てさせようとする。
抗いきれず、ほんの少しその肌に歯を食い込ませたその瞬間、彼の身体がぴくりと震えた。
「く……っ」
鋭くなった歯の代わりに私は首筋に額を押し付けて歯を喰いしばった。
どうしてもできない。
彼に私の本当の姿を見せたくはなかったし、何より彼を傷つけることはしたくなかった。
「必要なんだろう、血が?」
低く囁き、まるでその行為を促しているかのように首の後ろに回された彼の手に少し力が加わった。
しかし私はひたすら首を振りそれを拒絶する。
―― できるはずない
この瞬間、私は彼に対して久しく忘れていた感情を抱いていることに気づいたのだ。
「俺の血を飲めばいい」
まるで宥めるように首に当てた指先をゆっくりと動かしてくる。
「どうせ長くは生きてられないんだ。これまで長居させてもらった代わりにこの血をくれてやるよ」
何を言っているのかと懸命に首を振る。
「この数日ひどい顔色だった、もう限界なんだろう?」
静かな声と同じようにその鼓動までもが穏やかなのが私には解せなかった。
この身の正体に気づきながらなぜこんなに冷静でいられるのか。
自分の命に執着していないのだろうか。
薄っすらと目を開ければあれほど真っ赤だった視界は多少落ち着いてきて正常に戻りつつあった。
このままもう少し自分を抑えておければ元に戻れるだろう。
それまでなんとか……。
「……ったく」
小さな舌打ちが聞こえたと思った途端だった。
無理やり顔を上げさせられたと同時に唇を塞がれる。
「んっ」
慌てて離れようとその胸に手を突っぱねてみても、両頬にしっかりと当てられた掌のせいでどうにもならない。
やがて熱いものが私の口内に流れ込んできた。
血だった。
どういうわけか新しい血が溢れてくる。
―― 自分で!?
おそらく自分でその唇を噛み切ったのだろう。
唇を塞がれ身動きも取れず、私はとうとうその血を飲み込んでしまった。
せっかく戻りかけていたのに……。
後悔と自己嫌悪は一瞬だった。
彼の血は瞬く間に全身に行き渡り抑えきれない衝動が私を支配し始め、流れてくるのに任せていた血を自ら求めていった。
そんな私の変化に彼も気づいたのだろう。
ゆっくりと唇を離すと器用に片手で肌蹴たシャツの釦を外し右腕の袖を抜き去った。
赤い視界の中に現れた肩から腕に続くしなやかなライン、鼓動を刻む皮膚の下の脈、うるさいほどの血流。
それらすべてが私を惹きつけていく。
「ほら」
そう言って彼は自分を差し出すように首筋を晒してきた。
もう躊躇うこともなかった。
私は一気にその皮膚に歯を立てたのだ。
「まいったな……」
「後悔するなら初めから……」
「いや、そうじゃなくて」
「なんだ」
「……予想外に気持ちがよかった」
「…………」
「初めて血を吸われた者の正直な感想だ」
呆れている私の顔をちらりと見て苦笑した彼はゆっくりと一つ息を吸い込んでまた目を閉じる。
無謀にも私に己の血を差し出したその男は、今やぐったりとソファに横たわり呼吸をするのがやっとという状態になっていた。
蝋燭の暖かい色が映されているはずなのに頬や目の下の血色は異様に悪くなっている。
長い経験の中で相手の命を奪わない程度の血量は把握していたはずだったが、我に返って足元にぐったりと倒れている彼の姿を見たときは背筋を冷たいものが這い上がってくるような感覚に捉われた。
それでも僅かな鼓動が聞こえることに安堵してその身体を抱きかかえてソファに寝かせてやる。
そうして私はその足元に腰を下ろして彼が気づくのを待ちながら、揺れる蝋燭の灯りを見つめ続けていたのだ。
「なぜ……、あんなことをした?」
唇を動かすのも辛いであろうことは承知していたが、それでも聞いてみたかった。
案の定、「ん……」と返事ともなんともつかない弱々しい声が返ってくる。
「だから、もうすぐ死ぬからと……」
「違う、……その前だ」
「前?」
「なぜ、あんな……口付けなど」
僅かにソファの軋む音がして私は俯けていた顔を上げた。
彼は肘で身体を支えるようにして半身を起こしこちらを見つめてくる。
視線が合って、これほどまで弱っていながらも強い光を湛えている瞳に釘付けとなった。
その目元がすっと細められ口元がほんの少しだけ歪む。
「貴方が欲しそうだったから」
「なにを……っ」
しかし私の問いに答えることなく、まるでだるさに負けたかのように彼は脱力して一気にソファに身を預けた。
腕がだらりとソファから投げ出される。
「貴方が…俺…を……」
言葉の終わりはほとんど聞き取れないほどに弱くなり、ほどなくして静かな寝息が聞こえ始めた。
蝋燭はそろそろ燃え尽きそうに灯りの揺らぎが大きくなり、それが彼の鼓動の響きと相まって久しぶりに血を得た私を酩酊させるかのようだ。
緩く上下する彼の胸、ちょうどその心臓の上に手を置いてみる。
伝わる肌の暖かさと心臓の心地よい音や動きに意識を預けているとこの上もなく恍惚とした気持ちになってきた。
―― ずっとこうしていられたら……
ふとそんな想いが浮かび上がる。
なぜこれほどまでに執着してしまうのか。
私の正体を知りながら敢えてその身を差し出そうとしたからか。
いや、その前から私はこの男に惹かれていた。
薄く開いた唇の端、彼が自分で噛んだ傷跡に血の塊がこびりついていた。
それをそっと指先でなぞってみると傷口が開いてしまったらしく、あらたな血がぷつりと小さな玉を作り出した。
それが流れてしまう前に舌を差し出して舐め取ってやる。
彼の呟いた言葉はその通りなのだろう。
今や私はこの男を欲しいと思っているのだ、おそらく。
傷からの出血が止まったのを見て私は唇を重ねていった。
その存在を確かめるために幾度も触れるだけの口付けを繰り返すうち、ジジ…と湿った音がして蝋燭の灯りが尽きていった。
そうして降りてきた闇の中、より濃くなってきた彼の死を感じながら私は心が求めるままに彼の唇に触れ続けたのだ。
翌夜。
居間のソファに彼の姿は見られず、その気配を追ってみると裏庭の階段に座り込んでやけに赤く大きく見える月を見上げていた。
夜の空気は透明ながらもかなり冷たくなってきている。
夏にはあれだけ香っていた夜顔も既に枯れていた。
まだ緑を残す叢にも虫たちの気配は感じられず、これから季節は私の嫌いな冬へと向かっていくのだ。
「この月はなんだ、やけに赤いな」
視線を月へと向けたまま彼は独り言のように呟いた。
私も同じように月を見つめながら隣に腰を下ろす。
「大気が不安定なんだろう。海の一部に暖かい潮が流れ込んでいるから地上の冷たい空気とぶつかる。季節の変わりめにはよくあることだ」
「ふぅん……」
自分から聞いておいてやけに気のない返事をしながら彼はほっと小さく息をつく。
「美しいな」
「美しい? この月が?」
「ああ。青白い月よりもよほどいいと思う」
そんなことを言う彼の横顔を私はまじまじと見つめた。
「街では嫌われているようだがな」
「そうなのか?」
「月が赤くなると人が死ぬ、とね」
「実際にそんなことが?」
「確かに普段よりも死の匂いは強くなっているな。偶然でもあるまい」
「死の、匂い?」
それまでじっと月を見つめていた彼がふいに振り向いた。
今の言葉の真偽を確かめでもするように眉根を寄せて私を見つめる。
「死者の匂いは独特だ。酷いときは風にのってここまで届いてくる」
敏感に死の匂いを嗅ぎ分けるのは死者には近づくなという本能の警告なのだろう。
ことごとくこの身体はよくできているとうんざりするほどだ。
「やはり貴方は……、吸血鬼なんだな」
じっと見つめてくる視線は私の口元に注がれている。
心なしかどこか遠い瞳をしているように感じるのは昨夜見た光景を思い出しているからだろうか、
あんな目に遭ったのだ、今さら肯定するまでもないだろうと私は黙っていた。
「街についてすぐに噂を聞いた。山の上の古城には吸血鬼がいると」
「なのにわざわざやってきたのか?」
あまり触れてほしくないことにこの男は切りこんでくる。
しかしよくよく考えればおかしな男だ。
吸血鬼を前にしてこれほどまでに平静でいられるとは……。
「あまり信じてはいなかった。田舎ではよく聞く話だからな」
「生憎、現実だ」
「そうらしい」
「……まったく、分からないな」
飄々と答える彼に半ば呆れて溜息が出る。
「なぜそうと知っていてここにいる?」
「ん?」
「恐ろしくはないのか、私が?」
「そうだな……」
彼は思い出したように首筋に手を当て私が噛んだ傷口をさすっていた。
小さな傷ではあるが血の跡が残ってぽつりと硬くなっているのだろう。
そこに手を当てたまま、私を見つめてくる表情には一片の恐怖さえ感じられない。
「恐ろしいと思う前に惹かれていた」
「…………」
小さく唇を歪めて不遜とも思える笑みを見せると首をさすっていた手を離して今度はそれを私に伸ばしてくる。
ゆっくりと近づいてくる指先に背筋がぴりぴりとして思わず息を止め、それが触れてくるであろう瞬間をじっと待った。
冷たい空気のせいか僅かに触れた指先はひどく冷たく、同時に響いてくる鼓動が少し早まっている。
何を思っているのだろうと私の口元を見つめる瞳に見入った。
「頼みがある」
彼が低く囁いたと同時に指が唇を越えゆっくりと歯列を撫でてきた。
ちょうど犬歯のあるあたりだ。
「なんだ」
「…………いや」
少しの躊躇いの後、ふいに指が引かれ今度は唇の端をなぞり始めた。
その触れているほんの僅かな部分に神経が集中して全身がぞくりと粟立ってくる。
「何を望んでいる?」
「なんでもない……」
再びふっとした笑みを浮かべながら彼の身体が近づいてきた。
その唇は夜気の中でも暖かく幾度も私に触れては離れてを繰り返しやがて熱い舌が差し込まれてくる。
痛いほどに胸が高鳴りその鼓動が彼のそれと同調していくのを感じながら私も彼に舌を絡ませた。
なぜ、という理由などもはやどうでもいい。
彼がここにいてこうして触れ合っているのだということが今の私の全てだった。
やがて唇を離した彼は昨夜と同じようにその首筋に私の頭を抱き寄せる。
促されるままに私は彼のシャツの釦を外し小さな傷口に舌を這わせた。
途端に鼓動が跳ね上がる。
耳の側にこくりと喉を鳴らす音を聞きながら、私はゆっくりと温かい肌に歯を立てていった。
「ん……ぁっ」
じんわりと口内に広がる血液よりも柔らかい皮膚よりも、彼の唇から零れた官能の声は甘く切なく私の心を痛めるものだった。
長い時間の中で虚しさややりきれなさに捉われたことは数えきれないほどあるものの、こんな想いに沈み込んだのは初めてかもしれなかった。
彼が次第に死に近づきつつあることがひどく私を不安にさせ、そして焦燥の想いに追い立てられていく。
失いたくないと思った。
苦痛の時間が多くなり夜もほとんどソファに横たわったままの彼を見るたびに身勝手な誘惑に駆られ私は苛立ちを覚える。
こんなものは今だけだと言い聞かせながら彼の足元に腰を下ろして過ごす淡い蝋燭の灯りの中、もうすぐ訪れる暗く静かな夜に私は何を感じるのだろうと思いを馳せた。
一度知ってしまった想いにいつまで引きずられることになるのだろう。
―― ならばいっそ……
幾度も繰り返した情景を脳裏に、私は眠っているらしい彼の表情にちらりと視線を向けた。
死はその顔にまで色を表し、灯りの中でさえも青白さを見せつけている。
浅い呼吸とともに上下する胸や首元に歯を立ててしまえばいいのだ。
そうしてこの身の血を与えさえすれば……。
けれどそれがどんな結果をもたらし彼にどれほどの変化をもたらすのか、身をもって知っている私にはどうしてもそれができなかった。
彼は永遠の時間など望んでいるのだろうか。
それと引き換えに人を糧にしなければいられない化け物になることを受け入れるだろうか。
それができなければ彼もいずれ私のもとから去っていくのだ。
かつて私が一人でいることを選んだあのときのように。
胸の中の全てを吐き出したくて大きく一つ息をつき、地下に戻ろうと腰を上げたとき小さな声が私をひき止めた。
「頼みがある」
振り返ってみれば彼がこちらを見つめ半身を起こそうとしていた。
私は立ち止まったまま彼が起き上がるのを見つめる。
ときおり眉根を寄せてはいるが、鼓動が伝えてくる悲鳴はそれどころの痛みで済んではいないはずだった。
「なんだ」
以前も同じようなことを言っていたなと、あの階段で赤い月を見上げた夜を思い出す。
あのとき呑み込んだ言葉をようやく言う気になったのだろうか。
僅かに呻いてゆっくりと起き上がった彼は鬱陶しそうに前髪をかきあげる。
そうして大きく息をついてから呟いたのだった。
「俺を殺せ」
起き上がっていることも辛いのか、ソファの背にぐったりともたれかかり目を閉じる。
痛みのせいなのか、額に薄っすらと汗が滲んできた。
「なぜ私にそんなことを言う」
「あんたならできるだろう?」
「……そうだな」
僅かに開いた瞳は焦点が合っていないのか、どこか遠い場所を見つめているようにも思える。
それでも笑みを浮かべようとしているかのように唇の端が少し歪んでいた。
「痛みから逃れたいか」
私の言葉に彼は喉の奥でクっと笑った。
「痛みなど、どうでもいい」
「では私が手を下す必要もあるまい」
これ以上の問答を続けたくなくて私は踵を返した。
よりにもよって私に殺せと頼むとは……。
しかしこれではっきりとしてしまった。
この血を受ければどうなるか、それを彼も知っているに違いない。
それでも彼は「殺せ」と言ったのだ。
「俺には必要だ」
数歩もいかないうちに彼の声が私の足を止めさせた。
その響きの強さに思わず振り返る。
背もたれから離れ前のめりになって今にも立ち上がろうとしているのか、彼の身体が僅かに震えていた。
そして蝋燭の灯りをぽつりと映す瞳はしっかりと私を見据えている。
「死ぬことに意味が欲しい」
私は無言で彼に視線を返した。
そのまま黙っていると彼は言葉を続ける。
「このまま死ねば、俺は俺と関わった人間の記憶にしか残らなくなる。そうしていずれ彼らも死ねば、俺の存在などこの世界にはなかったも同然だ。
後世に残る名声を求めたがその半ばでこの有様だ。もう俺は何も残せず死んでいくしかなかった」
彼は顔を顰めて立ち上がった。
眩暈でもするのだろうか、ふらつく足元を何度か踏みとどまってなんとか倒れずに姿勢を保とうとする。
そうしてゆっくりと足を進めて私の方に向かってきた。
ほんの数歩が彼にはよほど辛いのだろう、一歩進んでは立ち止まりもう一歩進んでは息をつき、やがて目の前に辿りついた彼は私の頬に手を伸ばしてきた。
「でも俺はあんたに逢った」
頬に当てられた手は暖かく、しかしもうすっかり死の匂いに包まれている。
「この血が糧となってあんたの中で生きて、記憶には永遠に俺のことが刻まれる。何も残せず死んでいくよりよっぽどいい」
「生きているうちに何も残せなかったから、死に意味を求めるのか」
「……そうだ」
―― この男は……
遥か遠い記憶が蘇った。
私の人間としての死。
雨の中、私の乗っていた馬車は崖から落ちた。
何が起きたのかも分からず馬車の外に投げ出された私は既に動くこともできず助けを求めることもできない状態になっていた。
不思議と痛みは感じず、ただ急速に身体が冷えていくだけだ。
ぼんやりとしていく意識の中、私はどうしようもなく悔しい思いに駆られていた。
仕事も人間関係も波に乗り、これからは全てが私のいいように進んでいくはずだった。
なぜこんなところで一人死んでいかなければならないのか。
ここで死んでしまえばこれまでの全ての努力は無意味になり、私が生きてきた意味さえなくなりかねない。
悔しくて、それでもどうにもならないことは明らかだった。
やがて悔しさは虚しさに代わり、私の意識は暗闇に包まれ始める。
意識が堕ちる寸前、ふと誰かが私の側に立っていることに気づいたのだがもう私にはどうにもすることができなかった。
あのときの私と同じように死を目前にした彼が私に求めている。
せめて死ぬことに意味を持ちたいのだと。
「残酷だな、お前は」
頬に添えられていた手を取った。
彼の望みが私の叶えられなかった望みと重なって流れ込んでくる。
あのとき、意識を失った私は自分の意志とは無関係にこの身を得てしまった。
しかし彼は違う。
死と永遠の時間という二つの道があるのだ。
もしも彼が請うのであればこの血を与えることも今の私なら厭わないだろう。
が、彼の選んだのは死だった。
しかも私に手を下せと言っているのだ。
彼の想いが分かる私と、私の想いなどまるで無視している彼の言葉に胸が詰まる。
失いたくない、失いたくない、しかし痛いほどに死を前にした彼の想いも分かる。
それでもやはり、失いたくない。
彼の手を握ったまま視線を外している私の顔を、彼はじっと見つめているらしい。
なぜ私がこんなことになっているのだろう。
視線を上げればやはり真っ直ぐな瞳とぶつかる。
なぜ、私は……。
「吸血鬼とは、一体なんだ……?」
視線が合ってしばらくの後、彼がじっと見つめながら私に呟いた。
その声は掠れ息も途切れがちになっている。
だが弱い声とは裏腹にその鼓動は苦しげな悲鳴を上げ続けていた。
しかし私はそんな問いに答えられるはずもなく、握っていた彼の手を離し視線を逸らせる。
それでも蝋燭の灯りを映す瞳だけは真っ直ぐに力を持って私を刺し、この身の中にある相反する二つの想いを曝け出そうとでもしているかのようだった。
「なぜ躊躇う、そんな顔をして……」
離したはずの手が再び私の頬に触れ、そこからぴりぴりと痺れるような感覚が背筋に伝わってくる。
「吸血鬼とは人の血を喰らう単純な化け物ではないようだな」
そんな言葉をぼんやりと耳に捉えながら、私はただ単純にこの男が欲しいと思っていた。
彼の意思も私の人としての理性も無視して行動してしまえば、それは案外なんでもないことなのかもしれない。
なのにそれができないのは、やはり望まれぬことをすればいずれは彼もここを去って行くに違いないのだという確信があるからだ。
どちらにしても私は彼を失うのだろう。
ならば……。
ふいに小さな呻き声がしたかと思うと彼は膝をついて蹲っていた。
見下ろす私の位置から見ることはできないが、恐らく懸命に唇を噛みしめて声を出さないようにしているつもりなのだろう。
けれど堪えきれないほどの苦痛が切れぎれに零れては、彼のみならず私の心まで一緒に苦しみの中へと引きずり込もうとしている。
もう限界だった。
私は大きく息をついて上を仰ぎ、それから彼の前に膝をついた。
自分の身体を抱きしめるようにしている彼の上体をほんの少しだけ上げさせる。
それに気づいたのだろう、苦痛に歪む瞳が開き私を見つめてきたかと思うと唇の端を上げてにっと笑みを浮かべた。
やっとその気になったか、とでも言いたげに。
しかしそれも一瞬で、見惚れるほどに挑戦的で挑発的な笑みはあっという間に苦痛の色に覆われてしまった。
そうやって微かに震える身体を抱きとめシャツの襟元を肌蹴させる。
晒された肌は白いだけあって綺麗に蝋燭の灯りを受け止めてその暖かい色に染まっていた。
そこに残る自分がつけた二つの小さな跡に唇を寄せて、何度も吸い上げ舌を這わせる。
「は…や、く……っ」
いつまでもそんなことを繰り返すこの行為を躊躇っていると捉えたのか、彼は私の肩にかけた手にぎゅっと力を込めてその先を促してきた。
暖かい肌にもう一度舌を絡め、そうしてゆっくりと歯を立てると彼はぴくりと小さな反応を示し大きな安堵とも思える吐息を漏らした。
それが彼の望みなのだと思い知らされ私は打ちのめされる。
それでも離れることなど既にできず、私はただただ彼の命を奪うことを続けざるをえなかった。
彼の血は私の中に入り込み記憶に刻まれる。
いずれ冷たくなるこの身体は裏庭に、そう、あの夜顔の元に埋めてやろう。
そうして私はここを離れることなくその景色を守っていけばいい。
私が生きている限り彼にとっての本当の死は訪れることはなく、また永遠に私のものとなるのだ。
それが彼と自分にとっては最善のことなのだと納得しようにも、どうにも胸が痛くて苦しくて押しつぶされそうになってくる。
疼くように広がる痛みは喉を通って嗚咽となり涙腺を刺激して涙を溢れさせた。
身体中が熱くなるのを止められず大声を上げて泣きたくなってくる。
そんな私とは正反対に、彼の身体は次第に冷たくなっていき肩にかけられていた手もいつのまにかだらりと床の上に落ちていた。
思わず歯を引きその顔を見つめる。
色を失った頬に蝋燭の灯りがちらちらと揺れて陰影を作り出し、その中で僅かに睫毛が震え薄っすらと瞳が開かれた。
まだその瞳は視界を捉えているらしく、私に向かって何かを呟くように唇を動かそうとしている。
「な……く、な」
やっと聞き取った細く微かな言葉に私の全ては封じられてしまった。
ただ腕の中の表情を見つめることしかできない私の唇から零れた血は彼の頬に落ち、さらにそこに涙が落ちて深い赤を薄めていく。
続けてなおも唇を動かそうとしているようだがもう言葉が出ることはなく、その代わり力を失って床に投げ出されていたはずの腕が私の手を捉えてその口元へと持っていった。
乾いた唇が私の指に触れ口付けを繰り返す。
その光景がさらに私を苦しめ動けなくしていた。
そうして続く乾いた口付けが中指から薬指に移り小指の先に触れた途端、思いもよらない痛みがそこに走った。
訳が分からない。
なぜ痛みを感じるのか。
その原因を見極めようとするが不覚にも涙に霞んだ視界はぼんやりとして何も映すことができない。
それでも指先の痛みとそこに纏わりつく熱い湿ったものの感触を受けて、ようやく私はその状況を理解した。
彼の行為の意味とそれによる結果が脳裏を過ぎる。
しかしそれを分かっていながら、私は彼が意識を失い深い眠りに陥るまでこの指を咥えさせ続けたのだった。
* * *
「あんたも毎晩毎晩……」
いつものように裏庭の階段に腰を下ろし白く輝く月を見上げているといきなり頭上から声が降ってきた。
「よく厭きないもんだな」
半ば呆れた声の彼はそのまま私の隣に陣取り同じように月を見上げる。
「たまには街を歩いてみようとか思わないのか?」
そんな言葉に思わず笑いが込み上げてくる。
どうにもまだ理解ができていないらしい彼はまるで退屈しきっている子どものようだ。
これから自分がどれほどの時を過ごしていくことになるのか、それをどう受け止めていけばいいのか、それどころか自分の身体に起きた変化さえまるで分かっていないように思える。
あのとき、眠りから覚めた彼に最初にかけた言葉は「なぜ」だった。
それに対して彼はたった一言「あんたが泣くから」と言ったきり黙ってしまった。
しかし私にはそれで充分だったしそれ以上問う意味もなかった。
彼は既に一歩を踏み出してしまったのだから。
「なあ……」
ただ月を見るだけの夜に飽き足らず、彼は吐息混じりに囁いて鼻先を私の首に擦りつけてくる。
その甘酸っぱいくすぐったさにはいまだ慣れないものの、それでもそうされることの心地よさに私は首筋を晒して彼の背中に腕を回した。
しばらく耳や頬を舐めていた唇が気に入った一点を捉えそこに軽い衝撃を残す。
皮膚を破られる痛みなど全く感じなかった。
僅かな時間差でやってくる眩暈はやがて全身を震わせるほどの快感となって私に深い吐息をせずにはいられなくする。
土も凍るほどの冷たい空気の中、静まり返った景色の中で自分の漏らす声は驚くほどに甘くこの耳に響いて返ってくる。
そうして身体の奥で生まれた熱い疼きは私の腕を動かし彼を抱きしめさせ、その暖かい肌に顔を埋めさせた。
やがて彼が唇を離し服を肌蹴させる頃には私の身体も熱く昂ぶり始め、ただ目の前に存在するその身体に全てを預けざるを得なくなっているのだ。
彼に抱きしめられその肩越しに見える月になんとなしに惹かれ腕を伸ばしてみる。
が、それはすぐに捉えられさっきまで腰を下ろしていた石段に押し付けられた。
次第に激しくなる彼の感情に翻弄されながら、まだ僅かに残る理性がこれから訪れる数えきれないほどの夜に想いを巡らせる。
しかし彼はそんなことを考える余裕も与える気はないらしい。
深い口付けに意識は奪われ、残されるのは互いを求める本能だけになっていく。
そうやっていくつもの愛しくも狂おしい夜を過ごしていくのだと感じながら、私は今夜もこの身体の全てを彼にあけ渡していくのだった。
2007/10/22〜2007/11/13
SNSにて連載
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