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眠りからわずかに意識が浮き上がって、ぼんやりとした視界に映ったのは見慣れない部屋の様子だった。
寝ぼけた頭でここはどこだと考えながら視線をめぐらせてみれば、まだ焦点の合わない目に白いシャツの後ろ姿が映る。
―― ああ、そうか……
窓際に立つバージルの背中を見つめながら、ダンテは自分が夜中に彼の私室に入り込んだことを思い出した。
ダンテにはかねてから一つの不満があった。
バージルの仕事が終わるのを見計らって自分の寝室で彼を抱くことはしょっちゅうで、もちろん事後は火照りの収まらない身体を腕におさめて気だるくも心地よい眠りに落ちるのだが、目を覚ましてみればいつもベッドには自分一人。
それどころかすっかり身支度を整えて昨夜のことなど忘れてしまったかのように涼しい顔をしたバージルが、ベッドサイドに紅茶と新聞を置きながら「おはうございます」などと言っていたりするのだ。
これは正直、かなり寂しい。
仕事だから仕方がないとはいえ、恋人には目が覚めたときに腕の中で可愛い寝顔を晒していてほしいというのが本音だったりする。
もちろんバージルより早く起きればいいだけの話なのだが、生憎ダンテは朝に弱かった。
そこで考えた。
バージルが朝まで主の寝室にいられないのだとしたら、自分が彼の私室に行けばいいのではないかと……。
そして夜中。
既にベッドに入っていたバージルは突然現れたダンテの顔を見ると最初は慌てて次に呆れ、当然のごとく寝室に戻るよう言い放ってきた。
が、二人きりにさえなってしまえば歩はダンテにあることは言うまでもなく、儀礼のような攻防を経ていつも寝ているものよりは狭い執事私室のベッドに潜り込むことに成功したのだ。
その夜のバージルがいつになく快感に抗っていたのは、まさか自分のベッドでこんなことになるとは思っていなかったためかもしれない。
虚勢を張っているのでも嫌がっているのでもなく、戸惑うように眉を顰めては何かを訴えるようにダンテを見つめていた。
そんなわだかまりをキスと愛撫でゆっくり解していく。
そうしてやがてはバージルも快楽に溺れていったのだが、うつ伏せにされて迎えた最後の瞬間でさえもやはり何かが心に引っかかっていたのだろう。
乱れたシーツをぎゅっと握り枕の端を噛みしめた表情はいつもと違って少し苦しそうに見えた。
ぼんやりとしていた意識が次第にはっきりして目の前の光景を捉える。
腕の中にいてほしかったはずのバージルはジャケットこそまだ着てはいなかったものの、既にシャツに着替えて開けた窓から外を眺めていた。
ああ、また願いは叶わずか……と落胆したダンテではあったが、よく見ればそこにいるのは執事のバージルでも恋人としてのバージルでもないことに気づく。
まだ整えられていない銀色の髪は額に落ち、いつもはきっちりと釦を留めているシャツも今は簡単に羽織られただけだ。
もちろん袖のカフスもまだない。
そして何より、ダンテの位置からわずかに見える背中越しの表情がひどく優しく微笑んでいるのだ。
上等なワインを手に入れたと少し誇らしげに見上げてくるときも希少本を見つけたと口元に喜びを浮かべるときも、バージルはいつも気持ちを抑えているかのように控えめだった。
感情を表に出さず常に冷静でいることを求められるのだからそれは既に身についてしまった習性なのかもしれない。
けれど今、少し視線を下げて俯いている表情にはあどけないほどの満足感を浮かべた笑みが表れていた。
紺色の空が白み始めてわずかな明かりが射し込んでくる中、白いシャツと銀色の髪は夜の名残を映して青白く染まっている。
そこにチチ……、と響く鳥の声が重なってバージルの周囲には優しく穏やかな空気が満ちていた。
ふとそんな鳥の声がかなり近いことに気づく。
ほんの少し肘をついて上体を上げてみれば窓際に数羽の小鳥の姿を見ることができた。
その小さな生き物は懸命に何かをつつきぴょこぴょこと跳ねている。
どうやらバージルがエサを与えているらしかった。
しばらくすると手にしていたパンらしきものをちぎって小鳥たちの前に落としていく。
その穏やかな光景をいつまでも見守っていたいと思う反面、今すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られてダンテは一つ大きく息を吸い込んだ。
そうしてもう少しだけその表情を見たいと身体の位置をずらしたのだが、その際の衣擦れの音がバージルを振りむかせてしまった。
同時に鳥たちがばさばさと飛び立ち、あっという間に優しく完成されていた世界が崩れていく。
さらに残念なことにダンテを見つめるバージルはすっかりいつもの執事の顔に戻っていた。
「おはよう」
苦笑交じりにベッドから降りてバージルの背中を抱きしめる。
少し身をかがめて耳の後ろあたりにキスをするとぴくりと震えた身体がわずかに硬く緊張した。
「毎朝鳥にエサをやっているのか?」
バージルの手にしていたパンを見つめながら耳朶を軽く噛む。
「……っ」
「鳥には優しいんだな」
唇を耳からうなじに移しシャツの下にそっと手を忍ばせていくとやはりその手首は掴まれ止められてしまった。
「もう戻った方がいい」
身を捩ってダンテの腕から逃れようとするのをさらに力を込めて抱きしめる。
「愛してるよ、バージル」
耳元に吐息とともに吹き込むように囁く。
ダンテの手首を掴むバージルの手がわずかに震えていた。
愛しさが湧き上がりどうしてもバージルが欲しくてたまらなくなってくる。
もう片方の手でシャツの釦を外しにかかると咎めるように小さく「ダンテ」と呻く声が聞こえた。
このまま進めていけば間違いなくバージルはダンテの想いを受け入れてしまうだろう。
もちろんそれを望んではいるのだが、どういうわけか今はそんな行為におぼろげな寂しさを覚えてしまった。
「バージル」
釦にかけていた指と脇腹あたりを探っていた手を離してもう一度バージルを抱き締めなおす。
「さっきみたいな顔を見せてくれたら大人しく部屋に戻るよ」
「何を……」
「ん? さっき自分がどんな顔してたか分からないか?」
「…………」
「鳥に嫉妬しそうだな」
ダンテの言葉を聞きながらもバージルはじっと身動きすることなく俯いていた。
窓から入ってくる明け方の風は少し冷たく、それがバージルの髪を揺らして頬をくすぐってくる。
その髪に唇をうずめてキスを落としているとさっき逃げたうちの一羽なのか、小さな鳥が窓辺にとまり残っていたパンくずを啄み始めた。
「本当にもう戻った方がいい」
しばらくしてからぽつりと聞こえた言葉にダンテは一旦バージルを離し自分の方を振り向かせた。
その瞳を覗きこもうとすればふいっと視線を逸らされてしまう。
彼にしてみれば見られたくない姿だったのかもしれないが、そんな戸惑った様子さえ可愛く思えてどうしようもない。
さきほど感じたばかりの寂しさも、身体の奥にちりちりとしている快感の欲望に半ば消されかかっていた。
それがまた少し悲しい。
「愛してるって言ってくれないか?」
途端にバージルの眉根がわずかに歪んだ。
もちろんそんな言葉を簡単に口にするはずもないことは承知している。
けれどふいの寂しさを打ち消すのは自分の欲望ではなくバージルの想いであってほしかった。
「言ってくれ」
「…………」
ほんの少しだけ動いた唇は、しかしすぐにきゅっと閉じられ噛みしめられてしまう。
その端を親指の先ですっとなぞって額にキスをする。
「言ってくれたら死んでもいいくらい嬉しいんだがな」
「馬鹿なことを……」
「本気だ。あんなお前の顔を見ながら死ねるなら本望だよ」
背中に回した腕に力を込めて抱き寄せると湿った熱い吐息がダンテの胸にほんのりとかかった。
「…………ない」
「ん?」
「そんなこと言うなら絶対に言わない」
くぐもった声に思わず苦笑が漏れた。
欲しかった言葉はなかったものの、普段あまり想いを口にしないバージルにしてみれば今はこれが精いっぱいなのかもしれない。
そんなところがまた可愛いと思うと同時に、自分がどれだけバージルに溺れているのかと自嘲の笑みが浮かぶ。
そうしているうちにも空はすっかりと白み、いつの間に戻っていたのか窓辺には数羽の小鳥がさえずりながら愛らしい姿を見せていた。
2010/05/14
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